第39話:佐伯の術式
――伊勢内宮、本殿。
皇国祭祀の中核に、緊張が走る。
白い神官装束の男を前にして、仁王丸は目を見開き、唖然として立ち尽くしていた。
――陽成院の……皇子!!
あり得ない、受け入れがたい、そんな現実が目の前にある。
父を焼き、一族を焼き、国を焼いた憎むべき暴君、その皇子が、穏やかな表情ですぐそこに立っている。
彼女は、見開いた目を閉じることが出来ない。
そんな彼女に、陽成院の皇子はゆっくりと歩み寄り、そして――
「……ぇ?」
「まずは、謝罪しよう。この度のこと、そして、父帝が其方らに強いた苦痛を」
彼は仁王丸に跪き、頭を下げた。
突然の、予想だにしなかった行動。
状況が理解できずに、彼女は固まった。
憎むべき、慈悲をかける必要もない一族の仇から掛けられた謝罪の言葉。
無論、この程度の謝罪で彼らを赦すほど彼女の恨みは浅いものではない。
「……ど、どうして……!」
だが、血も涙もないと思っていたはずの存在からは、決して出てこないと思っていた言葉。
理解できずに、沸き上がった感情と現実の間で情緒をぐちゃちゃに乱されながら、ただ狼狽する。
そんな彼女の目を真っ直ぐに見て、清棟は口を開いた。
「これは、私も負うべき業だ。その償いをするために、私はここにいる」
「……っ! 勝手なことをっ!!」
仁王丸は声を荒げる。
だが、清棟は彼女の瞳から目は離さない。
「勝手は承知。だが、それでも為さねばならぬことがある」
「そんな……ふざけたことことを言わないで下さい!! 貴方に、陽成院の皇子である貴方に、なぜそんな義理が」
「私の母は佐伯氏の出だ」
清棟は、静かにそう告げる。
その言葉に、仁王丸は言葉を失い、ただ茫然として立ち尽くした。
そんなことがあるはずがない、そう断じてしまいたくなる。
しかし、彼女は知っていた。
陽成院派の反乱が起こる前に、陽成院の後宮に入った佐伯の人間がいることを。
だが、その人物の子息と、まさか今ここで出会うとは思ってもみなかったのである。
「父帝は、わが母の一族を滅ぼした。それだけではない。つい先日も平安京の無辜の民に刃を向けたのだ。これ以上の狼藉は耐えられない」
仁王丸には、彼の言うことが分からない。
いや、本当は分かっているのに、分からないふりをしている。
同族の血を引き、彼女と同じ思いを持つ陽成院の皇子が、目の前にいる。
陽成院は全て須らく滅ぼすべき敵――そう思い続けてきた彼女の中で、何かが崩れようとしていた。
「今更、何を……」
「そう、今更だ。その謗りは甘んじて受け入れよう。私は、この十年何も出来なかった。無力だった。何度も父を諫めようとしたが、全ては水泡に帰した。故に、私は決めたのだ」
清棟は一つ息を吐く。
そして、真剣な面持ちを浮かべて仁王丸を見た。
燭台の灯が、清浄な風に揺れる。
そして――彼は彼女に手を差し伸べた。
「私は、父帝を、陽成院を討つ。その為に、其方の力を貸して欲しい」
清棟は、臆することなく堂々と言い放つ。
父を討つ――それは即ち、反逆の宣言であった。
だが、彼女には分からない。
「なんで」
憎むべき相手、その第五皇子から差し伸べられた手の意味が、仁王丸には分からなかった。
そう、なぜなら――
「なんで……私に、何の力が……」
陽成院の「影」に打ち砕かれ、悠天にあざ笑われた仁王丸の「強さ」。
己の弱さを悔い、日々修練に明け暮れても、届くはずのない存在が目の前にごまんといる。
その程度の強さだ。
だが目の前の男は、そんな絶望に沈んでいた彼女に力を貸してくれと言った。
自らの出自すら打ち破り、陽成院を滅ぼすのに必要な、その力を、と。
しかし、他ならぬ彼女が一番理解していた。
「私には、そんな力は……ありません」
仁王丸は、力なくうなだれ、悲痛な表情を浮かべる。
なにせ、今ここにいるのも己の弱さの結果だからだ。
「私では……貴方の求めるような勤めは……」
「そんなことはない」
清棟は首を振る。
仁王丸は、彼を伏し目がちに見つめた。
そんな彼女の濃紺の双眸に、翡翠の双眸が映る。
清棟は、彼女の目を見つめたまま頷いた。
「これは、其方にしか出来ない。『佐伯の若君』である其方にしか、出来ぬのだ」
「――ぇ……?」
その言葉に、仁王丸は目を見開く。
悠天に鼻で笑われ、再臨に否定された「佐伯の若君」としての自分を肯定する、清棟の言葉。
それは、仁王丸の心に掛かる靄を取り払うもの、そして、今の彼女が一番欲している言葉であった。
しかし、彼女が目を見開いたのはそれだけが理由ではない。
仁王丸、いや、佐伯の族長に清棟が期待する力――
