ピアノの音色の向こう側 後編
三度目のセッションは、ユーリの心に決意をもたらした。ほろり、ほろりと音が溶けあい、落ち着いたスローバラードを爪弾くユーリの側に、気品のあるピアノの音色が続いてくる。
「あなたと、共に、愛を築くの……あなたと、ひとつになって……」
ほろん、と最後の音は、ユーリとファーロスが同時に奏でた。万雷の拍手に、ふたりは寄り添って一礼する。そうして、ユーリはファーロスにエスコートされ、町長の館へと訪れた。
広い食堂にはいくつもの豪奢な燭台が並び、ふたりの夜を照らし出す。振る舞われる料理はどれも絶品で、ユーリは終始笑顔で舌つづみを打っていた。
「ほえ、すっごく美味しかったです、ファーロスさん」
客間へと移り、ソファに腰掛けてユーリが言った。対面に座り、ファーロスがにこやかにうなずく。
「喜んでもらえて、何よりだよ、ユーリ」
名を呼ばれるだけで、ユーリの頬はにへらと緩む。メイドがお茶菓子を運んでくると、テーブルに置いてお茶を淹れる。
「酒も良いけれど、私はお茶も好きでね。これは、遠くの町から取り寄せた、香り高いものだよ」
お茶の香りを楽しむように、ファーロスがカップを掲げる。ユーリも鼻先へカップを持ち上げ、鼻を動かした。
「ほえ……爽やかな香りですね」
ふわり、と鼻孔を駆け抜けてゆくお茶の香気に、ユーリは目を細める。
「淹れ方で、味や香りが変わるんだ。彼女は、それを良く心得ているんだよ」
ファーロスの言葉に、ユーリがメイドに目を向ける。メイドは優雅に一礼して、そっと退出していった。
「……私、覚えたいです。このお茶の淹れ方」
両手でカップを包むように持ち、ユーリは言った。
「気に入ってもらえて嬉しいけれど、お茶の淹れ方にはコツがあるそうなんだ。私も、自分でやってみてもどうしても上手くいかなくてね。一朝一夕では、身につかないものだよ」
苦笑しながら、ファーロスが言った。ユーリはカップを置いて、身を乗り出す。
「何年かかっても、きっと覚えてみせます。ファーロスさんが、好きなお茶ですもの……」
「気持ちは嬉しいけれど……君は、明日、発つのだろう?」
ファーロスの問いかけに、ユーリはふるふると首を横へ振る。
「ファーロスさん、私、キャラバンとはお別れしました。この町に、残ることに決めましたから」
ユーリの言葉に、ファーロスは目を見開いた。
「どうして……」
「隣、いいですか?」
立ち上がり、ユーリは当惑するファーロスの隣へと腰掛ける。膝に置かれたファーロスの手へ、ユーリは手のひらを重ねる。
「あなたの、側にいたい。そう思ったからです、ファーロスさん」
じっと、上目遣いにファーロスを見上げる。
「……ありがとう、ユーリ」
そっとファーロスの腕が、ユーリの身体を包む。力強く抱きしめられて、ユーリはファーロスの胸の中で微笑んだ。
「ファーロスさん……私」
「ユーリ。私に、言わせてくれないか?」
感極まったユーリの言葉を遮り、ファーロスが言って身体を離した。肩に置かれたファーロスの手は熱く、触れているユーリの肌も熱を帯びて熱くなっていく。
「ユーリ……私の、家族になってほしい。会ったばかりの君に、こんなことを言うなんてどうかしているかもしれないが……」
「ほえ、喜んで、お受けします……ファーロスさん」
うなずいて、ユーリはそっと目を閉じた。ユーリの額に、少し乾いた唇の感触が訪れる。陶然とするユーリの頬を、ファーロスの手が撫でた。
「ああ……夢のようだ、ユーリ」
「私もです、ファーロスさん……」
「ユーリ、家族になるのだろう? もう、そんな他人行儀な呼び方は、しなくてもいいと思うのだが」
ファーロスの言葉に、ユーリはファーロスの手から逃れるように顔を逸らせる。
「……まだ、ちょっと恥ずかしい、です」
そう言ったユーリへ、ファーロスは笑顔を見せる。
