37話乙:猿田彦
今回は仁王丸視点です。
私は、一目散に駆け出していた。
考えなんて何もない。
ただ、このままでは何か大切なものを失ってしまう。
そんな気がして、怖くなって、頭が真っ白になって、気付くと私は夜の闇に飛び出していた。
怖かった。
怖かったのだ
彼女の言葉は、在り方は、いや、存在そのものは、今の私が私であることを否定する。
私がそうあろうと決めて、そうあろうとし続けてきたものを、彼女は易々と壊してしまう。
それが、ひたすらに恐ろしかった。
彼も、そうだ。
彼は、今の私が私でなくなることを肯定してしまう。
あの日以来私が必死になって積み立ててきたものを認めたうえで、それ以外の在り方を示してしまう。
私は、今の私のままでなくてはいけない。変わることは許されない。
変わってしまえば、これまで大事にしてきたものが、全て無駄になってしまう。
そんな私に、「もっと自由に」などと言ってしまえる彼は、彼女以上に恐ろしかった。
でも、彼らの方が正しいのかもしれない。
今の私が、歪んでいるのかもしれない。
いや、そんなことは分かっていた。
分かってしまっていた。
今の自分が、何者かになろうとして、何かを演じて、演じて、演じ続けて、結局本当の自分からは離れた空虚な張りぼてになってしまっていることくらい、自分が痛いほど分かっていた。
そして、それに固執して変わることを恐れ、手段と目的が入れ替わってしまっていることも。
分かってはいたけど、本当の自分が何なのか、そんなもの、もはや自分にも分からなかった。
でも、分かってしまえば、私は今の私でなくなってしまう。
私が今の私であることが出来なくなれば、私はきっと、生きる理由を失ってしまう。
根拠はない。ないが、そんな確信があった。
だから、私は私でない誰かを演じ続けたかった。
そんな私に、彼、彼女の言葉は最も危険なものだった。
だから、逃げだしたのだ。
▼△▼
少女は、賑やかな雑踏を駆け抜けていく。
夜の町を照らす喧しい灯りが、彼女の頬を伝う涙に反射してきらきらと輝く。
上機嫌な人混みは、そんな彼女の方を振り返る。
温厚な伊勢の人々は、尋常ならざる様子の彼女を放っておいてはくれなかった。
だが、彼女は気に掛けない。
いや、目にすら入らない。
彼女は、ただ湧き出す感情に任せて駆けていく。
そして、人のいない、心地よい闇に引き寄せられるように喧噪を後にした。
「……ぁ……はぁ……」
それから、一体どれだけ走ったのだろうか。
ただ、彼らのいる場所から離れ、灯りを厭い、呑み込まれそうな闇を避け、只管に走り続けた彼女は、気付けばまた違う町の前まで来ていた。
――宇治……伊勢内宮の門前町……
鮮やかに彩られ、煌々とした光が闇を照らす宇治の町。
皇大神宮の祭神の霊威がそのまま町に移ったのかのように、さながら昼のように明るい町。
そんな町を見て、彼女は立ち尽くす。
そして、ふと我に返った。
――なぜ、私が逃げ出さなくてはいけないんだ?
よく考えれば、今回彼女は何も間違ったことはしていない。
ただ、彼らの怠惰を咎めただけだ。
――なのに、何故こんな思いをしなければならない? 何故、私だけがこんなに思い悩み、苦しまなくてはならない?
疑問、疑念、懐疑、不平、不満、そして怒り
そんな感情がふいに湧き出してきた。
――そうだ。悪いのは私じゃない。どう考えても、悪いのはあの人たちじゃないか!! 何が「何とかなるっしょ」だ! 何が「疲れた」だ! 何が「面倒」だ! 何が「動きたくない」だ!! ふざけているのか!! 頼まれたから受けてやった? 成り行きで渋々行くことになった? 馬鹿を言え! やる気がないならそもそも受けるな!! そういう人間が一番癪に障る。こんなに真面目にやってきた私を馬鹿にしているのか!!そんな奴らの為に、何故私の方が逃げ出し、走って、こんな所にいる? おかしいじゃないか!!
「――ッ!!」
声にならない叫びを上げる。
ここにきて、抑えてきた彼らへの不満が爆発した。
従者だとか、家人だとか、そして、「佐伯の若君」だとか、そうした立場とは関係ない。
彼女自身の純粋な感情の発露。
彼女は、子供のように地団太を踏み、木を殴りつけた。
拳から、血が滲む。
透き通るように白い肌が、月明かりと宇治の町の灯りを受けて、紅く染まっていく。
「……はぁ、はぁ……」
息も絶え絶えに、彼女は手を胸に当てて平常心を取り戻そうとする。
だが、なおも右手の痛みとともに、海人たちに対する怒りが燻り続けていた。
そんな時、ふと月が雲に隠れた。
辺りは宇治の町の他に光を失い、闇に包まれんとする。
そして、彼女の目には町の灯しか映らなくなり――
「……あれ?」
ふと、少し先の木々の隙間に、微かに灯りが見える。
さっきまではなかったはずなのに。
山田の町の灯りではない。
そして、豊受大神宮の灯りでもないはずだ。
――じゃあ、あれはなんだ?
「……もしかして、陽成院派の兵?」
そう距離はない。
彼女はその灯りの方へと駆け出した。
そして――
彼女が辿り着いたのは、神社の鳥居の前だった。
その向こうに見えるのは、飾り気のない、しかし、綺麗に整えられた境内。
そして、灯篭の灯が灯り、淡く照らされる本殿。
――向こうから見えた灯りは、これだったのか。
仁王丸は、恐る恐る鳥居をくぐり、境内へと足を踏み入れる。
その時だった。
「お久しぶりやね、お嬢さん」
ふいに後ろから飛んできた、聞き覚えのある声。
それも、出来れば再会したくなかった人物の声。
今となっては忌々しい、自分たちを謀ろうとしたその人物の声だ。
「――っ!!」
彼女は、反射的に抜刀、声のする方を斬りつける。
――が、
「そんなに怖がらんでも……なぁ。別にとって食おうって訳と違うで?」
彼は、へらへらと笑いながら、何事もないかのようにそこに立っていた。
そう、彼は――
「舟で出会ったご老体、いや……」
陽成院派の手先――そう言おうとした彼女を彼は手で制する。
「先にゆうとくけど、ぼくは別に上皇さんの手下とかでは無いから」
「!?」
――陽成院派の者ではない!?
仁王丸は、驚きとともに怪訝な表情を浮かべる。
そして、口を開いた。
「なら、貴方は何者なんですか」
「ぼくか? えぇ……そうやなぁ……」
いつぞやの老人は、暫し腕を組んで天を仰ぐ。
そして、鳥居に掲げられた額を見て、ぽん、と手を叩いた。
「あぁ、そうそう! 猿田彦! 猿田彦って呼んで頂?」
さらに、彼は怪しげな笑みを浮かべて口を開く。
「でな、何しにここに来たかっちゅうたら、お嬢さんを連れに来たんよ」
「……私を?」
「そうよ。お嬢さんをある人に会わせるよう頼まれてん。そのお遣いがぼくや」
神話の中の、導きの神の名を名乗った怪老。
彼は、灯篭の灯に頬を照らされながら、けたけたと不気味に笑っていた。




