左遷 1 北軍祭祀庁大舎人、バビンズの話
一月も終わりに近いある日、ヘルセス公爵家執事見習である私に信じ難い辞令が齎された。
「北軍祭祀庁に下働きとして潜入し、スティバル北軍祭祀長の動向に関する詳細を報告せよ」
テーリオ祭祀長見習の動向を探る必要ならあるだろう。 祭祀長にはなられても天の気をお預かりなさるか否かは不明だが、なさらないとしても北には青竜の騎士と瑞兆がお住まいでいらっしゃる。 瑞兆は単なる皇王族ではない。 後宮のしきたりより天、つまり祭祀関係を学ぶ方が重視されるであろう。 ならば北軍祭祀長の御意向が大きく反映されるはず。
どの上級貴族も出来れば自分の家から、それが無理なら姻戚の家か盟友の家から教師を送りたいと考えている。 しかし退任間近のスティバル祭祀長の動向を探ったところで、御勉学開始までまだ何年かあるサリ様の教師の選抜には反映されないと思うのだが。
本当にそれが目的なのか? テーリオ祭祀長見習の動向を探るのは他の者が担当し、念の為にこちらにも、と私が配置された? そうだとしても、なぜ下働き? 祭祀長の動向など下働きには知りようもない事であろうに。
ただ聞くところによれば猊下は下々にはお気軽にお言葉をお掛けになるが、お側に仕える上級神官とは距離を保つ御方なのだとか。 それに北軍祭祀庁に勤務しているのは副祭祀と神官僅か二十名。 最盛期にはその百倍の神官がいた事を考えれば国中からお布施が集まっているだろうし、せめて二百名程度に増やしては、と思うが。
何分長年神官の数を減らし続けていた御方。 退官間近の今になって増やし始めるとも思えない。 又、過去の例を見ればお付き神官は祭祀長退任と同時に転属し、新祭祀長には全く別のお付きが選ばれている。 だが下働きなら転属はなく、長期の勤続が可能という利点はある。
それより何より、なぜ私? 執事見習は次期執事候補。 序列で言えば執事補佐や別邸の家令より上だ。 ヘルセス公爵家には現在四人しかいない。 家史を遡れば皇都別邸の家令が執事に昇格した例があるが、いずれにせよ数万いる奉公人の上位一桁に入る。
言うまでもなく地方祭祀庁の下働きに公爵家執事見習の経験など必要ない。 私の能力を買われた故の転勤でない事は明らかだ。 口の堅さと的確な報告をする能力は必要だろうが、ヘルセス公爵家の奉公人ならそれくらい誰でもやれる事。 私でなければやれない事ではない。 では、私を退職に追い込むのが真の目的?
客観的に評価するなら、他の執事見習と比べて突出した能力はない私が次期執事に選ばれる可能性は少ない。 とは言え、大きな欠点もなく何事も卒なくこなしていた。 次期執事が公表されたら執事補佐か家令の辞令が下りると予想していたのに。
まさか働き盛りの三十代で次期執事決定前にこのような閑職へ追いやられる事になろうとは。 それとも公表されていないだけで次期執事が決まったのか? しかしこういう目に遭わぬよう、他の執事見習とは良好な関係を築いていた。 ナスマン、ジェラベル、リゲハートの内、誰が執事になるか予想がつけられなかったし、下手に一人に絞って取り入り、その人が執事に選ばれなかったらここに奉公している限り冷遇される事になるから。
すると当代様、レイ様、スキネルソン執事、どなたかの御機嫌を損ねた? でなければ執事補佐の誰か、又はオラヴィヴァ侍従長の讒言? 他の者がした失敗を私がした事にされたとか? それにしては大きな失敗があったとは誰からも聞いていない。
我が身は清廉潔白。 執事見習の立場を利用して私腹を肥やす事は勿論、飲む打つ買うなどの道楽や、人から後ろ指を指されるような事は何もしていないが、した事の証明ならともかく、していない事の証明は難しい。 これで私の人生の幕が下りたとは思わないにしても、要するにこれは左遷。 返り咲きの見込みはない降格だ。 次期執事が誰であるかは分からなくとも私ではない事は確実。 先行きは暗い。
ふと脳裏にシエ・ボーザーの名が浮かんだ。
