不機嫌 サダ・ヴィジャヤン準大公(北軍大隊長)の話
施主、つまり副将軍、そして次の将軍になる事が決まって以来、俺に対してだけ師範の不機嫌が日に日に増していく。 その不機嫌の嵐に晒され、俺はポクソン補佐の死を悲しむ間もないくらい。 どうしてっ?
もちろん思い当たる事はある。 俺は副将軍を断った。 やれないから。 そのお鉢が師範へと回り、モンドー将軍と師範の我慢比べになって師範が折れた。 だから師範が副将軍をやる羽目になったのは俺のせいと言えない事もない。
でもさ、師範だって本気でやりたくなけりゃ断ればいいだろ。 俺みたいに。 たぶん腹の底では師範だって分かっているんだ。 俺はやれない。 師範はやりたくない。 つまり師範はやろうと思えば副将軍や将軍がやれる人なんだ。
そういう意味では北軍の未来は明るい。 師範が将軍になったらモンドー将軍を越える名将軍となるだろう、なーんてな。 そんな本音は間違っても師範には言えないが。
ただ軍葬が近づくにつれ師範の当たりがあまりにきつくなり、ケルパ神社へお参りに行った時、ついリステレイフ中僧に愚痴を零した。
「副将軍を引き受けたのは師範なんですよ。 引き受けた自分が悪いんじゃないか、と思いません?」
「ポクソン補佐の死は簡単に癒える悲しみではないでしょう。 悲しみは色々な形で現れます。 不機嫌という形で現れる事は珍しくありません。 けれどタケオ施主は不機嫌を表に出せない立場となられた。 出したとしてもそれを受け止められる人は多くはない。 部下に出しては理不尽となる。 同僚はいないし、上官には出せません。 でも弟になら?」
弟? 確かに俺は義理だけど弟でもある。 その時は弟への気安さ故の八つ当たりか、と納得しないでもなかった。 ただ本当にそうかな? 俺は実兄義兄に拘らず、どの兄達からも愛されている。 レイ義兄上やレカ兄上とか、ちょっと難しい性格の人達からは嫌味っぽい一言を付け加えられたりもするけど。 でも師範からは愛されているとは感じられないと言うか。
嫌われてはいない。 義理堅い師範は何度も俺に命を救われたと思っているみたいで、文句を言いながらも俺の護衛をしてくれたり、面倒見がいい面もある。 だけど愛されているか、となると以前は愛されていたとしても今はもう愛されていないような?
例えば軍葬の前日。 どうやら師範の不機嫌は長年身近で苦労した俺でさえかつて経験した事のない域へ突入していたようで、俺にどんな八つ当たりをしたと思う? 入場の順番を確認しようとしたら。
「あの、師範、入場の」
「お前に師範と呼ばれるいわれはない」
「は? え? だって、今までずっと、師範、て。 あの、じゃ、施主?」
「お前が副将軍をばっくれやがったせいで俺が施主をする羽目になった事、忘れた訳じゃあるまいな。 それを改めて俺に思い出させたいならそう呼べ」
「そ、そんな。 なら、副将軍?」
「副将軍だあ? お前にだけは金輪際、そう呼ばれたくはない。 たとえ俺が正式に副将軍となろうと。 お前に副将軍と呼ばれたら、お前の事は裏副将軍と呼んでやる。 ちょっと長いか。 裏副。 うん、裏副でいこう」
「えーと、えーと。 リイ兄さん?」
その時俺の側にいた護衛が新年の軍対抗戦で北軍大将を務めるシナバガーじゃなかったら、俺は宙を飛んでいた。 師範に尻を蹴られて。 毎日師範の不機嫌に晒され慣れているだけあって、シナバガーは慌てず騒がず。 師範と俺の尻の間にさっと自分の体を入れて言う。
「師範、ここは一つ、先の事もお考え下さって」
シナバガーが体を張ってくれたおかげで俺の尻は無事だった。 前後を忘れるほど熱くなる事もある師範だが、どんなに怒りに目が眩んでいようと北軍大将の尻を蹴って軍対抗戦での勝率を下げるような真似はしない。 シナバガーは頑丈な男だから怪我をしたとしても本番までには回復すると思うが、稽古に差し支える。
それに言葉のチョイスも、にくいね。 軍葬の事もお考え下さいと言っていたら、それがどうした、こいつにやらせろ、元々こいつがやるべき事だったんだ、と言い返されただろう。
ふう。 賢いシナバガーが護衛で助かった。 ほんと、ここ一番、て時に頼りになる奴。 とは思ったが、だからと言って軍対本番まで二ヶ月を切った今、猛烈に忙しい出場剣士をしょっちゅう護衛に指名する訳にはいかない。 軍葬はどうせ出席するから俺の護衛をしてもらえるが。 実は、俺とリネは軍葬に出席するが、その間サリとサナは神域でお世話になっている。 その関係で百剣の皆さんのほとんどが神域の警備に回されているのだ。
だから軍葬当日は緊張でピリピリしている師範からなるべく離れ、声を掛けないつもりでいた。 師範が御機嫌斜めな事くらい、先刻承知。 それに辺りのみんなから弔辞を読む以外何もしないでくれ、と言われていたし。
え? とか何とか言って、結局何かやらかしたんだろ、て?
