太陽の国
その国に降り立っても私には実感が湧かなかった。
調査目的の渡航ではあるが、自分のルーツを辿ることには独特の興奮がある。
絶え間なく血が受け継がれ、いまの自分がその先端にいるのだと、ここへ至るまでの深い歴史があるのだと、そう知ることに対しての心の高鳴りはごく自然なものだと思う。
それにも関わらず、この場所の第一印象は何もないというそっけないものに過ぎなかった。
バイクを走らせ、地図を頼りに今日の目的地へと急ぐ。
途中、陥没した道路を迂回し、ないはずの川を渡り、何とか夕暮れ前に村に着けた時には溜め息が出た。打ち捨てられた家屋の一つに隠されたマークを確認し、中へと入る。さすがに安全が保障されているだけあり、外観は周囲に溶け込みながら内部は修繕されており、話に聞いた地下室が用意されていた。渡されていた鍵を使って扉を開く。おそるおそる足を踏み入れると、そこには快適な生活が優に三年は送れるほどの豊富な備蓄と小さいながらも機能美が追求された生活空間があった。まるで少年の夢見る秘密基地だ。早く足を伸ばしてふんぞり返りたい欲を抑え、一度外に出てバイクを家屋の隅に隠した。ここが調査をする上での拠点となる。オレンジになり始めた太陽がおそらくは過去と変わることのない揺るぎなさで村を染め始めていた。
バランスよく栄養が取れると銘打たれたディナープレートを温めて一気に平らげ、ビールにコンビーフとポテトで無事にここへたどり着いたことをささやかに祝った。ソファーに沈み込み、モニターに古い映画を再生しながら、調査内容を確認する。
これからしばらくは、近隣の地図作りが主な任務となる。最新であるはずの地図が狂っていたことを考えると、何か急激な地殻変動が起こった可能性がある。今日の分の調査報告書をまとめながら、モニターで外の様子を眺めた。文明の気配がないと、夜の闇はより深く感じられる。この恐怖を拭うため、人はあらゆる場所を明るく変えていったのだろう。
翌日、近くに隠された倉庫を確認し、使用する機械を取り出した。整備に数日を掛け、動作確認がてら村の詳細な地図を作製した。上空から撮影を行い、それを元にルートの選定を行い、到着から一週間ほどで村の外へと足を伸ばす運びとなった。技術の進歩は素晴らしく、機械に任せておけば私のすべきことは少なかった。
そうして一月ほどの時間が経った。その日私は拠点から二つ隣の村に調査に来ていた。運んできた機械を作動させ、自由になった時間で周辺を探索した。事前の調査で、墓地と思しき場所が確認されていた。他のものはすべて草に埋もれきっており、自然と足はそちらへと向いていた。
何か、墓の前に蹲っている。
野生動物だろうか?充分に注意を払いながらその影へと近付いた。
祈りを捧げている人間がいた。
しかし、そんなはずはない。この地区の担当は私ひとりであり、何の連絡もなしに誰かが派遣されてくるはずはない。
背中に緊張が走った。野生動物に襲われたときのために隠しておいた銃に触れる。密入国者がいるなんて話は聞いたことがない。自分可愛さに罪を犯すような連中がどうしてここへ来るというのだろう。
「きみはだれ?」
その声の幼さに、私は虚を突かれて反応が遅れた。
「・・君こそ誰だ。どこの所属だ?」
「所属?よくわからない。ぼくはこの国の住人だけど、この国に所属しているのかな?」
「ここに、住んでいるって?」
「うん、そうだよ。きっと、長く住んでいるって言ってもいいと思う」
しばしの沈黙が流れた。調査用に放った機械の一つが近くを通り過ぎて行った。
「もしかして、調査の人?」
「あ、ああそうだ」
「調査の人なら知ってるよ。いつもご苦労様」
「ああ、ありがとう」
敵意はないようだ。武器もどうやら持ってはいない。
安心はしないまでも、私はようやくその少年の様子を冷静に観察するに至った。
その言葉の通り、その容姿にはこの国の人間が持つ特徴が表れている。言語も、この国で使われていたものに間違いない。はっきりと意思疎通できることがその証拠だ。
渡航前、医者から受けた忠告が頭を過る。一人で居続けると、恐ろしいほどはっきりとした幻覚を見ることがある。
兆候はなかったはずだ。舌を噛んでみるが痛みはある。
「また来てね、調査の人」
「ああ、それは構わないが・・」
少年は私の後ろへと歩き出した。
その姿を追って振り向いた私の目には、しかし誰も映らなかった。
焦り、周り中を見渡してみるが、少年の姿はどこにもない。
調査中の機械が飛んでいくのが遠くに見えた。
報告書に少年のことを書くべきか否か、迷った。
幻覚を見た。その報告には価値がある。しかしそれをきっかけに帰国を命じられる可能性もある。ようやく掴んだ渡航の機会だ。簡単に剥奪されたのでは堪らない。
悩んだ末、少年のことはごく個人的な手記にまとめるにとどめた。
十分すぎる見返りは与えている。そこまでしてやる義理はない。
仕事は順調に進んだ。
定期健診の期限が迫っていたため、センターに赴いた。体調診断の結果は良好。私の滞在期間は問題なく伸びた。
バイクにまたがり、粗末な橋が掛けられた川を渡って拠点へと戻る。
センター周辺は多少なりとも整備が進められているようだ。
しかし生きた人間の気配はない。まるで彼方の星に降り立ったかのような寂しさの中を機械だけが這いずり回っていた。
「風が気持ちいいね」
「ああ、そうだな」
チョコレートを持って、少年のもとを訪ねた。
拍子抜けするほどあっけなく、少年は姿を現した。
「仕事は進んだ?」
「ああ、順調だよ」
「頑張りすぎちゃだめだよ」
「ああ」
この少年は私の孤独が生んだ幻なのだろうか。
私はいま虚空に向かって言葉を吐いているのだろうか。
しかしそれも、さしてわるいこととは言えない。
どんな理由にしろ人間がこの場所にいるのなら、それは私にとって都合がいい。
「君は知っているのか?この国で何が起きたのか」
「うん、知ってると思うよ」
「教えてくれないか」
「お兄さんは知らないの?」
