ベランダのふたり、もうひとり
「ちょっと! いい加減になさい!」
館内は暖房設備が整って暖かいけれど、ベランダは寒い。そんな所にいきなり連れ出されて、わたくしは大声で文句を言った。
「それに、さっきからわたくしに対して酷い言いようではなくて? 男を魅了するとか、誘惑するとか! いつ、わたくしがそんな真似をしたと言うの?」
眉間に皺を寄せたアスラーンも文句を言う。
「さっきからしまくっている。無意識か? なら余計始末に負えない」
「え? 待って、どんな行動が?」
本当に? わたくしに自覚はないわよ?
「視線を合わせて相手の動きを封じた挙句、微笑んで恋心を鷲掴みだ。アラゴンのオヤジは兎も角、ハザール・ハンの若造などひとたまりもなかった。恐ろしい手腕だ」
アラゴンのオヤジ? お兄様くらいの年齢に見えたけど、酷い評価ね。あら、でもお兄様は既にふたり息子がいるから『親父』なのは間違いないわね。……これは掘り下げてはいけない問題だわ。
ハザール・ハンの若造って、あのお坊ちゃま殿下よね? 恋心鷲掴みって何? そんな風には感じなかったわよ?
「ヴォロノフ様は魔鉱石の事を調べる為に来ていたのでしょう? わたくしから詳細を聞き出せないからイラついていたのは解ったけれど……変な素振りは無かったわよ?」
アスラーンは、更に深く眉間に皺を寄せてかぶりを振った。何よそれ。まるでわたくしが物を知らない困った奴だと言いたいようね。
「お前は男心を知らな過ぎるうえに、刺激し過ぎる」
あらやだ。物を知らないではなく、男心を知らないというの?
「仕方ないでしょう、わたくしは女ですもの。男心なんて解らなくて当然だわ」
「……確かに」
もう、なんなの? いい加減、寒いわ。
「どこへ行く?」
屋内に戻ろうとしたら行く手を阻まれてしまったわ。
「寒いから戻るわ。こんな所にいつまでもいたら風邪を引いて……よ」
「これで平気か?」
アスラーンはタキシードのボタンを外すと、わたくしを上着の中に、懐に抱き込んだ。ん? わたくし今、抱き込まれている?
「こんな時、普通は、上着を脱いで、女性の肩にかけるものではないの?」
「脱いだら俺が寒いだろ」
なるほど? それもそうね。では合理的というのかしら?
それに
「……暖かいわ」
「そうか」
デビュタントのとき、彼とダンスを踊った。
あの晩、彼との距離が一気に縮まったと思ったの。彼が何を見て、何を考えて、どう行動するのか。一瞬のうちに触れた掌から、背に回された彼の手から、彼の見る視線の先から読み取った。
アスラーン・ミハイ・セルジュークという人が解った気がしたわ。
けど、あの時よりも今はもっと近い。
この距離、ゼロ距離って言うのかしら、これは初めてだわ。シャツ越しにアスラーンの体温を感じる。わたくしより少し高いのかしら。寒かったからかしら、余計に心地好いわ。ホッとする。
わたくしは意図せずアスラーンに凭れかかっていた。
「人肌というのは、心地好いものなのね……」
お化粧がアスラーンのシャツに付いてしまうかしら。擦り付けなければ平気なのかしら?
んー、どちらにせよ、わたくしが心配することでは無いわよね。
「……どうしてここで、お前はリラックスして身体の力を抜くんだ?」
彼の胸に当てている耳と、空気に触れている方の耳、両方からアスラーンの声がする。左右で違う響き。胸から耳に直接響く声は彼の身体の中を反響しているようで、なにやら面白い。彼のため息がわたくしの髪を揺らす。
「まったく、この生き物は……」
アスラーンの大きな手がわたくしの頭を撫でた。
「学生は家に帰る時間です。気をつけて、はい、さようなら」
お兄様の声と共に、アスラーンの温もりが離れたわ。
え?
お兄様? アスラーンの後頭部をがっしりと掴んでいませんか? とっても良い笑顔で。アスラーンに比べれば背の低いお兄様だけれど、今でも騎士団と共に鍛えているから、見た目と裏腹に頑健なのよ。握力もそれなりにあると思いますのよ。だって、わたくしでは持てない長剣を片手で扱うのですもの、それなりに鍛えていらっしゃるわ。その、つまり……
「ぐぐががががが…」
「あの、お兄様、アスラーンが、その、痛がってますわ?」
お兄様の手を外そうと藻掻くアスラーン。
「ここは寒いだろう、アンネローゼ。中に入ろう?」
いい笑顔をわたくしに向けるお兄様。
「ぐぐぐぐわわああああ」
な、んか痛そう、ですわ。会場に戻ったらその手は離しますよね、お兄様?
「そう、ですわね、お兄様」
は、早く中に入りましょう? ね?
「ぐ……離……せ……」
「アンネローゼ、ヨハンの様子を見に行ってくれないか? 寂しがっているかもしれないからね。君はそのまま王女宮に帰っていいから。今日はお疲れ。良い夢を」
お兄様はわたくしの頬にキスをしたかと思うと、テキパキと護衛に指示を与えてわたくしを下がらせた。
……ずーーーーっと、右手でアスラーンの後頭部を掴んでいたけれど。
大丈夫なのかしら、アスラーン……。
わたくしは両親に挨拶をし、先に下がらせて貰ったのでした……。
◇
お兄様にも言われたし、わたくしは自分の宮に帰る前に、ヨハンの王子宮に向かう事にしたわ。王子宮に向かう道々、防寒用にキャシーが用意してくれていたストールに包まれながら、わたくしは思う。
愛用のストールはとても温かい。侍女がわたくしの好む香を焚きしめて丁寧に手入れをしてくれているから、冬のわたくしに欠かせない物。
なのに、この温もりと比べる物があったなんてとても意外。とても不思議。
とても、恋しい……。
……え?
恋しい、の?
わたくしってば、あの温もりが、恋しい、の?
お兄様の登場で、あっという間に離れてしまって。
アスラーンの体温を奪ったお兄様を、一瞬恨んでしまったわ。
ほんの一瞬、ね。
すぐにわたくしは、自分が王城の年越しパーティー会場に居る事、国内貴族を始め、大勢の人間がいる事、ひと気のないベランダとはいえ、そこで未婚の王女が殿方と抱き合っているだなんて破廉恥! 醜聞! って理解したわ。お兄様がわたくしを下がらせた理由も。
でも、それを思い出したという事は、つまり、すっかり忘れていた、という訳で。
わたくしが自分の立場を忘れるなんて。
生まれた時から注目されて、この国の王女で。わたくしは、わたくしの立場を忘れるなんて事、今まで無かった。
それが、アスラーンの温もりに包まれて一瞬のうちに忘れてしまっていた。
「こんな事って、あるのね……我ながらびっくりだわ……」
わたくしの手を引くキャシーが視線で問いかけて来たけれど、なんでもないわと言ってその後は沈黙を守った。




