行く道照らす聖人 後編
すごく長くなりました。適度に息抜きしながら、お読みください。
お世辞にも、荘厳であるとは言えない建物だった。白い塗りの壁の外装は所々が剥げ落ちて、灰色の地肌を見せている。青い屋根はくすんだ色合いで、頂点にある十字架も錆びついてしまっていた。
それは、教会だった。古く大きな木の扉は、引き開けると大きく軋んだ音を立てた。五列並んだ机の向こう、教会の最奥には教壇と、古びた大きなパイプオルガンがあった。
「おはようございます!」
ユーリの出した声が、聖堂へと響いてゆく。
「おはようございます、ユーリさん。早速、礼拝へ来てくれたのですね」
そう言って笑顔で出迎えるのは、聖人ルヴァンである。粗末な衣服を着て、濡れた髪を乾いた布で拭っていた。
「ほえ、ルヴァンさんは、水浴びしてらしたんですか?」
「はい。教会の庭に井戸がありますので、そこで」
心なしか昨日よりもさっぱりとした顔になったルヴァンが、布を畳んで傍らへ置く。じっと見つめるユーリへ、ルヴァンが首を傾げた。
「今朝は、どうかなされたのですか?」
ルヴァンのその声には、人を安心させる響きがあった。聖言を歌い上げる彼とは違う、穏やかな口調だった。うなずいたユーリの目には、決意の色があった。
「ルヴァンさんに、お話があって来ました。その、聞きたいことが、あって……」
「……わかりました。それでは、邪魔の入らない所へ行きましょうか」
そう言ったルヴァンに連れられて、ユーリは懺悔室へとやって来る。二つに区切られた部屋の一方へ、ルヴァンが入る。反対側の入口から、ユーリも中に入った。
分厚いカーテンで仕切られた、薄暗い小部屋だった。
「ここならば、誰の邪魔も入りません。また、ここで聞いたことは、神の名に誓って誰にも漏らしたりはしません。そういう、決まりですから」
ルヴァンの声だけが、闇の中から聞こえてくる。薄闇の中で研ぎ澄まされたユーリの五感が、ルヴァンの気配をしっかりと捉える。彼の言う通り、ここなら心配は無さそうだった。
ユーリは、結い上げた髪の中から耳を取り出した。ぴょこん、と出てくるのは、エルフ特有の長く尖った耳である。ルヴァンの視線を感じ、ユーリは少し顔を俯ける。
「実は、私、エルフなんです……教会は、エルフに対してあまり良くない感情を、抱いているんじゃないかと思って……」
胸から提げた十字架を指で弄りながら、ユーリは言った。感じるルヴァンの視線は揺るがず、じっとユーリの顔に注がれている。
「確かに、教会の中には、エルフを認めない、そういった派閥もあるかもしれません」
ルヴァンの低い声に、ユーリはぴくりと耳を動かす。
「ですが……本当に大事なことは、一つなのです。神は、地上のありとあらゆる存在を、愛します。それは、あなたのようなエルフであれ、人間であれ……そして、魔族であっても、それは変わらないのです」
暗闇の向こうから聞こえてくる言葉に、ユーリは目を見開いた。
「ほえ? 神様と魔族って、敵同士なんじゃないんですか?」
首を、横に振る気配があった。
「いいえ。全てを創られた神は、分け隔てなく全てを愛します。ですから、大事なことは、ユーリさん。あなたが、神の愛を受け入れられるか、愛されていると、信じることができるか。ただ、それだけなのですよ」
微笑みの気配と、優しい声。ルヴァンの言葉は、ユーリの胸の中にすとんと落ちた。
「ほえ……私が、信じること……それだけが、大事なんですね」
十字架を握りしめて言うユーリに、うなずきの気配が訪れる。
「はい。神は、全てのものを見守ります。そして信じる者はその慈愛を、導きを感じることができるのです。ですから、エルフであるあなたが神を信じること、そこには何の障害も、存在しないのです」
