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旅して恋する吟遊詩人  作者: S.U.Y
36/58

一酔の夢の如く 前編

今回も長いです。適度な休憩を挟んでお読みください。

 酒場には、酔漢たちのざわめきが満ちていた。好き勝手に喋り、笑い、大いに酒を飲む。その日も、ありふれた夜が更けゆこうとしていた。

 グラスを磨きながら、マスターが俯いた顔を上げる。見やる先は、店内の奥にあるステージだった。無人のステージに魔法の明かりが灯り、店内が薄暗くなってゆく。

 酔客たちの声が、静まってゆく。興味津々といった様子の客たちが視線を向けるのは、ステージの照明の中であった。

 一人の、吟遊詩人の恰好をした少女が、ステージの真ん中へ立ちお辞儀をする。背中から流れるような動作で取り出すのは、一本のリュートだ。白い光の中で、少女は青の衣装も鮮やかにリュートを鳴らす。はっと、観客となった酔漢たちが息を呑んだ。

 子供から、大人へ差し掛かるほどの年頃の、輝かんばかりの美しさと可憐さを少女は併せ持っていた。ほろん、と流れてくる音色もまた、儚げで美しい。整った顔立ちの少女は視線を集めると、桜色の小さな唇をゆっくりと動かした。

「何でもない、一日が過ぎてゆく。今日一日が、穏やかに。でも、誰かにとっての今日は、特別な日……」

 長い睫毛の瞳を伏せがちに、少女はゆるやかに歌い上げる。その声は、天上の女神を髣髴とさせるように綺麗で、透き通っていた。

 観客たちの顔が赤いのは、決して酒のせいだけではない。誰もが少女に見惚れ、胸の内からそっと息を漏らしていた。そんな少女が大きな瞳を見開き、こぼれんばかりの笑顔で見つめるのはマスターである。

「お誕生日、ハピハピおめでとー、マスター! 今日はあなたの、特別な日ー」

 しんと静まり返った店内に、ワンテンポ遅れて拍手が生まれる。向けられるのは、魔法のスポットライトを浴びて呆然とするマスターにである。

「常連一同からー、お祝いの歌、贈りますー。おめでとー!」

 少女の歌声に、マスターがカウンターの隅へと目を向ける。数人の男たちが、にやりと笑ってグラスを掲げる。

「……ありがとう」

 マスターもグラスを掲げ、少女に微笑みかけた。少女はうなずきを返し、そして新たな音色を爪弾き始める。それはマスターの好きな、昔の流行歌だった。しなやかな少女の歌声に、マスターは陶然と耳を傾けるのであった。


 演奏が終わり、酔客たちがはけてゆく。重たくなったおひねりの革袋を、ユーリはカウンターの上に置いた。

「ほえ、おめでとう、マスター。何か美味しい物、作ってくれる?」

 気の抜けたような鳴き声とともに、ユーリは言った。カウンターの向こうで、落ち着いた風情の男がうなずいた。

「ありがとう。何か、食べられない物はあるかな?」

 マスターの問いに、ユーリは首を横へ振る。

「口に入れたら死んじゃいそうなもの以外なら、大丈夫だよ。それと、お酒も頂戴」

 にっこりと笑うユーリに、マスターも微笑み返してグラスをひとつ、カウンターに置いた。

「年代物の、ワインだよ。『森の息吹』、という名前なんだ」

 とくとくと、ボトルから赤い液体がグラスに注がれる。ふわりと、芳醇な香りが広がってゆく。

「ほえ……とても、良い香り。マスター、ありがと」

「食事は、すぐに用意するから」

 目を細めるユーリに、マスターは言って奥へと引っ込んでいった。店の奥に、厨房があるのだろう。とんとんと聞こえてくる小気味よい音に耳を傾けていると、ユーリの側へ一人の男が近づいてきた。

