台風少女
私は初めて、誰かに欲情した。小さな、百五十センチメートルもないであろう体についている大きな二つの膨らみ。桜色の突起が美しく、目の奥に焼き付いて離れない。全裸の少女に、私は生まれて初めて恋をした。たとえそこが公園だとしても、私は気にしなかった。
「やべっ」
少女は顔を歪める。私は海の中にいるような浮遊感に襲われていた。台風がよく舞う季節。まだ日が出たばかりの、カモメ達が鳴く前の朝。海から数十分ほどの公園に、全裸の少女が立っている。あまりの事態に脳が思考停止してしまった。
「ちっ、違うんです!これはその……深い意味があって!あのその……」
そう早口で弁明する彼女は屋根付きのベンチに立っている。精一杯手を振って否定する彼女はかわいらしかった。背の高い私は見上げる形なのに、彼女が随分小さく見える。自分の背丈に嫌悪感を抱きつつ、彼女の乳房を見つめている私はまごうことなき変態だ。
「私はその……そう!台風になりたいんです!」
私はハッとした。なぜか裸の彼女。これはつまり、全身で風を感じることで限りなく台風に近づこうとしている!そう私は考えた。
「私もやる!」
私はそう言って服を脱ぎ始めた。驚いて手で秘部を覆っている少女は、ポカンとした顔をしている。下着になったところで声をかけられた。
「な……何やってるんですか!?私が言えたことじゃないけど……!」
そう言う少女の隣に服を脱いでベンチの上に立つ。チラチラと少女が横目で見てくる。確かに風がよく感じられた。
「ねぇ、友達になろうよ!」
それが私の第一歩だった。そして私は数か月ぶりに登校することを決意した。離れているはずなのに、なぜか海の香りがした。
次の日の朝。三か月ぶりの登校。不登校になった理由は何だったか。確か背の高さのせいであだ名が「電柱」になってしまったことだろう。そんなくだらないことで不登校になる自分の弱さと、優しく受け入れてくれた両親の顔が頭に重なり、ひどく心が重かった。久しぶりの通学路も何とか道を覚えていた。
教室に入ると見知った顔が何人か振り返った。が、誰も声をかけない。当然だ。たぶん名前も覚えてもらってないだろう。私は電柱同然の気持ちで自分の席に座った。彼女はまだ来ていないようだ。そもそも来るのだろうか。
「あ、おはよう!」
彼女が笑って話しかけてくる。
「おはよう」
私の学校は白を基調としたセーラー服を採用している。黒髪のショートヘアにスカートからはみ出る素足が美しい。私は相も変わらず彼女に見とれていた。
昨日のことは二人の秘密だ。彼女が台風になりたがっているのは私と彼女しか知らない。その事実がうれしかった。
「ねぇ、今日あたしの家に来ない?」
胸が跳ねる。リズムよくドッドッドと小太鼓が鳴っている。
「それってお家デート?」
上擦った声で尋ねる。
「そうかもね」
彼女は笑って答えた。
そのあとに受けた授業は一つも覚えていない。頭の中は邪な考えでいっぱいだった。しかしそれ以上に彼女と仲良くなれることが嬉しかった。
あっと言う間に放課後になった。海への道を歩く。彼女の家への近道だという。アスファルトに熱が反射して肌を焼きつける。手をつないで歩く妄想をしていると彼女が手を伸ばしてきた。
「手、つなご?」
私は一も二もなく頷いた。
彼女の家は小さかった。今にも崩れそうなボロボロの木造アパート。彼女はそこで父親と二人で暮らしているという。
「まぁ座って」
床が軋む。エプロンを着て小さな台所へ向かう彼女を見て新婚のような気分になり頬が上がる。
ヤカンに水を入れる。火にかける。コップを二つ用意する。ティーパックをコップに掛ける。
静寂
水の鳴く音がする。
とぽぽぽぽ
とぽぽぽぽ
さらさらさら
花の匂いがする。これはきっと、天国への道のりだ。
「どうぞ。粗茶ですが」
カップを持ち上げる。宝石を持つように慎重に、慎重に。パタッと倒れる音がする。
夢を見ていた。
波たちが楽しそうに舞っている。これは祭りの前兆だ。
まわる まわる まわる
まわる まわる まわる
台風の目になった。地球は青い。
日本を横断する。
どっどうど どっどうど
みんな、みんな巻き込んでしまえ。
どっどうど どっどうど
君も来るの?来なくたっていいのに。
どっどうど どっどうど
君は来ないの?こんなにも楽しいのに。
どっどうど どっどうど
あっという間に日本中をわたる。今度は海を越えて、あのアフリカゾウのところまで、あの山脈の向こうまで。みんなみんな吹き飛ばそう。
目が覚める。
茜色の日が顔を刺す。思わず目を細める。半目であたりを見渡すと、隣で目をつむる彼女。上には男が覆い被さっている。これから何が起こるかは、この年になればわかる。
それは咄嗟のことだった。男の後ろに周り首を絞めつける。
ぐっぐっぐ。ぐっぐっぐ。
男が腹を肘で殴る。それでも手を緩めない。
ぐっぐっぐ。ぐっぐっぐ。
ついに男は倒れた。でもこれじゃあ安心できない。台所から包丁を持ってくる。そして刺す、刺す、刺す。腹を、首を、顔を。
気づくと男は無残な姿で横たわっていた。先に思った事は後悔よりも、彼女を助けられたことに対する安堵だった。
「大丈夫?」
少女に手を差し出す。
「近づくな!」
少女は顔を真っ赤にしていた。
「お前のせいで……お前のせいであの時死ねなかったんだ!ふざけんな!お前なんて嫌いだ!大っ嫌いだ!」
目の前が真っ暗になった。
海へと歩く。背中には彼女が乗っている。
「おやお前さん、ひさしぶりだねぇ」
そこには近所のおばあちゃんがいた。久しぶりに見るしわくちゃの顔を見て心が痛んだ。
「お久しぶりです」
「背中に乗ってるのは友達かい?」
「そうなんです。つかれて寝ちゃって。これから帰るんです」
「そうかい、そうかい。あんなに小さかった子がねぇ。こんなにでかくなって。さぞやご両親もうれしいだろうねぇ」
嬉しそうに語る。私には行くところがある。
「ありがとうございます。失礼します」
「また今度ねぇ」
「ええ、また」
また今度。
私は、台風の目になりたかった。小さな円形のそれは周りを巻き込んで、周りを動かして、そしていつか消える。誰に何を言うわけでもなく、自ら台風の風になってくれる。みんなを巻き込んでくれる。
だけど、私の夢は諦めた。結局私も動かされる側の人間だったんだ。だけどそれでもいい。私は彼女の夢を叶えるんだ。
海へと歩く。しばらくすると道が途絶えている。この先は崖だ。下には海がいて、ごろごろとした岩が舞っている。一歩、また一歩と足を進める。夕日が美しく輝いて、私の雫を反射させた。
私は水だ。人とは水だ。全ての生物は水から始まった。そして台風は海からできる。いつかそれが重なって、二人で台風になれたなら。それはどんなに幸せなことか。
「君の夢は叶えるよ」
私は静かに飛び降りた。