旅路の果ての眠れる王 前編
淡い月光の降り注ぐ、道なき道を少女は駆ける。青いマントを翻し、白いフリルが風に揺れはためく。
武骨な軍の陣営を抜ける美しい幻想の影は、何者にも捉えることはできなかった。ふわりと、風が通り抜けた。巡回する兵士たちには、そうとしか感じられなかった。
少女が見据えるのは、雷雲を孕んだ魔王城の頂、魔王シアの居室である。立てる足音さえ追い抜いて、少女はただひたすらに走り続けた。愛しい人に、ただいまと言う為だけに。
陣営を抜けて魔王城へ至る道すがら、兵士の一団とすれ違った。肩を落とし背を曲げて、陣営に向かう足取りもとぼとぼと、元気の無い集団である。ユーリは、構わずに彼らの隙間を駆け抜けた。
やがて、行く手に一軒の丸太小屋が見えてくる。小屋の中から感じる気配に、ユーリは足を緩めて入口の前に立った。
「ほえ、ユーリ。帰ってこれたんだね」
小屋の戸が開き、中から顔を出したのは美しいダークエルフの青年。ユーリの父親のダクである。
「ほえ、パパ? ここで何してるの?」
首を傾げるユーリに、ダクが悪戯っぽく笑って見せる。
「ちょっとした、足止めを兼ねたお遊戯をね。ユーリは、シアくんの所へ行くのかな?」
問われ、ユーリは頬を少し染めてうなずいた。気安い仲の肉親とはいえ、その口から恋人の名前が出るのは何だか気恥ずかしいものがあったのだ。
「うん……シアに、会って言いたいこと、あるから」
俯いて言うユーリの背を、ダクがぽんぽんと叩く。
「そっか……それじゃ、気をつけて行っておいで。一応、罠とか仕掛けてあるけど、ユーリなら大丈夫だね。昔、見せたことあるやつばっかりだから」
「ほえ……危ないの、無いよね?」
にこやかに言い放つダクに不安を覚え、ユーリは訊いた。
「ほえ。命に別条がないようには、してあるから」
「私が通る間だけ、罠を外したりはできないの?」
再び訊くユーリに、ダクが首を横へ振る。
「せっかく作ったものだし、出来れば避けて行って欲しいね。そのほうが、ユーリの修行にも、なるでしょ? ママから聞いたよ、ちょっと、腕が鈍ってるみたいだって。復習も兼ねて、少しは身体を動かしてきたほうがいいんじゃないかな?」
「ほえ……私、急いでるんだけど」
眉を寄せて言うユーリであったが、ダクには罠を外すつもりは無いらしく、曖昧な笑みを浮かべる。
「大丈夫……今のシアくんなら、ユーリが来るまでちゃんと、待っててくれるから」
ダクの返す言葉に、ユーリはわずかな引っ掛かりを覚えた。
「今の……? ねえ、パパ。シアに、何かあったの?」
「それは、ユーリが自分の目で確かめるべきことだね。転移魔法を使えるシアくんが、帰ってきたユーリの元へ来られなかった理由を、ね」
気になる言葉を並べながら、ダクが小屋の中へと引っ込んだ。
「ほえ、待って、パパ!」
ユーリの鼻先で、小屋の戸がパタンと閉まる。
「さあ、急いでいるんだよね。それなら、早く行きなさい。パパが、飽きるまでは魔王城まで誰も通さないにしてあげるから」
「飽きるまで? ねえ、パパ、ちなみに今はどんな感じなの?」
「ほえ。ちょっと、退屈かなあ。みんな、すぐに帰っちゃうし。勇者でも、遊びに来てくれたらいいんだけどね」
「勇者様は……たぶんそのうち来るから、もうちょっと頑張って」
「努力は、してみるよ。シアくんが治ったら、ユーリも一緒にこの小屋においでよ。ここで、ちょっとした寸劇をしてるんだ。可哀想な亡霊少女の、涙溢れる悲喜劇を、小道具付きで観られるんだ。兵士のみんなも、大泣きして帰っていったよ。ちなみに出演者は本物で、小道具にも……」
「また、今度ね、パパ。あと、観るならもう少し明るめのやつがいいよ」
「うん。考えとく」
軽い返事を背中に、ユーリは小屋を後にした。早足で、しかし慎重に気配を探りつつ歩く。魔王城の大門は見える所にあったが、そこかしこに罠も仕掛けられている。
「パパの仕掛けた罠だったら、大怪我はしないだろうけど……お洋服、汚れちゃうかもだし」
突然空中から、トリモチが降り注いでくるなんてこともある。ダクの罠は、時折物理法則を完全に無視するのだ。どこから何が来るかわからない。神経を研ぎ澄ませ、長い耳をピンと伸ばしてユーリは進む。一歩ごとに、神経の磨り減るような感覚があった。