「ありがとう、ユーリちゃん。マスター、すごく喜んでいたよ」

 静かな口調で、男が感謝の言葉を述べる。杯を掲げる男に、ユーリもグラスを挙げて応じた。

「ほえ、私もステージ楽しんじゃいましたから、こっちがお礼を言いたいくらいです」

 かちん、と乾いた音を立てて、男とユーリがグラスを合わせる。ふっと漂う芳香に、男がおやという顔になった。

「……ところで、ユーリちゃん。それ、もしかして『森の息吹』かい? とても、良い香りがするんだけど」

 男の問いに、ユーリはうなずく。

「ほえ。さっきマスターが入れてくれたんです。すっごくいいお酒みたいですね」

 ユーリの答えに、男が驚いた表情を見せる。

「……マスター、よっぽど嬉しかったのかな。ユーリちゃん、それは、マスターの秘蔵の酒なんだ。俺たちにも出さなかったのに、ユーリちゃんには出すなんて……」

 悔しげに、男がぶつぶつ言った。

「そんなに、貴重なものなんですか?」

 問いかけに、男は何度もうなずく。

「ああ。この酒神亭のマスターが、東の森に住むエルフから譲ってもらっている、貴重な酒だよ。毎朝起きた時にマスターは、自分で飲んでいるらしいんだ。酒を切らせるとマスターは、駄目な人になっちゃうらしいからね。おかみさんが亡くなった時も、確か……」

「お喋りは、そのへんにしておいてくれないか」

 とりとめのないことを語り出す男の言葉を遮ったのは、マスターだった。ほかほかと湯気を立てる料理の皿を手に、穏やかな瞳の中に強い意志があった。

「あ、マスター。この子に『森の息吹』を出したんだな。俺たちには、無いのか?」

 グラスの酒を一気に飲み干し、男がからかうように訊いた。

「お前らには、いつもので充分だろう。それしか頼まないくせに。さあ、詩人さん。蒸かした芋にベーコンくらいしか無いけれど、熱いうちに召し上がってくれ」

 コトリ、とユーリの前に料理が置かれる。ふわりと昇ってくる香草の匂いに、ユーリのお腹がぐるると鳴った。

「ほえ、美味しそう! マスター、いただきます!」

 ほっくりとした芋と塩気の強いベーコンを、ユーリは口に入れる。香ばしい吐息を漏らしながら、ユーリは瞬く間に平らげた。

「いい食べっぷりだね」

 空っぽになった皿を、マスターが引いて言った。

「すごく、美味しかった。マスター、料理も出来るんだね」

 にっこりと笑って礼を言うユーリに、マスターがどこか寂しげな顔を見せる。

「……カミさんを亡くしてから、覚えた料理だよ。口に合ったなら、良かった」

 眉根を下げながら、マスターが微笑む。

「ほえ、ごめんなさい……変な事、聞いちゃった」

「何、昔のことさ。こっちこそ、変な事を言ってしまったね。お詫びにもう一杯、いかがかな?」

 言ってワインの瓶を差し出してくるマスターの表情には、もう陰は無かった。ユーリはグラスに残った酒を飲み干し、酒を注いでもらう。とくとくと、鮮やかな液体がグラスに満たされる。

