募る望郷、染み入るのは異郷の優しさ 前編
今回は、前編、中編、後編の三部構成となります。
衣服というものは、それだけで人の印象を変えてしまう。姿見の前でくるりと身体を回す少女は、顔立ちこそ外国人に見えるものの、日本の一般家庭の一部屋にすっかり溶け込んでしまっていた。いや、化粧品や染髪剤の発達した現代日本ならば、人目を引くものの違和感なく町中を歩けるかも知れない。
「ユーリちゃん、ご飯できたわよー」
「はーい、今行きまーす」
開いた部屋のドアの向こうから、女性の声が聞こえてくる。鏡に背中を見せて部屋を出てゆく少女の姿は、この世界の空気に馴染みつつあった。
お椀に盛られた白米と、味の染みた煮物と卵焼き。テーブルの上へのお運びを手伝いながら、ユーリは目を輝かせる。
「いただきます」
「ほえ、いただきます!」
手を合わせて声を上げながら、ユーリが感謝の気持ちを込めるのは、日本へ来てから衣食住の世話を焼いてくれているミチカに対してである。にっこり微笑むミチカと共に、ユーリはお箸を取る。器用に卵焼きを小さく裂いて口の中へ放り込めば、ふんわりと甘い味が口の中へ広がってゆく。
「どう、ユーリちゃん?」
「ほえ、美味しいです」
問いかけに笑顔で答えると、ミチカは嬉しそうに笑う。
「それだけ美味しそうに食べてくれるなら、作り甲斐があるってものだわ」
「ミチカさんのお料理、本当に美味しいですから」
ほどよく色づいたじゃがいもを慎重に持ち上げ、口へ運ぶ。ほっくりとした食感に、甘辛い味わいにユーリの頬はさらに緩んだ。
「煮物の味付けは、まだまだだけれどね。お母さんに比べると、ちょっと尖っちゃうのよ」
自身も箸を動かしながら、うーんとミチカが唸る。
「ほえ、こんなに美味しいのに、ですか?」
湯気を立てる白米の椀に箸を進め、ユーリは首を傾げる。
「ええ。超えるべき、壁のようなものね。おふくろの味っていうのは」
「おふくろの、味……」
箸先を咥え、ユーリは少し俯いた。脳裏に浮かんでくるのは、料理とは呼べない代物を良い笑顔で差し出してくる母の顔である。修行と称して、不定形生物などを食べさせられたことがあった。インパクトが強すぎて、おふくろの味と聞けばまずそれが甦ってしまうのだ。ちなみに、父親はそれを喜んで食べていた。
「ユーリちゃん、お行儀悪いわよ」
掛けられた声に、はっとユーリは意識を取り戻す。
「ご、ごめんなさい」
謝るユーリに、ミチカがよしとうなずく。食事のマナーには、少しうるさいところのあるミチカであった。
「ごちそうさまっと。ユーリちゃん、お片付けはよろしくね。テレビ、つけてていいから」
手早く食事を終えたミチカが、食器を洗い場へ入れて自室へと向かう。出かける準備をするのだろう。ユーリも食べ終え、水道の蛇口を捻りお湯を出す。ポンプ式の洗剤をスポンジへと染み込ませ、食器を洗ってゆく。
水道の水が次第にぬるくなり、そして熱くなってゆく。スポンジでまんべんなく擦った食器をすすぐと、泡立っていた洗剤が落ちて綺麗になる。
「ほえ、油汚れも、すっきり……」
洗った皿の表面を、指で擦ってみる。きゅっきゅと、音が鳴った。
蛇口を捻れば、お湯が出る。洗い物に使うスポンジは、ふわふわとした不思議な手触りだ。蛇口を閉じたあと、ユーリはしばしスポンジをふにふにとした。手が、泡だらけになった。柑橘系の良い香りをひとしきり堪能した後、ユーリはもう一度蛇口を開いて手を洗う。濡れた手を拭くタオルという布は、柔らかくよく水を吸った。
「ほえ、片付けも終わったし、いよいよ、だね……」
