戸惑いの心を揺らす勇者様 前編
雲よりもなお高く、空にその裂け目は突如として姿を現した。大きな大きな裂け目から、小さな粒のようなものがひとつ、ぽろりと落ちてゆく。雲の海へと落下してゆくそれは、人の姿をしていた。
少女がひとりと、その足首を掴む青年がひとり。分厚い雲を突き破り、ぐんぐんと速度を上げて落下してゆく。ばたばたと服をはためかせながら、落下する少女がうっすらと目を開く。眼下の大地には、五台の馬車が連なり駆けていた。
「ほえ、知ってる天井だ……」
烈しく叩きつけてくる空気の塊に逆らい、少女が奇妙な鳴き声とともに口を開く。その言葉が聞こえたのか、足首を掴む青年も目を開けた。
「ユ、ユーリちゃん! 落ちてる!」
「ほえ、イチタロー!?」
落下する少女が足元、つまり上方向へと目を向けて叫ぶ。その間にも、二人の身体と地面はどんどん距離を縮めていた。
「ユーリちゃん、蹴って!」
迫る地面に、青年が緊迫した声で告げる。青年の考えを理解したのか、少女が小さくうなずき落下中の体勢を入れ替え、青年の身体を踏みつけるように蹴った。直後、少女の身体はふわりと浮き上がり、そして青年が勢いを増して馬車の隣の地面へと激突をする。
わずかな浮力を得た少女が、空中で膝をかかえて華麗に三回転。両足を揃えて立ったのは先頭を走る馬車の御者台だった。
「んなっ、ユーリ!?」
御者台にいた女性が、着地をした少女を見やり驚きの声を上げる。
「ほえ……シャイナだ……」
ふらふらと、少女は女性へ近づきぺたぺたと身体に触れる。
「ユーリ……なの?」
問いかける女性の声が、わずかに掠れた。少女は女性の顔を見つめ、その胸へと飛び込んでゆく。
「ほええええん、シャイナぁあ!」
平原に、少女の泣き声が響き渡った。
平原を行く馬車の幌の上で、頬に風を受けて目を細める。ゆっくり流れる景色に、久々の旅の匂いをユーリは感じていた。
「大変だったわね、ユーリ。でも、戻って来られて、良かったわ」
御者台で、シャイナがユーリに向けて微笑んだ。ユーリの胸の中に、懐かしさと嬉しさがこみ上げてくる。
「うん。大変だった。でもね、たぶん……シアが、導いてくれたんだと思う」
リュートを爪弾けば、ほろりと柔らかな音が風に流れてゆく。
「……良い音ね。ニホンとかいう世界で、磨きがかかったのかしら」
「ほえ、そうかな……えへへ、シアにも、早く聞かせてあげたいな」
ユーリの言葉に、シャイナの顔から笑みが消える。
「そうね……ユーリ、シア様にとって、現状は厳しいわ。魔物のスタンピードが収まって、今度は人間の王国が逆侵攻をしているもの。魔族たちからの反撃は、無いわ。シア様の配下の、魔将軍ギーザさんから、お話を聞ければ良いのだけれど……眠ったみたいに、動かなくなってしまったのよ」
シャイナが、御者台から荷台を振り返り言う。
「……シアに、何かあったのかな」
ユーリの問いかけに、シャイナが首を横へ振る。
「わからないわ。王国の軍勢は、何かに足止めをされて進めないけれど、強力な勇者を召喚して単身で送り込もうとしている、なんて噂もあるくらいよ。今向かっているのは、その王国の軍勢の野営地なの。物資を運ぶ仕事を受けたから」
「ほえ、シャイナに変わりが無さそうで、ほっとしたよ」
「それは皮肉かしら? 稼げる時には、稼げるだけ稼ぐのが商人というものよ。ともかく、今は情報を集めることに専念したほうが良いわ。シアのことも、心配でしょうけれど」
「うん。まずは、王国の人たちを何とかしなきゃだね。シアのためにも」
柔らかなリュートの音曲に包まれるように、馬車は平原を進んでゆく。幌の上から前方を見つめ、ユーリは決然とうなずいた。
五台並んだ最後尾の馬車には、大男のゴドーと奇妙な恰好をした青年、元勇者のイチタローが並んで御者台にいた。
「つまりだ、ゴドーさん。美少女に蹴られて地面に激突する。それをご褒美と捉えられるかどうかが、生死を分かつことになった。そういうことなんだ」
「へえ、左様で」
イチタローの腰には、禍々しい魔力を放つ魔剣がぶら下げられていた。こんなものを持って、王国軍の陣地へ行けば何を言われるかわからない。戯言を聞き流しつつ、ゴドーは頭を巡らせる。厳つい顔の双眸は、先頭の馬車の幌の上を見つめていた。