「……美味しい、本当に」 

 新たな一口を口に含み、うっとりとユーリは呟く。カウンターの向こうで、マスターも小さなグラスを傾けていた。

「酒は、良いね。どんな悩み事も、小さく思える」

「ほえ、マスターは、悩み事あるの?」

「ああ。抱えきれないほどにね。例えば……そこの連中は、毎日来て安酒しか飲まない上に好き放題言ってくる。高い酒を、ただで飲ませろ、とかね」

 悪戯っぽく言って、マスターはカウンターの隅にかたまった三人の男たちを指した。

「へん、毎日通ってやってんだ。感謝されても、嫌味を言われる筋合いは無いぜ」

 男の一人が、楽しげに言い返す。両者のやり取りに、ユーリも楽しくなってついつい笑ってしまう。

「それで、詩人さん……おっと、名前を、まだ聞いていなかったね」

「ほえ、私はユーリ。旅の吟遊詩人だよ」

 酔いと笑いに火照った顔で、ユーリは答える。年代物のワインが、ユーリに軽い酩酊を齎していた。

「ユーリちゃん、か。うん、いい名前だね。それで、ユーリちゃんは、何か悩み事を抱えていたりするのかな?」

「ほえ……そう、見えるかな?」

 マスターの言葉に、ユーリは小首を傾げて聞き返す。こくりと、マスターは小さくうなずいた。

「僕は、酒飲みでね。自分も毎日飲んでるけど、酔っ払いを見ることも多いんだ。酒場を、やっているからね。だから、酔い方で、大体のことは見分けられる。ユーリちゃんの酔い方は、何か大きな悩みを抱えている子のものなんだよ」

 言われて、ユーリはぼうっと視線を漂わせ、グラスを傾ける。思い当たることは、ひとつあった。今も目に焼き付いて離れない、理想のひとの背中。だがそれは、こんな場所で会ったばかりのマスターに、言えることでは無い。しばらく口ごもっているユーリに、マスターが微笑んだ。

「ああ、言わなくても大丈夫。僕が言いたいのは、そういう悩みも酒を飲んでいる間は、忘れられるっていうことなんだ。酔いの中では、小さなことなんだ」

 言いながら、マスターがユーリのグラスに三杯目を注いだ。

「ほえ……いいの? 貴重な、お酒なんだよね?」

「ああ、いいよ。誕生日に、あんなに素敵な歌を贈ってくれたんだ。今日のお酒は、僕におごらせてほしい」

「だったらこっちにも、『森の息吹』をくれてもいいんじゃないか、マスター?」

 にっこりと笑うマスターへ、横合いから男が茶々を入れる。

「お前さんはどうせ、いつものやつが一番だって言うだろう。それは、酒に失礼ってものだ」

「違いねえや。マスター、いつものおかわり」

 男が笑い、マスターが男のグラスに酒を注ぐ。笑いさざめく音の中で、ユーリに温かなものに抱き締められるような感覚が訪れる。温かく、力強い抱擁。それは、まるで背中しか知らないかの人に抱かれているような気分だった。

「ほえ、マスター……」

 にへら、と頬を緩ませ、ユーリは空になったグラスを置く。

「おや、随分とペースが速くなったね、ユーリちゃん」

「もう、一杯……くれる?」

 ゆらゆらと揺れ始めた景色の中で、ユーリはマスターへと問いかける。グラスに、赤い液体が注がれた。芳醇な酒の香りに包まれて、ユーリは全身が浮くような感覚を味わい、やがて何もかもを忘れて酔いの中へと没頭していった。


 ぼんやりと目を開けると、知らない天井があった。

「ほえ……ここ……どこ……」

 寝起きに掠れた声を上げると、咽喉がひどく乾いていた。固いベッドの上で身を起こしたユーリは、ベッドサイドに置かれた水差しに手を伸ばす。ぬるくなった井戸水が、咽喉を滑り降りてゆく。水を飲んだとたん、ユーリの頭にがんと頭痛が訪れた。

「いたた……うぅ、私、どうしたのかな……? きのう、たしか……」

 呟きながら、ユーリは自分の服を確認する。女物の、ぶかぶかのパジャマを着ていた。はっとなり、下着を確認する。そちらは、そのままだった。身体中に意識を向けてみるが、特別な違和感は無い。ただ、頭がひどく痛かった。

「ほえ……宿じゃないみたいだけど……」

 痛む頭を押さえ、周囲を見回す。セミダブルのベッドの置かれた部屋に、カーテン越しの陽光が差し込んでいる。サイドテーブルには空になった水差しがあり、部屋の壁沿いにクロゼットも二つ並べて置かれていた。古びた、木製の家具に包まれた、少し埃っぽい部屋。けれども人の行き来はあるようで、微かな臭いが漂っている。

