左遷 3
死者の名はニサ・スティバル。 聖下の血縁の甥で、私も個人的に知っている。 友人でも幼馴染でもないが、単なる顔見知り以上の関係だ。
聖下の御実家と私の実家は馬で一時間程度の距離で、隣近所と言えるほど近くはないが、そう遠くもない。 ニサと私はどちらも子爵家の正嫡子だが長男ではなく、爵位を継ぐ以外の道を探す運命という共通点があり、年が近い事もあって親同士が話をしている間の時間潰しに将来何がやりたいかを話したりした。
だが私達だけで遊んだり、どこかへ出掛けた事はない。 私が十五歳で奉公に出された時、彼自身が選んだとしか思えない贈り物とお祝いを伝える丁寧な手紙をもらい、それから何度か手紙のやり取りをしたが。
最後にニサと会ったのは五年前、私の兄の結婚式の時だ。 天の気をお預かりしている事は噂に過ぎなくとも祭祀長の御実家は単なる下級貴族ではない。 たとえ現職は北軍祭祀長で政治にお口を挟まれた事は全くない御方であろうと。 その血縁の甥なら子爵家次男でも上級貴族の婿に望まれる。
ニサは誰と結婚すべきか迷っているようで、上級貴族の内情に詳しい私の意見を聞きたいと言っていた。 その内会いに行ってもよいかと聞かれて頷いたものの、間もなくレイ様が北軍に入隊なさり、皇太子妃殿下お出迎えの特務に就かれ、そこで事件が勃発した。 その後の審問など執事見習が対応せねばならない事が山積みとなった上、私的にも実家の代替わりや母の死などが続き、私の都合を訊ねる手紙に返信する心の余裕がなく、それっきり交流が途絶えた。
だから私が北へ引っ越した事、北軍祭祀庁の大舎人となった事も伝えていない。 聖下は退任後、来客とお会いになっていらっしゃる。 ニサが北を訪れるなら私も会って話したいと思っていたのだが。
いつまで経っても彼が結婚したとは聞かなかったから気にはなっていたし、疎遠にしたくての無沙汰ではなかったが、謝罪してまで彼の近況を知りたいとは思わなかったのだ。 執事見習であった時は知ろうと思えばどの家の内情であろうと知る術があったが、調査してまで知りたい事ではなく、放置していた。
今考えてみればニサの弟が誰と結婚するかの噂ならいくらでも流れている。 弟より三歳上のニサに関する噂が何もないのは変だ。 絶縁や廃嫡などの揉め事があれば世間の噂になるし、問題がないならとうに結婚か、少なくとも婚約発表があるはずなのに。
ニサは中級神官の服を着ている。 私は彼が神官になった事を知らなかったが、神官なら生涯独身でも不思議はない。 しかしなぜ神官になった事が噂になっていないのか。 以前なら神学生になる事は世間的に恥ずかしい事だったから隠したい気持ちは分かる。 けれど神官になれたのなら下級であろうと世間に対して恥ずかしくない。 それどころか自慢出来る出世だ。 中級神官に昇進したのなら実家が昇進祝いパーティーをしてもよいくらいの。
ただ中級なら少なくとも二年前に下級神官になっていなければおかしい。 だが神官の新規採用が始まったのは今年からで、去年までは一人も採用されていないし、下級を飛ばして中級神官に採用された前例はない。 たとえ祭祀長の実子であろうと。
もしや中級神官の服は借り物か盗品? 神官なら自由に神域に入れるから? 神域へは祭祀長の親類であろうと招待がなくては入れない。 だが神官以上の招待があれば入れる。 大舎人も招待が出せるから、ニサが私を呼べば入れてあげた。 私がいるとは知らなかったから職を偽り、それがバレてこんな事になったとか? 私が大舎人になった事を教えていたら防げた事なのだろうか。 仮にそうだったとしても今更どうしようない事だが。 そもそもなぜそうまでして神域に入り込もうとしたのか見当がつかない。
聖下にお悔やみを申し上げるべきか迷った。 聖下は赴任以来、一度も御実家へ帰省されてはいらっしゃらないから血縁の甥であろうと親しい交流はなかっただろう。 今日初めてお会いになったとさえ考えられる。
訪問者記録を詳細に見た訳ではないが、訪問が増えたのはここ二、三年の事。 それ以前の聖下は北軍将校とお会いになるのがせいぜい。 北以外からの訪問客は一年間に一人もない年もあった。 お目通り願いは数え切れぬほど届いていたが、誰にもお許しにならなかったから。 たとえ実の御両親の願いであろうと。
私ならこの骸がニサであると確言出来るが、聖下は成長したニサとお会いになった事がおありなのだろうか。 ないとしたらこれがニサである事さえ確かではないのでは?