低く響くルヴァンの声に包まれて、ユーリはお腹の中からじんわりとしたぬくもりが湧き上がるのを感じた。深い深い、安心感がそこにある。顔を上げて、気配の方へ真っすぐと目を向けてユーリは口を開いた。
「それなら、私は……ルヴァンさんの側に、一緒にいてもいいですか?」
どきん、どきん、と胸の鼓動が高鳴って、闇の中に溶けてゆく。
「……私と、共にあること。それは、世界のどこにいても、変わらないことですが……あなたの望むことは、そうではない。ということですね」
「ほえ、難しいことはよくわかりません。でも、私がルヴァンさんと一緒にいたいって思うのは、ルヴァンさんが今言ったようなことじゃなくて、その……」
上気した頬で、ユーリは気配を見つめて言う。じっと見つめて来る視線が、わずかに揺れた。
「……私は、神に身を捧げています。この心も、全て神のものであるべきです」
きっぱりとした断定に、ユーリの表情が曇る。
「ですが、神は全てを創りたもうた。ならば、あなたの中にある神を、私は愛することができます。それは神に仕えるということと、矛盾はしないのですから」
ルヴァンの言葉に、ユーリはちょこんと首を傾げる。
「ほえ……それって、どういうことですか?」
問いかけると、ふっと吐息の音と微笑の気配が漏れ出てくる。
「すみません。少し、難しく言いすぎましたね。要するに、ユーリさんの考えているような関係になることは、できるということです。ただし……」
「ただし?」
「あなたが、本当にそれを望んでいるならば、ですが」
低い声で言われ、ユーリはにへらと頬を緩める。
「それなら、問題ないです! 私は、ルヴァンさんのことが」
「好き、と。本当に、そう言えますか? ユーリさん、私と共に、神の僕としての道を歩くということは、長く、苦しい道を行くということです。私は、あなたの中に神を見つけました。俗にいうと、好きになった、ということです。ですから、あなたには、後悔をしてほしくは無いのです」
「ほえ、後悔なんて……私は、本当に……」
本当に、好き? ユーリの中で、どこか冷めた自分が問いかけてくる。薄闇の中で、仕切りのある部屋でふたりっきりという状況で、ユーリは空転する自分の感情に戸惑いを覚えた。
「あなたの瞳には、迷いが見えます。私を好きだと言う事は、あなたの、本来の意思ではない筈です。本当は、あなたは、何かから……昨日の魔族のような存在から逃げたくて、私に救いを求めているのではないですか?」
ルヴァンの言葉が、ユーリの胸に深く突き刺さる。
「そ、そんなこと、ありません……!」
笑顔を作り、ユーリは言う。
「それでは、試してみますか?」
目の前から、ルヴァンの気配が離れる。
「ルヴァン、さん?」
問いかけるユーリの横で、分厚いカーテンがさっと開かれた。そこに立っているのは、ルヴァンである。皺のある、精悍な顔つき、太い首に広い肩幅が、ユーリを見下ろしている。
「私のことが、本当に好きですか?」
ルヴァンを見返し、ユーリは言葉を詰まらせる。本当に、好き? 冷たい理性の声が、ユーリの頭に響く。ルヴァンが、そっと身を寄せてくる。ユーリの顎に、太い指がかかる。
「本当に、好きなら……受け入れてください、ユーリさん」
熱い吐息が、ユーリの首筋へとかかる。ルヴァンの顔が、ゆっくりと近づいてくる。整えられた口ひげに覆われた、分厚い唇がユーリの口へ、そっと近づいてくる。
「……ぃ、やっ!」
唇が、触れる直前。ユーリの両手が、ルヴァンの胸を押し返す。抵抗はほとんどなく、ルヴァンがユーリから身を離した。どくん、どくんとユーリの心臓が、早鐘を打っていた。
「あ……ルヴァン、さん……ご、ごめん、なさ……」
謝るユーリの目から、涙がひと筋頬を伝って落ちる。あっ、とユーリは胸の中で、声にならない声を上げた。とんでもないことを、してしまった。とんでもないことを、させてしまった。言葉にはできない罪悪感が、ユーリの身を内側から焼き始める。
