一酔の夢の如く 後編
五台の馬車が、遠くなってゆく。町を出てゆくキャラバンを見送り、ユーリは身を翻す。少し乾いた風が吹き抜ける朝の町を、ユーリは駆け抜ける。目指す場所は、町一番の酒場『酒神亭』である。
店の裏口にある住居部分の玄関扉を開けて、中へと入る。夜明け近くまで店を開けていたためか、寝室に深く寝入るマスターの気配が感じられた。
帰りがけに汲んできた井戸の水を、水瓶へと移す。台所を見れば、きちんと整頓された棚にはまだ野菜や果物が多く残っていた。
「ほえ、台所は綺麗だね。お店で食べ物出してるんだから、当たり前か」
口癖の、奇妙な鳴き声とともにユーリは台所から視線を動かす。つい先日、お世話になったばかりの居間は雑然としていて、あちこちに埃が積もっていた。
「やっぱり、ここだよね」
言いながら、ユーリが懐から取り出すのは箒と塵取り、そしてハタキである。ユーリの懐は広く、その気になればモップだって収納可能だった。
「ほえ、それじゃ、徹底的にやっちゃおう」
袖捲りをして、ハタキを手にユーリは居間を見渡し鼻息を荒くする。マントを脱いでエプロンを身に着け居間の窓を開け放ち、ユーリはお掃除を始めたのであった。
ハタキ掛けの基本は、高い所から低い所へ。落とした埃は床で掃き集め、綺麗にしてゆく。家具や壁に雑巾がけをするときは、程よい力で汚れを取り除き、乾いた布でさっと拭きあげて仕上げる。手際よく進めてゆくユーリであったが、男やもめの居間は中々に手ごわい。こびりついた油汚れなどに遮られ、悪戦苦闘する。そうこうしているうちに、お日様はどんどん昇って空の天辺へとたどり着いていた。
ごそごそと、寝室でマスターの起きる気配があった。ぴくりと耳を動かしたユーリは、床を拭く手を止めてエプロンを軽く手ではたいて埃を落とす。ガチャリ、と寝室のドアが開いた。
「……え?」
寝ぼけまなこで、マスターが咽喉の奥に詰まったような声を上げる。
「ほえ、おはよ、マスター!」
雑巾を手に振り返り、ユーリはにっこりと微笑んで見せた。
「……あ、おはよう、ございます」
きょろきょろと、マスターが居間を見回し、そして出てきた寝室に目をやって言った。
「あ、ごめんね、マスター。もう少し寝てるかと思って、朝ご飯まだ作ってないの。あ、もうお昼近いから、お昼ご飯かな? 良かったら何か作るから、座ってて。あ、お酒飲む? グラスを先に、用意しちゃおっか」
「あ、その前に、トイレに行ってきます……」
玄関わきにある小さな戸を開けて、マスターはその中へと消える。もちろん、中はすでにユーリが綺麗にしていた。
「はい、マスター、どうぞっ」
トイレから出てきたマスターを椅子に座らせ、ユーリはグラスと『森の息吹』をテーブルに置いた。
「はあ……いただきます」
「うん。おつまみは、軽く何か作るから。ちょっと待っててね」
そう言って、ユーリは台所へと向かう。掃除の合間に買いだしておいた、肉と野菜を軽く炒めてパンに挟む。お手軽に作れる、ホットサンドの完成だった。
「ほえ、どうぞ召し上がれ」
ユーリの差し出したホットサンドの皿を、マスターはグラスを置いて受け取った。グラス一杯に注がれていたワインは、すでに半分ほどが消えている。
「……ユーリちゃん。これは、一体」
「話は、後後。あったかいうちに、食べてよ」
訝しげな表情をするマスターに、ユーリは半ば強引に促した。
「それじゃあ……いただきます」
マスターはユーリに向かって手を合わせ、それからホットサンドをつまみに飲み始めた。
「ほえ、どう……かな?」
黙々と食べるマスターに、ユーリが少し心配顔を向けて言う。
「うん。美味しいね。お酒に、よく合う味付けだよ」
ホットサンドをかじりつつ、マスターが微笑んだ。
「本当? 嬉しい!」
グッとガッツポーズを作り、ユーリは笑顔になった。
「マスターの料理にはかなわないけど、出してもらった料理から好みの味付けイロイロ考えてみたんだよ。口に合って、本当によかった」
