呟き 1 準大公家法律顧問兼家庭教師、ソニ・ベイダーの話
ポクソン補佐の軍葬の朝、お出掛けになる直前の奥様から念を押された。
「聖下がいらっしゃると思うの。 失礼のないよう、サリに教えてあげてね。 聖下はお優し過ぎて。 失礼があってもサリをお叱りにならないでしょ」
「畏まりました」
改めて念を押されるまでもなく、行儀指導は準大公家法律顧問兼家庭教師である私の務め。 ただ聖下とサリ様は普通の御関係とは言い難い。 血縁ではないし、親族、主君と臣下、上司と部下、教師と生徒、僧侶と信者でもない。 準大公家はケルパ神社の檀家だから。
聖下が現職の祭祀長であられた時、サリ様は神域内邸宅の無期限使用権を頂戴した。 とは言え、神域内の不動産所有権は北軍祭祀庁に属している。 だから不動産の売り手と買い手ではないし、契約や金銭の受授もないので大家と店子の関係でもなく。 無料で家屋の使用を許可した人とされた人、というのは世間によくある関係ではない。
一番近いものがあるとしたら御隠居とその御近所に住む子供、だろうか。 しかし暇なお年寄りが子供の遊び相手をするのは珍しくなくとも退任なさった祭祀長は譲位なさった陛下と共に隠棲なさるのが通例。 聖下のように退任後も任地の神域に留まられた例があると聞いた事はない。
北でお暮らしのサリ様にとって御家族以外はお会いになる人のほとんどが臣下だ。 御家族の皆様も皇王族及び準皇王族となられたから臣下ではなくなったものの、以前は御両親でさえ臣下でいらしたし、お祖父様お祖母様は現在も臣下でいらっしゃる。 その点、聖下は退任なさろうと先代陛下の半身。 当代陛下の半身でいらっしゃるテーリオ猊下も臣下ではないけれど、全祭祀庁の指揮をなさる猊下にサリ様と遊ぶ時間などあるはずがない。
御家族以外では唯一、臣下ではないお遊び相手。 そういう意味では聖下はサリ様が人間関係を学ぶのに大変貴重な御方なのだが、同時に難しい御関係でもある。 これは皇王族内での年齢や序列を指しているのではない。 それらはお生まれによって決まっているし、余程の事がなければ生涯変わる事はないので説明もしやすい。 しかし退任後の祭祀長となると。 そして中央祭祀庁との関係が拗れている御方となると、幼いサリ様にどこまで説明すべきか。 説明しても御理解戴けるのか。
何しろ旦那様奥様でさえ聖下の微妙なお立場を御理解なさっているようには見えない。 その証拠に、お二人共聖下がこのままずっと北にお住まいになると思っていらっしゃる。 けれどそれが実現する事はおそらくない。 聖下がそれをお望みだとしても周囲の状況がそれを許さないだろう。
現職祭祀長との御関係は良好だし、民の絶大なる人気がある旦那様といずれ北軍将軍となるタケオ施主から深く敬愛されている御方でもある。 無碍にされる事はないと思いたいが。 テーリオ猊下は北軍祭祀長に就任して一ヶ月やそこら。 建前では祭祀庁の頂点に立つ御方であろうと実権を掌握しているとは言い難い。 旦那様とタケオ施主のお二人も四人いる他の祭祀長に対してどれ程の効力があるかは未知数だ。
東西南はともかく、中央祭祀庁内に燻る不満は穏便に済ませられる時期をとうに過ぎている。 中央を抑えるには東西南の祭祀長の協力が必要不可欠。 それが得られるか。 それなしに中央を抑え切るのは難しいと予想され、事と次第によっては聖下が暗殺され、祭祀庁の正史からお名前が抹消される事さえあり得る。 そのような例なら過去にいくらでもあるのだ。
そこまでは行かなくとも他の祭祀長から転居や蟄居を強制されたら聖下に抗う術はない。 陛下へ直訴しようにも退任した祭祀長のお目通りが叶った前例はないのだから。 勿論、暗殺や蟄居がいくらあろうとスティバル聖下も同じ運命を辿るとは限らないが、よくある事なだけにそうなったとしても不思議ではなく、そうなった時サリ様にどう説明すべきか。 それは考えておく必要がある。
いずれにしても幼児に政争やその結果起こる悲劇を理解出来るはずはない。 なのに、お忙しい聖下のお邪魔をしてはなりません、と申し上げる事が許されるのか?