それより問題は死因だ。 まるで重い石でも乗せられたかのように胸が潰れている。 病死や自然死でない事は確かだが、私は聖下へ、一体なぜこのような有様に、とお訊ね出来る立場ではない。
それにしてもなぜ弔いらしき準備が何もないのか。 絶縁や廃嫡などの事情があれば別だが、子爵家正嫡子が不慮の死を遂げたら葬儀が行われるはず。 御実家で行う事をお望みなら遺体を送らねばならない。 その手配をせよとお命じになるのなら分かるが、埋めるのを手伝え、とは。
つまり彼の死を隠したい。 まさか聖下がニサを殺せとお命じになった? どういう理由で? それにどういう方法で?
聖下の御宅に重い石など一つもない。 遺骸が手押し車に乗せてあったところを見ると他の場所で殺され、ここまで運んだのだろうが。 神域内の重い石はどれも簡単に動かせるような大きさではない。
ただ今日は軍葬が終わるまでサリ様とサナ様が神域でお待ちになっていらっしゃる。 準大公御一家の愛玩動物は守り神でもあるとの事で、お出入り自由だからケルパとエイオも一緒だろう。
ケルパは大きさは中型犬だが、実は非常に重い。 それを噂で聞いた時は話を盛っていると思っていたが、屈強な下働き三人が顔を真っ赤にして踏ん張ってもケルパを動かせなかったところを実際に見た事がある。
では、ケルパがニサの胸を潰した? しかしケルパは誰彼構わず襲う犬ではない。 それどころか大変愛想の良い犬で、初めて会った時、下働きに過ぎない私にまで丁寧な挨拶をしてくれた。 私が夜遅くまで残業した帰り、お疲れ、と労わるかのように私の足を尻尾でポンポンと叩いてくれた事もある。
サリ様に害意を抱く者には容赦がないらしいが、なぜニサがサリ様に害意を抱く? その理由こそ考えられない。 けれどサリ様と聖下が御一緒だったら? サリ様は聖下の事を爺とお呼びになり、とても慕っていらっしゃる。 目前で聖下が神官に殺害されたらサリ様にとって非常に大きな衝撃であろう。 ニサが聖下を襲ったのであれば、たとえサリ様を襲うつもりはなくともケルパにとってニサはサリ様を害する者。
もしニサが本物の神官だとしても、北軍祭祀庁所属ではない。 そして聖下は他の祭祀庁の神官には嫌われている。 と言うか、恨まれている。 特に中央祭祀庁所属の神官に。
これは全て私の推測に過ぎないが、もし当たらずとも遠からずなら、なぜ聖下がニサの死を隠蔽したいのか理解出来る。 いくら退任なさったとは言え、聖下は天の気をお預かりしていた御方。 血縁の甥だろうと襲うなど許されない。 当人は勿論、スティバル子爵家の親兄弟全員が連座で処刑され、お家お取り潰しとなろう。
準大公御一家の誰が目撃したのかは分からないが、サリ様のお側にはベイダー侯爵家の才媛が付いている。 この事件が世間に知られれば聖下の御実家も無事では済まない事を即座に理解し、迎えにいらした準大公夫人に助言したのではないか。 警備兵に報告したらモンドー将軍が陣頭指揮を執り、事の真相を突き止める騒ぎとなる事を。
それにもしこの事件に中央祭祀庁が絡んでいるのだとしたら、真相が明らかにされる見込みはまずない。 聖下はそれを御存知だからお人払いなさったのだろう。 それ故ここには私以外誰もいないのだ。
事件の真相や黒幕の名など私が知らねばならない事ではない。 とは言え、聖下は私以外の手伝いをお呼びになるおつもりはない御様子。 二つあるシャベルの一つをお手にしていらっしゃる。
けれど一口に死体を埋めると言っても浅い穴ではまずい。 獣に掘り起こされるし、北の冬は厳しい。 土は二メートル近くまで凍るから、一メートル程度の深さでは遺体が土に還るまで何年かかるか分からない。 聖下の御宅は築百年以上の木造だ。 いつ建て替えられても不思議ではなく、その時白骨になっていない遺体が掘り起こされたら大変な騒ぎとなろう。 テーリオ猊下でさえ揉み消せないほどの。
