3-01 あの夏に君がいる
またあの夏の日が来た。
健は今年も“彼女”に会うため、鬱陶しささえ覚える炎天下の中、大学三年生の夏休みに田舎の実家へ帰省していた。
地元に淀む嫌な空気から逃れるように、六年前から都内で一人暮らしを始めたのに、結局こうして戻っている自分の姿が滑稽だ。じわじわと体内温度を上げる不快な夏の暑さから、冷房が効いた列車内へ避難する自分と同じではないか?
窓に映っていた自分の顔が暗かったのか、お前はなんて不細工なんだ、と内心で呟きながら鼻で笑った。
それでも、彼は嫌な記憶で塗り潰された地元へ向かう。
帰る理由があった。帰る意味があった。
すごくどうでも良く、彼にとっては世界で一番大事なこと。
────あの夏に取り残された君へ。
彼女の眩い笑顔を忘れないように、瞼の裏から手放さないように、健は発車と同時にゆっくりと双眸を閉じた。
冷房が籠った車両から降りるのは酷な話だと思う。
三時間も自分を運んでくれた列車へ、名残惜しい視線を投げつつ降車した。
列車内と正反対な灼熱の外界。徐々に肌を燻るような熱気。温室育ちという言葉を物理的に体感している。
キャリーバッグを引きずりながら無人駅の改札口を通り、懐かしさと悲しさが入り混じる光景が広がる。
これは決して郷愁感などではない。
騒がしい蝉の大合唱も、青々と茂る森も、眼前の田んぼから漂う泥臭さも。「懐かしい」のでなく、「帰ってきてしまった」のだ。
「お帰り!」
ただ、いつも知る光景と違うところは、二時間に一本のバスを待つ必要がなく、白い軽トラに乗った幼馴染みの姿くらいだ。
彼女は運転席から元気いっぱいな様子で駆け寄る。
「遥、ただいま」
「健、一年振りだねぇ~」
「いつの間に運転免許なんて……」
「お父さんが畑仕事を手伝うために取れって! 最愛の娘を何だと思ってるんだって話だよね!?」
遥は、昔からトレードマークの眼鏡と、運転し辛そうな純白のワンピースを揺らした。背景にヒマワリ畑でもあれば映えているが、生憎ここには田んぼしかない。
彼女に誘われるまま、トラックの荷台へキャリーバッグなどを積み、エアコンが効いた助手席へ腰を下ろした。
「東京の大学はどう? 友達は増えた? ちゃんと一人暮らしできてる?」
「お前は母親かよ」
きちんと整備されていない道路のおかげで、下手すると車酔いしそうだ。
そう思い、窓を少し開けて外の空気を吸い込む。
エンジン音と蝉の声が入り混じる中から、微かに聞こえる用水路を流れる水の音。雑草と土の匂いを吸い込み、改めて車内と外界を隔離した。
「このまま実家でいいよね? 先に寄りたい所があるなら寄るけど……スーパーとか?」
「あそこは必要最低限の物しかないからなぁ」
村唯一の小型スーパー“なついろ”。本来なら隣街まで赴く必要のある漫画やゲームなど、娯楽品を少しだけ取り揃えているため、村の子どもたちの溜まり場になりやすい。
確か……自分も友人たちと通っていたっけ。
十年前の記憶に想いを馳せ、ぐちゃぐちゃになった感情が顔を歪にさせる。あばら骨の下がむず痒く、耐えがたい痛みに襲われる感覚を帯び、咄嗟に肉ごと胸部を掴んだ。
遥に内心を悟られたのか、彼女は呆れたように息を吐き、実家とは反対の道へ曲がった。
何をしているのか質問しかけたが、見覚えのある風景を認識すると無言にならざるを得ない。
「健のことだから、どうせ悠稀のことでも考えてたんでしょ? ほーんと、昔から大好きなんだから」
「うっ……べ、別にそんなのじゃなくてだなぁ!? 一年振りなんだから、ちゃんと報告しなきゃだろ?」
「…無理してまで拘らなくていいのに」
遥は不満そうに頬を膨らませるが、軽トラを止める様子はない。昔から素直じゃない。
数分して目的地へ到着するなり、手荷物のショルダーリュックからお土産が入ったビニール袋を取り出す。
そして『藤原家之墓』と彫られた墓石の前に缶ジュースや和菓子を置くと、改めて『藤原 悠稀』と彫られた名前の前へ屈み直した。
「ただいま、ユキ────」
ちょうど十年前のこんな暑い夏の日。夏祭りの日。
遥やユキ含む幼馴染みたちと遊んでいたが、祭りの途中でユキとはぐれてしまった。
出店の裏にいないか。花火が待てず打ち上げ筒のところまで行ってしまったのか。森に逸れて迷子になってしまったのか。
小柄だった彼女が得意なかくれんぼを唐突に始めたのか。
でも、かくれんぼなんて誰もしていなかった。
遥と一緒に捜索する中、発見してしまったのだ。
打ち上げ花火の光で照らされる、ユキの遺体を。
蒼白な顔色で双眸を閉じる彼女は、きっと寝たふりをしていて。川のせせらぎで揺蕩う長い髪の先端は、きっと楽しげに水遊びをする象徴みたいで。前日にプレゼントした水色のサンダルはなく、きっと鈍臭い彼女だから流されてしまって──────
森を流れる川で寝そべり、枕にしている石からべっとりと鮮血を零しながら、藤原 悠稀は、ユキは────死んでいた。