「話にしか聞いたことがない。だから自分の目で確かめに来たんだ」
「それなら僕から聞いても同じことだよ」
少年の姿は消えていた。
渡すつもりだったチョコレートがまだポケットの中にあった。
包み紙を開けて口に放り込む。風がひときわ強く木を揺らした。
この二か月間に発見した遺骨は三千五十二体。
全身を撃ち抜かれたもの、粉砕され風化が進んだもの、爆発により体を欠損したとみられるもの、瓦礫の下敷きになったもの、死ぬまで縛り付けられたもの、閉じ込められ餓死したとみられるもの、焼け死んだと思われるもの、水を求めて力尽きたと思われるもの、子を抱いてそのまま死んだと思われるもの。
数限りない遺骨を収容し、それらについてのデータをひとつひとつ添付する。
まとめあげたものは何らかの形で公表されるという。骨はセンターに保管し墓地の整備が進んだところで手厚く葬られる。慰霊碑を作る計画もあると聞いた。
「戦争があったんだよ」
ここへ来てから、祖父の言葉を何度も何度も思い出した。
「大きな大きな戦争が。ご先祖様達は皆、正義のために戦った。上の言うことを信じるままに自分たちは正義の旗印のもと必ず勝てると思っていた。どんなに恐ろしい警報が鳴り続けても、どんなに敵の戦力が強大に思えても、戦い、戦い、戦い続けた。国の民が全滅するまで戦うつもりだった」
その結果、この国は世界中に残虐行為の大義名分を与えた。
抵抗を止めない悪に対して、世界はあらゆる兵器を差し向けた。世界中の国が競い合うように最新の兵器を導入し、次々と民間人を殺して回った。実験台を欲しがっていた人間たちによりあらゆる場所で拷問が行われ、女子供は奴隷として輸出された。焦土と化すまで破壊行為は続けられ、降伏の宣言よりも先に国は滅んだ。殺戮の余波で人の住める場所はどこにもなくなり、国には夥しいほどの死体が溢れた。その死体を媒介に疫病が蔓延し、突然変異を起こした生物が現れ、海や大気を通して他国へまで影響が及び始めたことでようやく戦争は終結した。亡命した人間たちも各地でひどい差別に晒され、嬲り殺しにされ、この国の人間は一人残らず消えたとされた。
あまりにも、あまりにも常軌を逸している。
そんなこの世の地獄のような出来事が起きていいはずがない。
しかし戦争はあった。それは事実と認めざるを得ない。
遥か昔のことだから、見つけた骨にとても現実感を得られないほど過去のことだから、私は精神を保てているに過ぎない。
そう、幻覚の一つも見なくては、この現実を直視できない。
「だいじょうぶ?顔色が悪いよ」
地図の作製が終わり、遺骨の収容に仕事がシフトしたことで、私の精神は摩耗していった。食事がうまく喉を通らなくなり、病院食のようなものばかり口に運ぶようになった。酒を飲むと悪夢を見るので、睡眠薬を使うようになった。どうにか検診はパスしたものの、次はどうなるかわからないところまで私は追い詰められていた。
いまとなってはどこか冒険心を抱いてここに来たことが信じられないくらい、この国には死が充満していた。長い時間によってかけられたヴェールを一枚取り払えば、そこには数えきれないほどの骨が埋まっていた。
どうして人はあそこまで残酷になれるのだろう。
不意に涙が溢れてきた。
心配そうに見つめる少年にすまないと声を掛けた。
「泣いてくれるんだね、ありがとう」
「君は、君は苦しくないのか。こんな場所に一人で住んでいるんだろう」
「苦しいよ。とても」
「じゃあなぜ」
「ここが僕の居場所だから」
「だが、もうここは」
「受け入れたくないんだ。あの頃、外の世界はみんな敵だった。僕の国は滅ぼされた。たくさん死んだ。殺された。死ぬよりもひどい目に遭った人だってたくさんいる。みんなが悪い人じゃないってわかってるよ。でも、受け入れてもらおうなんて思わない」
少年の背中には悲しみが滲んでいた。その背中に触れる権利は誰にもないように思えた。
「何もなかったみたいに笑って、ごまかして、頭を下げて、自分の顔も見られなくなるくらいなら、苦しい方がずっといいんだ」
「憎んでいるんだな、君は」
「そうだね。でも、もう憎むのはやめたんだ」
「なぜだ?」
「あの頃は、ずっと憎くて仕方なかった。憎んで憎んで、僕から奪った相手のことを頭の中で殺し続けた。考え得る限りの全ての残虐な方法で殺し続けたよ。毎日毎日そればかり考えていた。殺しても、殺しても、心は満たされなかった。どんなに痛い目に遭わせてもそいつは僕に笑って見せた。その想像を消してしまいたくて、僕はそいつのことを怒り狂って殺し続けた。殺して、殺して、殺して、殺し続けても、そいつの笑顔は消えてくれなかった。そして気付いたら、僕はもうそいつのこと以外忘れてしまっていたんだ」
少年の頬を涙が零れ落ちた。
「そいつはお母さんを殺したんだ。僕のことだけは助けてほしいって泣いているお母さんにひどいことをしながら僕に向かって笑っていた。お母さんは散々嬲られて殺された。僕はそいつのことが憎くて仕方なかったんだ。お母さんにひどいことをしたことが許せなかったんだ。でも、それなのに、僕はお母さんの顔を忘れてしまっていた。憎んで、憎んで、殺し続けているうちに、他のことをすべて忘れてしまったんだ。お父さんのことも、妹のことも、大好きな人たちのことを何も思い出せなくなってしまっていたんだ」
「憎むことは、その相手のことを考え続けることなんだよ。そのせいで、大切な思い出まで塗り潰されてしまう。悔しくて、悔しくて、泣いても泣いても止まらなかった。僕の中にはもう憎いそいつの顔しか残っていなかった」
「だから、憎むのをやめた。そいつのことを考えることを止めた。あんな奴のために居場所を作ってやってたまるかって思った。消してやったんだ。もう、この世界から、あいつのことなんか消してやった。歯を食いしばって、あいつの顔を忘れてやった。そして、僕の中に在った大切なものを思い出そうとした」