佐伯の秘儀を継承するものなら、それが何かなど考えるまでもない。
だが、あまりに馬鹿げている。
あり得ないと言ってしまってもいい。
どう考えても悪い冗談だ。
しかし、ここは伊勢の最深部。
そして、奥に見えるのは神鏡――八咫鏡。
「まさか……貴方は!!」
なら、不可能ではない。
つまり、彼の言葉は冗談などではなかった。
「ああ、そうだ」
清棟は、不気味な笑みを浮かべる。
そして立ち上がり、仁王丸を見つめながら自慢げに手を開いた。
「私は、新たな『神裔』となる!!」
堂々と言い放った清棟。
仁王丸は言葉を失う。
「神裔の力を以てして、父帝を誅する。其方の力、佐伯の秘儀があれば、私にはそれが出来る!」
佐伯の秘儀、それは即ち、強制的な皇位継承である。
天孫降臨、そして、三種の神器。
その神話をもとに編み出され、天忍日命の末裔に継承されてきた秘術だ。
三種の神器を運んだ天忍日命。
その末裔たる名門が、大伴氏と佐伯氏である。
そして大伴氏が絶えた今、その秘儀を継承しているのは仁王丸ただ一人。
皇位継承の保険にして最終手段、それが、彼女が受け継いだものの正体であった。
「本気……なのですか?」
清棟は、自身の血筋と仁王丸の術式を以って、皇国の新たな帝になろうとしている。
だが、それはつまり――
「今の帝……平安京の朱雀帝とも戦うつもりだと……?」
「無論、そのつもりだ」
「――しかし……」
陽成院のみならず、朱雀帝とも刃を交える、そう断言した清棟。
しかし、仁王丸は苦し気な表情を浮かべた。
今、彼女は別に朱雀帝の派閥というわけでもない。
彼女が属する高階は、朱雀帝よりの中立だ。
だから、本来朱雀帝がどうなろうと特別問題はない。
ないが、それでも今上に刃を向けるような真似は出来なかった。
そんな彼女に、清棟は静かに口を開く。
「其方は、何故忠平が、そして、朱雀帝が佐伯を見殺しにしたか知っているか?」
「それは――」
十年前の、陽成院派の大攻勢。そして、平安京焼き討ち。
朝廷は、灼天を抑える佐伯を見殺しにする判断を下した。
彼らは佐伯を、多方面から攻め来る敵兵を抑えるための捨て石にした。
そう、彼女は思っていた。
無論、怒りはある。
だが、それならまだ筋は通っていた。
それに、神子一人を足止めするだけの力は持っている、そう信じられて状況を任されたのだ。
なら、それは名誉なことだ。
故に、もしその通りなら、救いはあったのだ。
しかし、そうではないことに仁王丸は薄々勘づいていた。
仮にそうであったなら、佐伯の遺児である彼女たちがこれほどまでに虐げられ、官位も与えられずに家人の身まで落ちぶれることなどあるはずがない。
師忠に拾われなければ、彼女たちは鴨川の河原で凍死していたことだろう。
もしそうでなくとも、きっと物乞いか奴婢になっていたに違いない。
十年前のあの日から、自分たちが受けてきた屈辱の日々を思い出し、仁王丸は唇を噛みしめる。
その様子を見て、清棟は目を伏せ頷いた。
「そう。奴らにとって、佐伯は邪魔だったのだ」
仁王丸は何も言わない。
いや、何も言えない。
彼女は、それが恐らく真実であるということを知っている。
故に、苦し気な表情を浮かべて聞いていることしか出来ない。
清棟は、痛ましい表情をしてなおも続ける。
「自らが立てた帝が、一介の臣下に否定される、その事態を恐れたのが平安京の連中よ。つまりは、その程度の思惑で代々己らに尽くしてきた一族を見捨てるような連中だったのだ」
そんなことは分かっていた。
分かっていたが、信じたくなかった。
「そんな……はずは……」
「朱雀帝も陽成院も、根は同じだ」
彼女の現実逃避は、彼の一言に一蹴された。
とうの昔に気付いていたはずの事実、それを今、はっきりと突きつけられる。
――別に、我にとっては帝が勝とうが上皇が勝とうが興味はない。どうせ同じ穴の貉よ。
清棟の言葉が、先ほどの悠天の言葉と重なる。
避けようのない残酷な事実に、仁王丸は力なく膝をついた。
そんな彼女に、清棟は歩み寄る。
そして、彼は片膝を付き、仁王丸の手を取った。
「其方は、佐伯の若君だ。なら、若君としての務めを果たせ」
「……!!」
仁王丸の脳裏に、亡き父の顔が浮かぶ。
佐伯の未来を託し、幼い姉弟を残して死んでいった父の、あの日の言葉が蘇る。
「其方の父の仇を、私とともに討とう。そして、佐伯を再興する。さすれば、それが亡父への供養となろう」
その言葉が、彼女の躊躇いを払拭した。
「そして、我らがこの国を作り直す!! 我らが新たな時代の為政者となるのだ!!」




