王女宮に現れた影
王子宮へ赴くと、専属護衛がわたくしの訪問を取り次ごうとする。それを押し止め、王子宮筆頭侍女にヨハンの様子を聞く。
「様子を見に来ただけなの。もし寝ているのなら帰るから、起こさなくていいわ。……っていうか、あの子、花火をちゃんと見たかしら。毎年花火の前には寝てしまってたけど」
顔馴染みの筆頭侍女は、柔らかく微笑んで答えた。
「今年は、花火をご覧になってました」
「あら。起きていられるようになったのね」
「今までは、アンネローゼ様がご一緒でしたから、安心して寝てしまっていた、と仰せでした」
「まだ起きてる?」
「先程、お床につきましたので……」
「ちょっとだけ、顔を見たいのだけど、扉を開けてくれる?」
ヨハンの部屋の扉を開けて貰う。応接間の向こうに普段使いの勉強の間。侍従たちの控えの間を過ぎて、寝室の扉を開けて貰う。寝台の天蓋のカーテンをちょっとだけ開けて見ると……。
スヤスヤと眠る弟。
お父様やお兄様と同じ色の薄い金髪。それをちょっとだけ撫でて、こっそりとおやすみ、と告げた後、わたくしはヨハンの部屋を辞した。
◇
自分の宮に戻り、宮に務める皆に年越しの挨拶と共に一年の労をねぎらう言葉をかける。新年初めの日はゆっくり起きていいのよね? そうよね? 皆もそうしてね? 家族がいる者はちゃんと家族と居るんでしょうね? どうやら順繰りに休みを取っている、との事。善き哉。
ドレスも含め、パーティー用の装備一式を解いて顔を洗えばいつものわたくしに戻る。今日のお仕度もハードだったわぁ……。女性の夜会用のお仕度については、もう、覚悟を決めたわ。こういう物だと! とやかく言うのはお仕度を手伝ってくれる侍女たちにも悪いもの。彼女たちの主戦場だものね。
わたくしの使命は、侍女たちが美しく仕上げてくれた『王女アンネローゼ』をいかに保ち社交をするか、よね。来年、いえ、もう今年ね、今年の抱負はいかに美しく社交するか、に決まりだわ。
それなりに疲労を感じ、お風呂は起きてからでいいからもう寝てしまおう、と思っていたら。
コツコツ コツコツ
何かを叩く音。
コツコツ
窓ガラス? からする音ね。
ベランダへと続く窓から聞こえる音に導かれるように、カーテンを開ければ。
ベランダに人影。
それを確認してわたくしは反射的にカーテンを閉めた。
するとまた
コツコツ コツコツ
え? わたくしが見たモノは、正しく『彼』だったのかしら?
え? ええ? どうしよう、どうして居るの? え? 誰かに見つかったら命に係わるのではなくて? 見間違いではなくて?
コツコツ コツコツ
この音の正体は『彼』が窓ガラスを叩いていたのね。
もう一度カーテンを開ける。
そこにはタキシードの上に黒いマントを頭からすっぽり羽織ったアスラーン・ミハイ・セルジュークの姿があった。……見間違いではなかったようね。
ど、どうしよう。大きな声を出せば誰かが来てしまう。
そして先程からアスラーンの口は『開けて』と動いている。同時に窓の鍵のある辺りを指し示す。
正しい王女の振る舞い、いいえ、年頃の娘としても、こんな場合は。
人を呼んで不埒な侵入者を捕えて貰う。これ一択なのだけど。
解っているのだけど。
逡巡の上に逡巡を重ねたわたくしは、
――窓を開けてしまったのでした。
◇
「寒かった……」
と言いながらわたくしを抱きしめるアスラーン。
また彼の懐に抱きこまれるわたくし。
頭からすっぽり彼のマントの中に入れられてしまう。もうお化粧を落としたから、今度は遠慮なく顔を彼の胸に擦り付ける。アスラーンの心臓の音が聞こえる。
「ここがわたくしの部屋だって、どうして分かったの?」
「こいつに案内させた」
「こいつ?」