「……何にせよ、良かったですなあ」
「うん? ゴドーさんも、解ってくれるの? いやあ、まさかこっちの世界で趣味の合う人に出会えるなんて!」
「いやいや、そんなんじゃ、ございやせん」
上機嫌にばしばしと背中を叩いてくるイチタローを受け流し、慈愛のこもった笑みをゴドーは浮かべる。
「……まずは生きてりゃ、それでいいんでさ」
土煙を立てて、馬車は進んでゆく。やがて、陽が傾きかけた頃にキャラバンは王国軍の陣地の端へと到着した。
背丈よりも少し高いくらいの木の柵で、陣地は囲まれている。縦の杭を横木で繋いだ、簡易的でありながら堅牢な造りのものだ。陣地の中には多くの天幕があり、シャイナの説明によればおおよそ五千人の兵士がここに集められているという。
荷下ろしに停められた馬車から、ユーリはひょいと飛び降りた。陣地の中だけあって、あからさまに監視の目があちこちにある。魔族相手だからか、察知の魔法も使われているようだ。
ユーリは、気配を消してぶらぶらと陣営の中を歩き始めた。隠密行動は得意ではないが、このくらいの警備であれば平気だ、と判断したのだ。ユーリにとっては、軍の目を誤魔化すことなど、造作もない。そのはずだった。
「くそっ、魔族どもめ……いつの間に靴下の中にカラシなんか塗り込みやがったんだ」
「俺の部隊は、突撃の寸前に顔に糸こんにゃくをぶっかけられたんだぜ」
「小細工ばかり……正々堂々と、戦えんのか!」
あちこちで、声高に会話する兵士たちの間をユーリは抜けてゆく。隠していない長い耳が、ぴくんと揺れた。
「ほえ、気配がひとつ……」
少し離れた場所から、ユーリを窺うような気配があった。その気配は、距離を詰めてくるでもなく、ユーリの歩みに合わせてついてきている。
「どういうつもりなのかな……?」
首を傾げつつ、ユーリは人気の無い天幕の中へ入った。剥き出しの土の上に、机と地図が置かれている。そこは、作戦を立てる場所なのかも知れない。息をひそめ、ユーリは気配を探る。動かなくなったユーリの気配に、ゆっくりとそれは近づいてきた。懐から、折り畳みの椅子を取り出しユーリは腰を下ろして机に頬杖をつく。ふぁさり、と天幕の入口が揺れた。
「君は、誰だい?」
柔らかな声が、ユーリの鼓膜をくすぐった。入ってきたのは、一人の青年だ。背は高く、マントに革の胸当てとズボンを穿いたその姿は、兵士には見えない。さらさらとした、薄緑の前髪が揺れている。涼やかな目元にあるのは、興味の色だけだ。警戒は、されていないようだった。
「私は、ユーリ。旅の、吟遊詩人だよ。あなたは、誰? 兵士さんには、見えないけど」
青年の爽やかな立ち姿に、思わず背筋が伸びる。じっと青年の瞳を見返しつつ、ユーリは問う。
「僕は、勇者だよ。名前は、トモ。これは、さっき決めたんだけどね」
茶目っ気のある笑顔で、青年は答えた。とくん、とユーリの心臓が、鼓動のリズムを早くする。青年の綺麗な薄緑色の目から、いつの間にか視線が離せなくなっていた。
「ほえ、勇者……? っていうことは、あなた、イチタローの後輩さん?」
「へえ、僕に、先輩がいたんだ。市太郎……ふうん。残念だけど、その人については、何も聞いていないね。僕の授かった使命は、たった一つ。魔王を倒すことだけ。勇者だからね」
言いながら、青年がごく自然にユーリへ歩み寄る。気が付けば、手を伸ばせば触れられる位置まで間合いを詰められていた。
「魔王を……シアを倒すの?」
ユーリは目を、きゅっと細くする。
「うん。他に、目的もあるわけじゃないし。それで、君はどうしてこんな所にいるのかな?」
問われて、ユーリは言葉に詰まる。勇者を名乗る青年の気配は強力で、ちょっとやそっとの誤魔化しは通用しそうにない。かといって、王国軍がシャイナの商売相手である以上、騒ぎを起こすのもまずい。ほえほえと、ユーリは頭脳をフル回転させる。
「……ぎ、吟遊詩人だもん。ここにいたって、おかしくないでしょ?」
胸を張り、強気の視線で青年を見返しユーリは言った。
「そういうものなの?」
「ほえ。そうだよ」
不思議そうに聞いてくる青年に、ユーリは当然だと言わんばかりにうなずく。