「ああああああああぁぁぁぁ……」
はぐれないよう手を繋いでいれば。
恥じずに向き合っていれば。
君を失わずに済んだのに。君に好きだと伝えられたのに。
君をこの夏へ置き去りにしなかったのに。
警察は事故死と片付けたが、自分が殺したも同然だ。
そして、この土地にいるとユキを思い出す罪悪感から都内の大学へ逃げ、恋心と罪の意識がぐちゃぐちゃに混ざり合っった感情をぶら下げ、思い出したように君が囚われた夏へ罪滅ぼしのため帰省する。
あの日以来、いつも遊んでいた幼馴染みたちと距離ができてしまい、定期的に連絡を取るのは遥だけだ。
「────こんなところかな」
一年分の報告が終わると、ゆっくり立ち上がる。
少し後ろで一部始終を見届けていた遥は、どこまでも群青色が澄み渡った快晴の────さらに遠くを見つめながら質問する。
気が付いたら随分と服が汗を吸っていた。
「健はさ、やっぱり今でも悠稀のことが好きなの?」
「い、いきなりなんだよ」
「いつまでも未練がましいより、未来を向いた方が悠稀も喜ぶんじゃないの……? きっと今の健を見たら『健は泣き虫だなぁ』って怒ると思うよ……?」
確かにユキならそう言うかもなぁ。
なんて素直に返せなくて適当に笑ってみる。その言葉を認めると、ユキの死から目を逸らしてしまう気がした。楽な道へ選ぶような気がした。何よりも、彼女が生きている幻想が脳裏に染みついてしまう気がした。
だからこそ、遥への返答はこれで間違いない。
「俺はユキが好きだった。好きだ。今も昔も」
「……そっか、私も悠稀が好きだったよ」
遥は悲しそうだった。けれども、墓石へ羨望の眼差しを向けている様な気がした。彼女の「好き」という発言の対象は、ユキではないみたいで。
お互いが沈黙し、相変わらず鳴り止まない蝉の声と、直射日光のじりじりとした環境音が漂う。
近くの小川でカエルが鳴いた。
「そうだ、久し振りに秘密基地に行かないか?」
「まだ残ってるかな」
墓地を後にして、再び軽トラックに乗り込み、住宅区を抜けた少し先の森に面した広場。
当時遊んだ面々と記憶が蘇り、球体の回転する遊具を指差す。
「あの遊具まだあるのか」
「それがどうかしたの? 私もたまに弟たちと遊んでるよ!」
「こっちだと大体撤去されたよ、安全面の重視とかで」
「えぇ! 誰が最後まで掴まってられるか決定戦できないの!?」
そんな雑談をしながら、広場の柵がない場所から森の中へ足を踏み入れる。
一見ただ木々が生い茂っているように見えるが、よく目を凝らすと所々に簡易的な道だった形跡があり、それを辿っていくと────薄汚れた小屋がぽつんと視界に映った。
ホッと安堵のようなものが零れた。
取り壊されてない安心感より、ユキとの思い出の場所が残っている感覚が近かった。
当時と比べて老朽化している箇所は見受けられるが、ほとんど変わっていない外装。入り口の柱には、油性ペンで書かれた六人の名前。秘密基地をより快適にしようと、頑張って運んだ粗大ゴミのソファーも顕在であった。
流石に室内は埃っぽく、少し咳き込む。
歩き疲れた遥は、懐かしさも相まってソファーへ座る……寸前、ワンピースが汚れることを考慮して踏みとどまった。
「十年振りに来たけど、案外残ってるもんだねぇ」
「俺みたいに都内へ行った連中ならまだしも、お前は来なかったのか?」
「流石にあんなことがあったら……ね? 悠稀の死体を思い出しちゃう」
「……すまん」
気まずい空気が流れる。
彼女にとって、秘密基地は楽しい思い出でなく、悲しい記憶へ塗り替わっているのだ。
留まらせるのも酷だと思い、少し探索したら戻るとだけ伝え、先に遥を軽トラまで帰す。
そういえば、秘密基地とはいえ自分専用の場所が欲しいとユキが訴えたんだっけ。
ユキはタンスを持ち場にして、色んな物を詰め込んでいた。
十年越しの今なら勝手に覗いても怒られはしないだろう。
「うわぁ……」
孵化したが逃げ場がなく死んだカマキリの集合体。給食を持ち帰ったカビだらけのパン。クシャクシャになった点数の悪いテスト。
彼女らしいな、と思いながら最後の引き出しを確認した。
────え?
不意に声が漏れる。
なんでこんなものが?
それは新聞紙で包まれていたサンダル。どこにでも売っているような普遍的なサンダル。
でも、だってそれは……ユキが死んだ当日に履いて、川に流されたはずで……。
激しくなる動悸を抑えながら、ゆっくりと全容を確認して“それ”に気付く。
草木で足を切ったとはいえ、この量はおかしい────この血痕の量はおかしい。
「そんなはず……」
こんなこと思っていいはずない。自分はどうかしてるのかもしれない。
疑うわけではない……が、濃い可能性として浮上しているのだ。
ユキは事故死じゃなく他殺だったなんて。
そして、証拠を幼馴染みたちしか知らない場所へ隠蔽してる者がいるなんて。
あの夏に君が殺されたなんて。