地面に結わえられた草や埋め込まれた火薬などを避け、落とし穴を跳び越え空中から垂らされたこんにゃくを回避する。そうして門前へたどり着く頃には、ユーリの息は完全にあがってしまっていた。
「ほえ……思いっきり走るよりも、疲れる、よ」
閉じられた門に背中を預け、ユーリは息を整える。来た道を振り返り、感慨に耽るにはまだ早い。深呼吸を何度かして、呼吸を落ち着かせたユーリは黒い鋼鉄の大門へと向き直った。
「ごめんくださーい」
声をかけても、返事は無い。ユーリは首を傾げる。魔王城を訪れるのは、ユーリにとっては三度目であった。
「門番さんとか、いないのかな……?」
しばらく門前に佇んでみたものの、何の気配も感じられない。身の丈を遥かに超える門は重たげで、ユーリの力ではびくともしそうにもなかった。
「とりあえず、お邪魔しまーす」
仕方なく、ユーリは門へ足をつけ、垂直に登って門の上にたどり着き、内側へと飛び降りる。あっけなく、魔王城の前庭に入り込むことができた。
「ほえ、ちょっと不用心かもだね。シアに言ってみようかな? 門の上も、注意したほうがいいよって」
呟きながら、ユーリは玄関口へと向かう。魔王城の前庭には、極彩色の花を咲かせた植物系魔物がそこかしこに植わっていたが、どれも茎をぐんにゃりと曲げて元気がない。
「水が、足りてないのかな?」
そんなことを思いながら、庭を通り抜け玄関口にたどり着く。玄関の扉は施錠されておらず、取っ手を引けば扉は動いた。
「こんばんはー、誰か、いませんかー?」
暗い内部へ向けて、声をかけてみる。広いエントランスホールの中で、ユーリの声がこだまとなって返ってくる。返事は、無い。ユーリの胸の中を、不安がひたひたと侵し始めていった。ユーリは足早に、ホールを通り抜けてゆく。魔族や魔物の気配は、やはり感じられない。無人の魔王城を、ユーリは進んでゆく。月の光も届かない、真っ暗な城内だったがユーリには問題無かった。闇の中でも、ユーリの目は見通せるのだ。
シアの部屋までの道のりは、解っていた。以前に、シアによって精神支配を受けた際に小間使いとして動き回っていたため、ユーリの頭の中には魔王城の地図が出来上がっている。迷うことは無い。柔らかな赤い絨毯を踏みしめながら、ユーリは魔王城の奥へ、奥へ、そして上へと突き進む。次第に、ユーリの足取りは早く、駆け抜ける風のようになってゆく。シアの部屋へ近づいているというのに、何の気配も感じられない。黒い塊のようになった不安が、胸に重くのしかかっていた。
「はあ……はあ……っ」
呼吸が、うまく出来なくなっていた。長い階段を、数段飛ばしに駆けあがる。最上階まで、もう少しだった。階段の終わりに足を踏み出し、廊下を突き当りまで進む。禍々しい彫刻に彩られた、扉があった。ユーリはついに、シアの私室の前にたどり着く。全力で走ってきたというのに、身体が冷たく感じられた。
「シア、入るよ!」
扉を開ける手間も惜しむように、ユーリは引き開けたドアの隙間に身を滑り込ませる。そうして、部屋の中へと視線を巡らせた。丸みのある、ロココ調の椅子がある。窓の側に、植木鉢があり白く大きな蕾をつけた植物系魔物が、ぐんにゃりと萎れている。稲光が、窓から差し込んだ。眩しさに目を瞬かせ、ユーリはシアの姿を求めて瞳を動かす。
「う……そ……」
大きく目を見開いて、呆然とユーリは掠れた声を出す。天蓋付きの、ベッドの上。探し求めたシアの姿と、微かな魔力が感じられる。ベッドの側へ駆け寄り、その上に横たわるものに震える指先を伸ばした。
「シア……? 石、みたい……?」
触れたシアの肌は、石のような感触だった。柔らかだった金色の髪の一本一本も、白く石膏のように固まっている。閉じ合わされた瞼も、尊大な言葉を聞かせてくれる唇も、ざらざらとした石の感触を返してくる。それはまるで、精巧に作られた彫像のようだ。だが、ユーリには解った。解って、しまった。これは、シアである。大好きな気配と、魔力を感じるのだ。
「どうして……?」
