妹思い 4
リイ兄さんを新兵の時から見守って下さった聖下のお言葉と思うと重みがあった。 仮に妹思いの噂などなくて、聖下お一人がそう思っていらっしゃるだけだったとしても。
どうやら私が思う以上にリイ兄さんから気遣われていた事は確かのよう。 だからってリイ兄さんの事が理解できるようになったか、と言えば。 理解どころかもっと訳が分からなくなったような気がする。
そりゃ実家にお金を送ってくれたり、家族を気遣う一面がある事は知っていた。 嫁いだ後はリイ兄さんとは切っても切れない仲と言うか、夫がよく一緒にお仕事している関係で一番身近な親戚になったし。 でも遠くに住む両親やリノ兄さん夫婦が何を考えているかの方が近くに住むリイ兄さん夫婦の考えよりよく分かる。 実家のみんなとは滅多に会えなくて手紙のやり取りだけの付き合いなのに。
妹にとっては訳が分からない兄でも旦那様にはよくお分かりだったようで、聖下のお言葉を伝えても全然驚いていらっしゃらない。 うんうんと頷かれて。
「さすがは聖下。 世間に誤解されやすい師範を御理解なさっていらっしゃる」
「でも妹思いだから副将軍を受けた、て。 旦那様もそう思っていらした?」
「それもあるんじゃないかとは思っていたよ」
「なぜでしょう?」
「俺ってさ、師範を怒らせる事、しょっちゅうしているだろ」
「え? そ、それは、まあ」
「師範てさ、自分を怒らせた人に容赦ない。 ずっと前にあった事だって簡単に忘れたりしないし、自分を怒らせた人の頼み事にうんとは言わない人だ。 上官からの命令でもない限り。 でも俺の頼み事にはうんと言ってくれる。 上官の命令じゃなくても。 なぜだか不思議でさ、ポクソン補佐に聞いた事があったんだ。 そしたら、大切に思う妹の夫だからでは、て言われたの」
「はあ? あの、サリの母だから、じゃなく?」
「それを聞いたの、サリが生まれる前だもん。 自慢じゃないけど俺って昔からよく師範を怒らせたから。 ま、怒りっぽい人だしな。 かわいい奥さんにお土産とか買ってあげれば、と言っただけで、ごつんだぜ。
ともかく、サリが生まれなくて俺が準大公とかにならなくても俺の頼み事にはうんと言ってくれたと思う。 俺がお前の夫でいる限り。 あ、念の為言っておくけど、お前と別れないのは師範に頼み事を断られたら困るとかの理由じゃないからね。 それに師範からはさっさと別れろって何度も言われたんだ。 でも俺ってこう見えても一途だし。 くびったけ、ていうか」
そうおっしゃりながら、ぽっと頬をお染めになった。 それは嬉しいけど今はリイ兄さんから話が逸れてほしくない。
「つまり、推測ですよね? ポクソン補佐だってリイ兄さんからそう言われた事はないのでは?」
「そりゃ照れ屋の師範がそんな事、言う訳ないじゃん」
「ならリイ兄さんが妹思い、て事の証明にはならないような」
「でもそれ以外、師範が俺の頼み事を断らない理由なんてないよ。 貴族嫌いで弓になんか欠片も興味ない。 金や世間の評判にも無関心。 俺が陛下や将軍に好かれていたって、だからどうした、て人だぜ」
「だけど妹思いなら妹の夫を殴ったり蹴ったりしないでしょう?」
「それは俺がそうされるような事、したり言ったりしたからで。 それに俺がやった同じ事を他の人がしたら拳骨や蹴り程度じゃ済まないよ、きっと。 生きて明日の日の目を見れたとしても二度と師範から口をきいてもらえないと思う。 それだけじゃない。 昇進出来るくらいの軍功があったとしても昇進しないね。 猛虎に嫌われている奴が指揮する部隊に転属命令が出たら除隊願いが続出するって。 モンドー将軍は師範が大隊長になるずっと前から御存知だったし」
私が目をまんまるにすると旦那様が呆れたお顔で。
「そんなに驚く? お前って案外俺より世間知らずだったりして」
「も、申し訳ございません」
「いや、世間は知っているよな。 俺よりずっと。 これは軍内事情だから軍人じゃないお前が知らなくても当たり前さ。 それに俺だけじゃなく師範にだって謝るな。 妹思いは本人が好きでやってる事なんだから。 第一、お前だって兄思いじゃないか。 副将軍がちゃんとやれるかと心配したり。 親でもなけりゃ師範から心配してくれと頼まれた訳でもないのに」
