002. 新しい兄
「…ル、アル」
名前を呼ぶ声と共に身体を軽く揺さぶられる。
アルが目を開けると、ジークハルトの顔が見えた。
「アル、おはよう」
「おはようございます、兄上」
「朝食の用意ができたって」
「分かりました。ぼくは着替えてから行くので兄上は先に行って食べていてください」
「…分かった。じゃあ、またね」
少し寂しそうな顔をした兄を見送ると、アルは小さく溜め息をついた。
カディオ侯爵家に来て一週間が経った。
侯爵や夫人に何かと気遣ってもらい、侯爵家の一員らしい生活が始まった。
少し前までは想像もしなかったような豪華な生活を送っている。
そう、新しい兄のいる生活を。
初対面の時から見られた兄の弟溺愛ぶりは日毎に増してきている。
三日前に侯爵夫妻が領地視察へ向かってからはさらに拍車がかかった。
フェリクスは王宮からの呼び出しが多く、屋敷にいないことが殆どだ。
つまり、ここ三日間はアルとジークハルトはほぼ二人きりなのだ。
何かと構ってくる兄に対して、アルは正直辟易していた。
相変わらず「兄は天敵」というのがアルの認識である。
「ジークハルトは何を企んでいるんだ…」
しばらくベッドに寝転がって天井を見つめていると、部屋の扉が叩かれた。
「アル?」
同時に聞こえた声に、アルは慌てて身を起こした。
急いで扉を開けると、不安げな表情をしたジークハルトがいた。
「あの、すみません。着替えに手こずってしまって」
アルが咄嗟に言い訳を口にする。
流石のジークハルトも激昂するだろう。
しかし、ジークハルトは柔和な笑みを浮かべた。
「気にしないで。僕は今から授業があるから、アルは気にせずにゆっくり食べてね」
それじゃあ、と去っていくジークハルトの背中をアルは黙って見送ることしかできなかった。
一人の食事は、酷く寂しく感じられた。
最近は常にジークハルトがいて、何かしら話していたため、異様に静かに感じられるのだ。
淡々と目の前に出されているパンをちぎっては口に運び、スープを啜る。
昨日まではそれなりに美味しかった料理の味もよく分からない。
『気にしないで』
そう言って笑っていたジークハルトの表情が思い出された。
「分からない…」
ジークハルトの考えも、彼の言動にいちいち振り回されている自分も、全てが分からない。
その時、扉が開いた。
「兄上…?」
「じゃなくてお前が大好きな父上だ」
そう言ってフェリクスはアルの隣に腰掛けた。
「もっと喜んだ顔しろよ」
フェリクスに頬をつままれて口角を上げさせられる。
「ほふふふへほほひほほは?」
「は?」
「っ…王宮でのお仕事は?」
漸く開放された頬を擦りながらフェリクスに尋ねる。
「まだ残ってるぜ?けど、お前の顔見たくなってちょっと抜け出してきたんだ」
「おれは大丈夫ですから王宮に戻って仕事してください」
「んだよ冷てーなぁ。…ところで、ジークはどうした?あいつがアルを放っておくなんて珍しい」
「…兄上は授業があるようで。おれは寝坊してしまったので、こうして一人で」
「ジークなら自分が朝食を食べる時間に合わせてお前を起こすくらいしそうなのにな」
「それは、」
言葉に詰まったアルを見て、フェリクスが目を細める。
「まぁ、ガキ同士のことはガキ同士で決着をつけた方がいいから、口出しはしねー方がいいんだろうけど」
フェリクスの大きな手がアルの頭に乗せられる。
突然のことに驚いてフェリクスを見ると、悪戯をしかける子どものような笑顔を向けられた。
「俺はちょっと悪い大人だから、少しだけアドバイスするぜ。…お前の出自上難しいかもしれないが、これから人間と生きていくなら、純粋に人を信頼するっていうのもできるようにならなきゃな」
「裏切られたら?」
「傷つくだろうな。でも、それを乗り越えたら強くなる。…お前、強くなりたいんだろ?誰かを信頼するのが怖くてビビってるようじゃ、いつまで経っても強くなれ」
「フェリクス貴様ー!」
突然扉が開け放たれ、大勢の騎士がなだれ込んできた。
「おいおい勘弁してくれよ。父と子の貴重な語らいの時間を邪魔しやがって」
「勘弁してほしいのはこっちの方だ。お前がいないと王宮内の仕事が滞ると何度言えば分かるんだ!…それはそうと、君がフェリクスの養子かい?初めまして。フェリクスの同僚のマルクスだ。以後お見知りおきを」
「初めまして。アル・カディオです。いつもご迷惑をお掛けして申し訳ございません。どうぞ一刻も早く王宮に連れ帰ってください」
「そりゃないぜ、アル。なぁ、敬愛する父上ともっと語り合っていたいだろ?なぁ!」
騎士たちに連れ去られていくフェリクスに手を振って見送った後、アルは再び朝食を食べ始めた。
冷めて味が落ちているはずのスープは、ここ一週間で食べたどんなご馳走よりも美味しく感じられた。
「兄上、おれはブラコンになります」
待ちに待った昼食の時間。
アルはジークハルトより先に席についていた。
今朝とは打って変わった弟の態度に驚いている様子のジークハルトだったが、その言葉を聞いて目を瞬かせる。
「ブラコンって、よくそんな言葉知ってるね」
「この一週間で兄上からの愛は十分に感じました。だから、これからはおれも同じくらい、いやそれ以上の愛で応えていきます」
「それはとても嬉しいけど、…アル、無理してない?」
「してません」
アルが即答すると、ジークハルトは困惑した表情を見せた。
そんな兄を安心させるように、アルはできる限り優しい笑みを浮かべた。
「実はおれ、実の兄たちとすごく仲が悪くて、兄という存在に対して嫌悪感を抱いていたんです。でも、実の兄たちとジークハルト兄上は全然違うなってことに今頃気づいたんです。今まで酷い態度をとってすみませんでした。もしまだ間に合うなら、おれを兄上の弟にして頂けませんか?」
まくし立てるように、思いを正直に伝えた。
ジークハルトの顔が見られなくて俯いたまま返事を待つ。
「何を言ってるの?アルはとっくに僕の弟でしょ?」
優しいジークハルトの声に顔を上げると、少し困ったような顔をした兄がいた。
「僕こそごめんね。完全に浮かれてアルを構い倒して。その、本当に嬉しかったんだ」
「兄上。和解のハグをしましょう」
「え?」
「早く立って腕を広げてください」
突然の提案に戸惑いながらもアルに言われるがままになったジークハルトに思い切り抱きついた。
「兄上、改めてこれからよろしくお願いします」
「アル…。こちらこそよろしく」
ジークハルトの腕の中で、アルはその温かさを存分に噛みしめた。