ハッ、ズッ、レッ! んもー。 世間の人ってどうしてこうなの? 俺の事、何年経っても変わらないトラブルマーカーだと思っているんだから。
はい? マーカーじゃなくてメーカーだ?
近いでしょっ! 細かい事、言わないでっ!
そんな事より、軍葬だ。 朝は晩秋にしてはいいお天気で、だからかアーリー補佐が万が一を予想して設置した予備の受付の前にさえ弔問客の長蛇の列。 第一駐屯地内の兵士は全員喪章を付け、淡々と任務をこなしていたが、ある受付ではなぜか異常な緊張感が漂っていた。 揉め事っぽい?
受付の前に群がっているのはどう見ても上級貴族。 よく見ると全員リューネハラ公爵家の家紋を付けている。 ただその二十人は同じ家から来ているのに、十二人と八人、二つのグループに分かれていた。
受付の兵士が目で俺に、助けて、と縋っている。 今まで沢山の人の情けに縋り、助けられて生きてきた俺だ。 ここで知らんぷりして通り過ぎるの? そうしたとしても誰も俺を責めないとは思うが、何となく気が咎めて。 立ち止まって受付の兵士に聞いた。
「どうかした?」
「ヴィジャヤン大隊長。 実はこちらの四名様はリューネハラ公爵の御名代でして」
会場の席数が限られている関係で、参列は一家につき二人までとなっている。 御夫婦で来る人もいるからだが、どうやらお二人様限定を二組限定と解釈したらしい。 そのグループで偉そうな、と言うか主筋に当たる夫婦らしき貴族が二組いた。
「ああ、そういう事」
そこで俺はその二組の御名代に向かって言った。
「遠路遥々の御弔問、大変痛み入ります。 何分会場が手狭なため、一家につきお二人様の参列に限らせて戴いておりまして。 どなたが参列なさるか、お決め下さい。 決まり次第、こちらの者が御案内致します」
そう言って会場へ向かおうとしたら、一行の一番年上っぽい男性が一歩進み出て俺に丁寧な挨拶をした。
「準大公閣下、トイード・リューネハラです。 再びお目に掛かれた事、誠に光栄に存じます。 本日は甥であるリューネハラ公爵の名代として参りましたが、席を御都合戴けないのでしたら仕方がございません。 参列は諦めます。 しかしながらこのまま帰るのは残念至極。 出来れば式後、準大公とのお時間を戴けないでしょうか? リューネハラ公爵から言付かってきた事がございまして」
その時俺の側にいたダーネソンが胸ポケットのハンカチをズボンに移した。 嘘、のサインだ。 これなら俺の耳に囁くより目立たないから。 それはいいんだけど、このサインだけじゃどこが嘘なのか、後でダーネソンが説明してくれるまで分からないのが今イチなんだよな。
でもこの場合、トイードさんの名前が嘘のはずはない。 ナジューラ義兄上の結婚式の時、リューネハラ公爵から親族として紹介された覚えがある。 なら名代、て事が嘘? うーん。 それなら隣にいる本物の名代が黙って聞いているのはおかしい。