タケオ大隊長が結婚なさる前、ヘルセス公爵家の執事見習は五名いた。 次期執事として最も有望視されていたのはボーザーだったが、突然他家へ転職した。 しかもその転職先がタケオ家。 つまり準伯爵家執事。
余りな降格で、事情を知らない者の目には左遷、又は余程の失策を犯した事に対する懲罰に見えたからか世間の噂になったほど。 だが私の同僚の中にこの転職を左遷や懲罰と考えている者はいなかった。 転職の理由は私を含め誰も知らなかったが、ボーザーがいかに有能であるかを知っていたから。
彼が抜けた穴を埋めるのは容易な事ではなく、私達四人にそれぞれ補佐を二名つける事で対応した。 それは彼の非凡な実務能力を証する一例に過ぎない。 頭脳明晰なレイ様が幼少の頃よりお側近くで仕えたボーザーの能力を御存知ないはずはなく、何か深い理由があって手放されたのだろう。
ボーザーと比べて遥かに平凡な自分がいつか彼と同じ運命を辿ると考えた事はなかった。 転職ではなく転勤だから全く同じではないにしても、下働きが公爵家次代と親しくお会いする機会など未来永劫ない。
これは警戒心の不足、私の脇の甘さが招いた結果なのか? と、悔やんだところで下りた辞令が撤回される訳もなく。
長年の研鑽は下働きになるために積んだのではない。 私の忠勤はこれほど簡単に捨てられるものだったのか、と思わなかったと言えば嘘になる。 絶望し、退職してもおかしくはない辞令だ。 レイ様へ抗議しに行くべきか考えない訳でもなかったが、結局誰にも何も言わず抗わず、私は任地へと向かった。
自分でも不思議なくらい静かな気持ちで受け入れられたのは生来の楽観的な性格もあったと思う。 だがそれ以上にレイ様の御命令なら左遷であろうと従うのみ、と思ったからだ。 そもそも公爵家執事見習は自分の命さえ差し出す覚悟がなければやれない仕事で、その覚悟があったからそれが必要とされる職に就きたかったのだ。 たとえこの身をすり減らし、遂には捨てられる事になろうとも。
この辞令がレイ様の承認なしに出されたはずはない。 去年の年末査定の時、スキネルソン執事から今年の私の担当業務は去年の五割り増しになると言われていたし、夏にレイ様の挙式が予定されている。 どの奉公人も五割増しどころではない仕事量となろう。 執事見習は既に荷重な業務を担当しているのだから、そのうえ私の業務も、となるとさすがに無理だ。 人を増やすしかないが、増やしたところですぐに私と同じ事がやれるとは思えない。 レイ様がスキネルソン執事の諌めを振り切り我を通された、と言うのが事実に近いだろう。
後顧の憂いはあるものの私の手を離れた事を思い煩っても仕方がない。 改めて振り返れば、私は学ぶ事自体を楽しんでいた。 仮に公爵家執事になれないと知っていたとしても同じ熱意を持って学んでいたと思う。 自分の知識欲を満たすために。 ならば私の努力は趣味と言えない事もなく、得た知識を使う機会がなかろうと悔やむべき事ではない。 どれもヘルセス公爵家執事として必要な知識であったからレイ様のお役に立てないのは残念だが。
偶々北軍祭祀庁は大きな転換期を迎えていた。 以前は貧民街の神社もかくやの閑散とした有様だったらしいが、今では次々神官が採用されている。 それに併せて下働きの必要性も増し、毎日人が雇われて活気に溢れており、私もすぐに雇われた。
ただ活気はあるが、混乱や無駄もある。 仕事を管理する者の数が不足しているのだ。 そこで祭祀庁の人事を担当していた者に業務改善を進言したところ、管理能力がある事が認められ、三ヶ月も経たない内に下働きを采配する大舎人に取り立てられた。
公爵家執事であれば数万の奉公人の頂点に立つ。 執事見習の時でも五千を越える奉公人の采配をしていた。 それを考えれば数百の上司となったところで自慢出来る事ではない。 そう考えていたのだが、その考えはボーザーに再会して変わった。