そのような質問、旦那様にお伺いしたとしてもお答え戴けないだろう。 旦那様どころかテーリオ猊下にお伺いしたところで同じだと思う。 祭祀庁内の内紛に全く御関心がない聖下の態度は猊下にも引き継がれていらっしゃるから。
起こるか起こらないか分からない聖下の暗殺や除名をなぜ私が思い煩うかと言うと、皇王妃陛下は歴代皇王陛下だけでなく祭祀長のお名前も学ばれる。 スティバル北軍祭祀長のお名前がそこになかったら、サリ様はその理由をお訊ねになるのでは?
そのようなお名前の御方はいらっしゃいません、と申し上げるの? それともお名前がない理由は存じません、と?
過去の政争とその理由、そして敗者の処遇に関し、何をどれだけ詳細に教える予定か、私は何も聞いていない。 それに私自身いつまでサリ様の家庭教師でいられるか。 その御下問に答えるのは私とは限らないが、親しく遊んだ御方の名前が正史から抹消されていたら、それは祭祀庁に対する不信や懐疑、或いは暗殺を防げなかったテーリオ猊下への失望に繋がるのではないだろうか。
サリ様の御年を考えれば聖下と過ごされた一時は楽しくともいずれお忘れになるかもしれない。 けれど今日なさった事をお忘れになる旦那様でさえ二歳の時に指の怪我をし、兄上であるサジ様に手当をしてもらった事を覚えていらした。 三歳の時迎魂節のお棺が怖くて泣いた事、その時着ていた仮装が何であったかまで。 これらは記憶力に優れたサジ様に確認したので間違いない。
私にしても三歳になるまで一緒に遊んだ兄や兄の友人を覚えている。 三歳になった途端、一緒に遊ぶ事は許されなくなり、もう遊べないと知った時の落胆。 兄の友人の名前と、貸してもらったまま返せなかった玩具の事も。 子供が何を覚えているか、大人になって何を思い出すかなど予想出来るものではない。 だから迷うのだ。
聖下は清貧を絵に描いたようなお暮らしで、御身の周りの事も御自分でなさる。 たとえお名前は正史から削除されようと聖下の日常が激変するとは限らず、日々の煩いから解放され、静謐を楽しまれるかもしれない。 とは言え猊下が実権を握っておられない以上、聖下の静謐を守るように、とお指図なさってもそれが実行されない事が考えられる。 祭祀長及び上級神官全員が猊下の御指名による就任となれば別だが、それは早くても十年は先の話。 それまでは中央東西南いずれかの祭祀長、又は神官の誰かが面従腹背となるのは充分あり得る事なのだ。
先々を思い悩むより今の貴重な一時を楽しむべき? 後に苦い思いをする事になると知っていても? それも又、皇王妃陛下にとっての貴重な学び?