あ、リューネハラ公爵から言付かってきた、てところが嘘? でなきゃ言付けの中身? どっちにしても嘘にどう答えたら穏便に済ませられるの? 正直一本で生きてきた俺には難し過ぎて分からない。 こういう時、嘘なんか聞きたくない、と言ったダーネソンの気持ちがよく分かる。
「申し訳ないのですが、式後は何かと予定が詰まっておりまして。 この者はダーネソン。 私の執事補佐です。 彼にリューネハラ公爵からの言付けをお伝え下さい。 どうかリューネハラ公爵に呉々もよろしく。 では、失礼」
俺の代わりに嘘を聞かなくちゃいけないダーネソンには気の毒だけど、ここで俺がおバカな事を言って後々揉めるよりはましだろう。 俺はそこでダーネソンと別れ、会場に入った。 それだけ。 式ではきちんと弔辞を読んだし、式後に父や兄や親族の皆さんと会って挨拶した。 俺は清廉潔白。 面倒事なんて何も起こしていません。
はい? なんで清廉潔白という言葉を知っているんだ、て? そんな事で驚かないでくれる? こう見えても毎日何かを学んでいるんだぜ。 と言っても清廉潔白を学んだのは昨日だけど。 夜にロジューラ・ダンホフの使いという男が自宅に来て、ダーネソンがメッセージを受け取った。 男が帰った後で教えてくれたんだ。
「清廉潔白とは言い難い男でした」
「せいれんけっぱく、て何?」
「私利私欲、後ろ暗いところがない人の事です」
「へえ。 俺みたいな人、て事か」
「……」
ダーネソンからの相槌はなかった。
なんだよー。 俺に後ろ暗いところがあるって言いたいの? 偶に儀礼の稽古をさぼろうとしたくらいでさ。 毎日師範に怒鳴られながら一生懸命仕事をがんばっている主に向かって、それってちょっとひどくない? ぷんぷん。
なーんて、言う訳ないだろ。 相手はダーネソン。 俺が言った事は全てトビに筒抜けだ。 余計な事を言ったら俺が後でしっかりがっつりトビから説教を喰らう羽目になる。 貴重な人材を何だと思っていらっしゃる、ダーネソンに逃げられたら一番困るのは旦那様なのですよ、とか。 全く、どっちが主なんだか分りゃしない。
それはともかく、トイード・リューネハラさんがリューネハラ公爵から言付かってきた事はリューネハラ公爵家への御招待だった。 ただトイードさんはその御招待の案内人として俺に同行するつもりだったようで。 そのついでに、あれをしたり、これをしたり。 歓待という名目で俺を利用する事を色々考えていたみたい。
ほんと、親戚と言ったって油断も隙もありゃしない。 師範は俺よりずっと賢いから軍葬が終わるとテーリオ祭祀長へお礼を申し上げただけで、親戚、貴賓、重要人物の誰とも言葉を交わさず、さっとどこかへ消えて行った。 愛想のない施主で大変申し訳ありません、と俺がそっちこっちの皆さんへぺこぺこ謝っている間、稽古場へ行ってすっきり爽やかな汗を流していたんだろ。
ふん。 ま、いいけどね。 これが下っ端の役目と言うもんだ。 上官に向かって部下に感謝しろとは言わないさ。 だけど上官から八つ当たりされるような事なんて俺は何もしていない。 なのに軍葬の翌日でさえ師範はばりばりに不機嫌だった。
はい? 師範ならいつも不機嫌だろ、て?
