1話:始まりはいつだって突然
少年は、小路を全力疾走していた。
――マジか……マジかよ!?
見慣れない町、見慣れない服装、見慣れない風俗。
何一つ状況が掴めないまま、彼は無我夢中で走り続けている。
だが、そんな彼にも一つだけ分かることがあった。
それは、ここが日本だということである。
なんたって、人は日本人っぽいし、聞こえてくる言葉も日本語だ。
「くッ!!」
それ故彼は、時代劇のセットにでも迷い込んだのかと思った。
いや、そんなはずはないのに、そう思い込もうとした。
言ってしまえば、無謀な現実逃避である。
だが無情にも、開幕30秒で現実は襲いかかって来た。
――流石に役者さんなら一般人に刃物は振るわないよなぁ!!
少年がこの世界で初めて遭遇したのは、不運にも暴漢たちだった。
つまり、少年は金目の物目当てで追いかけられている最中なのである。
「クソッ!! 一体なんだってこんな目に合わなくちゃいけないんだ!!」
残念なことに、通りの人々が手助けしてくれる気配も、なんなら気にする気配すらない。
なんと言っても、周りは見たところ貧民街。
このようなことは日常茶飯事なのだろう。
下手をすれば、奴らと住民がグルということさえあり得る。
だが、そんなことを気にしても状況は好転しない。
今彼に出来るのは、全力ダッシュ、ただそれだけであった。
50m7秒3という高3生にしては何とも言えない微妙な記録を持つ彼が、この時ばかりは6秒フラットくらいで人の間をすり抜けていく。
しかも、参考書が詰まった学生カバンを担いで。
――火事場の馬鹿力ってやつか……本当にあるんだな。
彼はそんな場違いな感慨を抱いた。
しかし、どうでもいいことを悠長に考えている間にも、奴らは後ろに迫って来ている。
余裕をかましている場合ではない――と思われたが、
「ハァ……ハァ……あれ?」
少年が恐る恐る振り返ってみるも、奴らの姿はない。
「あ、あれ、撒けた? 本当に?」
周りを見渡し、念入りに確認するがどこにも見当たらない。追跡を諦めたのだろうか。
もしかしたら、この世界の人間の身体能力はそれほど高くないのかもしれない。
ともあれ、危機は去った。
一気に緊張の糸が切れ、少年は地べたにへたり込む。
そして、ひとまずこの怪事の前後の記憶をたどり始めた。
▼△▼
「ああ、俺何やってんだろ」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
予備校帰りの夜道の中、少年は人生を振り返る。
とはいえ、振り返るほどのものでもない。
人より少し勉強が出来ただけで、特別何かを成し遂げたわけでもない17年は、彼にとって酷く面白みのないように感じられた。
そんな感傷に浸るに至った原因は別に大したものではない。
大学受験を目前に控えた平凡で孤独な高校生特有の虚無感といったものが、ここにきて溢れ出てきたといった具合である。
――ああ、いっそ全く違う世界に飛んで行ってしまえたらなぁ……
軽率に現実逃避に走る。
まだ夢見がちで未成熟な高校生らしい思考回路だ。
そんな彼の目に、ふと古い神社の鳥居が映った。
いつもは素通りしていた、さして大きくもない神社である。
雨上がりということもあり、その参道は幽玄さを演出していた。
――へぇ、雰囲気あるなぁ……
不思議な引力に、彼は足を止める。
――鳥居は神域との境界、いわば異界への門。実は、この鳥居は異世界への扉だったりして……
これを魔が差すといわずしてなんと言えようか、彼は何気なくその鳥居をくぐった。
「鳥居を抜けると、そこは異世界でしたー! なんてね……」
そう戯言を吐いて足を踏み入れた瞬間のことである。
彼の右足は、踏むべき地面を失った。
「?」
いや、失ったという表現は適切ではない。
地面は確かにそこにある。
無くなったのは、接地点だ。
彼の存在する座標と、地面との間に無限遠が存在している。
要するに、世界が歪んだのだ。
比喩ではない。文字どおり歪んだのである。
――疲れてんのかな……
突然の出来事に少年の思考は一瞬停止し、その現実を受け入れることを拒む。
だが、世界の歪みは留まることを知らず、彼を飲み込んだ。
遂には地面まで崩落を始める。
「はぁ!? ちょっ、待っ……」
彼は急いで離れようとするがもう遅い。
視界に映る景色はグニャグニャと形を変え、元居た空間への退路を塞ぐ。
――え!? まさか本当に異世界転移!? そんな……急に!?
急激な世界の変容に彼の脳は追いつかない。
そして、意識まで遠のき始めた。
こうなってしまってはどうすることも出来ない。
出来ないが――
――異世界転移なら中世風の街並みと魔法、そして美少女がテンプレ……どうか女神様、願わくばそんな世界へ我を飛ばしたまえ……あとなんか強い祝福ください。
薄れゆく意識の中で全てを諦め、信じもしない神に祈った。
夢見がちな思春期男子らしく、最後の願いにしては贅沢が過ぎる気もする。
とはいえ、まともな心を持った神の為せる業であるならば、一つくらい聞き入れてやっても良さそうなものだ。
しかし、現実は甘くない。
「この期に及んで気楽なものだねぇ。まぁ、精々頑張ってね!」
愉しげな若い男の声。
――異世界転移って基本、女神様の仕業じゃねぇのかよ……
そんなことを思いつつ、彼の意識は途絶えたのであった。
▼△▼
――で、目覚めるとここだったってわけか。訳わからんよ。けど、素直に解釈すると異世界転移か……って、そう簡単に信じるほど中二病をこじらせてはいないぜ!