台所から居間へ移ったユーリは、黒く四角いものを前に唾を飲む。小さな出っ張りの並んだ四角く薄い板に向けて、恐る恐る指を伸ばす。目指すのは、電源、と書かれた右上端の出っ張りである。黒く四角い箱へ板を向けて、ユーリは出っ張りを押し込んだ。力は、それほど要らなかった。そして魔力も、込める必要はないようだった。パッと、四角いものに映像が浮かび上がってくる。
『すごーい、油汚れがこんなに!』
大仰に驚く女性の姿に、ユーリは微笑を浮かべた。
「ふふ、知らなかったの? 私は、知ってるけど」
そんなことを至近距離で呟きながら、ユーリは箱の中の妖精にちょっとした優越感を覚えていた。
「テレビさんも、まだまだだね」
ユーリの言葉に応えるように、箱の中に先ほど使っていた洗剤の容器が大写しになる。
「ほえ、知ってたんだ。ごめんね、テレビさん」
ぺこり、とユーリが頭を下げる。そんなユーリの態度に、テレビは我関せずと別の妖精を映し出した。
『次のニュースです』
「あ、はい」
机についた妖精が、真面目な顔をして言った。ユーリは居住まいを正し、正座で妖精の言葉を待つ。
『昨日、連続通り魔事件で新たな被害者が出ました。これまでの事件の手口と同様で、被害者の女性が夜道を歩いているところ、何者かに刃物のようなもので刺され、重傷を負いました。犯人は、まだ捕まっておりません』
「ほえ、危ないね……テレビさん、詳しいこと、わかんないの? 刃物のようなものって、何?」
問いかけてみるが、妖精は姿を消し、かわりに犯行現場の風景が映る。
『現場付近では怪しい人影などは見つかっておらず、警察は注意を呼びかけ、夜間の一人での外出は避けるように、と通達しています。それでは、次のニュースです』
「ほえ? テレビさん、そこ、重要じゃないの? あ、ホワイトベアの赤ちゃんだ……二月から、一般開放? うーん、わかんない」
頭を抱えていると、背後で含み笑いが聞こえた。
「ぷっくく……ユーリちゃん、テレビに何話しかけているのよ……可愛い」
「ほえ? ミチカさん」
振り向くと、着替えと化粧を終えたミチカが立っていた。
「ミチカさん、テレビさんが、話を聞いてくれないんです」
「そう……それは、困ったわね……って、当たり前でしょう? テレビなんだから」
「ほえ?」
首を傾げるユーリを、ミチカがなぜか優しい目で頭を撫でてくれた。
「仕事前に、あんまり笑わせないで頂戴。それじゃあ、行ってくるから。イチが起きて来たら、何でもいいから冷蔵庫の中のもの、適当に口の中に突っ込んでやって。よろしくね」
灰色のぴっちりとした衣服を翻し、ミチカは居間を出てゆく。玄関先まで、ユーリは見送りに後を追った。
「ミチカさん、テレビさんが言っていたけど、最近通り魔事件があって、刃物のようなもので刺される女性が」
「私なら、大丈夫よ。心配してくれて、ありがとう。それじゃあ、行ってきます」
にっと微笑み、手を振ってミチカが去ってゆく。手を振り返し、居間へ戻ったユーリはテレビの中にいる妖精と再び向き合った。
「ほんとに大丈夫かな……ねえ、テレビさんは、どう思う?」
『続いて、スポーツです』
妖精は、やはり話を聞いてはくれなかった。
曇り空に太陽がちらりとのぞく昼下がり、頬を膨らませたユーリは本村家の近所にある公園を訪れていた。木々の生い茂ったわりと大きなその場所は、ミチカの部屋の次にユーリが心安らげる場所だった。
「あんなに、笑うこと無いじゃない、イチタローのやつ」
太い木に登って枝に腰を下ろし、ユーリは憤然と呟く。原因は、テレビの中で妖精たちが興じていた演劇である。サスペンスシリーズ、とかいう文字の出たあと、壮年男性の姿をした妖精が悪い顔をした妖精に背後から刺され、殺された。この時点で起き出して来たイチタローに、ユーリは今朝の妖精の言っていた通り魔事件との関与を問うたところ、イチタローが一笑に付したのだ。