『……ーリ、ユーリ』

 頭の中に、声が響いた。思念を飛ばす、テレパスの魔法である。甲高い声が、がんがんと頭に反響した。

「……シア。あんまり大声、出さないで」

 集中をすれば、頭の中に言葉を浮かべるだけで返事はできる。だが、今のユーリにそんな余裕は無かった。

『おはよう、ユーリ。余の声が聴こえなくて、寂しいのではないかと思ってな。つい力が入ってしまった』

 テレパスの送り主であるシアの声音からは、謝意は感じられない。いかにも、彼女らしいとユーリはこめかみを揉みながら息を吐く。アルコールの臭いが、鼻先に拡がった。

「ほえ、別に、寂しくは無いよ。今、ちょっと取り込み中だから手短にね?」

『ほう、取り込み中、か。余の手助けが、必要か?』

「いらない。それより用件は?」

『つれないことを。まあ、お前が元気であればそれで良い。実は、こちらで反乱を起こしたつまらぬ魔族のことなのだが、意外と周到な奴でな。鎮圧に、今しばらく時がかかる。お前に会いに行くには、もう少し時が必要だ』

 シアの思念波に、ユーリは少し頭を巡らせる。魔王であるシアの配下の一人が、反乱を起こしていた。ユーリの旅にべったりくっついて来ていたシアは、そのため魔界へ急遽戻ることとなったのである。

「ほえ……テレパスなんて使ってくるから、来られないのは予想してたけど、大丈夫なの?」

 言いながら、ユーリはカーテンを開く。窓の向こうには小さな庭があり、その先には家の玄関口が見えた。買い物カゴを提げた一人の男が、玄関のドアに手をかける。

『うむ。反乱自体は、問題ない。余が本気を出せば、容易く捻りつぶせるであろう。だが、奴の残した大量の陳情書があってだな……』

「ごめん、シア。その話、長くなりそうなら後で聞くね。お仕事頑張って。それじゃ、切るね」

 頭の外へ意識を集中して、ユーリは思念の糸を切る。悠長に、話をしている場合ではない。男の目が、一瞬こちらをちらりと見たのだ。カーテンを閉めてユーリは部屋の出口へと向かう。

「目が覚めたんだね、ユーリちゃん。気分は、どうかな」

 ドアを開けると、小さな居間で男がカゴをどさりと下ろした。

「ほえ、マスター。おはよう。あの、私……」

 男の顔を見た途端、ユーリの脳裏に昨夜の記憶が少し甦る。

「ああ。昨日、ユーリちゃんは酔い潰れてしまったみたいだったから、ここへ運んだんだ。店の裏にある、僕の家なんだ。その様子だと、今起きたばかりだね。顔を洗って、着替えておいで」

 マスターは言って、カゴの中から野菜や果物を取り出しテーブルに置く。

「ほえ!? えっと、ご、ごめんなさい……いたた」

 勢いよく頭を下げたユーリに、ズキンと頭痛が走る。マスターが苦笑を見せて、柔らかな布を差し出してくれた。

「そこに水瓶があるから、使っていいよ。何か飲み物と、軽い食べ物を用意するから」

 言われたとおり、ユーリは水場で顔を洗う。冷たい水を顔に浴びて、少しだけ頭がはっきりとしてくる。

「あの、私の服は……」

「昨日、少し汚れてしまったから、洗濯しておいたんだ。乾くまで、あっちの部屋の右のクロゼットの好きな服を着ていていいよ。夕方までには、乾くだろうから。ああ、洗濯は隣の家のおかみさんがやってくれたから、安心していいよ」

「ほえ、でも……」

「いつまでもその恰好でいられちゃ、男やもめには目の毒だ。ね、ユーリちゃん?」

 悪戯っぽく笑い、マスターが言う。お言葉に甘えて、ユーリはベッドの部屋に戻りクロゼットを開ける。整然と並んだ衣服はどれも、ユーリには少し大きい。できるだけ見苦しくならないものを選び、ユーリは着替えた。

