アスラーン・ミハイ・セルジューク後編
それからの俺の涙ぐましい努力はどうだろう。
あんなに逃げたがっていた国元に頼み込んで(親父が諸手を上げて喜んでいたらしい。2年間音沙汰無しの王太子が嫁候補を見つけた、しかもそれが大国シャティエルの王女ならば当然だろう)シャティエル国に正式に使者を立て、アンネローゼ姫に求婚した。学園では近寄ろうにも灰色熊と黒ヒョウが見張っていて近づく事も出来なかった。時折感じる彼女からの視線に、どことなく俺に対する好意を感じなければ挫けていたかもしれない。焦れながら機会を伺っていた俺を驚かせたのは、またしてもアンネローゼ本人だった。
彼女自ら俺に接触し、夜の学園大聖堂に呼び出されたのだ。指定してきた時間は満月が中天に登った頃だという。そんな真夜中に王女が一人でやってきた。
呆れた。
この王女は俺をその大きな瞳で見詰めてくる。薄いアイスブルーの瞳に邪心や邪気は一切ない。感じるのは好奇心。まさしく生まれたばかりの赤子のような無垢さ。
邪心を抱える者は、話す言葉から悪臭まで漂う。
ところがこの王女はどうだ。
清浄な空気からは心地良さしか感じない。
なるほど、と納得した。あの灰色熊が護ろうとしている女生徒は、側にいると心地良いのだ。彼女の側にいれば心が洗われる。誰も彼も影響を受けて善人になってしまう。
アンネローゼはその美しく無垢な瞳をまっすぐ俺に向けて問う。
「何故、わたくしに求婚したの?」
雲がかかったのか、急に聖堂内が暗くなった。
答えは簡単だった。綺麗な女が居た。それが欲しくなった。これに尽きる。
だがアンネローゼは
「綺麗に笑う女性なんて、この世には星の数程居るわよ?」
と言って笑う気配がした。自分がどれほど稀有な存在なのか無自覚らしい。
「そうか? ……少なくとも俺が見てきた中で、女は取り繕った笑いしかしない。成長すればするほど、内心とかけ離れた表情しかしない。……もっとも、それは女に限った話じゃないな。人間全般、そんなものだ」
母に毒を盛ったのは、腐った匂いのした侍女だった。笑顔で毒入りの酒を運んでいた。
父に刃を向けようとしていた武官は、父の昔からの友人だったと聞いた。俺に接する時は恭しい態度を取っていた。
俺を王女の息子としか認識していなかった宰相は、俺に『初代様のご加護』を認めると途端に笑顔で近づいて来た。鼻が曲がる程悪臭がした彼は、自分の娘を俺に娶らせようとした。8歳の俺に23歳の出戻りの娘を!
母国での出来事ですっかり人間不信になっていた俺を、アンネローゼは物怖じしない言葉で救った。
「心の中で舌を出して悪意を持っていたとしても、表面上笑顔で接するのは、大人の対応と言うのではなくて? 言動が全て内面と一致するなんて、子どもの証よ」
そんな当たり前の事を言って、俺の目を覚まさせた。
雲が晴れ、明るくなった聖堂内にはキラキラした金剛石の中に美しい少女がいた。
不意に俺は理解した。
物語の中にしか存在しないと思っていた清らかな王女が、当たり前にある人の世の理を説いた。人は醜い思いを抱えているのが当然だと、清浄な空気を纏いながら言った。
俺が嫌っていた母国の人間は、みな普通の人間だっただけだ。生きている人間なのだから、苦しみを抱えても笑う。悲しみを感じても平気なフリをする。憎しみを持てばそれを隠そうとする。それは全部、当たり前の事。良い悪いでは無い。人間とは、そういう存在なのだと。
俺は勝手に他人の心の中を覗き見て、それに矛盾する行動をとる事に不満を感じていた。まさしく『子どもの証』だ。アンネローゼの言った通りだ。
この金剛石の王女は、触れるのだろうか?