「心配は、何もありません」
ルヴァンの大きな身体が、ユーリをすっぽりと包み込む。それは、恋人の抱擁ではなく、幼子を宥める父親の抱擁だった。されるがままに引き寄せられたユーリは、優しく背を叩く手に目を閉じた。ずくん、ずくんとユーリの目から、熱い鼓動と滴が零れ落ちてゆく。今のユーリに、言葉は何も要らない。それを理解してか、ルヴァンはただ黙ってユーリを抱き締め続けてくれた。
「私……魔王に、狙われてるんです。すっごく怖くて、気まぐれで、どうしようもないくらいに強い、魔王に……」
しばらくして、落ち着いたユーリが口を開いた。ルヴァンが腕を解き、ユーリの頭を優しく撫でる。
「どうして、狙われているのですか?」
問いかけに、ユーリは首を傾げる。
「……わかりません。何か、気に入られるところが、私にあったのかも知れませんけど……」
ふるり、と身を震わせるユーリに、ルヴァンが身を屈めて目を合わせる。
「わからなければ、知ることです、ユーリさん」
「ほえ?」
思いがけない言葉に、ユーリはきょとんとルヴァンの目を見返した。
「恐怖は無知より生まれ、人はそれを既知にして克服する。全ての叡智は、神の御許にあり。知れば、その恐怖を克服できるかも知れませんよ」
「私が、魔王を、知る……?」
呆然とした呟きに、ルヴァンが力強くうなずいて見せる。
「人間とエルフも、そしてエルフと魔王も、分かり合えない者はありません。神が、そう御創りになられたのですから」
言って、ルヴァンが指すのはユーリの胸で揺れる十字架である。鈍く輝く十字の光に、ユーリはひとつ、うなずいた。
「わかり、ました……」
ユーリが言いかけたそのとき、聖堂で大きな音が鳴り響く。どさり、と何か重い物が倒れる音が聞こえてくる。ユーリはルヴァンと顔を見合わせた。
「聖堂で、一体何が?」
「そろそろ、ここの神父も起き出している頃ですね。行ってみましょう、ユーリさん!」
素早く身を翻し、二人は聖堂へと戻る。そこには、異様な集団が待っていた。
「昨日ぶりだな、聖人ルヴァン! そしてユーリ!」
三角頭巾たちを引き連れて、仁王立ちしているのは魔神官アブジンである。魔神官の前には、倒れ伏した神父の姿があった。
「あなたは、昨日の魔族! また、性懲りもなくやってきたの?」
足を止め、対峙するユーリに魔神官が怜悧な視線を向けてくる。
「そうやって、強がっていられるのも今のうちだ、ユーリ! いかに聖人の聖言といえど、この音響の良い聖堂で無数の打楽器を相手にしては、太刀打ちできまい!」
魔神官が視線をそのままに、後ろの三角頭巾たちへ指を鳴らす。一斉に取り出されたのは、銅鑼やシンバルといった鳴り物である。
「さらに! 昨日のように邪魔の入らないよう、教会の入口を封鎖する!」
ぱちん、ぱちんと魔神官が指を二回、弾いた。三角頭巾たちが動き、教会の入口には机が並べられ、強固なバリケードが形成された。
「どうだ! 恐れ入ったか! 今からお前たちに、我が神魔王様の魅力を、たっぷりと味あわせてやるぞ!」
魔神官が、指揮者の様に両手を挙げる。三角頭巾たちがそれに合わせ、楽器を構えた。
「……ユーリさん、ここは、私に任せて逃げるのです」
対峙するルヴァンが、汗を頬に浮かべて言った。
「駄目。ルヴァンさんが、あいつらに蹂躙されちゃいます」
リュートを取り出し、ユーリは構える。それを右手で制し、ルヴァンが首を横へ振る。
「ユーリさんの、リュートの音色では……やつらの音には対抗できません」
ルヴァンの言葉に、ユーリは唇を噛みしめる。事実ルヴァンの言う通りであり、それは楽器の相性の問題だった。閉じられた聖堂という空間で、しかも好き勝手鳴らされる打楽器相手では、弦楽器一本の音では対抗しきれない。魔法で音を増幅しても、相手もそれをすれば何も変わらない。まさに、窮地である。