あれはドラマで、現実に起きたこととは違うんだ。演劇だよ。苦しそうに呻き絶命する妖精の画面を前に、イチタローは爆笑した。ために、ユーリは平手打ちを敢行、嬉しそうに気絶するイチタローを放置して出かけ、現在に至る。
「テレビさんも、演劇だったら最初にそう言ってくれればいいのに……」
何の前置きも無しに演劇を始めた妖精たちにも、ユーリは怒りを感じてしまう。
「大体、あの妖精さんだったら殺されちゃうより、もっと良い役あったよね」
ぶつぶつ言いながら、背中からリュートを取り出し、構えた。ほろん、と弦を爪弾けば、淡い音と共に怒りは少しずつ溶けてゆく。
「風のー、冷たい季節だねー。あったかい、ココアの、季節だよー」
ほろりほろりと、音色に混じった歌声が響いてゆく。ユーリの座る木の上に、音に惹かれたスズメやハト、そしてカラスがやってくる。歌いながら、ユーリはカラスたちへと目を向ける。
「ほえ、こないだのー、三本足のカラスさんー、いないみたいだねー。ねえ、あなたは知ってる?」
手近にいたハトへ、歌いながら聞いてみる。ハトは首を振り、ひと声鳴いた。どうやら知らないようだった。スズメ、カラスたちにも聞いてみたが、芳しい答えは返ってこない。
「そうなんだー。じゃあ、みんなで歌おっかー」
節をつけて誘えば、鳥たちは歌声に合わせて鳴き始める。ちょっとした、合唱団が出来上がった。一曲、また一曲とユーリは陽気なメロディを爪弾いてゆく。
「そこで何をしている!」
鳥たちとの合唱は、厳しい男性の声で中断された。
「ほえ、あっ、あの時の……ヤマダコーバンの、マツイケンイチジュンサさん!」
リュートを抱えたまま、ユーリは枝から飛び降り、ぎょっとする男性の前に着地した。
「あんな所から飛び降りるなんて……危ない真似をしてはいけない……おや、君は……ユーリさん?」
目を瞬かせて聞いてくる男性に、ユーリはにへらと微笑んだ。
「ほえ。覚えててくれたんですね。ヤマダコーバンの、マツイ……」
「松井、でいいですよ、ユーリさん。ところで、ここで何を?」
微笑を返した後、きりりと表情を引き締めてマツイが問いかけてくる。
「ちょっと、もやもやしたことがあって……気分転換に、歌ってたんです」
ほろん、とリュートを鳴らしてユーリは言った。
「ああ。ミュージシャンの方でしたね。失礼。あんなに高い場所で何かをしているのが見えたもので、ちょっと確認をしたのです」
ユーリの座っていた木の枝を見上げ、マツイが言った。
「ほえ、高くて、気持ちのいい場所でしたよ。マツイさんも、どうですか?」
「……本官には、高すぎる場所ですね。すみません、気分転換の、邪魔をしたようで」
「いいんです。それより、マツイさんは、ケーサツの人ですよね?」
問いかけに、済まなさそうにしていたマツイの表情が再び引き締まる。
「はい。何か、ありましたか?」
「今朝、テレビさんに教えてもらったんですけど、通り魔事件があったって聞いたんです」
ユーリの言葉に、マツイは沈痛な表情でうなずく。
「あの事件ですね……もしかして、ユーリさんのお知り合いが、被害に?」
ユーリは首を横へ振る。
「いえ、ミチカさんとイチタローは、大丈夫です。ただ、犯人が捕まっていないって聞いて、少し不安で」
「本官の、いえ、警察の力不足ですね。申し訳ない。ですが、ユーリさん。日本の警察を、どうか信じていただきたい。犯人は、必ずこの手で捕まえてみせます。ユーリさんのような、外国の方でも安心して出歩けるように、粉骨砕身の努力をします」