「僕は、基本的に好き嫌いは無い方だからね。食べられないもの以外は、何でも食べるよ」
「ほえ……マスター、それって」
「ははは、まあ、コレが美味しいのは、本当だよ。さ、ユーリちゃんも一杯」
ワインのボトルを掲げ、マスターが言った。グラスを取ってきて、『森の息吹』を注いでもらう。ふんわりと、昼下がりの空気の中に芳香が混じってゆく。
「ほえ……幸せ……」
口へ含んだワインの香りを楽しみながら、ゆっくりと咽喉へ流してゆく。立ち昇ってくる香りが、咽喉の奥から口へと戻り、広がってゆく。うっとりとした表情で、ユーリは目を閉じた。
「それで、ユーリちゃん。どうして、僕の家に?」
マスターが、穏やかな笑みのままでユーリに問いかける。
「ほえ、その……私、あの」
言いよどみ、ユーリはグラスの中身をまた口へと運ぶ。マスターはじっと、優しい視線で見守ってくれる。こくん、と口の中のものを飲み込み、ユーリはマスターの目を真っすぐに見返した。
「私、マスターのこと、好きなの。だから、一緒になりたいって、そう思って、キャラバンとお別れしてきたの」
ユーリの告白に、マスターはしばらく目を丸くして、言葉を失っていた。
「……駄目、かな」
上目遣いに、ユーリはマスターを見上げる。マスターが、ゆっくりと首を横へ振った。
「ユーリちゃんの気持ち、嬉しいよ。だけど、僕なんかでいいのかい? 結構、歳を食ってるほうなんだけど」
「ほえ、幾つ?」
「つい先日、五十を越えたところだね。ユーリちゃんに、祝ってもらった日にさ」
「ほえ……私よりも、結構年上だね。でも、大丈夫。私は、マスターが好きだから」
「それは、ありがとう。ユーリちゃんは、幾つなんだい?」
「女の子に、そういうこと聞くのは……うん、マスターなら、いっか」
ごにょごにょと、ユーリは自分の年齢を告げる。
「ええ、三……見えないね、どう見ても、十代半ばがいいとこだよ。いやあ、さすがエルフだね」
「ありがと、マスター。それより、その……」
にっこりと笑ってから、ユーリは真剣な顔に戻して問う。大事なところなのだ。
「うん。ユーリちゃんが良ければ、それでいいよ」
あっさりとした口調で、マスターが言った。
「ほえ、いいの、マスター?」
問い返すユーリに、マスターはひとつ、うなずく。
「こんなに綺麗な女の子が、僕を好きだと言ってくれるんだ。僕に、異論はないよ。これからよろしくね、ユーリちゃん」
「うん、マスター!」
満面の笑みを見せるユーリに、マスターは人差し指を立てて見せる。
「僕の名前は、ガゼットだよ。お店以外では、そう呼んでくれないかな?」
茶目っ気溢れるウインクと共に、マスターが言った。
「ガゼット……さん……ううん、やっぱり、マスターのほうがしっくりくるかもだけど……わかった!」
にへら、と頬を緩めながら、ユーリはマスターの後ろへ回って背中にしがみつくように抱き着いた。胸の前に回した手に、マスターの分厚く乾いた手のひらが重なる。
「これから、よろしくね、ガゼットさん」
耳元で囁けば、マスターの頬がわずかに赤く染まる。嬉しさに、ユーリは肩に頬っぺたをくっつけてしばらく見つめ続けるのであった。
夜も更けて、酒場のステージから降りたユーリがカウンターの中に入ると常連客からおおっと声が上がる。
「あれ、ユーリちゃん。今日はどうしたの?」
「ほえへへへ、今日から、私はこっち側だよ」
笑み崩れた顔を向けて、差し出された空のグラスと酒の入ったグラスを交換する。
「まさか、ユーリちゃん……マスターに何か弱味でも握られて……」
「ほえ?」
険しい顔で唸る男に、ユーリは小首を傾げる。
「人聞きの悪いことを、言うものじゃないよ、安酒飲みのくせして」
ユーリの隣に立ったマスターが、腕組みをして言った。
「じゃあ、どういうことなんだいマスター?」
「うん、えっと、それはだね……」