救いを求めるように、ユーリは教会の最奥に置かれた十字架を見る。ふと、その視線が止まった。
「ねえ、ルヴァンさん……あれ、使えるかな?」
そっと、ルヴァンにユーリが囁いた。ちらり、とルヴァンが視線を動かし、うなずく。
「ええ。調律がなされていなかったので、音は出る、といった程度ですが……」
二人の背後にあるのは、教会のパイプオルガンである。聖堂中に響き渡ることを想定して設計された、それはこの状況において切り札と成り得る。
「ユーリさん。あなたは、オルガンを弾いたことは?」
問いかけに、ユーリは小さくうなずく。
「かじった程度には、あります。どのみち、逃げ場は無いし……それに、私、もう逃げたりしないって、決めましたから」
リュートを背に戻したユーリを見て、魔神官がせせら笑う。
「抵抗を諦めたか? ならば、我が歌声を聴いて堕ちよ!」
魔神官の腕が、勢いよく振り下ろされる。
「なれば……この場は何としても切り抜けましょう、ユーリさん!」
パイプオルガンに向かって跳ぶユーリを護るように、ルヴァンが魔神官との間に立ちふさがる。ルヴァンの大きな身体にぶつけられるのは、黒の波動を纏った音波である。
「絶望! 忘我! 瓦解する世界! 救い差し伸べるは魔王! オーマイゴッドと泣き叫べ人間!」
「神の創りたもうた世界! 守り抜くこの未来! けして蹂躙させはしない!」
白と黒の歌声がぶつかり、ガラスの割れるような破砕の音が鳴り響く。背中でそれを聞きながら、ユーリはオルガンの鍵盤に飛びつき、手を振り下ろす。
「広がりゆく闇! 病みに苦しむ人間もがき! 餓鬼となり果てどこまでも堕ちる世界!」
黒い波動がルヴァンへと迫る。ルヴァンは身じろぎひとつせず、目を閉じて息を吸う。黒い波動が到達する直前、ルヴァンの目がカッと見開かれる。長いパイプを通じて、ユーリの叩いた鍵盤の音が届いたのは、その瞬間だった。
「神は言った! 光あれ!」
白の光が、天上より降り注ぐ。ルヴァンに迫っていた黒の波動が、砂の様に消し飛んだ。荘厳な音色を出すパイプオルガンで、ユーリが奏でるのは陽気なリズムである。旋律に乗せて、高らかにルヴァンが歌声を上げる。
「世界に光が生まれ! 優しい希望に包まれ! 神のもたらす朝の訪れ! 闇は光に生まれ変われ!」
一節ごとに、魔神官の身体が殴られたようにのけぞる。三角頭巾たちも楽器を取り落とし、ぐるりと身を回して倒れ伏す。
「なっ……こ、これは……この、力! これが、聖言の……ぐああ!」
「苦しみもがく者に救いを! 闇を切り裂く光の恵みを! 神はもたらす全てに慈愛を! 闇よ転じて生まれ変わりを!」
後ろへ倒れそうなくらいに身体をのけぞらせる魔神官の視界で、奇跡は展開される。真っ黒なローブを着た三角頭巾たちの服の色、頭巾の色が白く変わってゆく。しゃきり、と立ち上がった彼らが唱和するのは、ルヴァンの聖言へのコーラスであった。
「お、お前たち! そ、そんな!?」
「光、あれ! 光、あれ!」
白い三角頭巾たちの後押しを得て、ルヴァンの歌声はますます強まってゆく。
「お前を神は愛してる! 天からお前を見守ってる! だからお前も生まれ変われる! 神を崇める僕となれる!」
ルヴァンに集まった白い光が、真っすぐに魔神官を貫いた。その勢いに、ついに魔神官はこらえきれず、入り口のバリケードを破壊し扉を破って教会の外へと吹き飛ばされた。仰向けに倒れ、動かなくなった魔神官へ目を向け、ルヴァンはユーリへと振り返る。
「ユーリさん」
呼びかけに、ユーリはうなずいてオルガンの前を離れる。白い三角頭巾たちが、跪いてユーリのために道を作った。間を抜けて、ユーリは魔神官の元へと歩み寄る。
「わ、我は……ま、負けた、のか」
天を仰ぎ、虚ろな目で魔神官は言う。傍らで、ユーリはうなずいた。
