第二話・『ねずみ色』
幻のVRデバイス《メモリア》。
その名を知る者は多いが、触れたことのある者は限られる。不本意ながら俺もその中に入ってしまっているわけだが、さらにそれを使ってVRの世界にログインした者はさらに限られ、たった一人だけ。
唯一無二の義妹、砂田朱里だけだった。
※※※
一度だけ、《メモリア》の全貌を間近で見たことがある。眠るように目を閉じる朱里の頭を包み込み、ただ俺を拒絶していたねずみ色のマシン。全くくだらない、その言葉とは裏腹にこぼれ落ちる冷たい涙。
あれから月日がたち、再び目の前に、あのねずみ色がある。
「どうなっているんだか……」
俺の声だけがひたすらこだまする。真っ白で、簡素な空間。ぽつんと置かれた《メモリア》には「《FFO》β」とプリントされ、それ以外にはなにもない。たしか、ベータテストの記念製品だ。結局朱里の事件のせいで誰に買われることもなかったが、一時は一世を風靡したロゴマーク。
しかし。
FFOのベータテストなんて存在しない。
父が作ったことが判明した世界初のVRMMORPGは、朱里の死により大きく報じられたが、後日それは廃棄され、存在はこの世から消えた。
しかし、ここは俗に言う「あの世」だ。ありうるのか。もしかして、パラレルワールド的なところに転生してきたのか?
まあ、考えたところで意味がない、とため息をつく。親父の遺品で、義妹の遺品でもある《メモリア》。おそるおそる手を伸ばす。いつの間にか、少しやけになっている自分がいた。生前はあんなに忌み嫌っていたゲーム、その真骨頂に自分から近づこうとしているのだから。
なめらかな金属面に手が触れた瞬間、俺の脳内に濁流のごとく記憶がやってきた。
朱里は《メモリア》に入っている高出力バッテリーに脳を破壊されたというように報道された。VRによる五感の再現に用いられるデータが想像を超えており、故障を起こして高熱化。それがプレイヤーにも影響を及ぼした、と。
砂田修一最後にして最大の失敗ですね。そのニュースに出ていたアナウンサーはそう言った。朱里が《メモリア》とFFOを見つけたとき、きっと彼女は好奇心だけで手に取ったのだろう、砂田修一の失敗作を、と家までやってきた記者は言った。本当にそれだけなのだろうか。そうな気もするし、そうでない気もする。
どれも憶測でしかない。馬鹿馬鹿しいことだ。真実は彼女だけが知っているというのに。
俺は再びため息をつき、ついに《メモリア》を装着した。鼓動が高まる。ゲームへの嫌悪と、父親の遺品を使うのだという興奮と、朱里の件を思い出しての恐怖と……。
もう死んでいるのだから何をしたって変わらない、という諦めと。
一度だけ、父が生前よくプレイしていたというRPGゲームをパソコンで遊んでみたことがある。父は作る側だったが、プレイヤーとしても優秀だったという。しかし、これを親父が――自分とは違う、天才プログラマー砂田修一が愛していたのだという事実に嫌悪感を覚え、その時依頼ゲームというものに触れたことはなかった。
上向きのCに縦棒の入った電源マークに親指をかざし、光ったところで深く被る。そのまま横たわり、瞳を閉じ、開けると。
[ログイン]と読めるボタンが手元に存在した。ボタンを優しくタップする。
[このゲームはβ版です。]
浮かび上がる注意書き。朱里がプレイしたのは、これだったのだろうか。α版は親父が管理していたなら、朱里はそちらのデータも手に入れていたのだろうか。
[方向・身体・空間補正を行います。しばらくお待ちください。]
視界の真ん中で、青い点が小さな円を描く。
その円がふっと消え、代わりに重力が戻ってきた。
目の前には、[プレイヤーネーム:シズキ]の文字。
「名前はそのままでいいか」
[次へ]というボタンを押し、目を再度閉じ。
そして――。
一瞬のまばたきのうちに、世界が切り替わった。
ファースト・ファンタジア・オンライン、通称FFO。
亡き父が残した、もう一つの世界。
亡き妹が求めた、美しい世界が、そこにあった。