ボーザーには容貌や雰囲気を自在に変化させる才能がある。 相変わらず、という表現が適切であるかは疑問だが、最後に会ってから僅か二年。 神域の門を検問されずに通り過ぎた男がボーザーである事はすぐに気付いた。
着ている服は上等な仕立てではあるが分不相応なものではなく、装飾品や家紋は付けていない。 なのに神域への出入りが顔パス。 毎週猊下の御招待でお茶にいらっしゃるタケオ大隊長以外では、出入りの商人は勿論、上級貴族、外国の王族でさえそのような特別扱いをされてはいない。
不思議に思ってオリアーガ神域警備隊長に聞いたところ、猊下からのお指図があったとの事。 因みにこのお出入り自由はタケオ大隊長とボーザー執事の他にモンドー将軍とヴィジャヤン大隊長、合計四名に許されており、モンドー将軍の執事とヴィジャヤン大隊長の執事は含まれていない。
執事はただの奉公人ではないし、北の猛虎の執事なら子爵と男爵しかいない北では一目置かれる存在だろう。 しかし北を訪れる物好きな上級貴族などいなかった以前ならともかく、今では頻繁に上級貴族や外国の王侯貴族が訪れる。 北軍祭祀庁にとって準伯爵家執事は丁寧に対処せねばならないほどの高位ではないと思うのだが。 それに将軍の執事や準大公家執事よりも上の扱いをする必要がどこにある?
ともかくボーザーを出迎えた上級神官はいずれも一目も二目も置いた態度を見せていた。 ヴィジャヤン大隊長に対してさえそのような態度は見せていないのに。 もっともヴィジャヤン大隊長とボーザーを比べたらボーザーの方がよほど威厳がある。 奉公人を表現するのに威厳という言葉が適切ではないとしたら、品格。 虎の威を借る狐、ではない。 少なくとも私の目にはそうは見えなかった。
猊下への用事はすぐに終わったようで、帰りがけにボーザーの方から私に声を掛けてきた。
「久方ぶりであるな、バビンズ。 北の水にはもう慣れたか?」
私を大舎人という職名では呼ばず、姓の呼び捨てで呼んだ。 同僚であった時のように。 敬語も使っていない。 世間的な職業の物差しで測れば英雄の執事の方が地方祭祀庁の大舎人より高い身分ではあるが。
「水には慣れたが、寒さには中々」
私の返事に彼の口元がふっと緩む。
「すぐに寒さなど感じる暇もない忙しさとなろう。 それにしても大舎人という要職に其方を配属するとは。 さすがはヘルセス公爵家次代と言うべきか。 北にバビンズありと知られるのも遠からずであろうな。
今日は先を急ぐが、いずれ旧交を温める機会を持ちたいもの。 では、失敬」
短い会話ではあったが、それでも分かる。 私に話し掛けてきたのは同病相憐れむ仲だからではない。 瞳の輝きと泰然たる態度を見れば、準伯爵家執事という現在の地位を恥ずかしいとか降格とは思っていないのだ。
それにしても寒さなど感じる暇もない忙しさになる? 彼は報告と連絡は密にするし、事実や決定事項なら伝えるが、予想や類推は口にしない男だった。 どれ程自分の予想の精度に自信があろうと。
現在私は既に忙しい。 その事実は祭祀庁内だけでなく第一駐屯地でも広く知られている。 ボーザーも知っているだろう。 なのにこれ以上の忙しさになるとは、何を根拠に?
又、私の職を指して要職と言った事にも内心驚いた。 嫌味や皮肉ではない。 かと言って愛想や世辞を言う性格でもなく、言葉遣いが非常に正確で、要職ではない職を要職と言ったりはしない男だったのだが。
しかも、さすがはヘルセス公爵家次代、とはこれが賢い決断であるかのような表現。 そしてレイ様の直命である事を知っているとしか思えない発言だ。
一体どのような経路で知ったのか? レイ様と北の猛虎は御友人ではあるが、奉公人の降格を教えるほど密な関係であったとは執事見習の私でさえ知らなかった。 第一、大舎人が誰であろうと北軍大隊長の執事に何の関係がある? 相手が知りたいとも思わないような事では?
おまけに旧交を温める機会を持ちたいだなんて。 単なる社交辞令のはずはない。 さっさと辞めろと言わんばかりに転属させられた元同僚と旧交を温めたいとしたら、どんな理由で?