彼の懐から顔をあげれば、肩にとまっている梟とご対面。わたくしの顔を見た梟は、小さな声で鳴くとアスラーンのマントのフードの中に隠れてしまった。
そいえば、彼が現れたベランダは、毎朝花が置かれていた場所。
どうしよう。
なんだか色々と話したい事があった気がするのだけど。
顔を見たら、何を話したかったのか思い出せない。
彼の深い森の色の瞳を覗き込む。瞳の中にわたくしが映る。
あぁ。わたくし、やっと解ったわ。この瞳が、会った時から好きだったのだわ。
アスラーンの冷たい手がわたくしの頬に触れる。
そっと、何かを確かめるように。指先で軽く触れて、ちょっと離れてまた触れて。ゆっくりと掌全体でわたくしの頬に触れて。
指先がわたくしの顎を持ち上げた。
彼の瞳は、わたくしを見ているのに見ていない。
彼はわたくしの唇を見ている。
いやね。お化粧は落としてしまったから、美しいわたくしではないわ。唇も保湿のハチミツは塗っているけど、先程のような艶やかな赤ではないわ。
着飾ったわたくしと見比べられているのなら嫌だわ。
「お前、なぜ今は目を瞑らない? ここは目を閉じるところだと思うが?」
ちょっと掠れた声でアスラーンが囁く。
「目を閉じたら、アスラーンが見られなくなるわ。せっかく居るのだもの、見詰めていたいわ。……ダメなの?」
そう問えば、驚いたような表情をして。
その後、蕩けるような笑みに変わって。
「じゃあ、好きなだけ見ろ」
そう言って、わたくしの唇を奪ったの。
始めは音を立てて触れるだけ。
すぐ離れて。
ゆっくり近づいて、優しく唇が触れる。
何度も、何度も。
「アスラーン……」
「ん?」
わたくしはそっと囁く。アスラーンの唇が頬にも触れる。長い睫毛ね。
「わたくしね……」
「うん」
鼻先、目尻にも落とされる唇。高い鼻梁。
「学園を卒業するまでは、お嫁に行けないの」
今迄わたくしの顔を好きに啄んでいたアスラーンの動きが止まったわ。
「弟のヨハンと、そう約束したの」
深い森の色の瞳が、わたくしの真意を伺うように覗き込む。
「貴方はそれでもいい? 待ってくれる? あとね、率直に訊くわ、貴方の国の風習で、わたくしにはどうしても我慢ならないものがあるの」
「なんだ?」
「ハーレム。貴方、テュルクの王様になったらハーレムの主になるのでしょう? わたくし、それは耐えられないと思うの。お父様とお母様のように、お兄様とお義姉様のように、一対一の関係でいたいの。そりゃあ、後継者問題とかあるから、どうしてもわたくしに子が出来ないのならば、側室を持つのは仕方ない事だと思うけど……」
アスラーンはわたくしを抱き上げると、わたくしのベッドに腰を下ろし、わたくしを彼の膝の上に横抱きにして乗せた。そして改めてわたくしを抱き締め、そのままわたくしの耳元でぼそぼそと話し始めた。
「俺は、お前が学園卒業するまで婚姻を待とう。お前がそう望むから。
ハーレムは持たない。お前以外要らないから。側室云々は、それが必要になった場合に考える。お前の子以外は要らない、というのが俺の本心だから。……納得したか?」
嬉しい。
わたくしを見る深い森の色の瞳に、こんなに安堵を覚えるなんて思わなかった。彼の膝の上にいるから、いつもより顔が近い。
彼の首筋に顔を埋める。無意識のうちに伸びた手が、アスラーンの耳を触る。身体は鍛えているようだから筋肉が固いけど、耳は柔らかい。特に耳たぶは鍛えようがない箇所だものね。アスラーンの首筋で深呼吸すると、香しい森の香がした。嫌いじゃない、むしろ好きな香り……。
「あー、アンネローゼ? お前、もしかして誘ってる? ……アンネローゼ?」
アスラーンの美声を聞きながら、わたくしは意識を手放して夢の世界へ旅立ったのでした……。
やっと、『恋愛』っぽくなったのに




