後へは戻れぬエトランゼ 前編
12月14日:本村市太郎の恰好についてご意見をいただき、修正いたしました。ありがとうございます。
全身を襲う強い衝撃に、少女はいつしか気を失っていた。どさり、と硬い地面の上に、少女は青年とともに投げ出される。低く呻いた少女が目にしたのは、黒く平坦な地面と自らの身を照らす強烈な光源だった。
キキキ、と耳障りな音が鳴り、少女は顔を顰める。目を向ければそこには、奇妙な箱状の物体があった。
「馬鹿野郎、道路の真ん中で、いちゃついてんじゃねえ!」
物体の側面から、中年の男が顔を出して怒鳴りつけてくる。きょとん、と首を傾げる少女の横を、物体は乱暴な曲線を描き走り抜けてゆく。物体の後方から吐き出される汚れた空気に、少女は思わず咳き込んだ。
「ほえ……今の、何だったんだろ……それに、ここ、どこ?」
呟いて、少女は立ち上がる。柔らかいものを踏んだ感触とともに、ぐえ、と何かが引き潰れたような声が少女の足元から上がった。
「ほえ? あ、ご、ごめんなさい!」
狼狽気味の少女の声は、足元に踏みしだいた青年に向けられたものである。
「ナ、ナイスストンプ……」
青年が右手の親指を立てた腕を挙げ、満足そうに呻く。薄気味わるそうに顔を歪めた少女は、青年の上から飛びのいた。残像の出来るほどの、それは素早い跳躍であった。
たん、と踏みしめた大地は、柔らかい石のような物質でできていた。奇妙な感触であったが、それよりもユーリは視界に現れた景色へ気を取られてしまう。
おそらく、今は夜なのであろう。空は暗く、濁った天には太陽の光は見えない。だが、ユーリと、そして不気味な笑顔で悶絶する青年の転がる石造りの道は、煌々とした明かりで照らし出されていた。道の端に、等間隔に並べられた細い柱があり、光源はその先端にある。闇を見通す眼など無くとも、充分に出歩ける夜道であった。
「うー、あー」
悶絶していた青年が、地面に手をついて起き上がろうとしていた。道に描かれたいくつもの直線と矢印に目を向けていたユーリは、慌ててそちらへ視線を戻す。
「こ、ここは……え、アスファルト……? 道路……信号……うええ!?」
地面に半身を起こしきった青年が、狼狽を見せつつ叫ぶ。ユーリは油断なく、腰を落として青年に身構えた。
「ス、ステータス! そ、そんな、出ない! なら……ファイヤーボール! くっ、魔法が……それじゃあ、やっぱり……」
空中へ手を突き出し、奇妙な動作をひとしきり繰り返した青年が、何かに納得をしてがくりと肩を落とす。そんな姿を目の前に、ユーリもまた愕然としていた。青年の詠唱に、無意識に魔法を使おうとして、周囲のマナを収束させようとして、出来なかった。魔法を行使する際に必要な、マナが集められなかったのだ。ここはどうやら、マナの無い、もしくはひどく薄い場所のようだった。
「ねえ、君……もしかして」
思考を巡らせていたユーリに、青年が気づいて声をかけてくる。とっさに懐へ手を入れて、ユーリは青年に注意を戻した。
「ス、ストップ! 待って! 話を聞いて! 俺は、魔王様のぺたんこ靴に操られていた哀れな犠牲者に過ぎないんだ! だから……」
青年の主張を聞き流し、ユーリは懐にあったものを取り出す。ぎゅっと握りしめたそれを、青年に向けて構え……
きゅー、と小さくそれは鳴いた。何とも形容しがたい空気が、ユーリと青年の間を流れる。
「ほえ、そういえば、武器は全部、レッサーデーモンに使っちゃったんだった……」
冷や汗を浮かべるユーリの手に握られていたのは、コウモリのぬいぐるみである。握りしめるユーリの指の力でお腹を押され、きゅーと鳴いたのだ。