 居間へ戻ると、温かいスープと冷たいオレンジ色の果汁の注がれたグラスが置かれていた。

「うん。少し昔の服だけれど、我慢しておくれね。ユーリちゃんは綺麗だから、何でも似合うね」

 湯気の向こうで、言いながらマスターが手を伸べ椅子を示す。

「ほえ、ありがと。どれも素敵な服で、借りちゃうのが勿体無いくらいだったよ。ちゃんと、洗って返すからね」

 対面に座り、ユーリは微笑みを返す。

「気に入ったなら、持って行っても構わないよ。どうせ、眠らせている服だからね。とりあえず、召し上がれ」

 促されて、ユーリはグラスを手に取った。オレンジ色の液体からは、うっすらとアルコールの香りが漂ってくる。一口含むと、さっぱりとした柑橘系の香りが口の中一杯に拡がるようであった。

「マスター、これ」

「二日酔いには、迎え酒だよ。スープも一緒にどうぞ」

 ワイングラスを掲げて、マスターは言った。グラスからふわりと立ち昇るのは、昨夜のあのワインの香りである。

「……マスターも、二日酔い?」

「朝っぱらから酒を飲むのは、僕の楽しみでね。それに、僕はいつも二日酔いだ」

 にやりと笑い、マスターがグラスを傾ける。ユーリも、スプーンを手にスープに口をつけた。薄い塩味と、野菜の旨みが混ざり合った素朴な味がする。重さを感じていた胃袋に、それは良く染み渡るようだった。一滴一滴を惜しむように、ユーリはスープを飲み干した。

「うんうん。いい食べっぷりだね。若いっていうのは、素晴らしい」

 グラスを片手に、マスターが言った。

「ほえ、マスター。私、見た目ほど若くはないよ?」

 言いながら、ユーリは結い上げた髪の中から長い耳を引っ張り出す。

「ああ、やっぱりエルフだったんだね。いや、申し訳ない」

「ほえ? どうして謝るの」

「『森の息吹』さ。これはね、エルフが酔っ払ってバカ騒ぎするために作った酒なんだ。縁あって、僕は譲ってもらっているんだけれど……そうと知っていれば、ユーリちゃんに飲ませたりはしなかったんだけれど」

 手元のボトルを掲げて見せながら、マスターが苦笑する。

「いいよ。私も、隠してたんだから」

 ふよんと耳を揺らして、ユーリは笑う。

「そう言ってもらえると、助かるね」

 頭を掻きながら、マスターも笑った。少し皺の刻まれた顔には、笑顔がよく似合う。ユーリは思い、両手のひらで顎を支えながらじっとマスターを見つめた。

「ねえ、マスター。今夜もステージ、使っていい? 私、ここ、気に入ったから」

「もちろん、僕は構わない。ユーリちゃんの歌が聴けるなら、お客さんもたくさん来てくれるだろうからね」

「ありがと。それで、演奏が終わったら……またそれ、飲ませてくれる?」

 言ってユーリが指すのは、マスターの手元にあるボトルである。

「いいのかい? 飲むと、酔っ払ってしまうけれど」

 目を丸くするマスターに、ユーリは悪戯っぽく笑みを投げる。

「それがいいの。それじゃ、マスター。私、いったん宿に戻るね。友達が、心配してるかも知れないから」

「ああ、行ってらっしゃい。店は、日が沈んだら開けるから、ゆっくりしておいで」

 立ち上がったユーリを、マスターは笑顔で送り出してくれた。


 落ち着かない気分で、シャイナは机に向かっていた。目覚めたときに、ユーリの姿が無い。帰ってきていないのだ。心配顔で書類を睨むシャイナの頭に、あらぬ事が思い浮かぶ。暴漢に襲われるユーリ。だが、すぐに暴漢は蹴散らされる。ユーリは、強いのだ。だが、当たり処が悪かったのか暴漢は死亡。ユーリはそのまま官憲に連れ去られて。