「ほえ。そうだよ。あなたは、負けたの。だから、帰って魔王に伝えて。私は、もう逃げないから。用があるなら、自分で言いに来て、って……」
「その必要は、無い」
幼い声が、明瞭な響きをもってユーリの耳へと届いた。びくり、と肩を震わせ、ユーリが声のほうへと顔を向ける。何の変哲もないただの町に、黒いゴシックロリータのドレスを身に纏った幼女が、そこに立っていた。
「ま、魔王、様……」
ぼろぼろになった魔神官が、手を伸ばして弱々しい声を上げる。
「魔神官。あれを」
冷たく赤い瞳をちらと魔神官へ向けて、魔王シアは言った。
「はっ……」
ゆっくりと身を起こし、魔神官がローブの懐から何かを取り出して、ユーリへと差し出してくる。
「……これは、何?」
問いかけながら、ユーリはそれを受け取った。
「ま、魔王様、お手製の、ぬ、ぬいぐるみ、だ……は、腹を、押せば、キューと……」
じっと、手の中にある柔らかな感触のものを眺める。
「鳥?」
「コウモリ……だ……」
言われてみれば、コウモリに見えなくもない。そんな造形だった。ぬいぐるみの丸いお腹を、ユーリは親指で押す。キュー、と存外可愛らしい声で、それは鳴いた。
「……もう、良いぞ、魔神官よ。あとは、余が自ら話す」
苦しげに呻く魔神官へ、シアが言葉をかけた。
「あ、ありがたき、しあわせ……」
魔神官の身体の下に、転移の魔法陣が現れる。ユーリの視界の端で、その姿がすっと消える。
「……それで、魔王? 私に、一体何の用があってこんな所まで来たの?」
じっとシアを見据えて、ユーリは言う。目の前で、シアの唇が笑みに吊り上がる。
「ククク……なるほど、ルクスオルの申すとおりであったか。ククク」
「何が可笑しいの?」
眉を顰めるユーリの手元で、ぬいぐるみがキューと鳴いた。
「お前は、余のことを魔王『様』ではなく、魔王と呼ぶようになった。そう、呼び捨て、だ……いよいよ、余とお前の距離は、縮まったということになる」
シアの言葉に、ユーリは首を傾げる。
「ほえ、そうなの?」
思わず気の抜けた声が出たが、シアは美しく小さな顔を縦に動かす。
「そうだ。さん、やちゃん、といった愛称も無く、呼び捨てだ。人間の間では、親しい友人同士がするものだろう? もっとも、余の望みとしては、名前のほうで呼んでくれるほうが、嬉しいのだがな」
「何だか、違う気もするけど……それよりも、魔王。私、あなたに聞きたいことがあるんだけど」
問いかけに、シアの目が少し見開かれる。
「ほう。余に、質問か。良いな。実に、良い。お前の問いたいことを、何でも聞いてみせよ。余に答えられることであれば、答えよう」
上機嫌な顔で、シアが言う。ユーリはぐっと、手を握りしめた。汗の浮いた手の中で、ぬいぐるみがキューと鳴いた。
「どうして、私が欲しいの?」
質問に、シアが黙って顎に手を当てて考える素振りを見せる。
「……なぜ、なのだろうな」
ぽつり、とシアが呟く。その言葉に、ユーリは首を傾げた。
「わからないの?」
シアが視線を上げて、小さくうなずく。
「うむ。わからなく、なった。余は、なぜお前が欲しいと思うのか。どうして、お前でなければいけないのか……考えても、答えは出ては来ない。だが」
すっと、ユーリに向けてシアの幼い手のひらが差し出される。
「お前でなければ、ならないのだ。その思いは、ますます強くなるばかり。余は、余の隣で笑うお前を、見ていたい。城へお前と二人、閉じこもってしまいたい。この世界全てを手に入れて、お前と共に分かち合いたい。この身の内に、そんな欲望が次々と湧き出してくる」
「ほえ。出来れば、世界征服とかはやめてほしいんだけど……でも、そっか。そういう、ことなんだね」
シアの手を取り、ユーリはうんうんとうなずく。
「何を、一人で納得している。余には、何もわからぬぞ」