気まずい沈黙が、しばし流れた。それを先に破ったのは、青年のほうだった。
「あの……もしかしなくても、君は、ユーリ……ちゃん?」
青年の問いかけに、ユーリは小さくうなずく。
「ほえ。あなたは……イチタロー……さんだよね。シアに、酷いことしてた」
コウモリを懐へ仕舞い、代わりに手刀を構えてユーリは訊いた。
「いっ、いや、その、あれは……誤解なんだ!」
慌てた様子で、青年は顔の前で右手を振る。
「誤解……?」
じりり、とすり足で近づきながら、ユーリは問う。
「そうだよ! 誤解だよ! 俺はただ、新しい魔王様に言われて、魔剣イビルキャリバーに魔力を吸わせていただけなんだ! 命令されて、仕方なく!」
じっと、ユーリは青年を見つめる。
「……結構、ノリノリだったように見えたけど? えと、闇の魔将っ、だっけ?」
ユーリの言葉に、青年の全身がびくりと震える。
「ホゥッ! いいね、蔑む瞳! もっと罵るように……じゃなくって! 今の無し! ここは平和な法治国家! 日本万歳! だから、話し合いで解決しようよユーリちゃん!」
手刀を振り上げるユーリに、青年が喚き散らす。ぴたりと、ユーリの手が止まった。
「ほえ……ねえ、闇の魔将イチタローさん。あなた、ここがどこか、知ってるの?」
質問に、青年がきょとんとした顔を見せる。
「へ? ああ、うん。ここは、間違いなく俺の世界、日本だと思う。ユーリちゃんから見れば、異世界って、とこかな?」
「ほえ? 異世界?」
首を傾げるユーリに、青年がうなずいた。
「うん。だってほら、そこの交差点の看板、見える? 市役所前って、書いてあるよね? 信号もあるし、車は左側通行だし、あ、あっちにコンビニもある。うん。間違いなく、ここは日本だよ」
青年の指さす方向へ、視線を向ける。ちかちかと、黄色い光の点滅する謎の物体があった。そして、夜の闇の中に煌々と光る謎の建物も、そこにある。摩訶不思議なそれらを前に、青年は動揺することなく当たり前のものとして眺めている。その様子から見ても、ここは青年のいた世界なのだろう。
「そんな……どうして」
目の前に広がる景色に、ユーリは呆然と言葉を漏らす。
「どうしてって……ユーリちゃんがやったんだろ? 何か、黒い珠みたいなアイテム使って」
青年の言葉に、ユーリの頭の中にぴんと閃くものがあった。父親の、ダークエルフのダクから貰った黒い珠。召喚されたモノを、元の世界へと引き戻す、そんなアイテムだった。
「ほえ……あの珠の」
「そうだよ! だから、俺は悪くない。いいね?」
胸を張って言う青年の頭を、ユーリは真横から張り飛ばす。パァン、と小気味の良い音が鳴った。
「あなたが引き摺り込んだせいじゃない! どうしてくれるの!」
しんと冴えた夜の空気を、怒気を孕んだ美しい声が震わせる。
「ちょ、ユーリちゃん! 暴力反対! 今の俺は、強化魔法も防御魔法も使えない、単なるさえないシャイボーイなんだから! あと、もう少し緩めでもう一発お願いします!」
よくわからない文言とともに、ユーリへ向けて青年が頬を突き出してくる。言葉は通じるようだが、意思の疎通は困難を極めるようだ。途方に暮れかかったユーリの長い耳が、ぴくりと動く。きゃりきゃりと、金属の擦れるような音が近づいてくる。理解した瞬間、ユーリは素早く髪を結い耳先を髪の中へと隠し込んだ。旅を続けてきたユーリにとってそれは、手慣れた行為だった。旅先にある町が、エルフに友好的な町ばかりだとは、限らない。そのために、耳を隠すのだ。
「そこで、何を騒いでるんだ」
