第3話:宰相と名無しの少年(上)
先に言っておきますが、宰相の話は長い上にややこしいことで宮中に知れ渡っています。割と皆適当に聞き流していますので、ご注意を。
白い砂、綺麗に整えられた松の木、池、そして――
――典型的な寝殿造り。いかにも平安って感じだな。
ようやく平安平安したものに巡りあい、ある種の納得が少年に訪れる。
だが、そんなことを考えている場合ではない。
都の外れから一瞬で宰相殿とやらの屋敷に移動したのである。
ただ事ではない。
「お前、一体何を……」
だが、そんな少年の言葉に犬麻呂は半ば呆れたように、
「は? アンタ神子なのに契神術も知らねぇのか」
「契神術?」
全く聞いたことがない単語に、少年は呆けた顔で答える。
犬麻呂は、表情を変えずに、
「書いて字の如くだよ。八百万の神と契り、その力を借りる術だ」
当然のように言い放つ。
しかし、やはり少年は知らない。
ただ、タイムスリップを経験した彼にとって、その程度は些末なことであった。
というより、情報過多でフリーズ寸前の彼の頭脳は、考えることを放棄した。
「なんか分からんけどすごいな。防御だけじゃなくて瞬間移動まで出来るとか万能じゃん」
「万能って、んなわけねぇだろ。それに、術式ごとの向き不向きの個人差はデケェし、使えるやつなんて一握りだし」
「ふーん、じゃあお前って実はすごいやつなのか?」
いきなりの称賛に意表を突かれる犬麻呂。
分かりやすく表情が変わる。
実は案外単純な奴なのかもしれない。
そう思うと、少年の警戒心は少し薄れた。
「へ? ま、まあそんなことあるぜ! まぁあれは宰相殿の術式を借りたやつなんだがな」
「なんだ……」
「んだとコラァ!」
少年がある程度犬麻呂の扱い方を掴んできたところで、彼らは寝殿の前まで辿り着く。
すると、仁王丸、犬麻呂が跪いた。
突然、空気が張り詰めたものへと変わる。
その空気を読んで少年も続いた。
「宰相殿、お命じの通りお連れして参りました」
仁王丸が主人を呼ぶ。
少年の肩にも自ずと力が入った。
――さっきも言ってたけど宰相……いきなり上級貴族と対面か……
ただ、宰相といっても西洋や中国のように最高位の臣下というわけでもない。
古代日本の宰相は、参議という役職の別名だ。
参議は、左右大臣、大納言、中納言の下にあたる。
だが、この時代の最高権力の一角には違いない。
彼の気分次第で自分の首が体とお別れすることも十分あり得る。緊張して当然だ。
――この時代の礼儀作法なんてほとんど分からんぞ……どうすりゃいいんだ? 現代通りでいいのか?
全神経を寝殿の階段、その上に向ける。だが、
「仁王丸、犬麻呂。ご苦労様」
「うおあ!!」
想定とまったく異なる場所から飛んできた一言に、少年は思わず声を上げる。
その前髪の長い男は、少年にその衣の裾が触れるほどすぐ近くに立っていた。
そして彼は、少年の顔をジロジロ見て幾度か頷く。
「ふむ、成る程成る程。これは……」
少年の頬を冷や汗が伝った。
――なんだこの男は……いや、この人が?
邸宅の主人は目を伏せ、少年に軽く礼をする。
「ふふ、驚かせてしまいましたね。私は正三位参議高階朝臣師忠、しがない廷臣です。お待ちしておりましたよ、神子様」
少し青味がかった黒髪に長身、白粉は付けていないようなのに色白。
一言でいうなら美丈夫。
見たところ歳は三十手前。
だがそれにしては老成しており、上級貴族の風格を遺憾なく発揮している。
そんな人物が何の前触れもなくすぐ傍に現れたわけだ。
驚き恐縮しないわけがない。
「おっ、お初にお目にかかりましてごさいまするっ! この度はご機嫌麗しゅう……えっと……」
動転して無茶苦茶な言葉遣いになる少年に、師忠は微笑み言葉をかけた。
「それ程畏まらなくともよろしいのですよ? どうかお気を楽にしてください」
「そ、そうですか。では改めて。俺の名前は……」
少年はいつも通り普通に名乗ろうとした。
なのに、
――あれ?
彼は、突如猛烈な違和感を抱き、言葉に詰まる。
――え? は? そんなことって……
少年はこの世界にきて初めて底知れぬ恐怖に襲われた。
先ほどの劇的な逃走劇、そして壮絶な殺人現場も恐怖であったが、それとはベクトルが違う。
もっと根本的に質の異なる、アイデンティティを揺るがしかねない現象が己のあずかり知らぬところで起きていた。
――名前が、思い出せない……?
唖然とし、固まる少年。
犬麻呂と仁王丸は不思議そうにその様子を眺めるが、少年にはもはやそれは目に入らない。
ただ、師忠だけが表情を変えずに微笑んでいた。
――そんな馬鹿なことが。自分の名前だぞ! いや、この期に及んで自分の常識でことを推し量ろうとすること自体が馬鹿だ。転移、転生前の記憶が都合よく無くなってるなんてその手の話じゃテンプレじゃないか。そもそも転移が異常事態。こんなオカルト紛いの状況でまともな思考なんて無意味だ。これしきの事でパニクってどうする! 落ち着け、とりあえず素数を数えよう。1、2、3……1って素数だっけ?
思考が脱線し始め、本格的にこんがらがる前に少年は一度頬を自分で叩いた。
――落ち着け。今俺が持つ選択肢は二つ。笑って誤魔化すか、偽名を使うか。でも、恐らく向こうは俺の情報をある程度持っている。嘘など通用しないだろう。となれば、選択肢は自ずと決まる――
そして、意を決しニカっと笑った。
「すみません。名前忘れちゃったみたいです」
師忠邸を秋風が吹き抜ける。
衝撃の告白に返す言葉もなく、辺りはしばしの静寂に包まれた。
「「はぁ!?」」
仁王丸、犬麻呂の声が重なる。
自分の名前を忘れるなんて普通あり得ない。
まあ驚くだろう。
一方師忠は幾度か頷くだけで依然として微笑。
まったく思考が読めない。そして、
「まあ、そんなこともあるかもしれませんね」
そんな師忠の感想は酷くあっさりとしたものであった。
――いや、ねーよ!
突っ込みそうになるのを必死に抑え、話を続けようとするが、
「ともあれ、いつまでも立ち話というのもなんですから、中へどうぞ」
師忠は自邸に少年を招き入れた。