3-11 レディ・プリンスは偽りだらけ
「男に戻るな、だって!?」
十八歳の麗しき王女、エカチェリーナの本来の性別は≪男≫だ。
妾の子ゆえに魔法で女にされた彼女が男に戻れるのは、ひと月に五日だけ。しかしそれも異母弟が立太子の儀を終えて、もうすぐ解けるはずだったのに。
父王はあろうことかエカチェリーナに「女として嫁げ」と言い放った。
その上相手は、エカチェリーナが男である≪イワン≫に戻っているあいだ、幾度となく衝突した隣国の皇子である。けれどなんとその彼から、エカチェリーナは正式に求婚されていると言うのだ。
男との婚姻なんて冗談ではないエカチェリーナだったが、しかしその皇子にはずっと再開を夢見ていた『初恋の女の子』の面影があることに気づき──。
「ねえ教えて、お前はおれに花園で出逢った?」
「君が望むなら、私は君の『初恋の女の子』に戻る」
男としての矜持と育てた初恋がせめぎ合う、偽りを紐解く答え合わせを、今。
「──君なのか!?」
「ひっ!?」
前触れなく手首をきつく掴み上げてきた腕の力に、エカチェリーナは思わず悲鳴を上げていた。男の握力は容赦なく、少女の華奢な手首に青く痣を残すに違いない。
「無礼者!」
暴漢を振り払いながらエカチェリーナはほっそりとした顎を持ち上げて、そいつを睨みつけた。
(──でかい)
想定よりも高い上背に、彼女は息を呑んだ。エカチェリーナは女性にしては背が高い方だったが、相対する男は一層の上背があった。見上げてもなお目の前には黒衣に包まれた分厚い胸板が聳え、一歩二歩と後退ってようやくその顔の位置を把握できたほどだ。
そして後退した彼女を追い詰めるように男は迫ってきて、エカチェリーナが振り払ったばかりの手を逃さないと言わんばかりに両手で握りしめる。
ぐっと背を丸め、彼はエカチェリーナの鮮やかな金の瞳を覗き込んできた。
「……君だな、イワン」
二人にしか聞こえないほど近くで、男は囁く。ここで耳にするはずもない名に、びくんとエカチェリーナは肩を震わせた。けれどそれは決して男が彼女の正体を言い当てたからではない。紳士淑女にはあるまじき、吐息が混じるほど近くにまで顔を寄せられたからだ。
そう信じてくれ、とエカチェリーナは混乱する思考の片隅で思った。
まさにくちびるが触れあう距離だったが、それが実際エカチェリーナに触れる無礼を犯すことはなかった。
男はその顔を覆い隠す、真っ黒な面布を眼前に垂らしていたからだ。
それでもエカチェリーナは自身の手を戒める男が何者か、嫌と言うほど知っていた。
その聞くものの胸を震わせるような低い声の響きも、無骨ながらどこか優美な手の形も、本当は親族以外に晒されることのない面布の下の美貌すら。
(──ベネディクト!)
彼は海を隔てた隣国の皇子だ。彼はエカチェリーナの異母弟の、明日に控えた立太子の儀に招かれた客人だった。
今日はその前夜の宴で、エカチェリーナは王家の一員として年若い令嬢たちとのお喋りに興じていた。
もちろんベネディクトへの挨拶の準備はあった。しかしいったい誰が広間に現れたとたん、彼が父王が紹介する間もなく王女の腕を掴むなどという暴挙に出るなどと考えただろう。
しかも今日のエカチェリーナは祝いの場にふさわしく、いつもらしからぬ少女らしい華やかな装いをしていた。
普段は剣を持ち馬を駆り、異装をすることもあるエカチェリーナはそのキリリとした容貌も相まって姫騎士ともレディ・プリンスとも呼ばれて令嬢たちから大層慕われている。
けれど今日はその勇ましさを鮮やかなレモンイエローのドレスで覆い隠し、淑やかに振る舞う姿はどこからどう見ても深窓の姫君そのものだったはずだ。
それをどうしてこのわずかな時間のあいだに、ベネディクトはエカチェリーナを男性である≪イワン≫だと思い込んだのか。
射るような眼差しを受け、面布越しにもかかわらずエカチェリーナは視線を逸らすことができなかった。絹の奥に隠れた瞳の深藍が、獰猛に輝いているのさえありありと想像ができてしまう。浅く喉を喘がせるが、そのすべては音にならない。
「まさか君が……、女の子だったなんて」
どこか甘さを含んだ呟きに、その瞬間エカチェリーナは強かに頬を張られた気になって目を見張った。
気づけば男は彼女の手を握ったまま、床に跪こうとしている。
男が容易に膝をつくべきではないことくらい、幼子の頃から徹底的に教育されていることだ。その数少ない機会──それも女性の前で──が何を意味するなんて、あまりに明らかなことだった。
エカチェリーナは瞬時に青ざめ、自分の置かれている状況が最悪であることを察した。
広間の隅とはいえど、少なくはない人数の令嬢に囲まれていた自分。大扉から父王とともに現れ、そして真っ直ぐに自分の元にやってきたベネディクト。
異様な面布もずるりと長い異国の衣装も、彼がどこの誰であるかを如実に示している。
広間はしんと静まり返り、その場にいるすべての視線はふたりのもの、男の次の言葉を固唾を飲んで見守っている。
本当になにひとつ音がしないのは、楽団さえも音楽を奏でる手を止めているからだ。
王女が許してもいない男に手を握られていると言うのに、近衛たちは助けてもくれない。それはベネディクトもまた他国とはいえ王族だからだろうか。
手を抜こうとしてみてもびくともしないどころか、その手は面布の奥の唇へと誘われようとしているらしかった。
「イワン、……いや、エカチェリーナ……私は……」
(──じょうっだんじゃない!)