 牢獄へ差し入れに行く所まで想像したとき、ガチャリとドアが開いた。鍵を掛けているのに、まるで施錠をものともしない物音。振り返ったシャイナの視線の先には、やはりユーリがいた。

「ユーリ! どこ行っていたの? 心配したのよ?」

 駆け寄ったシャイナの鼻に、ぷんと漂ってくるのはアルコール臭だった。

「ほえ、シャイナ……ごめんね、ただいま」

 にへら、と笑うユーリの服装は、昨日のものでは無い。サイズが合っておらず、腰や胸あたりがぶかぶかのそれはシャイナの見知らぬ衣服だった。

「一体、どうしたのよ……服まで着替えて」

「ちょっと、ね。昨日行った酒場で、ね」

 上機嫌な様子のユーリに、シャイナの頭の中でぴんと何かが閃いた。

「……気になる男でも、見つかったの?」

 直感的な問いかけに、ユーリはしばらくぽかんとした顔を見せ、それから勢いよく首を横へ振った。

「ほえ、違うよ。マスターはそういうんじゃなくて……」

「へえ、酒場のマスターに、惚れたの?」 

 半目になって、シャイナはユーリをじっと見つめる。長らく親友をしていれば、気づくものはある。もしかするとそれは、本人よりも理解の深いこともあるのだ。

「ほえ、そういうんじゃなくて、マスターは、優しくて美味しくて、あったかくてお酒をくれるの!」

 余人が聞けば、それは謎言語である。眼鏡の奥でシャイナは目を鋭く細め、分析する。こと、ユーリの理解度に関してであればシャイナは魔王シアにも負ける気はしなかった。

「言いたいことは、何となくわかったわ」

 だからこそ、シャイナは言った。

「わかってくれたの?」

 疑いの目を向けてくるユーリに、シャイナはうなずく。

「私も、そのマスターに会いに行ってもいいかしら? ユーリがそこまで言うのだから、良い人なのよね?」

 シャイナの問いに、ユーリが考えるそぶりを見せる。少し間を置いて、ユーリがうなずいた。

「いいよ、シャイナなら。酒神亭っていう酒場で、夕方からやってるの。今夜、またそこでライブするから、その時に紹介するね」

 無邪気な笑顔で、ユーリが言う。

「そう。なら、それまでに仕事はひと段落させておくわ。特に問題も無いし、近いうちに出立するから、一応そのつもりでいて頂戴ね」

 念を押すように、シャイナは言った。この町で仕入れるものはすでに手配が済んでおり、次の町へ行く手筈も整っている。あとはゴドーに伝えるだけで、今日にでも出立はできるのだ。

「ほえ、わかった。けど……今回は、随分急ぐんだね。いつもは、一週間くらいは町にいるのに」

 ユーリの言葉に、シャイナは苦笑を浮かべる。

「もうすぐ本格的に、雪が降るのよ。それまでに、南の地方へ行かないと身動きが取れなくなってしまうの。毎年のことでしょう?」

「ほえ……もう、そんな季節なんだね。何だか、あっという間に過ぎてくね」

 感慨深げなユーリに、シャイナもしみじみとうなずく。

「忙しくしていると、時間なんてあっという間よ。時は金なり。無駄に過ごして良い時間なんて、無いわよ」

 言いながら、シャイナは書類へと戻ってゆく。ユーリの無事に安心して、書類はすぐに片付いた。


 日が沈み、シャイナはユーリに言われた場所へと赴いた。ゴドーも誘ってみたが、酒よりも茶を好む男に酒場は無縁な場所らしく、やんわりと断られた。仕方なく、シャイナは一人で酒場のドアをくぐる。

 控えめな照明の、落ち着いた酒場だった。店内にはいくつかのテーブルとカウンター、そして最奥にはステージが設えられている。ステージの見えるカウンターに腰掛けたシャイナは、店の人間らしい燕尾服の中年男に声をかける。