それを考えると正式な墓穴ほどの深さは無理でもある程度の深さが必要だ。 でないと春にもう一度埋め直す羽目になる。 私は庭仕事をした事など一度もない。 穴を掘った事も。 ぎこちないお手元を見れば聖下も似たり寄ったり。 急いで解決策を考えた。
「聖下、僭越ながら申し上げます。 猊下がお戻りになるまでに獣に掘り起こされずに済む深さの穴を掘る事は難しいかと存じます。 取りあえず三十センチ程度の深さの穴を掘り、遺体を安置し、土を被せ、その上に育苗箱を置いては如何でしょう。 底に薄板を敷き、土を足しておきます。 聖下御自ら植えた育苗箱でしたら動かされる事はありません。 それでしたら私一人でも出来ますので。 聖下はどうかお召し物をお着替え下さい」
聖下はシャベルを土に突き刺し、御自分では両手で掬えるくらいの土しか掘れない事を御覧になり、深くため息をお吐きになる。
「遺体を安置するところまでは手伝わせておくれ。 これは私が遥か遠くを見るばかりで足元を見ずに進んでいた故に起こった事。 弔わずに埋めては私の気が済まぬ」
このお言葉だけでは聖下がニサを御存知なのかまでは分からないし、足元を見ずに進んでいたというお言葉の意味も分からない。 けれど聖下のお声には深い悲しみと後悔が滲み出ている。 何事も水に流し、拘泥なさらぬ御方と思っていたのだが。
私達は無言で穴を掘った。 遺体が隠せる程度の深さまで掘れた時、遺体の硬直はまだ手足に及んでおらず、聖下はニサの両手を胸元で合掌させ、滑石の人形を握らせた。 それは天への案内人と呼ばれる人形で、罪人と共に埋められる事はない。 万が一、遺体が掘り起こされたとしても丁寧に埋葬し直してもらえるだろう。
土を被せ終わると聖下は辺りに聖水を撒き、古語で弔いの祈りを捧げられた。
「天へと捧げられし者、地の煩いより解き放たれた者よ。 安らかに憩え」
正式な葬儀ではないが、祭祀長から祈りのお言葉を戴けるのは皇王族と恩寵を頂戴した者のみ。 御退任なさったのだし、誰が参列している訳でもない。 私さえ黙っていれば誰にも非難されないと思うが。 これをレイ様に報告してもよいのだろうか?
聖下は無言で御宅へお戻りになり、他言無用とはおっしゃらなかった。 しかしレイ様以外の誰かが私の報告書を読み、これは聖下が甥を殺害し、遺体を隠蔽した証拠、と考えたらどうする? かと言って私が余計な解釈を付ければ付けるほど事実とかけ離れていくような。
育苗箱に土を入れた後、急いでサリ様の御別宅へと向かった。 皆様もう御自宅へお戻りになられたようで誰もいない。 下働きを呼んで清掃を命じる前に念の為、御宅の内外を一巡した。
事件が起こった様子はないが、芝生の上に手押し車の車輪の跡が付いている箇所があり、その辺りの芝生の色が不自然だ。 別の場所から切り取って植えられた事が分かる。 植え込まれた芝生を剥がしてみると、犬の足跡らしき窪みがあった。 芝生を剥いだ下にまで残っているとは相当な力で踏みつけたのだろう。 元の芝生はどこに捨てられたのか、見つからない。 ゴミは全てお持ち帰りになられたようでゴミ箱の中は空だ。
私は自分が見た事、した事を古語で記録した。 そうすれば聖下の祈りの言葉を一言一句違えずに報告出来るし、当代様とレイ様なら誰の助けも借りずにお読みになれる。 執事、執事見習、執事補佐、侍従の中に古語を読める者はいない。 私はその晩レイ様がお泊まりになる宿を訪ね、執事見習のナスマンに私の報告書を託した。