「長い時間が流れて、空を眺めていた時、お母さんの顔が浮かんだ。涙が流れたよ。思い出せたことが、嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。お母さんは、どう思っているだろう。もしかしたら、敵を取ってほしいって思っているかもしれない。僕にがっかりしているかもしれない。でも僕は、僕はもう、二度と忘れたくなかったんだ。もう二度と忘れたくなかったんだよ」
「・・すまない、辛いことを思い出させた」
「いいんだ。もうあいつの顔なんて覚えていない。憎まないのは許したからじゃない。絶対に許さないと決めたから憎むのをやめたんだ。忘れることにしたんだよ」
少年の姿は消えていた。
私は以前少年が祈っていた墓石の前で一礼し、歩き出した。
涙は溢れるのに、苦しみは少し和らいでいた。
私は一種の使命感を持って任務に当たった。
誰に命じられるでもなく、これは私のすべきことだと思った。
失礼のないように、少しでも心が救われてくれることを祈りながら、毎日毎日、骨を拾い上げた。悪夢を見ることは、不思議と減っていった。
「まだ戦争は続いているの?」
「それは、そうだな、この星全体を見るなら、続いているよ。残念なことだが」
「その人たちは、なぜ争っているの?」
「色々だよ。信教上の理由であったり、領土の問題であったり、人種の違いであったり」
「それは嘘だ。そんなことで人は殺し合ったりしないよ」
「そうかな」
「そうだよ。僕らに銃を向けた人たちは、そんなこと考えているようには見えなかった。ただ誰かに命令されたから自分は関係ないって顔で殺してた。自分が悪いわけじゃないからその権利はあるって楽しんでた。時々反撃されそうになるとすごい怯えてた。恐怖感を拭い去るように怒ってた」
「その人たちは、多分一番の下っ端だ」
「うん、そうだよ。でも殺すのはその人たちだ。戦争はその人たちの手で行われる。一番偉くない人が、一番殺すんだ」
「人は簡単に人を殺せない。どんな殺人鬼でも、生涯通して百人も殺したって人は聞いたことがない。でも、戦争のときは普通の人が何人も何人も殺す。百人も千人も殺す。まるで世の中の仕組みが全く変わってしまったみたいに、殺すんだ。知ってるよ、同じ人間じゃないって思ってるんだって。でも、本当にそれを信じているのかな。ただそう信じたほうが自分が傷付かないからそうしているだけなんじゃないかな。だって、ぼくはどんなに外の人を憎んでも、その人たちを人間じゃないとは思わなかった。人間だから許さないんだよ。本当はわかっているくせに、わからないふりをしているんだ」
「信じれば、楽なんだ。理解の及ばない化け物がいる、悪魔がいるって信じれば自分は何も罪悪感を持たずにいられる。自分を英雄に仕立て上げれば、殺すことも、嬲ることも、正当化される。でも、殺しているのは悪魔なんかじゃない。同じ人間なんだよ。どんな時も、死んでいくのは、弱い立場の人間なんだ」
その通りだ。一番の責任者が、戦争を行うと決めた人間が、最前線に立ったことなど聞いたことがない。そこには確かに思惑がある。人を捨て駒にして、自分は生き残り、甘い汁を吸う。そうじゃなければ起こらなかった戦争が一体いくつあるだろう。
「一番偉い人は、自分で人を殺していない。戦争に関わった人の中で、一番人を殺さない。だから、戦争を続けられるんだ。指示を出しても、どれだけの犠牲者が出ても、直接殺したのはその人じゃない。自分のしたことを見ないから、目を背けてわかろうとしないから、できるんだ。そんなに戦争がしたいなら、ナイフ一つ持って敵地に突っ込めばいい。それができないのに戦争すべきだなんていう人はすべて卑怯者の嘘つきだよ」
「そうだな。自分が死ぬわけじゃないから、戦うわけじゃないから、好き勝手言える。しかし、土地はどうだろう。奪われれば住む人が居場所をなくしてしまう訳だろう?」
「家に強盗が集団で入ってきたとき、すぐに戦う?まずは逃げるでしょ?そうじゃなきゃ死んじゃうんだから。それからみんなに伝えて取り返すために協力してもらう。それが普通でしょ?」
「しかし取り返そうとして相手が撃ってきたら、やはり戦いになるだろう?」
「撃ち返さなければいいんだよ。命令されて撃ってくるだけの人たちは命令が変わればすぐに撤退する。何の信念もないんだ。どうしてそんなことをしてくるのか考えなくちゃ、止められないんだよ。ねぇ、死んじゃうかもしれないのにどうして闇雲に撃とうとするの?よく考えればわかるはずでしょ?そんなことしたって前線の人が死ぬだけなんだ。人の命より本当に撃ち返すことが大事なの?」
「それは・・難しいな」
「もしね、信じていることや、土地が命より大事だっていうのなら、そのために自分の命が懸けられるはずだ。命を失うことになっても、それを得るために戦えるはずだよ。でも戦争を始める人たちは自分の命を懸けたりしない。戦場に行くのはいつも身分の低い人たちだ。戦争を始める人たちにとって、身分の低い人の命よりお金や地位が大事だっていうだけなんだよ」
「それは、そうだな。残念だがその通りだろう」
「戦争は命令を下す人と命令に従う人がいて成立する。命令する人は人の命より何か他のものを大事にしている。普段はあんなに人の命を大事だって言うくせに、全部台無しにするんだ。人を散々苦しめて殺しておいて何が正義なんだろうね」
「そして戦争に負けた時には、彼らはいつの間にか姿を消す。彼らに言われたから仕方なかったと誰もかれも自分を憐れむ」
「勝った方も同じさ。きっと僕らにひどいことをした奴も、あれは自分の意思じゃないって言うんだ。命令されて仕方なくやったんだって言うんだ。戦争は誰も責任を取らない。散々人にひどいことをしておいて、残酷なことを好きなだけ楽しんでおいて、自分も被害者だって、心が痛むって、みんなそう言うんだ。卑怯者が戦争を始めて、それに媚びた別の卑怯者が責任を擦り付けて好き放題やって、ただの犯罪者に過ぎないくせに、被害者ぶって正義を語る。どんな立場であっても自分の罪を偽って向き合おうともしない人間はみんな地獄に落ちればいいんだ」