問われて、答えあぐねるマスターの腰にユーリは手を回し、身体を密着させる。ほどよく引き締まった感触に、ユーリは幸せいっぱいの顔をマスターへと向けた。
「……つまり、こういうことなんだよ」
「どういうことか、さっぱりだよ! ああ、マスター……上手い事若い子を誑し込んで」
「ほえ、あんまり人聞きの悪い事、言わないで。マスターのとこに転がり込んだのは、私なんだから」
ユーリの言葉に、男は大仰に目を剥いて見せる。
「ユーリちゃん、悪い事言わないから、マスターはやめときなよ。この人、実は子供もいるんだよ」
「ほえ、子供? 男の子? それとも、女の子?」
マスターにしがみついたまま、ユーリは問う。
「男の子。年頃んなって、家出したまま戻らないの。もう、何年になるかね、マスター?」
「……さあ、忘れちゃったね。たまに、手紙は来るよ。カネの無心ばかりだけど」
「っていうこと。厄介な、コブ付きだよ、このおっさんは」
男の言葉に、ユーリはマスターから離れてグラスを手に取り中身を一気に干した。
「うん、それでも、好き!」
元気いっぱいに、再び抱きつく。苦笑するマスターに、男が豪快に笑って見せる。
「だ、そうだよマスター! いや良かったねえ! ははは! 今日は祝いに、少し高価いの、開けちゃおうか、マスターの奢りでさ!」
無言で、マスターが男の前にグラスをひとつ、置いた。男の飲んでいるものより、少し色の濃い酒が満たされていた。
「お代は、いつものやつと同じでいいよ。ありがとう」
陽気な笑いを上げて、男がそれを口に含む。
「……良い酒に」
言いながら、男がグラスを掲げて見せる。
「しみったれた安い客に」
マスターも、グラスを掲げて打ち合わせた。かちん、と澄んだ音色が、カウンターに響く。
「ほえ……えっと、私も、マスターに」
横合いから、ユーリもグラスを合わせた。
「ユーリちゃん。マスターのことで色々あるかもしれないけど、相談には乗るからね」
そう言って、男がグラスを傾ける。
「こいつの言うことは、話半分で聞いておいたほうがいいよ、ユーリちゃん」
マスターがまぜっかえし、男が笑う。温かなものに包まれるような、心地よい酔いと空気に浸ってユーリは幸せな笑みを浮かべていた。
お店を手伝うようになって、二日が過ぎた。料理の仕込みや酒の手配などを手伝うユーリは、持ち前の器用さを見せてそれを見事にこなしていった。宵の口から夜更けにかけてステージで歌い、その後カウンターに立って接客をしたりテーブルへ料理や酒を運んだりもする。忙しいけれど、その分やり甲斐を感じられた。
その日もステージが終わり、カウンターへと戻ったユーリは真っ先にマスターへと飛びついた。
「ただいま、マスター!」
どん、と軽い衝撃とともに、マスターの足元へグラスが落ちる。ガシャン、とグラスの割れる音が、カウンターの中に響いた。
「ほえ、あ、ご、ごめんなさい、マスター! そんな、強くしたつもりじゃ……」
驚くユーリの腕の中で、マスターの身体がぐにゃりと脱力する。倒れかかるマスターの身体を抱き寄せ、ユーリは急いで住宅部分のベッドへと運んだ。
「ガゼットさん、どうしたの? 顔色が真っ白だよ!? ねえ、しっかりして!」
ぺしぺしと、頬を叩いてみる。かすかに呻くだけで、マスターの反応は薄い。
「おおーい、ユーリちゃん」
店の方から、常連客の呼ぶ声が聞こえてくる。
「あっ、お店……どうしよう」
きょろきょろと、ベッドの上のマスターと酒場への通用口に視線を往復させる。そこへ、のしのしと常連客の男が入ってきた。
「ユーリちゃん、お酒のお代わりを……って、マスター? どうかしたの?」
ふらついた足取りでやってきた男が、ベッドの上を指してユーリに問う。ユーリは、首を横へ振った。
「ほえ……わかんない。マスター、急に倒れちゃって……」
心細さに、ユーリは視線を右往左往させる。その肩を、男が励ますようにぽんと叩いた。
「わかった。とりあえず、僕が医者を呼んでくる。お店のほうは、みんなそろそろ帰るだろうから、看板仕舞っておいて。終わったら、医者が来るまでマスターに付いててあげて」