びしり、と両足を揃え、マツイが右手を額にかざして見せる。異郷の見慣れぬ敬礼に、それでもユーリはどことなく頼もしさを覚えた。
「ほえ、頑張ってください、マツイさん。私、応援してますから」
マツイへ向けてほろりとリュートを鳴らし、ユーリはにへらと笑う。
「ユーリさん……ありがとう」
はにかむように微笑んで、マツイが帽子をきゅっと動かす。その仕草に、ユーリの胸がきゅんと小さく鳴った。
「ほ、ほえ……どう、いたしまして……」
「それでは、本官はパトロールの途中でありましたので、これで」
颯爽と手を挙げて、マツイは去ってゆく。ほけら、と後ろ姿を見送ったユーリは、マツイの姿が見えなくなると同時に首をぶんぶんと横へ振った。
「ほえ……ダメだよ。向こうで、シアが待ってるのに……」
とくんとくんと高鳴る胸は、なかなか治まってはくれない。ユーリはリュートを構え、感情のままに爪弾いた。高い所に止まっていた鳥たちが降りてきて、再び合唱団が結成される。暗くなるまで、ユーリは歌い続けた。
ユーリが歌を止めると、いつの間にか公園に集まって来ていた観客たちが散ってゆく。ユーリの前には、空き缶いっぱいの硬貨が置かれていた。
「ほえ、こっちでも、貰えるんだね、おひねり」
歌い終えた満足感と心地よい疲労に、ユーリは額の汗を拭う。側に置かれた封のついた軽い入れ物の口を捻り、恐る恐るユーリは中身を口にする。演奏中、そうやって飲んでいた観客がいたのだ。微かな甘味が、咽喉を滑り落ちてゆく。
「ふふ、世界が違っても、わかってくれる人はいるんだね」
小さく笑い、空き缶を懐へ仕舞ってユーリは歩き出す。陽は完全に沈み、そろそろ夜になろうとしていた。帰り道を歩くユーリの耳が、ぴく、と動く。暗く細い路地を通り過ぎようとした足が、止まった。
「ほえ、こんなところに、道なんてあったっけ?」
首を傾げ、ユーリは路地を見る。普通の人間ならば、暗くて見えないその先にあるものへ目を向けて、ユーリはそちらへ駆けだした。
「あ、ミチカさんだ。おーい、ミチカさーん」
大きく手を振り、ユーリは路地へと足を踏み入れた。暗い路地の中に、ユーリの声はよく響いていた。だが、ミチカは顔を向ける様子もなく、ハンドバックを胸に抱いて早足で十字路になった細道を横切ってゆく。
「ほえ? どうしたんだろ? 何かに、追われてるみたい」
不思議に思いながら、ユーリは気配を探る。ほどなく、何者かの気配が引っかかった。
「く、ひひひ……どこへ逃げようというんだい……?」
ひたひたと足音を立てて、一人の男が十字路へ踏み込んでくる。肥った男だった。手には、小さなナイフのようなものを持っていて、その先端からはぽたぽたと血が流れ落ちていた。
「ほえ、刃物のようなもの、だね」
ユーリは素早く身を伏せて気配を消し、男に足払いをかけた。突然の奇襲に対応できず、男が両手で空をかいて倒れ伏す。
「世界が変わっても、危ない人っているんだね……」
顔面を強打してうずくまる男の手から、刃物のようなものを蹴飛ばす。そこまでされて、男がようやくユーリに気が付いた素振りを見せる。
「な、何をする! 俺の邪魔を、するな!」
ぶん、と振られた男の右腕を、ユーリは容易く躱して後ろ手にして極める。
「変な結界まで張って……ミチカさんに、酷い事しようとしたでしょ」
「があああ!」
ぎりり、と腕を締め上げながら、男の背中に足をかける。苦痛の悲鳴を上げる男であったが、男の空いた左手はぐにゃりと力を失って地面へと落ちる。
「結界解いて、ミチカさんを外へ出してあげて。でないと、もうちょっと痛くするから」