訝しげな顔を向けてくるシアに、ユーリは微笑んでみせる。
「ねえ、魔王……」
「シア、と呼んではくれないのか?」
「……わかった。シア、あなた、私のことが好きなのね?」
握りしめた小さな、冷たい手に熱がこもる。
「余が、お前を……?」
「そう。だから、私が欲しいって、そう思うの。自分でもわからなくなるくらいに……私に、恋してるの」
「恋……魔王たるこの私が、恋を……?」
大きな瞳を瞬かせ、シアが呟くように言う。
「魔法で心を操るんじゃなくて、本当に、気持ちの通じ合う関係になりたいって、そう思うんでしょう?」
ユーリの言葉に、シアはうなずく。
「それが、恋……?」
「うん。それも、恋だよ。恋には、色んな形があるの。魔王の、シアの恋の形は、ちょっとわかりにくかったけど……たぶん、そうなんだと思う。他の魔族の人たちと会って、戦ったりして……ようやく、わかったよ。シアの気持ち。魔王でも、魔族でも、エルフでも……恋する気持ちは、変わらない」
「なるほど。これが恋か。そうだな、余は、ユーリに恋をしている。城も、模様替えをしたのだぞ、お前のために。余の城へ、お前を迎える準備は、既に整っている。あとはお前が、うなずいてくれるのを待つばかりだ」
熱い視線で、シアがユーリを見つめる。
「ほえ、それは駄目」
だが、ユーリは首を横へ振った。
「なぜ、と聞いても良いか?」
「だって、私はあなたに、シアに恋をしていないの。だから、お友達くらいには、なれるかも知れないけど……」
「なるほどつまり、お友達から始めましょう、ということだな。案ずるな。魔界の古文書に記されていたことと一致する。恋人となるには、段階を踏まねばならないのだ、とな」
ユーリの言葉を遮り、シアは一人でうなずいた。
「ほ、ほえ? えっと、そういうことじゃなくって……」
言いかけたユーリの唇へ、シアが人差し指を当ててくる。
「案ずるな、と言ったはずだ。余にも、心得というものはある。お前がしっかりと手順を踏んで行きたいと言うのであれば、無理強いはしない」
にっこりと笑うシアに、ユーリは小さく息を吐いた。
「ほえ……何か間違ってる気もするけど、まあ、いっか。うん、シアとは、お友達だよ」
「ククク……光栄に、思うが良いぞ、ユーリ。魔を統べる余と、お友達から始められるのだからな」
邪悪に笑うシアに、ユーリは指を一本立てて見せる。手の中で、ぬいぐるみがキューと鳴いた。
「ただし……私の前では、絶対に最終形態とかいうのには、ならないでね。あれ、本当に怖いから」
ユーリの言葉に、シアは平然とうなずいて見せる。
「構わぬ。あの姿を取らねばならぬ者など、そうはいない。せいぜいが、神くらいなものだろう」
「あと、私の恋路の邪魔は、決してしないこと」
立てられた二本目の指に、シアは軽くうなずく。
「無論、そのつもりだ。余への、恋路であるのだからな」
自信満々に言うシアに、ユーリはこっそりと息を吐く。そして、三本目の指を立てた。
「それから……人間と戦うのは、できればやめてほしい。私は、楽しく旅していたいから」
「人間どもが身の程知らずに戦いを挑んでさえ来なければ、余からは何もせぬ。だが、降りかかる火の粉は払わねばならぬ。それでも、良いか?」
問いかけに、ユーリは少し考えてから、うなずいた。
「うん。そういうときも、出来れば誰も死なないような方向で、やってくれればいいよ」
「容易いことよ。余の力をもってすれば、な。他に、余に願いはあるか、ユーリ?」
シアの言葉に、ユーリは首を横へ振る。
「あとは、大丈夫。駄目なこと見つけたら、そのときに言うから。私のことが好きなら、ちゃんと守ってね、シア」
「余を誰だと思っている? 魔族の王、魔王なるぞ。約定を違えは、せぬ。この名に懸けて」
きゅっと、シアが握った手に力をこめる。
「ありがとう。これから、よろしくね、シア」