急に疑問を持った俺は、彼女に手を伸ばした。もしかしたら、俺の手などその固く透明な石に弾かれて触れないのかもしれない。
恐る恐る伸ばした指先が、彼女の頬に触れた。触れた事にホッとした。ちゃんと生きている、実在する人間なのだと安堵した。俺の目に映る金剛石の中に、俺の手が入る。伸ばした指先にアンネローゼの温かい頬。彼女が不意に目を閉じた。俺の前に無防備に晒される柔らかそうな唇……。まるで口づけをせがんでいるようだ……そう思った途端、欲望が滾った。
これは俺の女だ。これを手に入れたい。抱き締めて俺を刻みつけて俺だけのものにする。
ぱちりと音がするように大きな瞳が開いた。欲望塗れの俺を、その澄んだ瞳が見詰める。俺の手は頬から滑り、耳元を辿り、首筋に触れた。
この子は、アンネローゼは、俺の欲望に気付かずその無垢な瞳を向けるだけ……。
駄目だ!
「無防備が過ぎるっ!」
そう言って立ち上がれば、アンネローゼは驚いたような顔で俺を見上げる。
きょとんとするその様は愛らしいが、こんな何も知らない、何も解っていない幼女のような女に手を出しては駄目だっ!!
俺はこの王女が、アンネローゼが欲しい。初めてちゃんと女が欲しいと思った。幼女のように無垢なくせに、ちゃんと人の世の醜い部分を承知している。
高い知性を見せる割に、男の機微など頓着しない、この酷くアンバランスな少女が。
この少女がしたり顔で言う。女は子どもを持つと変わる、と。どんなに頭が空っぽに見えても侮るなと。
まさに、俺の母がそうだった。俺が幼い頃見た母の本質は大輪の薔薇の花だった。手間暇掛けなければ咲かない花。
だが、俺が大きくなると花弁よりも棘部分が顕著になった。彼女は戦う決意をしたのだ。俺の為に。そんな事情を一切知らないはずの少女に忠告された……。
もう俺は打ちのめされた。心を鷲掴みにされた。この痛みはこの少女を自分の物にしなければ癒される事はない。そう思った。
「俺のものになってくれ」と再度乞えば、「貴方はわたくしのものになるの?」と応えがあった。
こんな返事が来るとは思ってもいなかった。人の心が読めるはずの俺の能力など、アンネローゼを前にしたら役立たずだ。透明過ぎて読めない。空気に色がないのと同じ理屈だろう。俺には読めない。けど、無くなったら生きていけない。
俺はアンネローゼに全面降伏した。
そして同時に思った。彼女から是と言わせるにはどうしたらいいのか。
俺ばかりが彼女を求めていて、彼女は俺を同じ熱量で見詰めてはくれない。テュルク流が嫌だというのならシャティエル風にしよう。立ちはだかる灰色熊や黒ヒョウは討伐したいが、それをしたら彼女が悲しむだろう。
彼女の国王陛下に面会を求めても梨の礫。
王太子殿下(こいつの本質は途轍もなく大きな猛禽類だった)とは会えたが真珠のお礼を述べただけで追い返された。
外務大臣であるベッケンバウワー公爵は恐ろしい男だった。
彼は見た事もない兵器だった。大概の人間は木々や花や動物など生物の姿が視えるのだが、公爵閣下はこの世の生き物ではなかった。あれは恐ろしい。幾つも車輪が連なり、それらがベルトで並べられ、その上に鋼鉄の箱があり長い砲筒が付けられていた。悪魔の火薬がそこから噴き出す幻影まで視えた俺は、公爵閣下には絶対逆らわないと決めた。
その公爵閣下の愛娘がシャティエルの王太子妃殿下で、彼女に会う事を閣下に勧められた。俺は否応なしに従った。
シャティエルの王太子妃殿下は、ハニーブロンドの髪と翡翠の瞳を持つ美しい女性で、アンネローゼと同じく最初は何も視えなかった。が、それは錯覚だった。
極めて透明度の高い水晶が視えた。ただ規模がとんでもなかった。アンネローゼの場合は、其の身を覆う程度の大きさの金剛石だったが、妃殿下は水晶の宮殿だった。
一見で視えない訳だ。本物の宮殿と重なっているのだから。この国は規格外の人間が多すぎる。