ぐっと、ユーリは背中を踏む足に力を入れる。みしり、と男の肩のあたりで鈍い音が鳴った。
「た、助け、て……!」
ふっと、周囲の路地の気配が変わる。それを肌で感じたユーリは、男の戒めを解いた。うつ伏せになった男の背中から、もやのようなものに包まれた白い玉が出てきたのは、その時だった。
「ほえ、何、これ」
ふわふわと浮かぶ玉に手を伸ばそうとしたユーリの眼前を、黒い影が横切る。一瞬の後には、玉は消えて無くなっていた。
「今のって……三本足の、鴉さん?」
常人では見切れないほどの速度で飛来した影だったが、ユーリの目にはばっちりとその姿が捉えられていた。三本足の鴉が目の前を通り抜けざま、白い玉を咥えて飛んでいったのだ。ぱちくりと目を瞬かせ、ユーリは北東の空へと目をやる。夜の光に包まれた空には、星がちらほらと見えるばかりであった。
顔を上に向けるユーリの耳に、ピリピリと甲高い笛の音が届く。
「そこで何を……ユーリさん?」
銀色の骨組みに乗ったマツイが、ユーリへ近づいてくる。
「ほえ、マツイさん。こんばんは」
ぺこりと頭を下げるユーリに、マツイはちらりと目を向けてから倒れた男を見やる。
「こんばんは、ユーリさん。人が、倒れていて、血の付いた刃物がある……ユーリさん、これは、どういう状況か、ご説明願えますか?」
「ほえ?」
マツイの目が鋭く細められ、ユーリを射抜くように見つめてくる。マツイの視線を辿るようにユーリは首を動かし、あっと胸の中で声にならない声を上げる。男の腕は解放したものの、ユーリの足は男の背中を踏みつけたままである。そして、先ほど蹴り飛ばした刃物のようなものが、道路の端で鈍い輝きを見せていた。
「あ、えと、これは……違うんです!」
ぶんぶんと顔の前で両手を振りながら、ユーリは必死に否定する。
「……そのまま、動かないでください」
ユーリにひたと目を据えたまま、マツイは胸に付けた四角いものを口の前にかざして声を上げる。びくん、とユーリの身体が跳ねた。
「あの、私、刃物を持ってたこの人を、取り押さえただけで」
「お話は、交番に行ってから伺います。御同行、願えますね?」
取り付く島もないマツイの言葉と、鋭い疑いの視線がユーリの胸に鋭く突き刺さる。しばらくして現れた、白黒の箱に乗せられてユーリは何処へともわからぬ場所へと運ばれていった。
交番というのは、要するに番兵の詰所のような場所だった。マツイに連れられて建物の中に入ったユーリは、背もたれの無い椅子に座らされ尋問を受けることとなった。
「それでは、もう一度。あなたは、この男性が刃物を持って女性の後をつけているのを見つけ、それを止めようとして足を掛けて転倒させ、男性の手にしていた刃物を蹴り飛ばし、背部を踏みつけるなどして鎮圧した。そう、主張されている。間違いありませんね?」
とんとん、とマツイが紙を挟んだ板を指で叩き、ユーリに問いかけてくる。
「ほえ……間違いありません。ねえ、マツイさん。さっきからずっと、同じ質問ばかりなんですけど……」
ユーリはややうんざりとした表情をマツイに向けて、言った。交番へ連れて来られてから、マツイの同僚らしい恰好の男二人にも同じことを説明し、繰り返し確認されていた。
「捜査の為です。ご協力を。それで、男性はそのとき、何と言っていたのですか?」
「……どこへ逃げようというんだいって言いながら、気味の悪い笑い声を上げてました」
この質問も、もう何度目になるのかわからない。
「それで、ユーリさんは……男性に、結界? を解くように警告して、暴行を加えた」
「取り押さえてから、結界を解くように言ったんです。あのままじゃ、ミチカさんがお家に帰れなくなっちゃうところでしたから」