握り返してユーリは、笑顔を向けて言った。
「そのぬいぐるみは、大事にせよ、ユーリ。余が、魔心こめて作ったのだからな」
「うん、ありがと。今度お返しに、何か良い物プレゼントしてあげるね」
「ククク、その日の来るのを、楽しみに待つとしようか。それでは、私も城へと戻るとしよう。さらばだ、ユーリ。近いうちに、また来る」
魔王の足元に、転移の魔法陣が現れる。すっと消えた手のひらの熱の余韻を、ユーリはしばらく感じ続けていた。
「ほえ……魔王と、お友達になっちゃった……」
呟いて、ユーリは教会へと振り向き開け放たれた扉の中へと姿を消した。
暗雲垂れこめる、いつもの魔王城。魔王の私室で、シアはユーリの等身大ぬいぐるみを抱えてベッドに寝ころんでいた。
「ククク……フフフフ……ハーッハハハハハ! ついに、ついに余は成し遂げたぞ、偉大なる、第一歩を!」
テンションの高い三段笑いで、仰向けになったシアは右手を掲げてにぎにぎとする。ほんのりと残る、ユーリの熱。自然と、シアの頬が緩む。ふっと、その顔が引き締められた。
「魔王様におかれましては、ご機嫌麗しいようで……」
部屋の中に、突如現れるのは魔参謀の姿である。
「ルクスオルか。戦況は、如何に?」
ベッドの前で跪いて、魔参謀が一礼する。
「はっ。人間どもの軍勢は、徹底的に痛めつけてやりました。追撃をなせば、これを壊滅することも可能ですが、如何なさいますか?」
「……捨て置け。兵たちには休息を与えよ。お前は人間どもに裏から働きかけ、戦意を削ぐことに尽力せよ」
シアの言葉に、魔参謀は少しの間、考える。
「深淵なる魔王様の御心を測る無礼、お許しください。何ゆえに、人間どもに情けをかけられるのでしょうか?」
問いかけに、シアは等身大ぬいぐるみを持ち上げて眺め、息を吐く。
「時が、必要だ」
シアの一言に、魔参謀は大きくうなずいた。
「承知いたしました。なれば全ての謀は、私めにお任せください」
「うむ。お前に全ての裁量を与える。それから、魔神官の件についてだが」
「聖人によって付けられた心の傷は深く、立ち直るにはひと月の猶予が必要にございます」
「なれば、一か月の後にお前の麾下に加えよ。奴にはまだまだ、働いてもらわねばならぬ」
「寛大なご処置、誠にありがたく存じます」
「では、下がれ」
「はっ」
魔参謀の姿が消えると、シアは再びぬいぐるみを抱き締めころんと寝返りをうつ。
「これで、全て余の掌の中で事は動く。ユーリよ、お前の心が靡くまで、余はいつまでも待ち続けよう」
シアは目を閉じて、ぬいぐるみの頬にそっと口づけをする。窓から差し込む稲光が、今日のシアにはいつもより眩しく感じられた。
青空の下を、連なった馬車が駆けてゆく。先頭車両の幌の上で、ユーリは遠く小さな影に向かって手を振った。向こうもユーリに気付いて、手を振り返してくれる。やがて影が見えなくなると、手をおろしてユーリは胸の十字架をそっと撫で、リュートを構える。
「今日も今日とて旅の空ー、風もそよそよ吹いてるよー」
陽気なメロディを爪弾くユーリを乗せて、馬車は進んでゆく。
「平穏無事なのは良い事なのだけれど……何だか物足りない気がするわね……」
御者台から、退屈そうなシャイナの声が聞こえてくる。ユーリは微笑んで、前方を見やる。
「ほえ、山の向こうに虹が見えるー」
ほろほろと陽気な音色に合わせて、馬車が揺れる。ユーリの旅は、まだ続いてゆくのであった。
なお、聖人ルヴァンの元に新たな使途として白い三角頭巾の者たちが加わったのだが、彼らが何者であるのか、それは誰も知らないことなのであった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回は、番外編を二本ほど、お届けいたします。
お楽しみいただければ、幸いです。