間もなく、音の主が到着した。同時に、ユーリと青年に眩しい光が当てられる。魔法の気配などは感じないが、その光は松明やランタンとは違う何かであった。目を細くしつつ、ユーリはそちらへ顔を向ける。
くすんだ銀色の、奇妙な骨組みに乗った、紺色の服を纏った男性がそこにいた。がっしりとした身体つきに、意志の強そうな顔には疑惑の表情が浮かんでいる。
「げ」
短く、青年が毒づくような声を上げる。ユーリは光から目をかばい、額の前に手を上げる。そんな二人を前に、男性は乗っていた骨組みから降りて道の端でガチャリとそれを立てた。
「こんな時間に……君たちは未成年か? 道路の真ん中で、何を騒いでいるんだ。とりあえず、危ないから端に寄りなさい」
居丈高に命じてくる男性を、ユーリはじっと見返す。そうしていると、マントの裾をくいくいと引っ張られた。
「ユーリちゃん、大人しく、言う事聞いて」
小声で促してくるのは、青年である。
「……わかったから、触らないで」
そうしてユーリと青年は、道の端へと寄った。道の端には白い線が一本引かれていて、男性と青年はその線を越えたあたりで足を止める。ユーリも、彼らに倣って線を越えた。
「……奇妙な恰好だな。公道での、コスプレ行為は禁止されているが……」
明かりのある柱の下へやってきたユーリと青年に、男性が不審の目を向けてくる。
「あっ、その、これは……防寒具です!」
黒マントに肩パッド、黒シャツ黒ズボンといった黒ずくめの装束で青年が言う。闇の魔将の装いは、この世界でも異様に映るようだった。魔剣と鎧があれば、さらに怪しさは増したであろう。マントを引きむしるように脱ぎ捨てる青年に、男性がさらに鋭い視線を浴びせた。
「そちらの、肩の物も、防寒具か?」
「い、いえこれは……ノリです! ノリで、着けようかなー、と」
苦しい笑いを浮かべ、青年が肩パッドを外した。そんな光景を横目に、ユーリは青いマントを静かに外し、懐へと仕舞う。男性の身分はよく判らないが、マントを着けたままで対応すると無礼に当たるのかも知れない。首を傾け、ユーリは男性ににへらと微笑みかける。こくりと、男性がうなずいた。どうやら、それで正解のようだった。
「身分証明書は、持ってるか? 無いなら住所と連絡先、それから何をしていたのか、答えなさい。あー、そっちのお嬢さんは……日本語は、わかるかな?」
問われてユーリは、首を傾げた。
「ほえ? にほんご? よくわかんないけど、住所は」
「す、すみませんお巡りさん! この子、俺の家にホームステイしてる外人さんで、あんまり日本に詳しくないんです!」
男性に答えかけたユーリに割り込むように、青年が大声を上げた。
「……随分と、流暢な日本語だけれど。言葉は、判るんだね?」
「日本語学校でトップの成績だったもんで! 言葉だけは判るんです! ええ!」
「君、時間を考えなさい。近所迷惑だ。そして、本官は今、このお嬢さんに質問しているんだ。少し黙りなさい」
男性にそう言われ、青年は俯いた。
「それで、お嬢さん。どこの国から、来たのかな? 目的は、観光? それとも、就労?」
男性の質問に、ユーリは人差し指を唇へ当てて考える。
「たぶん……観光、だと思います」
答えたユーリに、男性が真っすぐに視線を向けてくる。男性の視線は、嘘を見抜こうとする種類のものであった。奇妙な装束を身に着けてはいるが、ユーリはこの種の視線の持ち主を良く知っている。それは、衛兵、もしくは番兵に準ずる何かだろう。心の中で当りをつけたユーリは、じっと男の目を見返した。
今行われている行為が尋問ならば、男性にはもしかすると嘘を見抜く魔道具か何かの加護があるかも知れない。そうと勘付けば、ユーリは嘘をつく言動を慎む他は無い。