チ、チ、チ、ちがーーう! 師範の間近で苦労した事がない人には分かりづらいと思うけど、不機嫌は不機嫌でも、その度合いは一律じゃない。 きちんと測れる目安だってあるんだ。 稽古で打ちのめす剣士の数だけじゃなく。 俺に向かっては難癖、八つ当たり、いちゃもんの数になって現れる。
そりゃ師範は俺が新兵の当時から不機嫌だった。 でもあの頃はそれが師範のデフォルトと言うか。 基本姿勢? 俺に対してだけじゃなく誰に対してもそうだったから別に気にならなかった。 ところが軍葬が終わった翌日、ばりばりに不機嫌な師範に呼び出された。
「お前、リューネハラ公爵の名代を追い返したんだってなあ?」
「え? 追い返した、て。 そんな事、していません。 四人いたから、一家からはお二人までにして下さいとは言いましたけど」
「ほう。 四人いたから、二人を追い返した、と」
「そ、それは。 そう言われれば、そうなりますが」
「勿論、自分で自分の尻拭いをするんだよな? お前だって一応、大人なんだしさ。 おまけに大隊長で、準大公ときたもんだ」
「尻拭い、て。 一家からの参列は二人までじゃなかったんですか?」
「上級貴族に関しては、そうじゃない。 分家があるから」
「えっ?! し、知りませんでした」
「そりゃお生憎。 中級以下の貴族の分家なら本家に頼った存在だが、上級貴族の分家は分家とは言っても下手な中級貴族の本家よりでかい。 お前だって知っているだろ。 ダンホフの分家、ロジューラ・ダンホフは北ではお前に次ぐ大地主だって。 それにお前の土地は領地だから売れないが、あっちは売ろうと思えば今日売る事だって出来る。 しかも北にある資産はロジューラにとって総資産のほんの一部だ。 国内の金融資産や外国にある隠し金まで加えたら、北でロジューラと張り合えるのはお前くらい。 それだってお前には陛下の後ろ盾があるからで、金があるからじゃない。 ロジューラさえその気になりゃブルセルの王位を継承する事だって簡単、て話だぜ。 ま、それは俺が聞いた噂に過ぎんが。
で、どうする? リューネハラの件。 お前の親戚でもあるんだから、自分で何とかするなら俺は何も言わん。 自分では何ともしようがなくて他の親戚に頼る気なら誰に頼るかだけ事前に報告しろ。 まさか滅茶苦茶忙しい上官に頼る、なんて真似はしないよな?」
ど、どうしよう? あの参列お断りがこんな事になるだなんて。
「あの、あの、謝って、許してもらう、とか?」
「面白い事を言う奴だ。 あっちはお前の事、準大公閣下、て呼んだんだろ。 準大公閣下が謝る? 簡単に謝ったらまずい立場の御方じゃなかったのか?」
「でも、でも、じゃ、どうすれば」
「実はここで簡単な解決策がある」
「何ですか?」
「次の軍葬ではお前が施主になるんだ」
「ええっ?! な、なぜ??」
「そしてお前が退官するまで軍葬では必ず貴賓席を二組用意するとリューネハラに約束すればいい。 それでチャラにしてもらえ」
「それって。 別に俺でなくても施主がやれる事なんじゃ」
「まあな。 だが俺が施主ならそんな特別扱い、してあげる気はない。 来てくれ、と俺が頼んだ訳でもないし。 て事で、次の軍葬はお前が施主をやれ」
これって、いじめ? 嫌がらせ? 不機嫌の進行形? もしかして、これからはこれが師範のデフォルト? 北軍の未来は明るくても俺の未来はそんなに明るくない、とか? しくしく。
と師範に泣きついたところで助けてもらえない事は明らかだ。 切羽詰まった俺はモンドー将軍に縋った。 モンドー将軍はうんざりしたお顔こそお見せになったが、俺が軍葬でやらかしたポカはそれだけだったからか、二組の席の用意を約束して下さった。
この件に関してはそれで収まったが、師範が将軍になったら俺が泣いて縋れる人がいなくなる。 つらいかもっ。
ま、そん時はそん時だよな。 それまでにはリヨちゃんがしゃべれるくらい大きくなっているだろ。 おとうちゃん、サダちゃん、泣いてたよ、サダちゃんを泣かせちゃダメ、と言ってくれたりして? てへぺろ。
でもリヨちゃんが優しい子に育つかどうか、分からないしなあ。 リネやヨネ義姉上だって基本は優しいけど、いつも俺の味方をしてくれるとは限らない。 特に俺の方が悪かったりすると、悪くない方の肩を持ったり。 結構シビアなんだ。 残るはサリ。 だけどサリにお願いしたら誰から何を言われるか。 最悪養育権取り上げを覚悟しないと。
はああ。 一体どうしたらいいの?
色々悩んだ挙句、俺の執務室へ湿布と傷薬を持って来てくれた薬師のリスメイヤーに聞いてみた。
「ね、師範の不機嫌を直す薬、どこかで売ってない?」
返ってきたのはダーネソン以上に冷たいレベルの無言。 そこで俺は同じ無言でも不機嫌な無言があると知った。