3-22 油彩『或る女の屍』
世界に名を轟かせるグロテスクアーティスト、AOYAGI。彼の美術品は、愛好家の間で高値で取引され、彼は大きな富を築いた。一方で、彼の本名である絵垣直哉の名義で出された美術品は、あまり評価を受けることはなかった。直哉の死後、彼の邸宅は、父親と同じく画家として活動している息子の京也に引き継がれる。
その京也のもとを、資産家の娘である渋木千愛が訪ねてきた。京也にオーダーメイドの絵画を描かせる為に。
また筆先から飛び散った絵具が、床を汚した。それまで穏やかで丁寧だったのに、急に焦りがこみ上げてきて、キャンバスには歪なこぶができてしまった。集中力が切れてしまったのだ。
荒い息を二、三度ついた後、マグカップに半分ほどインスタントコーヒーをぶちまけてお湯を注ぐ。じゃりじゃりと底をスプーンで混ぜてから、乱暴に口に流し込む。喉を刺すような苦みでむせ返った。
絵垣京也は、そんな不健康極まりない一連の流れを、かれこれ八時間ほど繰り返していた。特別、何かに追われているわけではない。毎日のように繰り返されるルーティーンだ。おかげで彼の肌は、浅黒く変色していて、頭髪には頭垢が大量に浮いている。彼は、まだ三十路手前の青年なのだが、精気を感じさせない出で立ちのせいで、十歳は老けて見える。
若さに似合わない眉間の皺が、アトリエに響いたインターホンの音色のせいで、より一層深くなった。舌打ちをしてから、自分で自分に悪態をつく。「なんで、断らなかったんだ」と。
亡き父から譲り受けた屋敷はあまりにも広すぎるから、小奇麗な客間はすぐに用意できる。が、自分の身体だけはどうにもならない。とりあえず、顔の脂だけでも石鹸で洗って落とし、それから絵具で汚れた服を着替えることにした。
支度をしているうちに、インターホンの間隔が少しずつ短くなる。客人が少し苛立ち始めた。
「そうだ。そのまま苛ついて、帰ってしまえばいい」
そんな思惑が叶ったのか、無音がしばらく続いた。
京也は、浅はかな希望を抱きながら玄関のドアを開けたが、そこには鋭い目つきの女が立っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえ、いつまでも待ちますよ。またとないチャンスですから」
京也が辛うじて口にした社交辞令を、女は笑顔で跳ね返す。
女の名前は、渋木 千愛。都内に住む資産家の若い娘だ。京也のもとに何度も依頼したい案件があると、しつこくアプローチをかけ、ついに今日の来訪までこぎつけた。運転手がついていてもおかしくない身分というのに、自らの運転で数時間山道を登り、京也の邸宅までやっとこさ辿り着いた。さらに、炎天下で十数分ほど待ちぼうけを喰らわされてもピンピンとしているあたり、彼女の熱意が伺える。
そんなエネルギッシュさが、猶更、京也を萎えさせる。
「随分と広い家なんですね」
長い長い廊下を十分ほど歩いてやっと着いた客間、敷居を跨ごうというところで、ぼそり、と千愛が呟いた。
「父は、とある筋では有名な人だったんで」
「ええ。もちろん存じています」
濁した情報を与えた京也だったが、千愛はあっけらかんと返す。
父親のことを、彼女がどこまで知っているのか。考えただけでも額を冷や汗が伝った。
「それで、今日ここまで来られたご用件は……」
向かい合って座ったところで、意を決して彼女が持ち込んできた案件の詳細を尋ねた。
オーダーメイドの美術品の製作だった。
「それをどうして、この僕に?」
この客間に飾られているような、家財や庭園を描いた絵は、描いた自分で言うのもなんだが、何もない寂しい空間を埋めてくれるぐらいの価値しか持たない絵画だ。見た人を狂わせて、身の丈に合わない大金を支払わせるような代物ではない。
依頼で絵を描く仕事は、個人サイトを通して、サイズにもよるが十万円から受け付けている。千愛は、その五倍は払う。それ以上なら言い値で良いと言っていた。客間に飾っている作品を見ただけでは、わざわざそんな値段設定をしては来ない。ありふれた題材で人を魅了する才能は、父親にもなければ無論、自分にもない。分かり切っているからこそ、彼女が父親の裏の顔を知っていることは明白だった。
「絵垣京也さんは、AOYAGI名義で活動していたグロテスクアーティスト、絵垣直哉さんの息子ですね」
やはり、父親の裏の顔を知っていたか。ますます、彼女の来訪を許してしまったことを後悔した。
京也にとって、父親がAOYAGI名義で出した美術品は、理解できないものだった。だから、それを他人に評価されたところで、父親のことを誇りに思うまでもなく複雑な感情が沸き上がってしまう。