てきぱきと出される指示にうなずくと、男が住居の玄関口から駆け出してゆく。慣れているのだろうか。そんなことをぼんやりと思いながら、ユーリは店に戻り酔客を送り出し、看板を仕舞った。灯を落として真っ暗になった店を後に、ベッドの側まで戻る。苦しそうな顔をしたマスターは、まだ意識を失っているようだった。
皺の刻まれた額に、冷たい水で絞った布を当てる。
「ガゼットさん……」
どうすることもできないまま、しばしの時が過ぎた。やがて、慌ただしい足音とともに男が白衣の医者を連れて戻ってくる。脈を取り、心音を聞き医者はマスターを診る。ユーリも、慣れた手つきでそれを手伝った。
「……一命は取り留めましたが、危険な状態です」
診察を終えて、居間で一息ついた医者はそう言った。
「マスター、死んじゃうんですか?」
ユーリの問いに、医者は小さく首を横へ振る。
「予断の許さぬ状況でありますが、一応の峠は越えました。あとは薬を投与しつつ、快復を待つこととなります。ただ……」
言葉を切る医者の前で、ユーリはごくりと唾を飲む。
「ただ、何なんですか」
ユーリの隣で、男が訊いた。
「……ただ、酒を断っていただかなければなりません。酒毒が全身へ回り、内臓を蝕んでいるのです」
医者の言葉に、男がハッと息を呑む。
「マスターに、酒を断たせるなんて……」
「出来なければ、今日のように倒れ、そして次は無いかもしれません」
医者の表情は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「……わかり、ました」
こくりと小さくうなずき、顔を上げてユーリは言った。
「ユーリちゃん。言うのは簡単だけど、無理だよ。マスターにとって酒は、商売以上に生きる糧になっているんだ。酒を飲めなきゃ、あの人は」
「それでも、私はマスターには生きて欲しいの。お酒が無くなった分は、私が埋めて見せる。お店も、私が切り盛りすれば、マスターが元気になるまでくらいは保たせることはできると思う」
男の言葉を遮り、ユーリは決然と言い放った。
「……わかった。僕も、出来るだけ協力するよ。マスターには、お世話になっているし、ね」
ユーリの決意に、男もうなずいた。
「ありがと。マスターに代わって、今はお礼を言うしかできないけど……マスターが元気になったら、また美味しいお酒、出してあげるね」
「酒を飲めないマスターの前で、飲むのかい? うーん、まあ、ちょっとぐらいなら、いいか」
男と顔を見合わせ、ユーリは微笑する。それから、医者へと向き直った。
「お酒のことは、私が何とかします。お医者様はお薬を、よろしくお願いします」
言って、ユーリは医者に深く頭を下げた。
「もちろん、出来ることはさせていただきます。私も、酒神亭はたまに利用するんです。マスターには、まだまだ頑張ってもらわないといけないですからね」
ユーリと男、そして医者の三人は互いに手を取り合い、固くうなずき合った。
朝になり、目覚めたマスターにユーリは朝食を出す。ほかほかの、ホットサンドである。
「おはよう、ガゼットさん。起きられるなら、ご飯食べて」
トレイに乗せて添えるのは、普通の井戸水だ。
「……おはよう、ユーリちゃん。昨日は、いきなり眠ってしまったみたいで……ごめんね。ところで、お酒はあるかな? あれをやらないと、力が入らないんだ」
仰向けになったままの姿勢で目を開けて、マスターが言う。ユーリはぶんぶんと首を横へ振った。
「ほえ、駄目だよ。お酒飲んだら死んじゃうって、お医者様が言ってたもの」
「そこを何とか。飲まないと、手が震えちゃうんだ、ほら」
ゆっくりと上がるマスターの手は、小刻みに震えていた。
「ほえ……ほんとに震えてる……ガゼットさん」
震えるマスターの右手を、ユーリはそっと両手で包む。
「大丈夫、私が、何とかするから。今は、ご飯食べて?」
「お酒を……」