しかし、それを覆す物証が何一つない。
取りあえずスマホを取り出してみるも圏外。
これでは何の役にも立たない。
また、ここが時代劇のセットでないことは明白だった。
なんせ、規模が大きすぎる。
少年は結構な時間走り続けていたが、同じような街並みが延々と続いているだけだった。
遠くに見える川の対岸にも、今時田舎でもそうはなさそうな藁葺屋根が見える。
では、ここはどこなのか。
他にあり得るのは、少年が知らないだけで普通にこういう町があるという可能性だ。
だが、地理好きの少年がこんな大掛かりな歴史地区を知らないはずがなかった。
となると、結局思考は元の場所に戻ってくる。
――やっぱり、異世界転移……というより、タイムスリップ?
馬鹿らしいとは思いつつも、ひとまず少年はそう判断する。
さて、そうなると次の問題は、何時のどこか、ということだ。
――これほどの大きな町、もしかして江戸……いや、侍いなかったしそれは無いか。
彼は何気なく周りを見渡してみる。
「ほう……?」
この都市はどうやら盆地らしい。
過去の大都市で盆地、そして、侍はいない。
これらの情報に合致するのは――
――平城京or平安京か。そんでもって、平城京にあんな大きな川は無い。となれば、平安京が濃厚だな。
そう判断したうえで、彼は今一度、さっき見た風景を思い返してみる。
――荒れ具合的に結構後の時代なのか? いや、洛外か右京って線もある。 うーむ……
持ちうる知識を総動員して現在地を探る。
――左に見える川が鴨川ならここは洛外、桂川なら右京だ。そんでもって、右手には町が広がっている……てことは、あの川は桂川だな。
こう見えて彼はそれなりには勉強が出来た。
それに、歴史沼に片足突っ込んでいるだけのことはあってある程度使えそうな知識を持っている。
そんな彼がしばらく考えた末出した推論、それは、
「うん、ここは近世以前の京都の右京。それ以上は分からん!」
えらくざっくりとした結論を出したところで一旦考察を打ち切った。
そして、自身の持ち物を確認しようと鞄を開ける。
その時であった。
「へへ、やっと見つけたぞ、さっきの小僧!」
「!」
再び奴らが現れた。
それも、数が増えている。ざっと20くらいだろうか。
男たちは、少年の周りを瞬く間に取り囲んだ。
「くッ、そんなに俺のことが好きか……?」
この数では逃げ切れない。
勿論、戦って勝てるはずもない。
少年は強がったセリフを吐いてみたが、内心相当なパニック状態だった。
――ヤバい、これはヤバい!! 何か、何か手は……
彼はおもむろにカバンに手を突っ込む。
すると、四角く硬い小さな金属の箱が手に当たった。
人類の叡智―スマートフォンである。
――ん? これならもしかして!
少年は閃いた。
カメラのフラッシュ。
もしかすると、文明の利器に触れたことのない人間には妖術と映るかもしれない。
少年は、賭けに出た。
「さあ、荷物を全部渡してもらおうか」
暴漢たちが近寄ってくる。
――よし、今だ!!
少年は、勢いよくスマホを取り出す。
そして、カメラを起動しようとするが、
――パスコードを入力して下さい――
「そういやそうだった!!!」
彼のスマホは、ロック画面からカメラを起動できないことで不評な機種。
そのうえ、彼は賢いのかバカなのか、円周率の小数点以下256桁までをパスコードとしていた。
「え、ちょっと待って」
「待つか馬鹿ッ!」
鉈的な得物を暴漢の一人が勢いよく振り下ろす。
「ひゃうッ!!」
情けない声を上げながらも、髪の毛が数本掠め取られるのを肌で感じながら紙一重で回避。
「チッ、生意気な奴め!」
だが、すぐさま二発目が飛んでくる。
初撃で体勢を崩した彼には避けることができない。
――え……? 俺、ここで終わり……?
死を運ぶその一閃は、彼にはやけにゆっくりと見えた。
万事休す――誰の目にもそう思われた、その時である。
薄色の平安装束に、美しい黒髪が舞った。
「霊術『護法結界』」
鈴の音のような、透き通るような詠唱。
少年を守るように、突如光の壁が現れる。
まるで獲物を逃した野良犬が吠えるような鈍い音を立てて刃は吹き飛び、地面に突き刺さった。
「……は?」
暴漢たちも、少年も、何が起こったか理解できずに立ち尽くす。
そこには、雪のように白い肌の少女が、物憂げな表情で凛と立っていた。
「参上が遅れまして申し訳ありません。お怪我はありませんか、『再臨の神子』様」
彼女は、美しい濃紺の双眸を暴漢らに釘付けにしたまま、少年に言葉を向ける。
少年は、体の震えを抑えつつ顎を引いた。