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3-08 Boy Meets Hemorrhoids

ピリッと尻が痛む。尻に広がる切れ痔の痛み。それと共に蘇って来たのは、中学三年生の夏、焼け付くような暑さの中でアイツと交わした、紅の約束だった。

 ピリッという音で、僕は目が覚めた。

 あ、来たんだと思った。

 鮮やかな紅色の夢がドッと現実になって押し寄せる。

 僕は喜びに打ち震えた。

 やっとだ。

 お兄ちゃんと交わした、紅の約束を果たす時がようやくやって来たんだ。

 優しい鉄の錆びた臭いに包まれて、僕はズゥッとお兄ちゃんの中にいた。

 これまで何年も、トロトロと紅色の衣を纏って、お兄ちゃんの中を駆け巡っていた。

 長かった。僕自身が上手く纏まりきれなかったということもあるし、お寝坊さんだったってこともある。

 でも、今、僕ははっきりと自分を自分として捉えることができる。

 頭もあるし手足もある。トロトロと巡る紅の中で、視界を捉え、音も聞こえる。さっきのピリッて音もちゃんと聞こえたんだから。

 ねぇ、お兄ちゃん。

 あの夏のことを覚えてるかな?

 ビックリするくらい暑くってさ、ビックリするくらいドロッとしてた、あの夏の日。

 お兄ちゃんは僕を取り込んでくれたよね?

 ドロドロの僕をお兄ちゃんは口に含んでくれたよね?

 僕は知ってるよ? 寝ている時も、あの日のことを夢に見たし、今でも鮮明に思い出すことができるよ?

 ああ、ほら、入り口が見える。

 ポッカリと開いた扉。僕がお兄ちゃんと出会うために、神様が作ってくれた運命の扉。

 待っててね、お兄ちゃん。

 今から、そっちに行くからさ。

 もう少しだけ、待っててね……。


 尻にピリッとした痛みが走る。

 それはあまりに突然だったので、俺は驚いてしまい、便器の上で身体を震わせた。

 切れた。

 思わず大きな溜息を吐いてしまう。

 痛みはジンワリと尻の中に広がって行く。

「こりゃ、厳しいな」

 俺は顔をしかめた。

 頭の中でフッと中学生の時のことが蘇る。

 初めて切れ痔を患った時のことだ。

 決して気持ちのいいものじゃない、だが、一生忘れられない、鮮やかな紅の記憶だ。

 あれは、確か冬だった。正月休みの時ではなかっただろうか。

 冷え冷えとした朝の便所の中で、俺は必死に踏ん張っている。冬になると水分補給がおろそかになり、ついつい便秘気味になる。だから、後先のことも考えずに、俺は必死に踏ん張っていたのだ。尻の限界なんて考えもしなかった。若かった。どうしようもなく若かく、そしてどれだけでも踏ん張れた。

 尻には知らぬ内に異様な圧力がかかっていたのだろう。お腹の中に溜まっているそれは、さながら固い石のようだったに違いない。紙のようにやわな尻を、ゴツゴツした石が通り抜ければ何が起きるか。

 今なら自明だが、中学生だった俺にそんな知識は皆無だった。

 当然の帰結として、その時は訪れた。

 ピリッと尻に異様な痛みが走る。今までに感じたことのない痛み。そもそも、尻が痛くなるってことが俺には理解できていなかった。

 全ての動きが一瞬で止まった。まるで雷に打たれたかのようだ。

 戸惑いが先に来た。当たり前だ。未知の痛みに襲われているのだから仕方がない。

 痛みは段々と強まって行った。それでも、俺は無理に踏ん張って出すものを出した。きっと、固いものが尻の内側に引っかかり、擦れて、それで痛いんだと考えた。

 痛かったが、それを我慢した。不幸なことに我慢できてしまったのだ。

 なんだか変だなと思いつつ、紙で尻を拭く。固いものしか出ていないはずなのに、指先にネッタリとしたものが付着する感覚を覚える。

 汚いなぁ、イヤだなぁ、それにしても、下痢をした覚えはないんだがなぁなどと思いながら、紙を三回取り換えて拭いた。最初に取り換えた時に、指先になにかついているのは分かっていたが、そんなものマジマジと見る趣味はないので、目を逸らしていた。あの時によく見ていれば、直後に目にする光景に対して心の準備ができていたのだろうに。

 最後の紙を便器の中に捨てて立ち上がり、パンツとズボンを履いて後ろを振り返る。

 思わず悲鳴を上げていた。

 便器の中が真赤に染まっていたのだ。

 これが、俺と切れ痔の最初の出会いだった。

 ボーイ・ミーツ・ヘモロイド。

 まったくもって願い下げのラブコメだ。

 これ以降、俺は切れ痔に悩まされ続けた。

 切れてしまっている時は、意識して水を飲んだり、食物繊維を採ったりしようと心がける。肛門科にも言って、軟膏や便が柔らかくなる薬を処方してもらったりもした。だが、切れなくなると、その意識は簡単に緩む。