「食べ終わったら、考えてあげる」
それならば、とマスターは寝転がったまま、行儀悪くホットサンドを口に入れた。背中に手を差し入れ、ユーリが身を起こしてあげるとマスターはコップの水を一気に飲み干し、口の中のものを胃に流し込む。
「ふう、ご馳走様、ユーリちゃん」
「もう、もうちょっと味わって食べてよ」
言いながら、ユーリは薬の包みを一包、新しい水と一緒に差し出した。
「これは……お酒?」
「お医者様のくれた、お薬だよ。それを飲んだら、お酒を注いであげるね」
ユーリの言葉に、マスターは薬の包みを解くのももどかしく粉薬を飲み、水を口にする。
「……随分、苦いね。良薬は口に苦し、かな」
言いながら、マスターは期待に満ちた目をユーリへと向ける。
「ほえ、そんな目で見ないでよ。今、お酒を用意するから……」
マスターに背を向けて、ユーリは懐をごそごそと探る。そうして振り向きざまに、取り出したものをマスターの側頭部、こめかみの辺りに叩きつけた。ぴこん、と軽く、気の抜けるような音が鳴った。
「ユーリ、ちゃん……」
白目を剥いたマスターが、どさりとベッドに横たわる。
「ごめんね、ガゼットさん。お酒は、本当に駄目なの」
布団を掛けなおし、ユーリはマスターを安静に寝かせた。その直後、寝室のドアが開き常連の男が入ってくる。
「やあ、マスター、大人しく眠ってくれたみたいだね」
「ほえ。私の故郷に伝わる忍……魔術の力だよ。このハンマーで叩かれると、半日は気絶するの。二日も繰り返せば、マスターの身体からお酒、抜けるよね」
ユーリが男に見せるのは、おもちゃのような蛇腹構造のハンマーだった。先端を押せば、ぴー、と音が鳴る。先ほど、マスターのこめかみを打ち付けたのは、このハンマーである。
「へえ……便利なものだね。さすがはエルフだ。何ていう魔術なんだい?」
「ぴこぴこハンマーの術、っていうの。詳しいことは、あんまり聞かないでね」
「……わかった。ユーリちゃんが、そう言うなら。ともかう、あとはこれをしばらく繰り返せばいいってわけだね」
男の言葉に、ユーリはうなずいた。
「ほえ、それじゃお店の仕込みがあるから。おじさんは、私がしばらくステージには立てないって、お客さんに伝えておいてもらえるかな?」
「あいわかった。伝えておくよ。ユーリちゃんのステージを見るためにも、マスターには早く元気になってもらわなくっちゃね」
男がうなずきを返し、部屋を出てゆく。安らかな寝息を立てるマスターの前で、ユーリは腕まくりをした。
「……安心してね、ガゼットさん。お店は、私がしっかり守るから」
ユーリの両目は、決意に燃えていた。
それから二日、多忙な時間が過ぎていった。起き出す度に酒を求めるマスターを、ユーリは何とかなだめすかし、ぴこぴこハンマーの術で眠らせる。酒場の客たちも、マスターの不在を埋めるように立ち働くユーリの姿に目を細め、誰も不満を言い立てたりはしなかった。
そして、三日目の朝。朝食を乗せたトレイを手に、ユーリは寝室へと向かう。
「ほえ……お、おはよ、ガゼットさん。今日は、随分と早起きさんだね」
寝室へ入ったユーリは、おずおずと声をかける。今日のマスターは、すでに目覚めて半身を起こしていた。
「……はあ、おはようございます」
枯れきった表情で、ちらりと視線を向けたマスターが応える。低く掠れた声音に、ユーリの背筋にぞくりと何かが走った。
「きょ、今日は、フルーツサンドにしてみたよ。そろそろ、お水じゃなくってジュースを飲んでもいいって、お医者様が……」
「……ありがとう、ございます」
差し出したトレイの上の朝食を、マスターはもそもそと食べる。あまり生気の感じられない、動作であった。
「ほえ……調子、どうかな……?」
恐る恐る、声をかけてみる。マスターは食事の手を止めて、ふっとユーリを見つめた。
「はあ……悪くは、ないかと」
「そ、そう。それなら、良かった……」