サリ様のお遊び相手に関しては旦那様奥様は勿論、皇王庁、祭祀庁からも指図されていないし、私に従うべき指針がある訳でもない。 けれど心中密かにサリ様と聖下の交流を最小限にしておきたい気持ちがあった事は否めない。
その日、聖下がサリ様の別邸に遊びにいらして間もなく、周囲を警護している兵の長が私に聞きに来た。
「スティバル聖下の甥が御面会にいらしたのですが、そのような御予定があると聞いていた者がおりません。 神官の皆様は猊下のお供として軍葬に御出席なさり、将軍、副将軍、直属上官も同様で。 どう対応すべきか、式の途中にお伺いせねばならないほどの緊急性がある事とは思えず、かと言って皆様がお帰りになるまで何時間かかるか。 それまでお待ち戴いてもよろしいのでしょうか。
聖下は私が直接お伺いしてもお怒りになるようなお人柄ではございませんが、警備兵の分際でそのような事をしたと神官の耳に入れば相当な怒りを買う事が予想され、恐れ多く。 もしお差し支えなければベイダー様から聖下にお伺いして戴けないでしょうか。 お目通りなさるのでしたらどちらで? こちらへお通ししてもよろしいのか。 それとも聖下のお住居の方へ御案内すべきか、そうでなければ神域入り口の待合室でお待ち戴きますか」
その時邸内にいたのは聖下、サリ様、サナ様、乳母のエナ、護衛のバートネイアとネシェイム、料理担当のフロロバ、そして私。 だから準大公家の奉公人は私だけ。
フロロバは出自は平民でもかなりの数の貴族に短期奉公した経験がある。 ニサの顔を見知っているかもしれないが、今は台所でお昼の準備をしているし、本人と確認出来たとしても一兵卒。 直接聖下へ伝言する事は許されていない身分。 皇王家から派遣されているエナなら聖下にお伝えしても許される。 けれど公爵令嬢に子爵家次男と会う機会があったとは思えない。
「聖下の甥のお名前を頂戴した?」
「ニサ・スティバル殿とおっしゃいました」
私は準大公家に奉公する前、ニサと見合いした事がある。 普通なら侯爵令嬢が子爵家次男を配偶者に望む事はない。 でもグリマヴィーン中央祭祀長の跡を継いだのはスティバル北軍祭祀長という噂があり、スティバル子爵家の姻戚になる事には無視出来ない重みがあった。 ベイダー侯爵家は元々祭祀庁との関係が薄く、祭祀長と繋がりがある神官は遠い親戚を含めても一人もいなかったから。
因みにこの縁談は私から断ったのではなく、向こうから断られた訳でもない。 ただいつの間にか立ち消えた。 おそらくスティバル子爵家には他にも有力貴族からの申し込みがあり、断りづらかったから自然消滅を狙ったのだろう。 私には他にも縁談が持ち込まれており、その一つが纏まりそうになったところで準大公家への奉公の話が舞い込んだ。
見合いと言っても私とニサは一度会って庭の散歩をしただけ。 本当にそれだけの関係だ。 ニサに法律関係の知識は少しもなく、法律にしか興味のない私。 身分も育ちも違う。 結婚後の暮らしについては両家の当主が決めるべき事で本人同士が話すのは礼儀に反している。 釣り書には自分の事だけでなく家族の年齢、職業、趣味に至るまで書いてあるから質問する必要はない。 当たり障りのない事を少し話して別れた。
誓って聖下の御身に害が及ぶと知っていながら刺客を招き入れたのではないけれど、その日神域では普通なら起こり得ない偶然が重なった。
甥だろうと実親だろうと事前の御予定にないお目通りを許す神官などいない。 しかしその神官が不在だった。 いくらお一人を好まれる聖下であろうとお付きの神官は常時いる。 でも北軍祭祀庁は元々神官数が少ないうえ、ポクソン補佐の軍葬という予定になかった行事が入り、それに上級貴族が押し寄せた関係で大変な人手不足となっていた。
次にニサが武器を所持しているか身体検査をした者がいなかった。 神官なら武器を持たないし、神域への出入りは自由だ。 とは言え、ニサが北軍祭祀庁所属の神官でない事は一目見れば分かる。 聖下が現職時は親戚であろうと神官であろうと突然のお目通りは全てお断りになっていらしたから、身体検査をされなかったとは思えない。 けれど聖下は退任なさってから様々な人とお会いになられ、その中には御親戚の方もいらした。 それで甥でしかも神官の訪問を怪しむ者がおらず、身体検査をした者がいなかった。
しかしどれだけ偶然が重なろうと、私が気付きさえすればこの悲劇は防げたのだ。 ニサは中級神官の服を着ていた。 見合いした時ニサの職業が何であったか覚えていないが、神官の新規採用は二十年以上なかったから神官でなかった事だけは確か。 採用は今年から再開されているけれど、それならニサは今年神官になったばかり。 下級神官でなければおかしい。