エカチェリーナは混乱と憤りに感情を支配されたまま、なんとか打開策を編み出そうとした。
こいつが離れないのなら、連れて逃げる。そうすれば、少なくとも好奇の目からは逃れることができるだろう。
ぐいと腕を引くと、絡めたままの視線から意図を察したのか、素直に男はエカチェリーナについて走り出した。片手はすぐさま解放されたものの、右手はしっかりと指を絡みなおされたまま離れてはいかない。けれどそんなことに構う暇はなく、エカチェリーナはバルコニーへと走り出て、階段を駆け下り、迷宮のような前庭へと男と逃げた。色とりどりに咲き誇る初夏の花々の中を駆け抜け、誰からも見つかることのない、満月だけが煌々と照らす隠れた場所へと辿りつく。
そこでようやくエカチェリーナは足を止め、傍にあったベンチにぐったりと倒れこんだ。
男が隣へ腰を下ろす。重みを受けてベンチがぎしりと軋む。
はあはあと荒い息を整えるエカチェリーナの剥き出しの背に、大きな手が添えられた。濡れた肌に吸いつくような感触に、ぞくりと悪寒が染み入る。
「……さわらないで」
「……イワン」
心配げな口調にも、またそこに一切の呼吸の乱れがないことにも、エカチェリーナは猛烈に腹が立った。
「ふざけるな! 一体どこの殿方と勘違いを!?」
あてがわれた掌を振り払い、彼女は上手く力の入らない足を踏ん張って立ち上がる。ベンチに座ったままの男を忌々しく睨みつけるも、男はなおも食い下がってきた。
「君……君はイワンだ。そうだろう?」
あまりの出来事にエカチェリーナの目の前が真っ赤に染まる。
「あなたはその布のせいで目まで見えないの!? だったらさっさとそれを取ったらいい!」
「それはできない。これは伴侶を得たのちに初めて外せるものだ」
(そんなことは知ってんだよ!)
そんなことはとうにベネディクト本人から聞かされたことであるし、彼の国の風習としても有名なことだ。
そもそもエカチェリーナは彼を嘲ろうとしただけであって、実際に面布を取ってほしいなどとは思っていない。だのに生真面目に反駁されるとますます頭に血が昇って眩暈さえしてくる。
(貞淑な生娘みたいなことを言いやがって、童貞はとっくに捨ててやがるくせに!)
「ではそのままでお分かりに? 性別すらあやふやにして、わたくしを女らしくないと侮辱したように思えたけれど!」
「違う! 君は魅力的だ。だが何か……イワンのときは何か、特別な方法で男に……例えば魔法で……」
「っお、──わたくしの名前はエカチェリーナ! イワンは!」
エカチェリーナは怒りで頭も胸も沸騰しそうなくらい苦しかった。口調が乱れたのにも気づかずに、彼女は言い捨てる。
「──っイワンは従兄妹だ!」
男はハッと息を飲み、金の美しい髪を振り乱して怒れる少女を見つめた。彼の纏う雰囲気が明らかに傷ついたことに彼女は気づいたが、構わなかった。
その何倍も、彼女の方が傷ついているのだから。
誤魔化されろ誤魔化されろ誤魔化されろ。
それこそが魔法の呪文のようにエカチェリーナは心中で唱えた。従兄妹というのは万一エカチェリーナとイワンの正体について誰かが勘づいたときのための方便だったが、用意しておくものである。
そう、確かにエカチェリーナは魔法で性別を誤魔化している。けれど逆だ。エカチェリーナの本来の性別は男であり──女でいるときの方が、偽りなのだ。
本来の性別に戻れるのは月にたったの五日しかない。
イワンでいられるそのあいだに、彼女はとある離島でベネディクトと出会った。
それからも何度となくイワンとして顔を突き合わせるうちに、初めは性格のせいか隣国ゆえの敵愾心のせいか──そりが合わなかったものの、今ではわずかばかり友誼めいたものさえ抱き、好敵手として認めていたのに。
それをまさか、未遂とはいえ結婚を申し込まれようとするとは思わなかった。
今まで見てきた男のイワンよりも、女であることを喜ぶだなんて、手酷い裏切りに違いない。
その上この魔法は明日、正妃の息子である義弟の立太子の儀以降、時期を見て解かれる予定だったのだ。
狂おしいほど長く、エカチェリーナは男に戻りたいと願い続けてきた。
すでに彼女は男として、添い遂げたい女の子と出逢っていたからだ。
しかし先ほどのような求婚めいた場面を見せられた父王が、またとんでもないことを考えないとも限らない。密かに宮廷の魔法使いに命じて、生まれたばかりのエカチェリーナを魔法で女に変えたときのように。
妾の子であったエカチェリーナは不幸なことに長子であり、この国では母の身分にかかわらず第一子の男児が継承権を持つ。ただし制度上はどうあれ、実際に妾の子が嫡男として喜ばれるはずもない。殺されることもあり得たのだから、女にされたのはまだ温情だったのだ。けれどそれがこの先も続くかもしれぬとなれば、また話は違う。
(あともう少しで戻れるってのに!)
それをぶち壊しかねないベネディクトを睨みつけ、エカチェリーナはきつく奥歯を噛み締めた。





