その1
「そんなこと言ったって無理なものは無理なんだ!」
色のくすんだ古い木製のテレビ台の上に置かれた22インチのブラウン管テレビは毎秒30フレームの映像と音をもってドラマやニュースを休むことなく流し続ける。この映像はどこから来るのだろうか。目に見えない電波が古ぼけたアパートの側面にあるアンテナに拾われ、ネズミに噛まれボロボロになったコードを通ってテレビに流れ込む。それを私に見える可視光に変換して画面が光る。そんなところだろうか。もし電波が目に見えたら?この歩くたびに軋む床も、暴走して全てを凍結させる冷蔵庫も、キッチンコンロも全てが違って見えるのだろうか。
ドアを誰かがノックする音がぼろアパートの一室に響いた。チャイムが壊れているからだ。
「誰だ?」
コブはリモコンを拾うとテレビの音量を少し下げソファーの前にあるちゃぶ台に投げた。
「宅配便です」
モチアーゼが届いたんだ。デモクロフィンのストックは洗面台の棚に幾分か残っているがモチアーゼじゃないとまともなヴィジョンが見えない。
覗き穴のない扉を開くと薄汚い緑のカーペットが敷かれた廊下に宅配業者の男が立っていた。
「ジェイコブ・ブックマンさんですか?」
私の名前をフルネームで呼ぶのは警官と宅配業者くらいなものだ。
「そうだ。サインだな」
伝票にサインをして荷物を受け取ると男は会釈をして廊下を下って言った。日焼けと劣化の進んだ廊下はまるでホーンテッドマンションのようで、もしかしたら私は幽霊なのかもしれないと度々思うことがあった。
部屋に戻ると膨らむ胸を押さえながらキッチンの机に箱を置いた。カッターはないかとシンクの周りやキッチン周りを調べて回るが見つからない。そうだった。隣に住んでるチャーリーに貸したっきり返してもらっていないんだった。
「くそ。開けられないじゃないか」
渋々爪を使って包装を破ると中にはモチアーゼが一箱と白い封筒が入っていた。
「お客様へ。毎度モチアーゼのご購入ありがとうございます。お客様の会員レベルがゴールドに上がりましたので我が社のパーティに参加する権利を獲得いたしました。日時は以下の通りで…」
パーティだって?どうせここよりひどいぼろアパートに皆んなで座り込んでラリるだけの会だろ。でも行ってみたいな。他の人間がどんなヴィジョンを見ているのか以前から少しは気になっていた。
カレンダーを確認しようと壁をぐるりと見回すが少なくとも今年のカレンダーは一枚もなかった。やっとテレビのニュースで今日の日付を確認できた頃にはモチアーゼを早く吸いたくて仕方なくなっていた。
「来週の木曜日」
小刻みに震え小さく唸る冷蔵庫にメモを貼るとリビングの方へ振り向いた。
「本日はスープや前菜を飛ばしてメインディッシュをご提供させていただきます」
そう呟くとモチアーゼを1つ手に取った。青いプラスチック製の吸入器にモチアーゼの粉末をセットするとソファに飛び込んだ。スプリングが外れたような音がしたが気にならなかった。
息をすべて吐きだしてから一気に吸入器を通して外気を肺に取り込んだ。モチアーゼは気道を通り抜け肺にたどり着き、肺胞から心臓を介して全身を周り、すぐに脳に到達する。そこからはすべてが明るく美しく見えるようになる。ボロアパートの一室ではなく清潔で隅々まで清掃が行き届いた部屋。薄い緑の壁紙がどこも剥がれていない美しい壁。そこにかけられた薄型テレビ。キッチンには適宜適温で冷やしてくれる冷蔵庫。家族分の食器類が揃った棚。生活感のあるシンクと、そこに立つ妻。窓の外には公園があり近所の子供達の声が響く。全てがそこにある。暖かいソファの上から見えるものは幸せそのもので、幸福が具現化された空間が広がってはコブの肺の中に吸い込まれていく。ここは時間が正しく進む世界なんだ。とコブは思った。テレビのニュースの中だけの話ではない。常に今が進んで行く。すると私はなんだ?やはりボロアパートの一室に取り憑いた幽霊なのだろうか。果てしなく進み続ける今に取り残された亡霊。もしくは不幸の世界の住人。亡者なのかもしれない。そんなことを考えていると少しずつ幸せの濃度が下がっていき終いには元のボロアパートの一室の空気を吸い込んでいた。カビた空気に咳き込みそうになった。