今までの俺の常識が見事に打ち砕かれた。いや、違う。俺が規格外だと思ったのは全員ベッケンバウワー公爵家に連なる人間だ。
見た事もない兵器の公爵閣下といい、水晶の宮殿の妃殿下といい……楠の巨木の公子など、その大きさは特筆すべきだが樹木である分一般的だ。
そして水晶の宮殿の妃殿下と話をして、俺はアンネローゼを少し理解出来たと思う。妃殿下の教育を受けて育った彼女は見事に高い知能のまま、心に天使を住まわす少女に成長したのだ。
妃殿下から感じる匂いや思想の数々がアンネローゼから感じるものと同じだった。
だが未だに透明なままのアンネローゼとは違い、妃殿下は所々アイスブルーを纏っていた。恐らく王太子殿下の瞳の色だろう。
そう言えば、王太子殿下の猛禽類も翡翠の瞳に金色の羽だった。それはこの妃殿下の色彩と同じだ。なるほど、夫婦となるとお互い影響し合うのか。これも新しい発見だった。自分の両親はどうだったか、憶えていないが。
水晶の宮殿の本質を持つ妃殿下は、笑顔で俺に助言した。
「あの娘はもっとシンプルな言葉じゃないと理解しないと思うわ」
『欲しい』以上にシンプルな言葉などあるのだろうか。
妃殿下は笑った。
「あの娘はね、ロマンチストなのよ」
もっと女心を学べと追い出された俺は、ロマンス小説を買い込む羽目になった。それなりの苦行だったが、勉強にはなった。
なんとかアンネローゼのデビュタントに居合わせる事に成功した。
年末のパーティにも出席出来た。
その夜にアンネローゼの部屋に忍び込んだ。
毎夜、梟を飛ばしていたおかげで、梟がアンネローゼの部屋の窓を覚えていたのだ。梟の記憶を追体験するなど俺には容易い事だった。
夜着一枚のアンネローゼは愛らしく、そのプロポーションは素晴らしいに尽きる。
その唇は想像した以上に柔らかく、甘い花の香がした。俺の腕の中にすっぽりと納まり、身体を摺り寄せる様は劣情を煽られた。
だが、男の機微に疎いアンネローゼはすとんと寝落ちした。
無理矢理奪ってしまおうかと逡巡した。だがなんとか耐えた。
アンネローゼから感じた感情は安堵とか、幸福とかだったから彼女の信頼を裏切りたくなかったのだ。
こんな俺を、全世界は褒め称えるべきだと思う。
年明けに登園してきたアンネローゼは、少し様子が変化していた。
俺を見て逃げる。視線を合わそうとしない。あんなに好奇心いっぱいの瞳を向けていたのに。
嫌われたのかと思ったが、そうではなかった。彼女は、ただ恥ずかしがっていただけだった。
彼女の想いが靄になって表れたのを見たのは初めてだった。
その靄はまだ薄かったが、確かに緑色をしていた。
俺の瞳と同じ色だと気が付いた時、俺は喜びのあまり眩暈がした。透明だったアンネローゼが俺の色を纏い始めたのだ。腹の底から喜びが満ちた。
未だ彼女の心を完全に俺に向けさせた訳ではないと察した俺は、留年する事にした。彼女と彼女の愉快な仲間たちと共に、学園生活を続けたかった。
カシムからは怒られた。灰色熊には呆れられた。
でも今まで視た事のなかった、カシムに金の首輪を視た時は、応援している、とだけ告げた。彼らも俺を応援してくれる気になったようだ。
さぁ、あとは卒業記念祭でアンネローゼに求婚するだけ。
何度目の求婚なのか、正直覚えていないが、彼女は絶対手に入れる。これだけは決めている。そして彼女を守り慈しみ幸せにする。彼女が望むならアラゴンもハザール・ハンも廃墟にしてみせよう。彼女が傍に居れば、それだけで俺は幸せになれる。彼女を抱き締めて一緒にあの金剛石の中で眠れたら。
俺はそんな事を夢想しながら、学生会のコマネズミたちに呼び出された時間より少し遅れて中庭に作られた舞台裏に赴いたのだった。
【おしまい】
p.s.
ベッケンバウワー公爵のスタンドはパンツァー。ティガーⅡ辺り。
ここまでお付き合い下さり、誠にありがとうございました。
パトロンになったお気持ちで評価を入れて頂ければ幸いです。<(_ _)>