訂正するユーリに、マツイが大きく息を吐いた。
「結界、の意味は解りかねますが……ユーリさんのしたことは、暴行には違いありません。日本の法律では、立派な犯罪です」
「ほえ? で、でも、あの人刃物のようなものを持ってて……危ない様子だったし」
「もちろん、状況によっては危機回避のための致し方ない処置であったかも知れませんが、あちらの男性の方の取り調べの結果によっては、ユーリさんを……」
淡々とマツイが告げる横で、交番の扉が勢いよく開かれた。
「すみません! 迷子の女の子を探して……ユーリちゃん?」
女性の声と共に、飛び込んできた人物にユーリは目を真ん丸に見開いた。
「ほえ、ミチカさん?」
「ああ、無事だったのね、ユーリちゃん! 良かった!」
飛び込んで来た勢いのまま、ミチカがユーリをぎゅっと抱きしめる。ふんわりと柔らかなセーターの生地が、温かくユーリの顔を包んだ。
「み、ミチカさん、どうしてここに?」
ぎゅっと柔らかく圧迫されながら、ミチカの胸の中でユーリはくぐもった声を上げる。
「夜遅くになってもユーリちゃんが帰って来ないから、探してもらおうと交番に来たのよ! もう、心配させないで頂戴」
涙に震える声音で、ミチカが言った。
「ほえ……ミチカさん」
じんわりと、ユーリの胸の中に温かなものが拡がってゆく。
「ともかく、見つかって良かったわ。さあ、帰りましょう。あ、イチにも連絡入れなきゃね。ユーリちゃんが行きそうな場所、手当たり次第に探してこいって言ってあるから……」
ユーリを解放したミチカが手を引いて、交番を出ようとする。
「ちょっと待ってください。ユーリさんは今、取り調べの最中です」
交番の入口に、素早くマツイが立ちふさがる。
「取り調べ? こんな夜遅くまで、女の子捕まえて何を聞き出すつもりなのかしら?」
ミチカは怯まず、腰に手を当てて仁王立ちの姿勢でマツイに対峙する。
「……とある男性への、暴行の容疑があります。ですので、取り調べが終わるまでは、帰すわけには」
「うちのユーリちゃんが、悪いことするわけ無いでしょう! いい加減にしなさい!」
ぴしゃりと言って、ミチカがハンドバックの中から手帳を取り出し、乱暴に何かを書きつけて千切りマツイへ押し付けた。
「……これは?」
「私の携帯番号。ユーリちゃんに文句があるようなら、私を通して言いなさい。逃げも隠れもしないから。私は、本村美智香。ユーリちゃんの、保護者よ!」
びしりと親指で自身を指して、ミチカが言い放つ。あまりの気迫に、マツイが完全に呑まれた。
「わかりました。では明日十時、ユーリさんと一緒にこちらの交番まで出頭していただけますか?」
不承不承、といった様子でマツイが道を開ける。
「もちろん、そうさせていただくわ。ユーリちゃんに非が無いことがわかったら、きっちり謝ってもらいますからね! さあ、ユーリちゃん。うちに帰るわよ……あら、よっぽど怖い目に遭わされたのね。目の端に涙が浮かんでいるわ」
ミチカがハンカチを取り出し、ユーリの涙を拭ってくれる。怖くて、泣いたのではない。ユーリは、ミチカが見せてくれた信頼に、嬉しさのあまり涙したのだ。
「ほええええん!」
ぎゅっと、ミチカに抱きついてユーリは鳴き声を上げる。柔らかなミチカの感触に、遠い地にいるシャイナのことを思い出してしまえば涙は止まらなくなった。
「よしよし、酷い事されたのね。もう、大丈夫」
背中を撫でてくれるミチカの手の感触は、どこまでも優しかった。ためにユーリは、ミチカがマツイに向けて殺気のこもった視線で射すくめたことには、ちっとも気が付かなかったのであった。




