3-18 猫⭐︎ファイブ・ギア・ファイブ!〜地域猫活動と猫嫌いな俺〜
猫=ゴキブリだと思っている島取仁は、大学近くの公園で猫に餌やりをする美少女を目撃する。熱中症で倒れた彼女を見て見ぬフリできず救急車を呼ぶが、連絡先を渡してしまったことをきっかけに、地域猫活動に関わることになってしまう。
地域猫活動とはなにか?
野良猫の問題点とは?
TNR活動とは? さくら耳とは?
正しい動物愛護とは?
これはあまり知られていない、地域猫の現実を切り写した物語だ。
猫はゴキブリである。名前はいらない。どこに何匹いるか検討もつかず、あちこちでニャーニャーと二ヶ月ごとに発情している。
理論上、一匹の雌は三年間で二千匹の子猫を産むという。交尾排卵動物ゆえに、生でヤレばほぼ確実に妊娠する仕組みだ。
なあ、こんな生物がかわいいと思うか?
今日は朝から最悪の気分だ。俺の暮らすアパートのベランダ前に朽ち果てた黒猫がいて、小蝿の羽音、垂れ流された糞尿の悪臭に吐きながら、すぐに業者を呼んだ。死骸は連れていってもらったが、地面の掃除は自分でした。
しかも「ベランダまできちんと管理してくれよ」と、大家に朝から騒々しいと言われる始末。一番迷惑を被ったのは俺だが?
イライラしながら大学に向かった。キャンパスが徒歩圏内にあるとはいえ、その距離は五分以上。ガードレールとブロック塀の直線に沿ってがつがつ歩く。アスファルトが照り返す灼熱と、ジリジリした蝉のダミ声、背中をなぞってシャツに染み込む己の汗。空も無駄に青い。不快だ。
ああ、世の中の何もかもが不快だな!
オレンジ色のハゲた鉄パイプの柵が見えてくる。その内側にある木陰が路上にも落ちていて、少し暑さが和らいだ。植物がやたらと多いだけで、あとは滑り台と鉄棒とベンチしかない、小さな公園だ。
涼みかけた矢先、不快感はまた別のものにすり替わった。公園には、白いスカートがやたらと目立つ、線の細い女がいた。
「またいるのか」
遠目で睨む。女がごはんだよと言うと、尻尾をぴんと立てた猫が五匹現れ、ニャーニャーと媚び始める。
女の手には三個の四角いタッパー。女は容器を二つ開けて地面に置き、一つの小さいタッパーは少し離れたところに置いて、白黒のハチワレの猫に食べさせていた。
女は静かに笑っている。白い指で、エサを貪るハチワレ猫をそっと撫でた。
……ああいう非常識な人が俺の生活圏内にいると思いたくない。怒りを破裂させないうちに、早足で過ぎようとした。
──どさり
視界の端に映った現実に、はたと立ち止まる。
猫たちがわっと一斉に女から離れた。ハチワレは食いついていたエサから顔を上げ、公園の土に顔をつけて苦しそうにする女をじっと見下ろしている。
「……」
俺はポケットからスマホを取り出した。
**
搬送車への同乗は拒否した。が、救急隊員に「女性の意識が朦朧としているので、病院で状況の説明だけでもお願いします」と強く言われ、折半案として俺の連絡先を教えた。
それが運のツキか。授業の終わりに非通知の電話が掛かってきて、しぶしぶ電話に出る。
「もしもし?」
『……あの』
か細い声だった。
『あなたが、救急車を呼んでくれた方ですか……?』
例の愛誤女だとすぐにわかった。個人情報を患者に教えるなよ、と救急隊員の職務怠慢に腹立ちつつ、
「そうだけど礼はいらない、社会常識をこなしたまでだ。じゃっ」
『ま、待ってくださ──!』
プチっと切った。再度コールされるが、無視。
購買で百円の焼そばパンを買って頬張っている時にちらりとスマホを見ると、四回呼び出した痕跡と、留守番電話が入っていた。
どんな悪どい発言があるのかと、消す前にわずかな好奇心が湧いて、再生する。
『……あの、島取仁さんですよね……?』
「え」
なんで俺のフルネームを知っている? 救急隊員に名前まで教えていない。
『お願いが、あるんです……公園に置いた、餌入れ、回収してもらえませんか……』
お礼どころか、証拠隠滅のお願い? せせら笑った矢先に、女の声はぽつりと悲しいものに変わった。
『……ちゃんと、見ないと……みんな死んじゃう……』
メッセージは終わった。
午後の授業は動物学。全く頭に入らなかった。
なぜ女が俺の名前を知っていたのか。なぜ「死んじゃう」のか。
学生の本分を終えて、ふらりと公園に寄ってみる。関わりたくないのは山々だが、相手に素性がバレている分、後々面倒になるかもしれない。見るだけ見たという既成事実は大事だろう。
公園に置かれたタッパーはひっくり返っていた。近づいて蹴飛ばすが、中身は空だ。
ほらやっぱりな。なにが死んじゃうだ、元気に食ってるじゃないか。
「ニャー?」
ふと脇を見下ろす。あのハチワレがちょこんと座っていた。
「寄るな! しっしっ!!」
手で払おうとしても、ハチワレは微動だにせず、緑の双眸で俺を見上げている。よく見ると、ハチワレの右耳にはV字の切り込みが入っていた。
「ミャー」
「ナー」
「ひいっ!?」
いつのまにか他の猫にも取り囲まれている。俺はタッパーを茂みの中にがんと蹴り入れ、公園の外に脱出した。サビ色の細い猫は公道までひょこひょこ出てきた。
「追ってくるなっ!!」
……さすがに公園から離れればついてこないらしい。息を整えながら駅の北口に向かう。電車には乗らないが、駅を抜けた南口にアパートがあるのだ。ロータリーを横切る時に、ふと交番が目に入った。
そうだ、元凶はあの女だ。まずはきちんと通報するべきだと思い立ち、ガラス戸を押す。冷房の効いた部屋で眠そうにしていた中年の警察官に声をかけた。
かくかくしかじか。身振りも交えて女の悪行を訴える。
「──なので、猫の餌やりをやめさせてほしいです」
警察官の顔はみるみる曇っていった。
「つまり実害はないということですね」
「は?」
「猫の餌やり自体は法律で禁止されていません。目撃しただけなら、当人同士で話し合ってもらうしか……」
警察官は気まずそうに俺から目を逸らした。通報したのは俺だけじゃないのかもしれない。
世の中も末だと足踏みした。
**
家に着いた。サックを放ってごろんと畳に寝転がりスマホを開くと、例の女からショートメールが届いていた。
"みんな無事でしたか?"