「たぶん? 怪しいな。身分証は、持っているかな?」
「ほえ。ギルドの証明書でいいなら、あります」
ごそごそと懐を探り、ユーリは冒険者ギルドの証明書を出した。ユーリにとって、それは一つの確認でもあった。果たして男性は、カードの形状をしたそれを受け取り、首を斜めに傾げた。
「ふむ……読めん」
「ほえ、読めないんですか? ここ、私の名前が書いてあって、ユーリ、って読むんですけど」
男性の持つカードへ手を伸ばし、名前の部分を指差してユーリは言った。
「……うん。読めないな。アルファベットでもないし……君の名前は、ユーリさん、でいいんだね?」
問いかけに、ユーリはうなずく。
「はい。ユーリです。吟遊詩人の」
答えながら、ユーリは背中のリュートを取り出して見せた。
「吟遊詩人……? ふうん、ギターとは、少し違う楽器みたいだけれど」
首を傾げながら、男性はリュートをしげしげと眺める。
「ほえ、リュートっていう楽器なんですけど……ギター、見たことあるんですか?」
「ん? ああ。日本じゃ、珍しくない楽器だからね。君は、テレビとかで見たことは無いのかな?」
探るような男性の言葉に、ユーリは首を横へ振る。
「えと……こちらへは、来たばかりですから……」
テレビ、というものが何であるのかは判らなかったが、それについての質問は差し控えた。もしかすると、この世界においては常識的な何かであり、知らないことが露見すればとんでもない目に遭うかも知れない。にへら、とユーリが笑って見せると、男性は納得したようにうなずいた。
「なるほど。確かに、外国の方らしい。それで、始めの質問に戻りたいのだけれど。道路の真ん中で、何をしていたのかな?」
男性の中で、どうやらユーリは他の国の人間である、と折り合いがついたようだった。質問に、ユーリは苦笑を浮かべる。
「はい。ちょっとした、意見の行き違いが、あったんです。思わず手が出ちゃったんですけど……彼とは、そういう付き合いの友人ですので、大丈夫です!」
苦しい言い訳ではあった。だが、今のユーリには青年は必要な人間だった。この世界のことを知り、そしてユーリの世界のことも知る人間である。ここがどんな危険を孕んだ世界であるか判らない以上、他に頼れる者はいないのだ。
「そういう付き合い……ふむ、君、彼女の言葉で、訂正することはあるか?」
男性の矛先が、青年へと向かう。
「い、いえ……ユーリちゃんの、言う通りです。大体。問題ありません」
へらへらと笑いながら、青年が手を振って答えた。
「そうか……他人の付き合い方にあまり口は出したくはないが、もう少し、人目を憚ったほうがいいだろう。外国の方に、あまり日本の恥を晒すのも感心はしないな」
男性の叱責に、青年が頭の後ろへ手を当ててぺこぺこと謝る。その姿には、闇の魔将として魔剣を振るっていた雄姿は欠片も無い。ユーリも、青年に倣って頭を下げた。
「ほえ。お騒がせして、すみません」
ユーリの謝罪に、男性は両手を胸の前に持ち上げて手のひらを見せる。
「いや、こちらこそ、突然呼び止めて、申し訳ない。最近少し、物騒になってきたもので、警邏に力が入っているんだ。ユーリさんも、日本に滞在中は、気をつけて。困ったことがあれば、いつでも本官が力になります」
びしり、と額のあたりに右手を当てて男性が言う。
「はい、何かあったら、相談しに行きますね。お名前、聞いてもいいですか?」
右手を差し出し、微笑みながらユーリは訊いた。
「山田交番の、松井健市巡査です。お困りの際は、是非そちらへ」