「見せていただけますか。AOYAGI先生の作品を」
客間の一角にある飾り棚。それは扉になっていて、レールに沿って動いて二人を奥の隠し部屋へと招き入れる。切断面から臓物や骨が覗く彫刻に、腐りゆく死体の絵。免疫のない人間ならば、思わず目を覆いたくなるような作品群を前に、千愛が両の眼をきらきらと輝かせる。AOYAGI名義の作品を買い取りたいと申し出る客人たちが、これまで何度も自分に見せてきた表情だが、いつ見ても腹立たしくてならない。
なぜ、あんな気色の悪い作品が、なぜ、そこまで評価を受けているのか、まるで分からない。分からないのに広すぎるこの邸宅も、AOYAGI名義の作品が無くては存在しえないもの。今でもたまにAOYAGIの名を知るライターからの取材が有り、小遣いの足しになっているということさえ、京也は不服だった。
「僕では、こんな作品は作れませんよ」
表皮を剝いだ男の顔を生なしく描いた油彩に見惚れている彼女に、潰れた声を投げかける。
そういう類のオーダーメイドをするなら、お門違いだ、と。
自分が美しいと思わないものは、どう描いていいか分からない。せいぜい、見えたままを正直に描くぐらいしかできない。だから自分には、父親のような、グロテスクアートは作れない。
「もう二度と作れない。そう、思い込んでいるだけでは?」
そう伝えたのに、彼女は背中越しに毅然とした口調で言い放った。
京也は口をあんぐりと開けてしまう。まさか、あの絵の秘密を知っているのか。いや、まさかそんなはずは。
「もう一度、描いてみませんか」
彼女は、京也に二年前に書かれた絵画雑誌の記事の一面を見せてきた。そこには、『AOYAGI秘蔵の遺作、最高価格で落札』とでかでかと書かれてある。
「何を言っているんですか。これは父が描いたものです」
「声が裏返っていますよ。やっぱり、あの絵は、あなたが描いたものだったんですね」
何も言い返せなくなってしまった。
彼女の言っていることは真実だ。京也は、過去に一度、自らの手でグロテスクアートを描いたことがある。『或る女の屍』と名付けられた作品で、四肢と首が切断された妙齢の女性の裸が描かれている。それを京也は、父親であるAOYAGIの名を借りて、秘蔵の遺作と偽って出品したのだ。
「なぜ、僕が描いたと分かったのですか」
「あなたのものとしか思えない絵具のこぶが、あったからです」
絵具のこぶ。京也がたびたび悩まされる癖だ。油彩を描いている際に、一瞬でも気の迷いや焦りがあると出来てしまう。でも、素人からすれば、目立たないもの。そう思っていたのだが、それ以上に千愛は目が肥えていたようだ。
「あの絵は、本当に素晴らしくて。落札者の元まで出向いて見させてもらったときは、何時間も見入ってはため息を繰り返しました。でも、まじまじと見つめているうちに、絵具の厚みが歪な箇所が、目に入って来ました。AOYAGI先生の作品にはない、迷いや焦り。――いや、あなたが何処かで抱いていた、『父を超えたい』という思いかも知れない」
「他意は有りません。自分の未熟さから出たミスです」
あまりにも彼女の言葉が鋭すぎて、声が震えてしまった。言い返した後も、荒い呼吸が治まらなかった。それだけ、父親に対する羨望や嫉妬を他人に見破られるのが、耐えられなかった。
彼女の依頼は、もう断ってしまおう。邸宅の固定資産税を支払うのに依頼金を充てようと思っていたが、他の依頼でも受けた方がよっぽどマシだ。
自分の作品に、父親の影を見出すような人間とは、もう関係を持ちたくない。かつての婚約者のことを思い出してしまうから。それに、彼女は容姿も似ていた。背丈や肉付きも、穏やかでいて全てを見通しているような鋭い瞳も。挙げようと思えば、いくらでも。
「ここまで来てもらって申し訳ないですが、今回の依頼は無しにさせてください」
静寂の中で、自分の過呼吸が木霊する。
視界には、うっすらと埃の積もった大理石の床だけが見えていた。
「あなたはこの依頼を断れないですよ。私はもう一つ、あなたが知られて欲しくない事実を知っています」
思わず彼女と顔を見合わせる。底の知れない笑みを浮かべていた。
京也は背筋を凍り付かせた。まさか、それまでも彼女は見抜いているというのか。
AOYAGIの名義を借りて出品された『或る女の屍』には、もう一つ、秘密がある。
「それは、『或る女』の名前。椿涼子。二年前に亡くなった、あなたの婚約者」
京也は、婚約者である涼子を自らの手で殺して、『或る女の屍』のモデルにした。