その報告がどう受け止められたのか何も聞いていない。 ただ一週間後、私が食材をお届けした時に聖下から御質問があった。
「バビンズ大舎人は家族旅行をした事があるかい?」
「ございません。 父母のどちらかと一緒の旅でしたらございますが」
「そうだろうね。 私もない」
聖下の視線の先には育苗箱がある。 聖下が何をおっしゃりたいのか計りかねて黙っていると、視線を私にお向けになった。
「其方には大変世話になった」
「お仕えして一年未満の私に勿体なきお言葉。 誠に忝く存じます」
「公爵家次代にとって其方を手放すのは身を切られるほど辛かったに違いない」
「それほどのお褒めを頂戴するほどの事を何か致しましたでしょうか?」
「うむ。 数え切れぬほどな。 もし私が他の地へ赴く事になれば、其方がいてくれたら、と毎日思う事になろう」
「私でよろしければ、どこであろうとお供致します」
「其方にとっては左遷となろうと?」
「今更世間の評価を気にしようとは思いません」
私の返事に聖下は優しく微笑まれ、古語でおっしゃる。
「心清き者に星のお導きがありますよう」
それから間もなく聖下は皇都へ御出発になられた。 但し、護衛部隊に守られての旅ではない。 護衛部隊に守られて上京したのは影武者だ。 テーリオ猊下、タケオ大隊長、準大公と御家族も。
本物はどうなさったのか私は知らない。 けれど皆様御無事で皇都に御到着なさり、新年を玉竜の大合唱と共に迎え、陛下と青竜の騎士の御一家が民の歓呼の声にお応えになったと聞いている。
新年に聖下が中央祭祀長に御就任なさった。 誰も理由を知らないからか大変な噂になり、私も散々聞かされたが、どれも到底信じる気になれないものばかり。 やれ、青竜の騎士が一枚噛んでいるとか、猛虎が近衛将軍になりたくて画策したとか、ヘルセス次代が恩寵欲しさにお膳立てした等々。
スティバル猊下のお胸の内を伺った訳でもない私が推察するのは恐れ多いが、猊下は御存知だったのではないか。 一度も会った事はなくともニサがどれだけ猊下を尊崇し、敬愛していたかを。 その尊崇と敬愛を蹂躙した者がいる。 おそらく猊下を失脚させようとして。
もしかしたら中央祭祀長になられるはずだった猊下が北軍へ赴任なさったのも、いつか平民出身の北軍将軍が誕生すると御存知で、だから平民出身の一兵卒を入隊当時からお目に掛けていらしたのではないのか。
猊下が遥か遠くを見て下さったおかげで、北に繁栄が齎された。 だが御自分の足元は見ていなかったせいで甥が犠牲になったと猊下がお感じになり、その誤りを正すために中央祭祀長への御就任をお受けになられたのだとしたら。 たとえ孤軍奮闘する事になろうとも私は猊下の元へ行かねばならない。 猊下がお足元を見ずに進めるように。
退職届がすんなり受領されるかどうかは分からないし、中央祭祀庁の下働きになろうとしても雇われるとは限らない。 だが後任が決まり次第皇都へ旅立つつもりで身辺整理をし始めた。
テーリオ猊下は一月中旬に皇都からお戻りになり、私に一通の辞令をお渡しになった。 北軍祭祀長メリ・テーリオ、中央祭祀長ニノ・スティバルの御署名がある。
北軍祭祀庁大舎人 ルエ・バビンズ殿
一月末日をもって北軍祭祀庁大舎人の任を解き、二月一日をもって中央祭祀庁大舎人に任ず。
猊下がため息と共におっしゃる。
「爺はああ見えて中々の策士。 猊下の御為なら火の中水の中。 この老骨、喜んで飛び込む所存。 死出の旅への餞としてバビンズを頂戴しても? そう言われては、否とは言い難い」
これも星のお導きと言うべきか。
「非才な私に勿体なきお言葉。 この辞令、謹んでお受け致します」
テーリオ猊下へ深くお礼を申し上げ、私は皇都へと旅立った。