 油断してしまうのだ。

 切れないなら大丈夫だろうと考えて、水を飲む量が減る。食物繊維に関しては親が気を付けてくれているので摂取できているのだが、水分がともなわないと、やはり便は固くなる。親が医者に金を使いたくないタイプということも災いした。切れてないなら問題ないだろうということで、肛門科にも通わなくなる。

 それで、切れる。

 因果関係は明瞭だ。わざわざ頑張って腹の中の環境を変えて切れ痔とおさらばできたというのに、切れ痔が治ったと分かったらすぐにまた元の環境に戻してしまうのだ。

 そりゃあ、またぶり返す。

 ごめん、来ちゃった。

 尻が切れるたびに、そんな切れ痔の声が頭の中で創造され、鳴り響く。

 肛門科の先生からは、治ってもお腹の環境を維持しないと意味がないと切れるたびに怒られる。だが、喉元過ぎればなんとやらで、切れ痔が改善すると、同じ過ちを繰り返す。

 それは、大学に入学し、一人暮らしを始めた今でも変わらない。


 それにしても、今回の切れ痔の痛みは、想像している以上に酷かった。

 これは大分深くやってしまったのかもしれない。そう考えると、暗澹たる気分になる。

 幸い、便意はすでになくなっていたので、俺はトイレットペーパーを破る様にして取ると、ギュッと尻に押し付けた。ドロリとした感触が指に伝わる。血が染みているのだ。

 同時に、今までに感じたことのないような激痛を尻に感じた。まるで尻が割けてしまうんじゃないかと思えるほどの痛みだった。

 思わずトイレットペーパーを便器の中に取り落としてしまい、慌ててもう一度、紙を取り出す。その間も、なにかが尻からドロドロと流れている感触は続いていた。

 俺は震える手で、もう一度、尻をトイレットペーパーで押さえた。

 再び激痛が尻を襲い、トイレットペーパーを押さえている手全体がドロリとした液体に覆われるような感覚がした。悲鳴をあげて立ち上がったが、その動きのせいでさらに激烈な痛みに襲われ、前のめりに倒れてしまう。

 トイレットペーパーを押さえていた手を見ると、真赤な血に塗れていた。

 明らかに異常だった。

 後ろを振り返ると、便器や壁に紅色の血がベッタリと付着している。出しっぱなしの尻を見ると、ダラダラと血があふれ出していた。

 医者を呼ぼう。

 咄嗟に俺はそう考えた。生憎、スマホは居間で充電している。医者を呼ぶにしても、まずはそこまで到達しなければいけない。

 必死に腕を伸ばし、ドアノブに手をかけた。

 俺の尻、どうなっちまってんだよ。

 泣きそうになりながらも、なんとかドアノブを回して扉を開けることはできた。

 尻が痛くて立ち上がれず、仕方がないので、ズリズリと廊下へ這い出ようとした時だった。

「お兄ちゃん」

 幽かに声が聞こえた。

 若い女の声だった。

 俺は廊下に半分ほど身体を出していたのだが、そのまま動きが止まってしまった。

 女の声に聞き覚えがあったのだ。

「僕を覚えていてくれたんだね。嬉しいなぁ」

 女の声が再び聞こえる。

 俺は必死に聞き耳を立てる。

「僕ね、ずぅっと待ってたんだよ」

 声は下半身の方から聞こえているようだ。

「お兄ちゃんの中で静かに待ってたんだ」

 女の声が聞こえるたびに、尻の辺りに違和感を覚えた。なにかが振動しているような、そんな感覚だ。

「お兄ちゃん、あの夏のこと、覚えてる?」

 その言葉とともに、さっきまでの何倍もの痛みが俺の尻から身体全体を駆け巡る。そして、尻からズボッと何かが飛び出した。

 見れば、それは血塗れの手首だった。

 俺は、わけの分からない恐怖と痛みのせいで悲鳴をあげ、身体を痙攣させた。

 だが同時に、声の主の正体に思い至った。

「か、薫、なのか……」

「やっぱり僕のこと覚えてくれてたんだね」

 どこか恥ずかし気な声音。

 それと共に、俺は思い出していた。

 中学三年生の夏。

 焼け付くような暑さの中で体験した、悪夢のような出来事。

 青空、太陽、アスファルト、トラック、野次馬、薫、そして大量の血。

 様々な要素が再構成されて、痛みで悶え苦しむ俺の脳裏に、あの日の出来事が鮮やかな記憶となって蘇りはじめた。

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[一言]  文章は注意力をもって、集中して執筆しているのがわかるので好感が持てます。  読みやすい。  文章的に気になったのは“鮮”の使いすぎくらいかな。  短い中で同じ表現を使いすぎると、意図的に使…
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