心中でほっと息を吐き、ユーリは胸を撫で下ろす。術の多用で、悪影響が出たのかと考える。だが、術には副作用は一切無い。これは、自信をもって言えることだった。ならば、マスターに何が起こったのだろうか。頭を巡らせるユーリをよそに、マスターはもそもそと食事を続け、皿を空にする。
「……ご馳走、様でした」
返されたトレイを受け取り、ユーリは薬の包みを差し出す。薬を飲み終えたマスターは、コップを返しながらユーリの目をじっと覗き込んでくる。それは、ガラス玉のような透き通った、感情の色のない瞳だった。
「……ところで、あなたはどちら様ですか?」
問いかけるマスターの眼に、わずかな感情が生まれる。それは、怯えに似た色をしていた。
「ほえ? マスター、どうして、そんなこと聞くの? 私、ユーリだよ?」
目を丸くしたユーリが、マスターに問い返す。ユーリ、ユーリ、とマスターは口の中で呟き、首をひねる。
「……覚えが、ありませんね。息子の、お友達だったりするのでしょうか? もし、違っていたらすみません。そういえば……息子は、どこへ行ったかわかりますか?」
マスターの表情も、眼の色も、嘘をついているようには見えない。酒毒が抜けて、健康になった筈なのに……そう考えて、ユーリはあっと胸の中で声にならない声を上げた。マスターは、ずっと酔いの中にいたのだ。奥さんに先立たれて、息子には家出をされて、酒の中に、ずっと逃げ込んでいたのだ。酔いが醒めた今、マスターの記憶は過去に戻り、酔っていた間の記憶は失われてしまったのだ。
理解をしたとき、寝室のドアが乱暴に引き開けられた。
「親父! 倒れたって聞いたけど、大丈夫か……ん? 何だ、あんた?」
マスターの面影を持つ、若い男が入ってきて言った。きっと、彼が息子なのだろう。
「おお、帰ってきたのか。今、お前にお客さんが……」
言いかけるマスターの前で、ユーリはぱっと立ち上がる。
「あの、私、お医者様に言われてお薬を運んできたんです! あなたのお父さんは、お酒の飲み過ぎで倒れて危ないところだったんですけど、お医者様が駆け付けて何とかしてくれました! 毎朝お薬を持ってきてくれるから、きちんと飲んでもらって、養生させてあげてください! それじゃ、私はこれで!」
一気に言って、ぺこりと頭を下げたユーリは残像の残る勢いで部屋を出て玄関を出て、通りに出て町を出た。それでも、ユーリの足は止まらない。一秒でも早く、離れたかった。マスターの、ガゼットのあのガラス玉のような瞳で、まるで知らない人を見るような目で、見つめられるのに耐えられなくなってしまったのだ。もう、戻る気にはなれなかった。
小一時間も走り続け、ユーリはようやく足を止める。もう地平の彼方にある町を振り返り、懐を探る。手にするのは、『森の息吹』の瓶である。万が一マスターが目を覚ました時に、飲まれないようにと隠したものだった。
「……さよなら、マスター」
封を開けて、ユーリは中身を一気に口へと流し込む。せめてもの慰めに、と飲んだ酒であったが、もうあの心地よい酔いは訪れなかった。ぐにゃり、と脱力して、ユーリはその場へへたりこむ。虚しい風が、ユーリの頬を冷たく撫でた。
ユーリの傍らに、魔法陣が現れる。それは、魔王の使う転移の魔法陣だ。
「ユーリ! 待たせて済まなかったな! 反乱は、すべて片付いた! これで、またユーリと一緒に旅ができる!」
久しく顔を合わせていなかったシアが、興奮のままにユーリへ飛びついてくる。
「ほえ……シア?」
酒気に呆けた顔で、ユーリはシアを見つめる。
「シア……今度は、二人に増えたの?」
「何を言っている。余は、常にただ一人の魔王ぞ……ユーリよ、今日は、少し酒の匂いが強いようだが」
あらぬことを口走るユーリの前で、シアがきょとんとした顔を見せる。酔いに濁ったユーリの視界の中で、それは幾重にもぶれて見えた。
「シア……おねがい」
小さなシアの身体に覆いかぶさり、ユーリが囁く。
「む、う、うむ! ユーリの願いであれば、何なりと申してみるが良かろう?」