「地獄か。そいつは素敵だな」
「そうだよ。地獄は、きっと弱い人達の願いによって生まれたんだ。裁いてほしい悪人のためにね」
また一か月が過ぎた。私は検診をパスし、拠点周辺の遺骨の収容は順調に進んだ。
村の外れの大樹のふもとに持ち主のわからない遺品を集めて小さな塚をこしらえ、私は毎日そこで祈ることにした。
風が穏やかに吹いていた。
木々の騒めきが耳に心地よかった。
「いい場所だな、ここは」
自分の台詞に語弊があることに気付き、身構えたが、少年は笑って答えた。
「うん、そうだよ。僕はすごくこの村が好きだった」
「そうか。きっと食べ物もおいしかったんだろうな」
「うん、鶏を飼っている家が多くて、新鮮な卵が村の自慢だった。畑も多かったよ。僕はかぼちゃを育ててた」
かつてこの場所で何が起きたのか、記録はどこにも残っていない。どの国も自国の積極的な関与を決して認めなかった。曰く、この国は徹底抗戦の末に自決によって滅んだと結論付けられていた。戦争に関わっていたものが挙って死去した今となっては、その事実を確かめる術はどこにもなかった。従って、ここで起こったとされる凄惨な悲劇は信憑性を置き去りにした単なる噂話として世の中では語られていた。だからこそ私は、ここに来るまである程度の誇張はあるはずだとどこかで願っていた。
「そうだ、お父さんは村おこしをしようと張り切っていたんだ。お母さんはそれに付き合って、村の名物にしようと卵料理を一緒に考えてた。プリンを作ってみようって話になって、それで僕はかぼちゃを育てることにしたんだ。妹は苺を育ててた。いろんなプリンを作ってみたかったから、いろいろ試した。毎日食べてたんだよ、試作品だって言って、お父さんは毎日プリンばっかり作るから、僕らは最初は嬉しかったけど、すぐにプリンを見るだけで吐き気がするようになった。何がおいしいのかわからなくなって、なぜ作っているのかわからなくなった」
「それは災難だったな」
「うん。試行錯誤を延々として、ようやく村の人達にふるまったんだけど、その頃には戦争の話が出始めていたから、敵国の料理を真似るとは何事だって全然知らないおじさんに怒られて、お父さんしゅんとしてた」
「どこにでもそういう人間はいるもんさ。料理の出身地なんて重要なことでもなんでもないのにな」
「うん、そうだね。お父さんはただおいしいものを作りたかっただけなのに、それで村を豊かにしたかっただけだったのに」
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
「どういう意味?」
「相手が憎いとそれに纏わるものまで憎くなるって意味だよ」
「へぇ。ちょっとわかる気がする。プリンどころか卵も嫌いになるってことでしょ?」
「卵まで嫌いになったのか?」
「うん、見ただけで逃げたくなったよ。卵が降ってきて、中から出てきたプリンに溺れる夢まで見たんだ。でもさ」
「でも?」
「もっと食べておいたらよかったなって、いまは思うよ」
ここにはかつて人が平和に暮らしていた。
そう信じないでいるのには無理があるほどに、ごくありふれた生活の形跡が長い時間を経ても残っていた。
そして凄惨な悲劇によって幕を閉じた。
そう思わずにいるのは不自然なまでに、虐殺の痕跡は生々しかった。
人間は人間を殺す。
しかし彼らは誰かに憎まれていただろうか。
もしその国が悪と呼ばれたとして、その国に生まれることは罪だろうか。
その国の言葉を話すことは、その国の文化を尊ぶことは、その国の流れに飲まれていくことは、酷い殺され方をされなくてはならないような罪と言えるだろうか。
その国を、その場所での生活を愛することを、許されない罪だと誰に言えただろう。誰にそんなことを言う権利があっただろう。
祖父から、この国の言葉を習った。
自分にこの国の血が流れていることを密かに教えられた。
祖父の母は、若い頃に奴隷として売られた。
決死の逃亡の末に祖父を生み、静かに、しかし揺るぎない信念をもって滅んでしまった祖国のことを祖父に伝えた。
私の曾祖母にあたるその人は、敵国と呼ばれた場所で必死に祖父を守って生き、死んでいった。
「どこにいても人は慣れるもんさ。どこにも同じ人間なんていない。肌の色やら、目の色やら、教養やら、言葉やら。統一された国なんてどこにもない。それを人間が気にし始めるのは自分の身に降りかかってきたときだけだよ。言葉を真似て、似たような人間が住む場所を選べば、それなりに生活はしていける。国は大っぴらにしないまでもいつも奴隷を欲しがってる。働き口は選ばなければいくらでもあるもんだ。お袋が死んで、俺は地べたを這いつくばって生きてきた。たまたま運よく似たような境遇の奴に会って、そいつが運よく最高の女で、豪邸にも高級ディナーにも無縁の人生だったが幸せになれたよ。俺の人生に悔いはない。だが、お袋から教えられたことをお前に伝えなくては死んでも死にきれねぇんだ。ぼろぼろになりながら、いつも涙を流して悲しみに耐えながら、俺を守って死んでいったお袋に面目が立たねぇからな」
この国の文化は、いまも密かに伝承されている。
それを愛する人たちの手によって、遠い過去の、しかし忘れてはならないものとして。
血が混じり合い、その国の民としての特徴を徐々に失いながらも、私は自分自身に隠された秘密に浪漫を感じて、いまだ知らぬその国を想像し楽しんでいた。
別の人種に成りすましながら、どうして国は滅んでしまったのか、祖父から聞いた話のどこまでが真実なのか、いつか自分の目で確かめようと決めていた。
そして辿り着いたこの場所で、知ったのはここに何でもない日常があったということ。何でもない平和な場所で、何も変わらない人たちが生きていたということだった。
世界中に悪とされ、滅亡したにもかかわらず、そこには普通の人たちが住んでいた。普通の人たちが暮らし、酷い暴力に曝されて死んでいったその形跡を見つけただけだった。