「でも私、今まで自分の一方通行だとばかり思っていて。 なんだか申し訳ないです。 リイ兄さんに一言お礼を言っておくべきでは?」
「それは止めて。 照れた師範が何をやらかすか。 妹に気持ちを読ませない兄だなんて、さすがは北軍副将軍、と心の中で尊敬しておくだけにしといた方がいい」
確かに私からお礼を言われたところでリイ兄さんが有難がるとは思えない。 だからって何もしないの? 何をどうすればリイ兄さんへのお返しになるのかなんてもっと分からないけど。
元々私が子供の頃からリイ兄さんを頼った事なんてなかった。 いつか村からいなくなる人だと思っていたから。 私だけじゃなく、家の誰もリイ兄さんが家を継いでくれるとは思っていなかったんだよね。
リイ兄さんは父さんが造った酒に何を入れたとか温度や樽の違いを言い当てられるくらい鼻と舌の感覚が鋭かった。 だからか、父さんはリイ兄さんが酒造りを継いでくれるという夢を長い間捨て切れなかったみたいだけど。 私が覚えている限りリイ兄さんにその気は全くなくて。 おばあちゃん、母さん、リノ兄さんは、リイ兄さんが村に戻るより私がどこにもお嫁に行かず一生実家暮らし、て事の方が余程ありえると思っていた。
普通なら兄が嫁いだ妹を心配するってあまりないでしょ。 玉の輿に乗って幸せに暮らしているんだし。 リイ兄さんこそ忙しいはず。 剣の稽古と任務。 自分にだって妻子がいるんだから。 ま、それを言うなら副将軍への昇進は出世も出世、大出世。 妹の私が心配する必要なんてどこにもないのに心配している。 リイ兄さんが私の心配をしても無理はないのかな。
ふと母さんの顔が思い浮かんだ。 いつも私の事を心配している。 旦那様からとても大切にされているから心配するな、としょっちゅう手紙で伝えていても。 サナが逆子と聞いて、わざわざ私の顔を見に長旅したくらい。 逆子って事で余計な心配させないよう、ダーネソンがわざわざ私の実家に出向いて伝えたのに。
もっとも私は産後しばらく産屋で養生していたから、その使者をダーネソンに頼んだのは旦那様なんだよね。 そこがちょっとまずかったような気はする。 旦那様って母さんのファンっぽいところがあって。 さすがは猛虎の母とか、性格が師範に似ているとおっしゃったり。 理由がなくても母さんを我が家に呼びたがっていたから。
ただリイ兄さんは私が辺りの顔色を窺ってばかりいるのを見ている。 それは自分のせいと思っていたりして? リイ兄さんも平民からの成り上がりだし、貴族との付き合いには苦労したはず。 だから私が幸せじゃないと思ったのかしら。 愚痴なんて誰にも言った事はないのに。
とは言っても私がびくびくしている本当の理由なんてリイ兄さんにはたぶん分からない。 リイ兄さんは自分の力で昇進している。 配偶者や誰かのおかげで偉くなったんじゃないんだもの。
準大公夫人と呼ばれようと私は自分の力で選ばれたんじゃないし、選ばれたはいいけど、きちんと振る舞えているとは思えない。 自分に自信がないからなんでも他の人に決めてもらいたいの。 私が実家で暮らしていた時みたいに我儘のし放題ならリイ兄さんだって私の心配なんてしないんじゃないかな。
呑気に見える旅はあっと言う間に終わり、皇都に着いた。 本隊到着までヘルセス別邸にお世話になるとの事。 お邪魔するとそれはそれは丁寧なお出迎えで至れり尽せり。 猊下と聖下に関しては給仕からお召し物の用意など長年お仕えした人のような手際で全てオラヴィヴァ侍従長がしてくれた。 私には幼少の頃からキャシロさんのお側に仕えているサザラン侍女長が付いてくれて。 疲れているサリの御機嫌を損ねず、手早く着替えさせてくれた。
貴人に相応しい部屋の設は猊下の御身分を考えれば当然のもてなしだけど、これはお忍び。 しかも猊下と聖下は大変危ういお立場だ。 レイさんは公爵家の次代だからこれは家の命運を賭けたもてなしとなるかもしれない。 そうならない事を祈るけど、祈るだけでいいの? 私にも何か出来る事があるんじゃない?