「そっか。それなら、いいのかな」
納得したように、青年が深くうなずきを返した。普通に考えれば、吟遊詩人だという理由で軍の陣地にいて良いわけではない。この青年は、常識を知らないのかもしれない。だがそれは、青年の知能が低いことを指しはしない。青年の興味深げな瞳には、知性の輝きがみえる。
「それじゃ、どうして隠れて内部を見回ってたの?」
内心身構えるユーリに、青年が新たな問いを発した。
「ほ、ほえ……色々、珍しかったから。私、旅の経験はあるけど、こういった場所、あんまり来たことなくて」
つっと、引き攣った笑みを浮かべるユーリの頬を汗が流れた。青年の容貌は、ユーリの心をかき乱し、見つめているだけで浮ついて落ち着かなくなってしまう魅力を持っている。そんな者に、まじまじと見つめられてすらすら嘘八百を浮かべられるほど、ユーリの心臓は図太くはない。
「なるほどね。僕も、こういう場所は初めてだから、気持ちは解るよ」
うんうん、と笑顔のまま青年が同意する。にへら、と締まらぬ笑顔を浮かべるユーリへ、青年が悪戯っぽく笑いかける。違った魅力を見せる青年に、ユーリの心臓がどきりと鳴った。
「それで、魔王の関係者である君はここへ偵察に来た。そういうことだね?」
違う意味で、心臓がどきりと鳴る。忙しい事この上ない心筋を抑えつつ、ユーリは笑みを崩さない。
「ほ、ほえ? ど、どういう意味? わ、私、別に、魔王の、シアの」
「名前。君、すっごくナチュラルに、魔王の名前呼んでるよね? それから、魔王を倒すって言ったとき、一瞬だけどすごく怖い顔になってた」
指摘を受けて、あっ、とユーリの中で声にならない声が漏れた。両手で口を押さえるが、全てはもう遅い。
「ほえ……ほえ……」
「あはは、困った顔。可愛いね。大丈夫だよ。僕は、別に君をどうこうするつもりはないから」
つん、と青年に頬を突かれ、ユーリはきょとんとした顔になる。
「ほえ? シアを倒そうとするあなたにとって、私は敵、になると思うけど……?」
言いながら、ユーリは戸惑いを隠せないでいた。目の前の、青年に対してではなく、自分自身に、である。シアを倒すという勇者が、すぐ側にいる。楽しげにユーリの髪を、そっと撫でている。殺すことはせずとも、何らかのアクションを起こすべきであった。例えば、勇者の腰にあるいかにも由緒ありげな聖剣を、奪うなどの行動を。だけど、動けない。離れがたい気持ちが、青年と敵対することを拒んでいる。胸の中に湧き上がる、相反する自分の気持ちに戸惑っているのだ。
「こんなに可愛い子に、手を上げることは出来ないよ……本当なら、見逃しちゃいけないんだろうけど、君とはずっと、こうしていたいかな」
体温が、上昇するのを感じた。
「……そういうこと、誰にでも言うの?」
ユーリの問いに、青年は微笑する。
「まさか。君だけだよ。何ていうか、すっごく離れがたい気持ちになってるんだ。不思議だね、出会ったばかり、なのにね」
よくよく見てみれば、青年も微かに頬を赤くしているようだった。にへら、と緩みそうになる頬を、ユーリは引き締める。目の前にいる青年は、シアの敵なのだ。ユーリは真っすぐな目で、青年を見つめ口を開いた。
「ダメだよ。私は、シアを愛してるもの。だから、シアを倒そうとするあなたとは、慣れ合えない」
告げれば、身を切る様な切なさがユーリに訪れた。青年の指が、ユーリの髪から離れてゆく。それだけで、ユーリの中に寂寥感が生まれた。
「そっか……それなら、仕方が無いね」
青年は笑顔のまま、眉根を少し下げて言う。
「うん。だから……」
せめて、見なかったことにして欲しい。そう言おうとしたユーリに、青年が手のひらを差し伸べた。
「でも、ユーリちゃんの仕事の間、話をするくらいはいいよね? 邪魔は、しないから」
「ほえ?」
目を丸くするユーリに、青年が改めて眩しい笑顔になって言う。
「ここ、見て回りたいんでしょ? それなら、一緒に回ろうよ。見てて楽しいものは、無いかもしれないけど」
伸べられた手に、ユーリはそっと手を乗せる。ぎゅっと、程よい力で青年がユーリの手を握った。
そうして二人は気配を消して、天幕の外へと歩き出した。