「平和惚けしてるって、偉そうなおじさんがよく叫んでた。でも、平和惚けってなんだろう。惚けちゃうほど平和なら、それは素敵なことなのにね。それをよしとしないなんて、戦争惚けしてるんだ。戦争惚けしてるから、よく考えもしないで戦争に賛成して、知りもしない人のことを勝手に決め付けて追い込んだりするんだ。自分が死ぬのは絶対に嫌なくせに、他人が死ぬのは仕方ないなんてひどいことを言ったりするんだ。結局、平和なのが気に入らないだけなんだよ」
「自分が死ぬのは嫌なくせして平和は気に入らないか」
「戦争を、見世物みたいに思ってる人がいるんだ。自分は安全な場所で、お菓子やお酒を楽しみながら、人が殺し合っているのを見て笑ったり怒ったり。自分はそういうことができると思ってる。人の幸せを許せない人が、いつもいるんだよ。そういう人は人が喜んだり笑ったりすると苦痛を感じる。人が悲しんだり痛がったり惨めに泣きながら死んでいくのを喜ぶんだ」
「まさに悪魔だな」
「そんなにたいしたものじゃないよ。ただ幼稚なだけさ」
「そうなのか?」
「あの人たちはいつも何かに怒ってる。いつも攻撃的で何一つ人の言葉に耳を貸さない。視野が狭いんだ。そんなだから誰も近付こうとしないのに、いつも誰かが自分の機嫌を取るのは当然って思ってる。まるで躾されてない赤ちゃんだよ。人の気持ちを理解しようとしない。人が喜んでても、それを共有できない。自分は楽しくないのに、あいつは楽しそうで気に入らない。気に食わないものは攻撃して黙らせようとする。泣いている人を見ると、いい気味だと笑顔になる」
「誰にも躾てもらえなかった幼稚な大人か」
「いつもわがままで、怒ってばかりいたくせに、戦争の時にはお国のためにみんなのためにって叫んでた。そんなわけないよね。嘘つきに決まってる。実際、あの人たちが味方だったことなんて一度もなかった」
「そうか。残念だがそういう人間には平和な世の中は気に入らないだろうな」
「どんなに悲惨な状況でも、うれしくなったり笑っちゃったりするときはある。そういう時があるから生きていけてたんだ。でも、あの人たちはそれを絶対に許さなかった。同じ言葉を話していてもずっと敵だった。あの人たちにとっては人の幸せは許せないものだったんだと思う」
「悲惨な話だな。滅びてしまいそうなときにすら、手を取り合うことができないか。穏やかで平和な時間を幸せに感じる人間がいる。一方で誰かが争って不幸になることを望んでいる人間もいる、か」
「人の考えることなんて、そんなに複雑じゃないんだよ。幸せも不幸も、すごく単純なものなんだ。もしそれが複雑に見えたとしたら、それはどこかに嘘があるってことなんだ」
「嘘か。人が嘘をつけなかったら、戦争なんて起きていないかもな」
「そうだね。本当に嘘つきばっかりだよ」
遠くから風の声が聞こえた。それは周囲を吹き渡り、物悲しく木々を揺らした。
「必ず勝てる、それまでの辛抱だって軍服を着た人たちは叫んでた。その人たちにとっては、国の人たちが幸せかどうかは大事なことじゃなかった。もっと他のものを優先していた。自分の立場であったり、安全であったり、お金であったり、夢であったり。それが得られるなら、きっとこの国が滅んでも仕方ないと思ってたんだ」
「もっと早くに降伏する選択はできた。それこそ立場があるのなら、その首を差し出すことで情状酌量を求めることもできただろう。だがそうはしなかった」
「自分の夢を尊いものだと考える一方で、国の人たちの命を軽視してた。きっとあの頃、上の人たちは妄想に捕われていた。兵隊さんたちを質のいい弾丸か何かだと思っていて、その人たちの人生なんて考えていなかった。自分たちの命令通りに弾丸は飛んで、世界中の偉い人たちを撃ち殺し、世界征服に手が届くと思っていた。でもきっと、征服してからのことなんて何も考えていなかった。あの人たちにとっては、きっと戦争は賭け事でしかなかった。勝手に人を国民という括りで自分の所有物のように扱って、それを賭けて遊んでいただけ。負けが込んできても勝負から降りることなく、一発逆転を狙って人の命を賭け続けた。結局すべて失敗して、責任を取らずに逃げ出した」
「どうしてそうなってしまうんだろうな」
「誰もその人たちのことを知らない。直接会ったことはないし、姿や立場は知っていても、それ以外何も知らない。そういう人たちがこの場所を国と定めて、決定をしている。その人たちは当然僕のことを知らない。みんなのことも知らない。だから残念だけど、その人たちにとって僕らは存在していないのと一緒なんだよ。会ったこともないから情も湧かない。でも、その知らない人の決定にみんなが巻き込まれる。決まったと言われたことに、そんなの嫌だって声を上げれば、どこかに連れて行かれて殺される。怖いから悔しい思いをしながらも従えば、外の人達からは悪魔と罵られる。きっとみんなで声を上げるべきだった。国の命令であっても、それに屈しないと言うべきだった。でもそうすれば、必ず誰かが死んでしまう。裏切り者として、ひどい目に遭わされて、死んでしまうんだ。どこにも逃げ場所なんてないんだよ。僕らは戦争を行う人たちにとってただの数に過ぎない。だから、簡単に賭け事に使われてしまった。何故抵抗しないと外から言うことは簡単だよ。でも中から声を上げることがどれだけ大変かきっとわからない。死ぬのはきっと自分だけじゃない。自分の身近な人が次々死んでいくんだ。声を上げるっていうことは、それを覚悟することなんだよ」
「それでも、それでもどうやったら止められたと思う」
「命を懸けずに?」
「ああ」
「お兄さんは優しいね。僕にはわからない。でもそういう方法があれば、誰も傷付かずに済んだ。そういう方法を探すべきだったね」
絶望的な状況で、この子はどれだけ苦しんだのだろう。どれだけの悔しさを抱えて生きていたのだろう。