そう思ったから猊下と聖下にリイ兄さんと旦那様が御一緒すると聞いた時、私は迷わず、御一緒させて下さい、と申し出た。 リイ兄さんと旦那様から同時に「なんだって」と声を上げられた時には、つい、ビクッとしちゃったけど。
自分の気持ちをきちんと伝えられたかどうか分からない。 それでも猊下からお褒めのお言葉を頂戴したし、そのおかげで同道が許された。 これって我儘? もしかしたら斬り合いや流血の騒ぎになるかもしれないのに、子供達も危険な目にあわせている? と迷う気持ちがなかったとは言えないけれど。 そうなった時こそリイ兄さんと旦那様が一緒にいてくれた方が他の誰に守られているより絶対安心だよね。 それに二人が任務を果たしているところを見れる機会なんてそうそうない。
ヘルセス公爵家の家紋が付いていたから登城は問題なかった。 なんでも具合の良くない玉竜がいるとかで、竜舎に行くと出迎えてくれた皆さん、一目で旦那様を青竜の騎士と分かってくれたし。 どの玉竜も旦那様に会えて嬉しそう。 私だったらいくら相手が嬉しそうでもあの大きさじゃ怖くて近づけない。 旦那様は全然平気で鼻息荒い玉竜の背にさっとよじ乗り、あっと言う間に玉竜の喉を治し、次の竜舎へと向かわれた。
どの竜舎にも美しいガラス張りの待合室が付いている。 ガラスに映る猊下と聖下は微笑んでいらっしゃるのに私の後ろで玉竜を見上げているリイ兄さんの顔にはなんの表情も浮かんでいない。 その隣に立つレイさんも同じ。
レイさんがリイ兄さんにそっと囁く。
「サダ様、相も変わらずで」
「変わるとでも思ったか。 家族旅行に行ったくらいで」
「すると其方も変わりなく? 家族旅行に行ったくらいでは」
「変わらん。 家族旅行に行こうが行くまいが、副将軍になろうがなるまいが。 今も昔もこれからも俺の苦労は続く。 あいつが生きている限り。 俺の方が五つ年上というのが唯一の慰めさ。 仮に俺が生きて退官の日を迎えたとしても五年は俺の苦労を味わう奴がいると思うとな。 退官前に俺が死ねば五年じゃ済まん。 今日この世とおさらばとなれば苦労する奴の数は片手じゃ収まらんだろう。 そう考えただけで早死にしたくなるぜ」
レイさんの瞳に微苦笑が浮かぶ。
「サダ様は其方を一人では逝かせまい。 クポトラデルにも御同道なさったであろうが」
「ちっ。 もうちょっと明るめの話はないのかよ」
「無事の家族旅行。 順調な玉竜の治療。 このうえ明るい話題をお望みとは。 強欲が過ぎよう」
「ふん。 未だに借りを返せと言わんお前こそ強欲も強欲。 青天井だ」
「其方が将軍になるまで僅か三年。 待てないようでは公爵家次代は務まらぬ」
「俺が生きて将軍になれると思っているのか。 呑気な奴。 そんなんで公爵家次代が務まるのかね」
「立派に務まっておる」
「口先だけでも俺の心配をしろ。 それとも義兄弟の首を心配するのは言葉の無駄遣い、てか。 寡黙で知られる男なだけあるぜ」
「猛虎の寡黙は私より世間に知られているようだが?」
「何が猛虎の寡黙だ。 世間の皆さんは寡黙な俺が言った事をよく御存知だぜ。 義弟の尻を蹴るのが趣味、と言ったんだとさ。 いつ言ったんだか俺は覚えていないが、ごく最近の話らしい」