名乗りつつ、男性ががっちりとユーリの手を取った。握手は、こちらの世界にもあるらしい。それでは、と手を挙げて骨組みに乗って去ってゆく男性の背中を見送りながら、ユーリはほっと息を吐いた。
「ふぃー、危なかった……まさかケーサツに、見つかるなんてな」
「ケーサツ? さっきの、ヤマダコーバンのマツイケンイチジュンサさんのこと?」
隣で同じように解放感に浸る青年に、ユーリは問いかける。
「ああ、うん。日本の、治安を守ってる公務員……って、わかる? 要は、国に所属する兵士みたいなものなんだけど」
「ほえ……何となくは。あんまり関わり合いに、ならないほうがいい職業の人だよね?」
「ユーリちゃんのような立場だと、余計にね。日本じゃ、身分を証明できない外国人って、怪しすぎる存在だから」
言いながら、青年が歩き始めた。
「ほえ、どこ行くの?」
「とりあえず、俺の家に。ここじゃ、込み入った話なんて、出来ないから」
「えええ!?」
思わず大きな声を上げたユーリに、青年が唇の前に人差し指を立てて見せる。
「ユーリちゃん、声大きいよ。また、ケーサツ来ちゃう」
「ほえ、ごめん……でも、あなたの家って……」
両腕を抱え、青年からユーリは一歩、距離を取る。
「どっかのお店にでも入れればいいんだけど、俺、今お金持ってないんだ。ユーリちゃんも、当然無いよね、こっちの世界のお金」
言われてユーリは俯き、そしてリュートを掲げて見せる。
「じゃ、じゃあ、酒場に行って稼ぐのは……」
「そういうことも含めて、お話しなきゃいけないんだ。俺が、連れて来ちゃったわけだしね」
真面目な顔になって、青年がユーリを見つめる。その顔に、ユーリの頭の中に微かな既視感が浮かぶ。だがそれは、明確な像を結ぶこと無く消えていった。
「……変なこと、しない?」
じろり、とユーリは半目で青年を見つめ返す。
「うんうん、その目付きもいいね……冗談だよ。家には家族もいるし、何もしないって、約束するから」
一瞬恍惚とした表情を浮かべる青年に胡乱な目つきを続けながらも、ユーリはうなずいた。
「ほえ。じゃあ、いいよ」
「決まりだね。じゃあ、改めて自己紹介しとくね。俺は、本村市太郎。向こうじゃ、イチタローって名乗ってた。よろしくね、ユーリちゃん」
「うん。それじゃ、さっさと行こう」
差し出された手に、ユーリはそっぽを向いて歩き出す。魔剣に操られていたとはいえ、シアに酷い事をした人間である。必要以上に、慣れ合うつもりは無かった。つれない対応だったが、めげることなく青年が小走りに追いついて、肩を並べてくる。
「ユーリちゃん、俺の家は、あっちだよ」
整った石造りの道の左手に、階段があった。上へと視線を動かしてみれば、その先には大きな四角い建物が見える。建物の正面には、いくつもの窓が並んでいた。
「ほえ……あれが、あなたのお家?」
美しく滑らかな壁は白く、横に大きく広がっている。いくつかある建物の入口から漏れる灯りに、ユーリは目を丸くして聞いた。
「そう。三階の一番右の部屋に、住んでるんだ。両親は仕事で遠くに行ってるから、姉貴と二人暮らしなんだよ」
狭く不思議な感触のする階段を上がり、青年がポケットから鍵を取り出してドアに突っ込んで回す。階段の手すりをこつこつと指で叩くユーリの前で、金属製の分厚いドアが開いた。
「ただいま!」
ドアをくぐって靴を脱ぎ、青年が家の中へと入ってゆく。ユーリも靴を脱ぎ、そして懐へと仕舞った。
「ああ、イチ、おかえり。ってか、うるさい。テレビの音、聞こえない……って、どした? あんた、そんな服持ってたっけ? 全身真っ黒は、似合わない奴がやると最高にダサいから、やめときな」