「戦争を始めようとする人たちが嫌いだ。それはいつもその人たち以外の人が戦場へ送られることを意味してる。不思議になるよ。あの人たちは本当に仲が悪かったのかなって。戦争を始める人たちは、実はただ一緒に遊んでるだけだったんじゃないか、人の命を勝手に自分の持ち物にして、それを賭けて勝ったり負けたりを楽しんでるだけだったんじゃないか。僕にとってはこの国の一番上の人も、外国の一番上の人も、同じ顔をしているように思える。それは、誰かを見下して笑っている顔なんだ。表情を読まれないように気を付けながら、自分が勝った時のことを想像して楽しんでるみたいな顔。結局みんな自分や身近な人の命がかかっていなければ気楽なんだ。何人死んだって、それは数に過ぎない。会ったこともない人が何人死んだって、財布のお金がちょっと減ったくらいの感覚なんだろうな。笑っちゃうよね。でも、そうじゃなければ説明がつかないくらい、人の命は軽く扱われてる。人は人を殺し続けてる。些細なことで、分かち合うこともせず、理解しようともせず、ただそうするのが当たり前のように、向こう側にいる人間を殺す。声もなく、考えることもなく、ただただ殺す。自分とよく似たものを、嬲り、殺し続ける。とても幼稚で、愚かで、醜くて、救いようがない。命令されたからって、それをするのは自分なんだ。引き金を引くのは自分なんだ。殺しておいて、自分のせいじゃないなんてことあり得ない。それなのに、どうしてみんな戦場にいる人は自分は関係ないって顔してるんだろう、どうして仕方ないって顔で人を殺せるんだ、どうして人を殺してまで、決まりを守るんだ、どうして明らかに間違っている人に、人の命を軽く扱うような人に従うんだよ。どうして、どうして・・」
「それは、それはおそらく、裏切ればその人の身近な人に危害が及ぶからじゃないだろうか」
「・・そうだね。その通りだ。殺されるのが怖くて、声を上げられないのと一緒だ。だから、だからお父さんが人を殺したかったわけじゃない。殺さなくちゃいけなかったんだ。お父さんは僕のために人を殺した。そういうことだよね」
「それは・・違う!私は」
「みんな守りたい人がいるんだ。だから、僕がいたせいでお父さんは兵隊として人を殺した。同じことがみんなにあって、みんなが人を殺した。でも、結局、その守りたかった人も、守ろうとした人も、みんな死んだ。結局死んでしまうなら、僕は早く死にたかった。そうすれば、もしかしたらお父さんは人殺しにならなくて済んだよね」
「そうじゃない!そんなつもりじゃ・・」
少年の姿は消えていた。
出てきてくれと叫んでも、少年は姿を現してくれなかった。
自分の不用意な言葉を、私は恨んだ。
少年にはわかっていた。わかっていても言わずにはいられなかった。そんな少年の心の深く深くを、私が今、抉ったのだ。
戦争の不条理は、多くの人間の意思などお構いなしに事が進むということだ。
世界中で人殺しを罪として裁かない国などない。それが国通しの争いなら許されるなどという道理は通らない。そんなことは誰にでもわかっている。それなのに、戦場という場で、知りもしない相手を、知りもしないまま殺す。そんなことがまかり通っている。それが間違いでないのなら、決まりとは何のためにあるのだろう。ただ誰かの利益のためにそれが作られるというのなら国民はただの奴隷だ。その土地に生まれたというだけで、意思など関係なく、知りもしない相手を殺せと命令されるとすれば、勝手にやってろと拒否すれば一も二もなく権力に磨り潰されるのだとすれば、敵とは誰だ。国とはなんだ。戦争とは誰と誰の争いだ。戦争という災禍の中で国は私たちにただ従うことを求め、権利や不条理を主張すれば社会悪のように扱われ、結束を乱すものと摘発される。国は結束などしていない。自分自身は決して国そのものではない。ただの決まりごとに過ぎないのに、それを尊ぶべき何かへと押し上げ頭を下げることを強要しているのは誰だ。逆らってはいけない神のようにそれを崇めることを当然としているのは誰だ。分かり切っている。国とは体のいい言い訳だ。国のため死ねという言葉は、自分のためにお前は死ねという言葉を言い換えたに過ぎない。嘘で塗り固めた、卑怯者の物言いに過ぎない。ではなぜそれに誰もが従うのか。何故その嘘を飲み込んで知りもしない相手を殺すのか。よく知った相手の幸せを願うからだ。知りもしない人間の命を、そのために奪うのだ。
遺骨の収容は進んだ。しかし、順調に進んでも終わりはまだ遠いと判断した。冬は地下室に籠り、資料をまとめ、雪が融けた後の計画立てに費やすことにした。その準備を進め、私は地下室の中に神棚を作った。外に出ることができない時も、そこで祈ることを日課にしようと思った。体調は安定していた。しかしいつも体のどこかに寂しさが住み着いているようだった。少年にはあれ以来、会えていなかった。
まとめた資料を読み返すことは、過酷なことだった。
若い男は兵隊として動員された影響だろう。遺骨の多くは若い女性と、子供と、老人と思われるものだった。その最期を思うだけで、私はとても耐えられなかった。しかし遺骨をセンターへと収容した今、その状況を語れるのは私しかいない。私は収容時に記録したデータにできうる限りの情報を追加し、資料としての質を向上させようと試みた。この資料だけが、世の中にこの場所で起きた悲劇を語るものとなるかもしれない。私には資料を完成させる責務があると、自分に言い聞かせた。
冬は過酷を極めた。
遺骨と向き合い、その死を想像するのには、あまりにも十分すぎる時間が過ぎていった。
春が訪れても、私はすぐには外に出る気になれなかった。
定期的に訪れる安否確認用ロボットにバイタルデータを送信し、モニター越しに何かが動き出す様子を眺め、機械に周囲を探索させながら、雪が完全に融けるのを待った。
ついに雪が全て融け、歩き出すことに支障がないと判断したところで、ようやく私は外へ出て、以前に見つけていた湖の畔へと向かった。
予想通り、水嵩は増していた。
何が潜んでいるかわからない、深い水の底。
おそらくはここにも、骨が埋まっている。
調査目的に来て足を滑らせ、ここの水に落ちてしまったとしたらどうだろう。