「くっ。 サダ様のスクワットを見れば尾鰭を付けずにいられぬ世間の気持ちも分かる。 あの真剣度。 気合いの入れ方が、な」
「あいつときたら、やる事なす事、俺に迷惑をかけるために生まれてきたとしか思えん」
「では副将軍職も迷惑?」
「それ以外の何だ?」
「迷惑で終われば上々、とは思えぬか」
「思えんね。 どうせこの後も何かある。 迷惑で終わらんような何かが」
「何があろうと相手が誰であろうと、サダ様ならうまく切り抜けるであろう」
「賢い訳でもないのにな。 そこがあいつの恐ろしいところだ」
「それは其方も同じであろうが」
「けっ。 同じなのは賢くない、てとこだけだ。 やらかすのはあいつ。 後始末は俺。 迷惑の度合いが違う。 度合いが」
冗談っぽく話しているけど、二人の目は真剣そのもの。 冗談を言っているようには見えない。 この後、何があるの?
ともかく全ての玉竜の治療が終わり、旦那様が竜鈴を鳴らした。 玉竜が盛大な鳴き声をあげ、それに応じて城内のそちこちから盛大な歓声が湧き上がる。
リイ兄さんと旦那様が軽口の応酬をし始めた。 いつものように。 あれだけ見ていれば結構仲がいい兄弟だよね。 いくらリイ兄さんが愚痴をこぼそうと。
改めて考えてみれば、今も昔もこれからも俺の苦労はあいつが生きている限り続く、て。 生きている限り旦那様の面倒を見てあげる、と言っているようなものでしょ。 すごく弟思いだよね。 妹思いより強いんじゃない?
まあ、どっちにしても私にとってありがたい事だからいいんだけど。
追記
信じ難い伝説の多いサダ・ヴィジャヤンとリイ・タケオではあるが、意外なほど事実であったという裏付けや記録が見つかる。 だが巷間で広く信じられている家族旅行(準大公一家がタケオとその従者一名、及びスティバル中央祭祀長、テーリオ北軍祭祀長のわずか八名で)はその例外と言えよう。 皇王庁正史、祭祀庁旅行記、北軍軍史、北方伯家家伝、トーマ北軍第一大隊長覚書、いずれにもそのような旅が実行されたという記載はない。
ただハレスタード暦三年の年末、玉竜の大合唱があった事が正史に記録されている。 玉竜大合唱は竜鈴鳴動によってのみ起こり、竜鈴は青竜の騎士にしか鳴らせない。 しかし大合唱の日付は北軍が皇都に到着した日の五日前。 また、大合唱の翌日、北軍祭祀長を退任していたスティバルが中央祭祀長に就任した。 祭祀長の就任が本人不在で決定された前例はないため、スティバルとヴィジャヤン、或いはテーリオも含めた三人が本隊から離れ、一足先に登城していたとする史家もいる。
尚、リイが妹思いであったという伝承もあるが、兄妹の関係が密であったと示唆する記録は残されていない。 初演以来二百数十年を経た現在も上演されている舞台劇「準大公 世直し旅」(作者不詳)には、リイが妹でありサダの妻であるリネを気遣うあまりリネと諍い、スティバルが二人を諌める場面がある。 劇の影響で妹思いの伝承が生まれた可能性が高い。 (「リイ・タケオ 副将軍への道」より抜粋)