「適当に、少し薄めのカクテルを頂戴。お酒は、それほど強くは無いの」

 気取らず正直に、シャイナは注文をする。

「かしこまりました。それでは、お好みに合わせたものをご用意しましょう。お食事も、お出しできますが」

 静かな、低い声がシャイナの耳朶を打つ。第一印象としては、合格だった。少々とうが立っているが、荒んではいない。気配りも出来そうな男だった。

「ええ、軽く食べられるものを、少しだけ。あなたが……マスターさん?」

 問いかけに、男がうなずく。

「はい。この店のマスターをしています、ガゼットといいます。お客さんは見た所初めて来られるようですが、旅をなさっておいでで?」

「……ええ。キャラバンを率いて、商売をしながら旅しているの」

 答えながら、シャイナは心の中で感嘆の息を吐く。落ち着いたマスターの声は、どこか安心感を与えてくれる趣があった。余計なことまで、喋ってしまいそうになる。少しばかり気を引き締めるシャイナに、マスターが細いグラスを差し出してくる。

「果汁に、少しだけ酒を混ぜたものです。どうぞ」

 目の前に置かれたオレンジ色の飲み物を、シャイナはじっと見つめる。鮮やかな色合いの中に、微かな酒の匂いが漂ってくる。悪くは無さそうな、酒であった。

「今日は、吟遊詩人の女の子がステージで歌ってくれることになっていましてね。お客さんは、運がいいですよ」

 小皿に盛った乾きものを出しながら、マスターが言った。

「あら、そうなの。どんな子なのかしら?」

 すっとぼけて、シャイナは問う。

「ええ、昨日知り合ったばかりですが、元気で良い子ですよ。歌も上手いし、器量もいい」

「……マスターの、コレ、かしら」

 小指を立てて、シャイナは言った。マスターはぶんぶんと、慌てた様子で手を振った。

「とんでもありません。僕みたいな男と並べたら、月とすっぽんですよ。町の若い衆に嫉妬されて、命が危なくなってしまう」

 おどけた調子で、マスターは自分の首に手刀を当てる。滑稽な動きに小さく笑いながら、シャイナはグラスを傾ける。

「……美味しい。素敵なお酒ね」

 シャイナの賛辞に、マスターが相好を崩す。

「それは、良かった。今朝がた、いいオレンジが手に入りましてね。ちょっと絞ってみたんですよ」

「オレンジについては、知っているわ。私が、運んだんですもの」

 シャイナの言葉に、マスターは大げさに目を剥いた。

「本当ですか。山の方から届いたばかりの鮮度で、市場で高く吹っ掛けられたものですが……」

「もう少し、早くマスターに会えていたらこっそり卸して差し上げられたのに、残念ね」

 にっこりと、マスターにシャイナは笑顔を向ける。

「また、運んで来られることがあれば、よろしくお願いしますよ……お、そろそろステージが始まります」

 会話を区切り、マスターがステージに目をやる。シャイナも、つられてそちらを見た。吟遊詩人の衣装に身を包んだ、可憐なユーリがステージに現れる。途端に、観客たちが席を立ちステージに詰め寄ってゆく。ステージ上のユーリが、カウンターのシャイナの姿を見つけて微笑みかける。ユーリへ向けて、シャイナは軽く手を振った。

 リュートの調べが、店内に広がってゆく。ほろりほろりと奏でられる音色に耳を傾けながら、シャイナはグラスを傾ける。陽気に昔の流行歌を歌うユーリは、輝いていた。少し背が伸びて、大人びた表情を見せるようになっていた。スタイルはスレンダーなままであったが、もう子供扱いをされることは、無いだろう。息を吐いて、シャイナはグラスを置く。

 マスターの様子を、ちらりと横目で見る。グラスを磨く手つきであったが、眩しげな視線はユーリにくぎ付けになっていた。これならば、いけるかも知れない。胸中で、シャイナは深くうなずいた。

 視線をユーリに戻し、演奏に耳を傾ける。少し古い曲を続けて演奏しているのは、恐らくマスターのためなのだろう。心地よい音に身を浸しながら、シャイナは物思いに耽ってゆく。