水質の調査は行われているのだろうか。もし行われていたとしても、いまの雪融けとともに何かが流れ込んできているかもしれない。
何らかの毒で、私の体が侵されたとしたらどうだろう。
この調査が失敗に終わったとしたら、どうだろう。
私の足は湖へと向いていた。
ゆっくりと、しかしまっすぐに歩き出す足を、私には止めることができなかった。
「何をしているの?」
少年の気配がした。いま、私の後ろに彼はいるのだろう。
「危ないよ。溺れちゃうよ」
その心配する声が、私には苦しかった。
「君には、わかっているのだろう?」
「なにを?」
「私のような人間が、なぜここに来ることができたのか」
進もうとする足が、しかしなぜか止まった。彼が止めたのかもしれなかった。
「なんのこと?」
「ここの調査を行っている連中の目的は、君たちに墓を作ってやることじゃない。ここが人の住める場所かどうか調べることなんだ。国がなくなり、ここが誰のものでもなくなり、その権利は宙に浮いている。ここを自分の領土としたい人間が、世の中にはいるんだよ」
「彼らにとって大事なのは、この国がどれだけ金になるかだ。資源はいくらあるか、人の住める空間はどれだけあるか、ここが自分のものとなれば周辺の海も支配下となる。権利を争って、世界中が注視している。私はそういう連中に送り込まれた人間に過ぎない」
「でもお兄さんは、そういう人たちと同じじゃない」
「ああ、そうだ。私は、いわば実験台だよ。彼らはここが人の住める場所かどうか実験をしているんだ。ここにどんな兵器が使われたのか、誰にもその全容はつかめない。その影響も、計り知れない。いくら数値では安全と出ても、実際に住んでみないことにはわからないのさ。だから私は送りこまれた。私だけじゃない。多くの人間がこの国に先兵として送り込まれ、その体への影響を探っている。人間は何も変わっていない。戦争して、滅ぼしておいて、今度は場所まで奪おうとしているのさ」
「お兄さんは、どうして来てくれたの?」
「私か?それは、知りたかったからさ。国の機密に関わるようなことを、貧しい人間には知り得ない。歴史は常に改変され、弱い人間には決して真実は与えられない。それでも知りたいと願うなら、この国へ降り立とうと願うなら、何かを犠牲にしなくては叶わない。私は知りたかった。祖父から聞いた話の真偽を。そして、それがもし本当だとするのなら、私はこの国の人たちを、自分のご先祖様を、弔いたかったんだ。たとえ建前上のものだったとしても、遺骨を収容するという任務を私は全うしたかった。墓を作ってやりたかった。だって悲しすぎるだろう、誰もその人たちのことを覚えていないなんて。誰もその人たちのために祈らないなんて。そんなのは間違っている」
「だから、お兄さんは自分を犠牲にするの?」
「わかるだろ。私が健全な状態で任務を終えれば、次はもっと多くの人間がここに送り込まれてくる。整地が行われ、新たな街が作られるかもしれない。ここで眠る人たちにとっては冒涜以外何物でもない。死ぬ必要まではないさ、ただ任務が続行不可能となれば、この地区の開発に一石を投じることができるかもしれない。やるだけの価値はある」
「やめてよ、そんなことしないで」
「止めないでくれ。これは私の意思だ」
「見えるはずだよ。お兄さん」
「何?」
右足に、何かが縋り付いている感覚があった。
それは、小さな女の子だった。涙を瞳に一杯に溜めて、必死に私の足を引き止めていた。
振り返るとそこには、多くの人の姿があった。皆私を見つめ、心配そうな目で、私が進もうとするのを止めようとしているようだった。
「お兄さんが、起こしたんだよ。みんな、かなしくて、くるしくて、ねむっていたんだ。こわくて、つらくて、その場所から一歩も動けないでいたんだよ。でもお兄さんが僕らのために泣いてくれたから、いつもいつも泣きながら骨を拾ってくれたから、僕らを人間として扱ってくれたから、目を覚ましたんだ。ずっとお兄さんの仕事を見守っていた。邪魔をしてしまわないように気を付けながら、怖がられてしまわないように心配しながら、いつも見守っていたんだ」
皆、涙を流していた。
まだ小さな子供がいる。若い母親がいる。背中の曲がった老人がいる。肩を支えあう老夫婦が、赤ちゃんを一生懸命に抱いている子供がいる。親のいない子供たちが、腕のない青年が、片目を失った少女が、お腹に子を宿した女性がいる。
「お兄さんは泣き虫だ。いつもいつも、泣いてくれた。お兄さんにとって、僕らが大切な人だって言ってもらっているみたいだった。うれしかったよ。すごくすごくうれしかった。僕らは救われていたんだ。お兄さんに拾い上げてもらえたときに、苦しそうな顔をしてくれるたびに、涙を流してくれるたびに、ずっと救われていたんだよ。みんな泣いていた。泣かずになんていられなかった。僕も一緒になって泣いたんだ。ずっとずっと涙があふれて止まらないくらい、みんなみんなうれしかったんだよ」
涙にあふれた優しい瞳が私のことを見つめていた。私に何ができただろう。私のしたことに本当に価値はあったのか?彼らの、彼女らの人生を、何一つ救ってなどやれなかった。何一つ起こったことを変えられなかった。ただ彼らのことを思っただけで、彼女らのことを考えただけで、悔しさがどうしようもなく胸に溢れた。私は無力で、ただ祈ることしかできなかった。少しでも救われてほしいと、ただ祈ることしか。
「お兄さんみたいな人が、必ず現れる。まるで昔からの友達だったみたいに、僕らのことを慈しんでくれる人が、僕らのために祈ってくれる人が、必ず現れる。人は優しくて温かいって信じてみたくなる。苦しいよ。どうして人はあんなに残酷になれるのに、その一方でそんなに優しくなれるんだろう。どうして人にはそんなにたくさんの面があるんだろう。あんなに優しかったお父さんも、残酷なことをしたのかな。僕ももし大人になっていたら、戦争に行かなくちゃならなかったとしたら、残酷なことをしてしまうんだろうか。苦しんでいる人たちを助けようともしないで、もっと苦しめるようなことをしてしまうんだろうか。怖いんだ。僕はそんなことしたくない。みんなにもそんなことしてほしくない。僕がいたせいで、僕らがいたせいで、戦争は起こったのかな。みんな僕らを守るために残酷なことをしたのかな、僕は、僕は生まれるのが怖いんだ。そんな風に失ってしまうことがそんな風にみんなが死んでいっちゃうことが、怖くて怖くてだめなんだ。僕なんていなければよかったのかなってどうしても考えちゃうんだ」