あどけなさの残る少年のようなシアの頬に、手のひらを当ててユーリは呟く。
「魔力の、使い過ぎだ」
虚空に消えるユーリの声に、応えるものがあった。淀んだ部屋の中に、風が吹き込んでくる。振り返るユーリの視線に、部屋の中へ入ってくる美しいハイエルフの姿が映る。
「ママ?」
呼びかけに、ユーリの母親、エルファンがうなずく。ゆったりと、優雅な足取りでやってくるエルファンにユーリは駆け寄りすがりつく。
「ねえ、シアはどうしちゃったの? ママは、何か知ってるの? 魔力の使い過ぎって、どういうことなの?」
「落ち着け、ユーリ。気配が乱れている。いつも冷静でいろと、私は教えなかったか?」
言いながら、エルファンがユーリをそっと抱き寄せる。心地よく耳に響く声と、幼子をあやすように撫でてくれる手を、ユーリは黙って受け入れる。
「うん……落ち着いた。ありがと、ママ」
「ならば、感覚を澄ませてシアを見てみればいい」
エルファンの言葉に従い、身を離してユーリはシアをじっと見つめる。石像のようになって動かないシアからは、微かな気配を感じる。エルファンの強大な気配が、傍らにある。窓際の植物系魔物の気配も、そして、魔王城の中からも僅かに、気配が感じられる。
「……眠って、いるの?」
ユーリの呟きに、エルファンが肯定の気配を返した。
「そうだ。城の、シアの部下たちも全て、眠っている。魔を統べる王であるシアが、その魔力を使い果たし消え去ることを食い止めるために、な」
告げられた不穏な言葉に、ユーリははっと息を呑む。
「どうして、魔力を?」
「お前の為だ、ユーリ。異世界へ飛ばされたお前を連れ戻すために、その世界の神と交信する必要があったからな。我らの秘術をもってしても、それはほとんど不可能に近いことであったが、シアはその膨大な魔力でそれを成し遂げた。己の、全てを擲つような覚悟でな。魔力は、魔族にとって存在するためのエネルギーだ。人族と違い、枯渇すれば待つのは消滅。そうなっていないのは、部下たちの忠義の賜物だな。皆、眠りにつきシアへと魔力を送っている。首の皮一枚、シアは消滅を免れた。石になっているのは、防衛本能のようなものなのだろう。散ってしまいそうな魔力を、そうして繋ぎ止めているのだ」
じっと、シアを見つめたままユーリはエルファンの言葉を聞いていたユーリが、口を開く。
「……このまま、眠り続ければシアは助かるの?」
ユーリの問いに、エルファンが首を横へ振る。
「難しいだろうな。部下たちの魔力では、石像の状態を維持することで精いっぱいだ。百年、二百年と眠り続ければ、あるいは目覚めるかも知れないが、元の魔力を取り戻すには、さらに長い時を費やすことになるだろう」
「そんな……私の、せいで」
膝から力が抜けて、ユーリはうなだれる。いつも傲岸不遜で、自信に満ち溢れたシアが、ユーリの頭の中に浮かんでくる。奪ってしまった。他ならぬ、ユーリ自身が、シアの未来を。
「シア……」
ぎゅっと閉じたユーリの目から、熱い滴が流れ落ちる。ぽたぽたと、それは床に小さな痕をを残してゆく。悲嘆に暮れるユーリの頭に、ぽん、と優しく手が置かれた。
「嘆くのは、後だ、ユーリ。お前には、まだ出来ることがある。それを、全うするのだ」
「ママ……?」
顔を上げたユーリの目尻に、エルファンが指をなぞらせる。
「手の施しようの無い状態ならば、そもそも私もダクもお前をシアに会わせはしない。お前に、いや、お前だけに、出来ることがある」
「私に、だけ……?」
見上げるユーリに、エルファンがうなずく。
「そうだ。必要なのは、覚悟だ。失敗すれば、シアは完全に消滅してしまう。それを踏まえたうえで、私はお前に問う。シアを、愛しているか?」
「うん。シアの為だったら、私、何でも出来る」
問いかけるエルファンの瞳を、真っすぐに見返しユーリは言った。
「……大人に、なったものだな、ユーリ」
ふっと、エルファンが微笑んだ。
「ママと、パパの、娘だもん」
微笑みを返すユーリの頭を、エルファンがひと撫でする。差し込んだ稲光が、決意を固めたユーリの顔を照らし出す。そうして母娘は、ベッドに横たわる石像と化した魔王へと向き直った。