 ユーリの中にある、ユーリが背の君、と呼ぶ者の正体に、シャイナは確信に近い予測を立てていた。あの日、ユーリが泣いて帰ってきた日、シャイナは一冊の本に出会った。魔族の、形態変化について詳しく書かれた本だった。大爆発のあったあの日、ユーリの側にいた者を思い浮かべる。それは決して、ユーリと結ばれてはいけない相手だった。であればこそ、ユーリにはその背中を忘れてしまうくらいの、恋をして欲しかった。ユーリには、幸せになって欲しい。だから、シャイナはユーリの背中を押すことにしたのだ。

 演奏を聴くうちに、ゆっくりと酩酊が訪れる。最後の一曲を弾き終えたユーリが一礼すると、観客たちが盛大な拍手と歓声を贈る。はじけるような笑顔で、ユーリがそれに応えていた。

 ユーリがステージから降りて、酔客たちが名残惜しそうな顔をしながらはけてゆく。静かな雰囲気に戻った店内で、ユーリがシャイナの隣へ腰掛けた。

「来てくれて、ありがと、シャイナ。ほえ、マスター、アレ頂戴」

「うん。ただ、今日は飲み過ぎないよう、少しだけにしておこうか」

 短い会話を交わし、ユーリの前にワイングラスが置かれる。注がれるのは、年代物のワインである。

「まずは、乾杯ね、ユーリ」

「ほえ、乾杯」

 かちん、とグラスを軽く打ち合わせる。ワインを口にしたユーリが、陶然とした表情を見せる。

「ユーリ、そのお酒は、何かしら?」

「ほえ、マスター秘蔵の、年代物なんだよ。ね、マスター」

 微笑みながら言うユーリに、マスターがこくりとうなずく。

「そう……ユーリは、ビンテージものが好きよね」

「うん。深みがあって、若いのには出せない味があって好きだよ」

「……ですって。良かったわね、マスター」

 シャイナの言葉に、マスターが一瞬きょとんとしてから、はにかんだ笑みを浮かべる。

「光栄ですね。こいつも、ユーリちゃんに好かれて嬉しがっていますよ」

 手にしたワインのボトルを、マスターが掲げて見せる。

「ほえ、マスターも、好きだよ」

 言って、ユーリがワインを口に含む。

「それは、益々光栄ですね。ありがとう、ユーリちゃん」

 静かな店内に、小さな笑い声が響いてゆく。心地よい酩酊に包まれながら、シャイナは杯を重ねてゆくうちに、時を忘れていった。


 ほとんど夜明けのような時間になった。宿への帰り道を、千鳥足のユーリを連れて戻る。ぐにゃぐにゃと上体を揺らすユーリの細い身体を、シャイナは支えて歩いた。

「……ねえ、ユーリ」

 ぽつり、とシャイナは声をかける。

「なあに、シャイナぁ、えへへ」

 しなだれかかるように身を預け、ユーリが言った。

「いいんじゃないかしら、マスターとなら」

 シャイナの言葉に、ユーリが両手でしがみついてくる。

「ほえ……うん。いいなあって、思う」

「それなら……私は、平気よ。あなたの幸せが、一番だから」

「シャイナぁ」

 締まりのない顔で、ユーリがますます強くしがみついてくる。これほどまでに緩み切ったユーリを見るのは、シャイナも初めてのことだった。これほどまでの酔いを齎せる、マスターならば。ユーリをきっと幸せにしてくれることだろう。自分の中に訪れた思いに、シャイナはひとりうなずく。

「ほえ、どしたのシャイナぁ」

 黙り込んだシャイナの首に、ユーリが腕を回してくる。首を軽く締め上げられながら、シャイナはユーリの成長を文字通り肌で感じた。

「何でもないわ。ほら、足元、気を付けなさい、ユーリ」

 よたよたと、よろめきながら歩いてゆく。沈みかかった月が、そんな二人に優しい光を差し伸べていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

お楽しみいただければ、幸いです。

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