「そんなこと、そんなこと言わないでくれ。私は、私は君に会いに来たんだ。言っただろう、私はこの国の子孫なんだ。それは、ただ血が繋がっているからじゃない。ただ、肌の色や目の色に意味を見出しているのじゃない。私は、好きだった。この国のことが、話に聞いた時から、ずっと好きだったんだ。祖父から聞いた話が好きだった。滅んでしまったことが悲しかった。この国の文化は今も大切に継承されている。大切にされるのは、かわいそうだからじゃない。この場所にあったものが素晴らしいものだったからだ。ここに住んでいた人たちが、作り上げたものが素晴らしかったからだ。決して、簡単に失われていいものじゃなかった。決して奪われていいものじゃなかった。うまく言えない、どうか、どうかわかってくれ、私は、私は、君に会えてうれしかった。この国に住んでいた人たちに会えて、とてもうれしかった。私の知っているこの国は、祖父から伝え聞いたこの国は、君たちだった。そこに暮らし、生きている人たちこそ、私にとってのこの国だったんだ。私が大好きで、憧れ続けたこの国だったんだ。だから、だから君らが苦しんでいることが、悲しみの中にいることが、かなしくて、かなしくて、仕方ないんだ。どうか、自分の人生を、生きることを呪わないでくれ。すべてを悲劇で終わらせないでくれ。いまこのときを、ここで会えたことを、その喜びを、その悲しみを、どうか否定しないでくれ。私がここに来た意味を、どうか否定しないでくれ」
どうして人の優しさは、残酷さに負けてしまうのだろう。どうして人は人を殺すのだろう。分かり合えるはずだ、知ることができるはずだ、人間である以上共通するものが、きっとあったはずだ。奪い合わずに助け合うことがきっとできたはずだ。命令したのは誰だ。殺したのは誰だ。その眼には彼らの姿が本当に映っていたのか?人間とはなんだ。生きるとはなんだ。何のために人間は知能を得た。ただくだらない同族殺しを延々と続けるためか。独善的な正義を振りかざしこの世を地獄に堕とすためか。何のために戦い、何のために死んだ?どうして誰も彼らのために優しい声を掛けなかった。どうして深い苦しみの中に置き去りにした?こんなことは間違っている。絶対に間違っている。間違ったまま、忘れ去ってたまるものか。なかったことにさせてたまるものか。
「私は、祈るよ。君たちのことを、これからもずっと祈る。忘れたりしない。絶対に、君たちのことを、ここに来たことを、出会えたことをなくしたりしない。ずっと、ずっと祈るよ」
「ありがとう、お兄さん。お兄さんは、優しいね。僕は、優しい人になりたい。お兄さんみたいに、苦しんでいる人に手を差し伸べる人になりたい。なれるかな?ぼくに、なれるのかな」
「何を言っているんだ、君は、もうとっくに優しい人じゃないか。君は、私を心配して声を掛けてくれたのだろう?君が声を掛けてくれて、私は助けられたんだ。君の中にはもう、君の目指すべき姿があるんだよ」
「僕の中に?」
「ああ、そうだ。人は君の言うように多くの面を持っている。だがその中から、どんな自分を良しとするかは君次第だ。君は選べるんだ。優しい人になりたいと君が望むなら、優しい人になることを選べばいい。君が望めば、君がそのために戦えば、それは必ずできることなんだよ」
「そうか、そうだよね、僕は選べる。その通りだ。誰かに強制されるわけじゃなく、誰かに無理矢理やらされるわけじゃなく、誰かに命令されるわけじゃなく、自分の姿は自分で選べるんだ。僕にはそれができるんだ。ありがとう、お兄さん。僕らに会いに来てくれて、僕らに手を差し伸べてくれて、本当に本当にありがとう」
ありがとう
多くの人の声が聞こえた。
皆が私のことを見ている。温かく、優しいその涙が、頬を流れていく。
どうして失われてしまったのだろう。
どうして奪われてしまったのだろう。
皆の目が、その笑顔が、私へと向けられていた。
私に感謝してくれていた。ただ骨を拾い上げただけの私のために、喜び、泣いていた。
ありがとう
一人一人の死が酷く悲しかった。そこにいる一人一人に深く祈りたかった。
堪らなく胸に感情が押し寄せ、私は声を上げずにいられなかった。
涙が溢れ、この光景を焼き付けようとする心に歯痒く、視界を淡い光が覆っていた。
ありがとう
足元から聞こえたその幼く甘い声が、切なく、苦しかった。
任務の遂行には結局二年半の歳月を要した。
私は日々彼らに祈りながら、担当の地区で発見した遺骨をすべて収容した。
工事が進められているはずの墓はまだ完成しておらず、事を有耶無耶にされないよう帰国後は有志を募り嘆願書を提出する計画を練っていた。
「帰るんだね」
「ああ」
「寂しいな」
少年とのやり取りはその後も続き、彼以外の姿も時に見かけるようになった。
「聞きにくいことだが、君のお母さんは」
「まだ眠ってるみたい」
「そうか」
少年の話では、まだ目を覚まさない人や会えない人がたくさんいるということだった。
その心残りを晴らしてやりたかった。
「また来るよ」
「そっか。楽しみにしてるよ」
「なぁ」
「ん?」
「いつか、私はここに住みたいと思ってるんだ。そのときは歓迎してくれるかい」
「うん!」
帰国の日、少年は私に手を振った。
姿は見えなくても、多くの人がその傍らで手を振ってくれているのが分かる気がした。
私は誰も居ない機内から彼らに大きく手を振った。
物語は続いていく。
私は、この国の人間で在り続けよう。私がそう選んだままに。
人の子の心など知る風もなく、太陽はオレンジ色の光を揺るぎなく大地に投げかけていた。