左遷 2
ボーザーと私の能力の差は大きく、激しい水面下の競争などはなかった。 とは言え、過去の執事は能力の差と言うより当代様との相性の良し悪しで指名されている。 上級貴族の間ではヘルセス公爵家の次期執事はボーザーと思われていたが、レイ様はその予想を肯定も否定もなさらず、私達五人の差はあると言えばある、ないと言えばない。 お互いを競争相手として見ていたので旧交と呼べるほどの関係はなかった。 と、私は思っていたのだが。
それに今では彼こそ、北にボーザーあり、と知られている。 世間一般の知名度はウィルマー準大公家執事と同じか、それ以上と言ってもよい。 北軍内に限れば元従者であったウィルマー執事の方が有名だが、貴族が準伯爵家の執事を話題にする事はほとんどない。 六頭殺しの若が十九歳という若さで中隊長、そして特務大隊長に、二十歳で大隊長に昇進した事は話題になったが。
その点、公爵家執事見習は家内の実務を担当している。 貴族にとってはお目通りが中々叶わない公爵より重要な存在だ。 ヴィジャヤン大隊長が伯爵に叙され、事実上の準大公になろうと執事を交換しなかったためウィルマー執事の名も知られるようになったが、それはつまり上流社会で名が知られるようになって僅か二年という事。 ボーザーが執事見習に取り立てられたのは十年以上前だ。 もっとも道端で喧嘩している子供の捨て台詞が、ウィルマー執事に言いつけてやる、なら俺はボーザー執事にちくってやる、であるところを見ると、どちらも世間に知らぬ者はいないと言える。
改めて言うまでもなく、どちらも売名行為など少しもしていない。 これは私の主観だが、主が有名だからでもない。 あの二人には一度会ったらそれが生涯ただ一度の出会いだったとしても忘れられない、際立つ存在感と言うか、オーラがあるのだ。 それ故周囲から畏敬の目で見られているのだろう。
私が知っているボーザーは世間話をしたり無駄口を叩く男ではなかった。 噂で聞く限り、それは現在も同じらしい。 それだけに何を意図してわざわざ私に歩み寄り、ああ言ったのか、考えずにはいられない。
猛虎が副将軍を狙っており、私に利用価値があると判断したか? しかし北軍の場合副将軍への昇進で重要なのは将軍の指名に尽きる。 スティバル祭祀長は軍の人事にお口を挟まれるような御方ではないし、祭祀庁の誰かと関係があろうとなかろうと大した違いはない。
そもそも猛虎は大隊長だが、現在三十になるやならず。 その若さで副将軍に昇進する可能性などゼロに等しい。 十年後か二十年後、その時の陛下か祭祀長から特別な寵があれば別だが、御退任間近の祭祀長の御贔屓があったところで何の役にも立ちはしない。 ましてや大舎人と旧交を温めたところで何になる。 いつまで私が在職しているかなど私自身にさえ分からないのに。
有限な時間を世間話をするために割くような男ではない。 ただ大舎人は私が考えるよりも要職ではあった。 そして上級神官より祭祀長の動向を探るのに向いている。
猊下は炊事、掃除、洗濯でさえ御自分でなさるらしく、祭祀長宅に住み込みの神官はいないし、毎日同じ神官が訪れる事もない。 下働きも住み込みはいないが、お庭の剪定や家屋の修繕、縫い物、散髪まで御自分でなさる訳ではないし、それらは神官の仕事でもないから結局毎日祭祀長宅を訪れているのは私だけなのだ。
例えば神官が祭祀長宅にいる時、猊下とテーリオ祭祀長見習がお笑いになった事はない。 笑い声を漏れ聞くのはお二人でのお散歩とか、神官が帰った後で御一緒に炊事をなさっている時などに限られる。
最初は神官とは真面目なお仕事をなさり、テーリオ祭祀長見習とは御休憩なさっているからだと思っていたが、神官がしているのはほとんどが招待状、贈り物、お手紙の配達で、猊下はそれに無言で頷かれるだけ。
テーリオ祭祀長見習とお二人だけの時は古語をお使いになる。 私の語学力では完全に理解する事は出来ないが、知っている単語から類推すると教義に関する議論を交わされたり、しきたりや儀式の由来を教えていらっしゃる。 笑い声が混じってはいても真面目なお仕事と言えるだろう。
又、お側付の上級神官であろうと猊下のお身の回りを正確に把握している訳ではない。 猊下が普段お使いにならないお部屋に国宝である竜鈴が安置されている。 そこの掃除を任されるまで私は竜鈴の事を知らなかったが、まさか上級神官も知らないとは思わず、ソルフェルト上級神官に報告した。
「本日は竜鈴を置いてあるお部屋の掃除を致しますので、掃除中はお立ち入りを御遠慮下さいますよう」
「竜鈴?」
明らかに驚きが含まれている。
「猊下の執務室に?」
「その右隣でございます」
質問されて思わず返答してしまったが、猊下がお伝えしていない事を私が勝手に教えていいはずがない。 それを知ったソルフェルト上級神官の複雑な表情。 何と表現すれば的確なのか。
怒り? 残念? 安堵? 懸念? 喜びもあるような気がしたが、怒りが一番強いような。
私に部屋の掃除を指示したシーリッグ上級神官に聞いたら、竜鈴の事を知っているのはシーリッグ上級神官だけだった。 理由は分からないが、ソルフェルト上級神官は猊下が竜鈴をお預かりしている事を喜んではいらっしゃらない。 おそらく猊下はその理由をお分かりでいらっしゃる。 だから今までシーリッグ上級神官以外の誰にもお伝えにならなかったのだろう。
口が軽いと猊下からお叱りがあるかと思ったが、誰からも叱られなかった。 私がその間違いを犯した翌日、猊下が青竜の騎士へ竜鈴をお渡しになり、猊下のお手元から離れたからかもしれない。
それにしても国宝を保管している事をお側付きにさえ秘密にせねばならないとは。 まさか盗難を恐れて? しかしそれを恐れるくらいなら、なぜ皇王城の外へ持ち出されたのか。 中央祭祀庁内に保管した方が安全ではないのか?