彼が中級神官の服を着ていた時点で通常の採用ではない事に気付くか、なぜ中級に昇進しているのか怪しまねばならない。 なのに私はニサ本人である事に安心し、彼が中級神官になれるはずがない事に気付けなかった。
気付いていたとしてもこの普通ではあり得ない昇進は聖下の甥である事が理由かもしれず、聖下にそれを指摘出来たかどうか分からないが。 いつもの私なら相手がたとえ自分の親兄弟であろうと予定にない訪問を警戒した。 見合い相手だから警戒心が緩んだと言うより、甥と会う為なら聖下は御自宅へお帰りになるだろう。 早く帰って欲しいという気持ちがあったからニサの来訪をそのまま伝えたのだと思う。
聖下は裏庭の遊具でサリ様と遊んでいらした。
「聖下。 ニサ・スティバル殿がお目通りを願っております。 聖下のお住居の方で待つよう伝えてもよろしいですか?」
「ニサが?」
怪訝な御様子を見る限り、聖下もこの訪問を予め御存知ではなかったらしい。
「私では本人かどうか分からぬ。 神官が戻るまで神域の入り口で待つように伝えておくれ」
「私は数年前ニサ殿とお会いした事がございまして。 御本人である事は既に確認致しました」
「ほう。 では会いに来た理由を聞くとしようか」
そうおっしゃって門へ向かおうとなさる聖下にサリ様がお縋りになる。
「爺? 帰るの? 帰っちゃいや!」
「大丈夫、簡単な用事だからすぐに済む」
そのお言葉を疑うかのようにサリ様は聖下のおみ足を抱きしめ、お離しにならない。
「サリ様」
お諌めしようとする私を聖下は目顔でお止めになる。 困り顔ではいらしたものの嬉しくもあったのだろう。 サリ様をお抱き上げになり、そのまま裏庭から玄関前の芝生へと向かわれた。
私は門の外で待っていたニサに声を掛け、招き入れた。 私が門を閉めた途端、聖下の足元にいたケルパが飛び出し、ニサを押し倒す。 どん、と重い石が地に落ちたような音がして地が微かに揺れた。 ケルパに押し潰されたニサの手から短刀がこぼれ落ちる。
聖下はさっとニサに背を向け、サリ様を下ろして仰る。
「ブランコまで爺とかけっこしようか。 どちらが早いかな?」
「わたしっ!」
サリ様がお元気に駆け出されると聖下がお側のバートネイアにお命じになった。
「この事、誰にも言うな。 遺体は私の住居の裏庭へ。 バビンズだけ呼べ」
「御意」
バートネイアが小走りで敷地内の裏手に置いてある庭師用の道具小屋から手押し車と藁筵を持って戻ると、ケルパはニサの胸から下り、遊び場へ向かって駆けて行く。 バートネイアは死体を手押し車に乗せた。
「ベイダー先生。 ネシェイムに、すぐに戻る、とお伝え下さいますか」
私は微かに頷き、遊び場へと向かった。
遅まきながら私以外の誰であろうとニサを招き入れなかったはずと気付いたが、悔やんだところで今更。 謝って済むような間違いではない。 とは言え、ニサを招き入れたという理由で処罰される事はないだろう。 そのような事をしては大事になる。 正嫡子が聖下の暗殺を企てたとなれば聖下の御実家であろうとお取り潰しは免れまい。 暗殺未遂は勿論、ニサの死さえもみ消されるのではないか。 貴族子弟の出奔など珍しい事でもないのだから。
だからと言って私が無事で済むとは思えない。 たとえ聖下はお許し下さろうとニサを刺客として送り込んだ者がいる。 聖下を苦しめたい者にとって私は使い道のある駒。 放置しておく訳がない。 死よりも酷い目にあう事を覚悟せねば。
どのような結末を迎える事になろうと取り乱している姿をサリ様にお見せする事だけはあってはならない。 その一念で自分を律した。
間もなくバートネイアが戻り、聖下に小声で耳打ちすると聖下はそれに小さく頷かれ、サリ様に向かって優しくおっしゃった。
「爺は帰る」
「ええー。 もう?」
「サリ様。 お客様がお帰りになる時はいらして下さった事に対するお礼をおっしゃって下さいませ」
私の声がいつも通りであったか自信はない。 でもサリ様は素直にお返事して下さった。
「爺、ありがと。 また来てね」
聖下が微笑みをお返しになる。 ただ常のように次をお約束なさる事はなく、お帰りになられた。 聖下をお見送りするため玄関から外へ出るとニサが倒れた箇所の芝生が張り替えられている。 そこで何があったか知っている私が注意深く見ても事件の痕跡は見つけられなかった。 だからと言ってこれで全てがなかった事になるはずはないけれど。