無視してアプリゲームを立ち上げると、またメールが入る。
"餌入れは回収できましたか?"
「なんなんだよこいつは!!」
どうして猫の世話を押しつけてくるんだ。一度怒鳴りつけてやらなきゃわからないのかと、発信ボタンを押す。
『……はい』
「誰だか知らないがいい加減にしろよ!! 俺は薄汚い猫どもの世話はしない! あんたを助けたのはたまたまだ、それにこぎつけて変な要求までしてくるなっ!!」
『……』
「そもそもなんで俺の名前を知っている? M大の学生か?」
『……そういえば、ごめんなさい……私は野生動物研究室の院生一年で、花灯愛成と申します』
先輩!? 思わず飛び起きて座る。何度も乱暴なタメ口を吐いてしまったが、今更直すのも……今更だ。
そして、俺の名前を知っている理由も推測がついた。動物学は授業毎に短文のレポートを出す。その採点は野生動物研究室のメンバーがやっていると聞いたことがある。
でも顔を合わせたことなんかあったか? 一回風邪で授業を欠席した時、野生動物研究室に行ったことはある。対応してくれた人には二年の島取ですと身の上を名乗った。こいつと雰囲気の似た女だった気がする。
でもその程度だ。その程度で、院生がいち生徒のことを覚えているものだろうか?
「とにかく、もう電話するな」
『あ、待って……! 猫たちがご飯を食べたか、餌入れを回収したか教えてください!』
「しつこいな! タッパーは空だった! 触りたくないから蹴飛ばした!」
『……そうですか』
女はどこか安堵した声に戻った。
「偽善者が」
警察官の言葉を思い出しつつ、抗議を吐き捨てる。
『言いたいことはわかります。無責任に餌をあげるのは問題です、けれど……』
「けれどなんだ? 自分の行為は無責任じゃないってはっきり言えるのか?」
『……生ごみを漁ったり、あちこちで糞をしたりしないように……猫たちが、人の生活を荒らさず生きることができるなら……責任がある、と言えませんか?』
「……」
『猫たちも、特にハチは……ハチワレの猫ですけど……あの子は病気を持っています。一緒のお皿からご飯を食べたら、他の子にうつしてしまうから……ひとりで食べるように、誰かが見守らないと』
「ワケがあったとしても、俺は関わらない。関わりたくない。関わるな」
電話を切った。があがあしたカラスの咆哮、ガタガタと電車の走る音。耳がいつもの世界を認識して、自分の今いる場所を思い出す。足元に落ちているレジ袋をぐしゃりと握った。
外はまだ灼熱の重みが残っている。軒並みの建造物は夕焼けの色を写して、仕事帰りらしいスーツを着た人たちが、駅から吐き出される。
公園周りは誰もいなかった。猫も見当たらない。ビニールを手袋のようにして、茂みに入ったタッパーを掴む。他の二つも回収。蓋も落ちていた。
これで二度と文句は言わせない。今すぐ研究室に向かって、花灯という院生の手に戻るようにする。袋の口を強く縛って体から離すように吊るすと、誰かが公園に入る気配を察し、思わず草影にしゃがみ込んだ。
……なんだ、ただの子供か。短パンにTシャツ、ツバのある帽子、漆黒を着た少年。そいつは周りをキョロキョロと見渡すと、俺の位置とは対角線上にあるツツジの藪に向かい、なにかを持ち上げた。
「シャァ──!!」
長四角い金属の格子に覆われ、檻を殴るサビ猫がいた。耳を平たくし、および腰で威嚇している。
少年は静かな笑みを浮かべた。猫を閉じ込めた籠を重そうに手提げて、ざくざくと公園の外に歩き出す。
「フシャ──! シャァア──ッ!!」
「そんなに怒るなよ。いい子にしていればすぐ帰れるからさ」
薄闇に落ちる住宅街。からからと笑う少年は、その向こうに猫を連れ去ろうとしていた。