猊下のお立場は私が想像する以上に複雑でいらっしゃる。 祭祀長職を年内にお譲りになるおつもりである事も私の方が上級神官より早く知った。 秋の祭祀に使う祭祀長の式服をテーリオ祭祀長見習の採寸にお直しするよう命じられたのは竜鈴が鳴った翌日だったから。
あの頃祭祀長が年内に変わる事を予想していた上級神官は一人もいなかった。 祭祀長就任の儀式の詳細など私は知らない。 だが東軍祭祀長の就任式は東の全貴族が参列する盛大なもので、通知は一年半前に届いていた。 なのにどなたも例年通りの皇都にさえお出掛けにならない静かな年末の準備しかしていない。 これはさすがに変だろう。
僭越極まりないが、つい、お伺いした。
「皆様にはいつお知らせになるのでしょう? 準備の都合もあるかと存じます」
猊下は微笑みと共に人差し指をお口元にお立てになる。
「テーリオ、神官、軍人には内密に。 驚かせてあげたいから」
まさか就任式をなさらない? 或いは、誰も招待なさらないとか?
いずれにしてもこのような驚き、受け取る側にしてみれば私が受け取った転属辞令以上の驚愕だろう。 静寂を好まれるテーリオ祭祀長見習なら式がなかろうと質素であろうとお気になさらないと思うが。 祭祀庁の威信を儀式の参列者数で測る神官が喜ぶとは思えない。
だからと言って大舎人が祭祀長をお諌め出来る訳もなく。 それに驚かせてあげたいとおっしゃるのは単なる言い訳。 秘密になさりたい理由が他にあるような気がした。 でなければ、テーリオ、神官、軍人と特定なさるだろうか? 誰にも内密に、とおっしゃる方が簡単だし、そう命じられていたら私はレイ様にも報告しなかった。
もしや猊下は私がレイ様と通じている事を御存知で、部外者になら準備を手伝って欲しいが、神官の手は煩わせたくないとか?
私は求職の際、身上書にヘルセス家で奉公していた事は記載した。 だが最終職務名が執事見習であった事は書いていない。 北軍祭祀庁の神官は全員上級貴族の内情に疎く、書いていたとしてもその意味に気付いたとは思えない。
しかし猊下は北へ赴任なさる前、中央祭祀長見習でいらした。 上級貴族やその奉公人との折衝は祭祀長見習のお役目だから、私の起居動作や仕事ぶりを見れば高位の奉公人であった事はお察しだろう。 自分に都合のよい解釈をしても許されるのか分からなかったが、結局レイ様へお知らせした。 このような事、直前に知らせられても何のお手伝いも出来ないから。
ただ一事が万事。 これではそちこちに敵を作っていよう。 大舎人の役目に猊下の身辺警護は含まれていないが、密かにお身の回りに気を配り、食材を猊下へお届けするのは私が担当する事にした。
その日私が受け取った食材の中に毒草が混入していた。 食材は猊下用を特別に注文しているのではなく、普段は早朝勤務の者が先に食べている。 そのため丁寧な検査はしていない。
ただ神官用の食事は二十人分だし、作っている品目も多い。 下働き用に作っているのは二、三品だが、常に二百人以上いるので野菜より腹持ちのいい穀類、豆類、芋類を多く提供している。 付け合わせに毒草が混入していようとそれだけ選んで食べたのでもない限り死ぬ者はいないだろう。 けれど猊下は鶏卵、果物、乳製品も召し上がるが、基本は雑穀一膳と一汁一菜だ。 その一菜がこの毒草だったら?