頬に熱い頬を擦りよせられ、シアが上擦った声を上げる。
「……連れてって」
何処へ、とは言わなかった。シアはしばし黙して、小さくうなずく。そして、ユーリの身体を抱えようとして、困った顔を見せた。
「……わかった。だが、この形態では少し運び辛い。ユーリよ、怖ければ、眼を閉じていろ」
シアの言葉に、ユーリはこくんとうなずいた。
「第二……いや、第三でゆくか……」
シアの身体が光に包まれ、その姿が大きく膨れ上がる。身長二メートル半の筋骨隆々の魔人へと姿を変えたシアは、ユーリの身体を抱っこしたまま軽々と宙へ飛び上がる。ユーリの目が、大きく見開かれた。
「背中、この背中! 背の君! 背の君だあ! あはは!」
ぺしぺしと、テンション高く叫びながらユーリはシアの背中を叩く。
「む、ユーリ、飛び辛いではないか。あまり、暴れるな」
「シア、シアが、背の君だったの……? うぅ、そんな……せっかく、理想の背中に会えたのに……ほええん!」
猛スピードで飛ぶシアの胸の中で、ユーリが泣きだした。
「理想の背中……? 何を言っておるのだ、ユーリよ?」
訝しげな顔で、シアがユーリに問う。
「この背中! ずっと、いいなって思ってたのに! それがシアだなんて、あんまりだよーっ! ほええええん!」
ぺしぺしとシアの背中を叩き続けながら、ユーリは泣き続ける。
「余の背中が、理想の背中であるならば……余の伴侶になれば良いことであろう? 何を泣くことがあるのだ、ユーリよ」
困惑と歓喜のまぜこぜになった顔で、シアが言った。ユーリは泣きじゃくりながら、激しく首を横へ振る。
「だって、だって……!」
「だって、何だ?」
「だって、シア、女の子なんだもん! ほえええええん!」
「それが、どうしたのだ? 余と、ユーリが結ばれることに、何の障害も感じ得ぬが?」
「私は、男の人と恋したいの! なのに、なのに……ほえええん!」
ユーリの言葉に、シアは黙って頭を巡らせる。黙考する間にも、二人の身体は猛スピードで運ばれてゆく。やがて、眼下に五台連なった馬車が見えてきた。
「ユーリよ、もしかして……」
「あ、シャイナだ! シア、離して!」
ユーリの願いに、シアが腕の力を緩める。かなりの高度から、ユーリは落下してゆく。
「もしかして、お前は……」
空中で回転しつつ着地して、そのままシャイナに飛びつくユーリを眼下に見下ろしながらシアは呟く。ごうごうと、強い風に遮られて呟きは途切れ、消えていった。
北から南へ行くと、身を切る風も少しずつ緩んでいった。きらきらと輝く太陽に照らされて、キャラバンの馬車は今日も行く。
「綺麗な雪も、好きだけどー、やっぱりあったかいほうがいいねー」
馬車の幌の上で、リュートを爪弾くユーリはご機嫌だった。
「そうね。暖かくなると、お財布の紐も緩んでくれるかもしれないものね」
御者台で、シャイナがそんな合いの手を入れる。
「……ユーリ、その、先日お前が言っていたことなのだが」
「覚えてなーいー、何か言ったっけー?」
ユーリの横で、難しい顔をしたシアが問いかけようとしたが、機先を制してユーリが歌う。
「何があったかは知らないけれど、ユーリは思いっきり泣いた次の日は、大抵泣いた理由も忘れちゃってるわよ」
苦笑しながら、シャイナが言う。
「そーそー、考えないほうが、楽しいよー」
ユーリも合わせて、陽気なメロディを奏でる。
「むう……だが、しかし……ふむ」
「今が良ければー、それでいーいじゃなーい」
陽気に歌うユーリと得心のいかない様子のシアを乗せて、馬車は進んでゆく。こうして、ユーリの旅はまだ続くのであった。
なお、酒神亭のマスターはその後、帰ってきた息子と二人で定食屋を営み、穏やかな余生を過ごしたのであるがそれはユーリたちの知らないお話なのであった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
楽しんでいただけましたら、幸いです。