玄関口から上がって、狭い廊下の先で青年が立ち尽くす。その向こうから、気だるそうな女性の声が聞こえてくる。恐らく、それが青年の姉の声なのだろう。
「ね、姉ちゃん……!」
青年が、感極まった声を出した。
「ちょ、ちょっと、何泣いてんの? 気持ち悪いよ?」
戸惑いがちな言葉とともに、軽い足音が近づいてくる。
「ご、ごめ……姉ちゃん、の、顔……久々に、見て……」
感涙にむせぶ、青年の声が聞こえる。ユーリの頭の中に、ぴん、と閃くものがあった。恐らく、青年にとっての異世界への到来は、不本意なものだったのかも知れない。そして長い年月を経て、自宅へと帰って来たのだろう。となれば、感動の家族の御対面、というわけである。目の前で行われるであろう涙の再会の光景を予測して、ユーリは微笑みを浮かべる。だが、
「……は? 今朝、出かける時に会ったばっかでしょ? 何言ってんの?」
怪訝そうな声とともに、青年の姉が姿を見せ、青年の額に手をやった。
「え、あ、あの……」
「ん。熱は、無いみたい。何か悪いものでも食べた? それとも、変態振り切れて頭の方が壊れたか? いずれにせよ、世間様に迷惑かけてなきゃ、いいけど……ん?」
青年の姉の目が、玄関口に立つユーリを見つけて大きく見開かれる。
「ほえ、あ、ども……」
キッと見据える尖った視線に、ユーリは軽く頭を下げて微笑みを浮かべる。しばしの、沈黙が流れた。
「イチ……あんた……」
やがて、青年の姉が青年の襟首をゆっくりと締め上げ始める。
「ぐ……な、何を、姉ちゃ……苦し」
「ついに、犯罪行為に手ぇ染めたね!? このバカ!」
「は、犯罪? な、何を」
「あんな可愛らしい女の子、どこで攫ってきたのよ!? 日本は平和な法治国家! ノット犯罪、地味で根暗なあんたでも、まっとうに生きてけって、あたし教えてきたわよね!?」
物凄い剣幕と早口で、青年の姉はまくし立てる。言葉遣いとリズムの良さは、流石に姉弟であるといえた。
「待って、姉ちゃん! それ誤解っ! あと、意識落ちそうだからもう少し緩く締め上げ希望!」
「やかましい変態! 本村家の恥さらし! あんたの大事にしてる女児向けアニメのDVD全部叩き割ってやろうか!」
「それを叩き割るなんてとんでもない! お願いだから話聞いて!」
目の前で始まった言い争いに、ユーリはただただぽかんと口を開けているしかできない。そうしていると、どこからともなくピンポーン、と奇妙な音が鳴った。ユーリと、そして目の前の姉弟がびくり、と身体を跳ねさせる。そして、青年の姉が青年を解放し部屋の中へと歩いてゆく。
「はい、あ、お隣の……はい、すみません。うちの弟が、ちょっと騒いでしまって、叱りつけていたもので、はい、そうですね。時間を考えて、説教しますので、はい、すみません……」
何やら、謝る声が聞こえてくる。ユーリはそっと、へたり込んだ青年へと近づいた。
「だ、大丈夫……?」
問いかけに、青年がこくりとうなずき右手の親指を立てて見せる。どうやら、平常運転のようだった。
「イチ。ここで騒ぐのもアレだから、リビングに入りなさい」
静かな、怒りを押し殺した声とともに青年の姉が廊下へ顔を出して言った。
「……うん。俺も、姉ちゃんに話と、相談があるから」
「話は、中で訊くわ。それから……そこのあなたも」
「ほえ?」
声をかけられたユーリは、青年の姉に目を向けてから青年を見やる。青年が、小さくうなずいた。
「その……お邪魔、します」
促され、ユーリは不思議な明かりの灯された部屋の中へと足を踏み入れるのであった。