誰が紛れ込ませたのか。 料理番と食材を運搬した者に聞いたが、これを毒草と知っている者はいなかった。 私の知り合いの農夫は害獣を殺すために植えているからこれが毒草である事を知っていたが。 軍警に報告したところで下手人が見つかるとは思えない。 不運にも疑われた者が拷問されて死に、解決した事にされるのがオチだ。
ヘルセスの特殊部隊諜報員に調査を依頼しても今から調査したところで下手人が神域内にいるとは限らない。 食用と間違えて採集したか。 毒殺目的で誰かが持ち込んだか。 もし神官などの内部の仕業なら単独犯か、単なる手先か。 仮に人が特定出来たとしても誰を殺すつもりだったのかまでは分かるまい。
私は急遽イカムを用意し、猊下にお願い申し上げた。
「お食事前にお邪魔する事は大変心苦しいのですが、召し上がる前にお毒味をさせて下さいませ」
猊下はゆっくりと頷かれ、人差し指をお口元にお立てになる。
「これが死んだとしてもテーリオ、神官、軍人には知らせぬよう。 余計な心配をかけたくはないのでな」
これは心配させるべき事では、と申し上げたかったが堪えた。
私は毒殺やその防御策も学んでいる。 今まで一人もいなかった食材管理人を六人雇い、猊下への食材は必ず私が運ぶようにしていた。 その監視の目を逃れ毒草を紛れ込ませるとは。 私が敷いた防御策の弱点を知っているのだから素人ではあり得ない。
至急、レイ様にお知らせした。 猊下はテーリオ祭祀長見習、神官、軍人に知らせぬ事をお望みである事と併せて。
このような形で私の知識がお役に立つのは嬉しくない。 それでなくても業務が山積している。 そのうえ突然猊下が竜鈴鳴動のお知らせをするために皇都へお出掛けになった。 その旅装の準備をしたのは私。
旧北軍祭祀長宅を準大公夫人のための産屋に改装し、準備したのも。
サリ様用の御別宅、そしてテーリオ祭祀長のお住まいの改装も。
祭祀長就任式の準備。 賜剣の儀の準備。 初穂の儀の準備。
大舎人が閑職ではない事は覚悟していたが、こう次から次へと儀式が続くとは思っておらず、いつ寝ていつ起きたのかさえ覚えていない。 ふと気付けば庭に雪。 猊下と聖下の衣替えは済ませていたが、自分の防寒着の用意はまだという有様。 寒さに気づく間もなく駆けずり回っていた。
ボーザーの言葉を思い出さずにはいられない。 それでもこの喧騒は毎年秋に行われる軍葬が終われば一段落する。 と思っていたところにこれでもか、と齎された知らせ。
「今年は恒例の軍葬の他にポクソン補佐の軍葬が行われる。 施主はタケオ大隊長だ」
驚いた、と言えば驚いた。 平民出身の副将軍、次期北軍将軍の誕生なのだから。 副将軍に関してはいずれそうなると予想していたが、それは後十年は先と思っていたし、ヴィジャヤン大隊長が先に副将軍となればタケオ副将軍が将軍に昇進する事はまずない。
なのに私は意外なほど驚いてはいなかった。 クポトラデルとの食事会の折り、何か事件があった事は聞いている。 それ以来モンドー将軍はかつてない頻度で神域を訪れていらした。 お目通りの内容は勿論知らないが、猊下と聖下が古語でお話しになる時、私にも理解出来る事がある。
「ふうむ。 今日で三日目、か。 さて?」
聖下のお訊ねに猊下が微笑みを返される。
「今日の夕食前に将軍が訪れるでしょう」
「ほう。 頑固は死ぬまで治らぬ病と思っていたが」
「虎によっては治る事もあるようです。 愚痴の方は、残念ながら」
「愚痴の一つや二つ、何ほどの事があろう」
「よろしいのですか? ポクソン亡き後、零す相手は爺しかおりませんよ?」
「ふふふ。 年寄りが役立つなら喜ばしい事。 たとえ愚痴のゴミ箱としてであろうとな」
ボーザーは知っていたのだろうか? 自分の主がこれほどすぐ副将軍、そして将軍となる事を。
知っていたから私と旧交を温めようとした?
知らなくても旧交を温めたかった?
それを聞く機会を持つ前に、聖下から突然のお呼び出しがあった。 ポクソン補佐の軍葬はまだ終わっていない。 ほとんどの者が出払っているから取りあえず私一人で聖下の御宅へ伺った。 御宅には神官も下働きもおらず、なんと聖下御自らお出迎えになる。
これはさすがに異例中の異例。 しかも野良仕事でもなさるようなお召し物で、訝しく思ったが、私から質問など出来る訳もない。 黙って従った。
裏庭の片隅に手押し車が置いてあり、土でも運んでいるのか藁筵が被せてある。 聖下が立て掛けていた二つのシャベルの一つをお手に取り、私へ差し出す。
「手伝っておくれ。 皆が軍葬から戻る前に埋めてあげたい」
筵の下には私が知っている顔が骸となって横たわっていた。