「まあ、ゆっくりと変えていけば良いかな。時間は、たっぷりあるのだからね。さて、今日はもう遅い。そろそろ、眠るとしようか」
立ち上がったファーロスに、ユーリの胸がどきんと鳴った。
「ほえ、ね、寝るんですか?」
ユーリの問いに、ファーロスがうなずく。
「君は夜型の生活をしてきたのだろうけれど、我が家の一員となるからには家の生活に早く慣れてもらわねばならないからね。構わないだろう?」
ユーリは身じろぎしながら、指と指をもじもじと合わせる。
「で、でも、私、お風呂とか……今日、入ってないし……」
「湯浴みか。すぐに準備させよう。その間に、寝室も用意しておくよ」
「……はい。ありがとう、ございます」
ゆでだこのようになった顔を俯けて、ユーリは蚊の鳴くような声で言った。
贅を凝らしたバスタブを使い、用意された絹の寝間着に袖を通し、ユーリはメイドに案内されて寝室へと入った。ぬいぐるみのたくさん置かれた部屋には、ユーリのためにあつらえたような小さなベッドが置かれていた。
「ほえ? ファーロスさんは……?」
「旦那様は、ご自分のお部屋ですでに眠っておられます。ユーリ様も、どうぞ今日はゆっくりとお休みください」
背後でメイドが一礼して、言った。
「ほえ、そ、そうなんだ……うん、ありがとう」
ベッドに乗って、置いてあったうさぎのぬいぐるみを抱きながらユーリが言う。メイドは静かに、灯りを持って部屋を出て行った。
「……慣れるまで、待っていてくれるのかな。ファーロスさん」
ベッドに寝ころんで、ユーリは部屋を見回す。くまやリス、イヌのぬいぐるみが、きちんと棚に並べられている。小さな机もあり、本棚には絵本と思しき背表紙がいくつも並んでいた。
「プレゼントかな……私、そこまで子供じゃないんだけれど……でも、嬉しい」
ふふ、と小さく笑い、ユーリはぬいぐるみを抱えて目を閉じる。眠りは、すぐに訪れた。旅の間、野宿をすることも多々あって、いつでも眠りに落ちる技術は持っているのである。
「ほえ……ファーロスさん、ふふふ」
可愛らしい寝息を立てながら、ユーリはころんと寝返りをうった。
翌朝、ユーリは鳥の鳴き声とともに目を覚ます。柔らかな夜具から身を起こし、机の前にある小窓へと近づいた。館の庭で、雀が数羽草の中で動いていた。
「ほえ、おはよ、雀さん。良い朝だね」
窓から手を振ると、視線に気づいたのか雀たちがさっと飛び去ってゆく。うーん、と伸びをしながら、ユーリは寝間着のまま部屋を出て、台所へと向かう。館の構造は、昨日すでに把握していた。広い館を、迷うことなくユーリは歩く。まだ寝ている気配があちこちにあったので、彼らを起こさぬよう足音は完全に消していた。
「ほえ、おはよう」
台所では、一人のメイドが忙しく立ち働いていた。挨拶をすると振り返り、慌てた様子で頭を下げる。
「おはようございます、ユーリ様」
メイドの様子に、ユーリは右手を出して制した。
「ほえ、そんなかしこまらなくても、大丈夫だよ。あ、メイドさん、襟、ちょっと乱れてるね」
すっとメイドの側に寄って、ユーリはメイドの襟に手を伸ばす。そのとき、ユーリの視線がメイドの細い首で留まった。
「あれ……どうしたの、これ?」
ぽつん、と赤く皮膚の一部が染まっていた。
「な、何でもありませんわ、ユーリ様。ありがとうございます」
さっと、襟元を隠すようにメイドが身を引いた。ユーリの頭の中に、ぴん、と閃くものがあった。
「ほえ、もしかして……」
目を細めて笑うユーリに、メイドは頬を染めてそっぽを向く。
「み、見なかったことにしていただけると、ありがたいのですが……」
恥ずかしそうに言うメイドへ、ユーリはにっこりとうなずいた。
「うん、いいよ。私と、あなたの秘密だね。あ、もう一人いるか。それを、つけた人が」
ユーリの言葉に、メイドは身を縮めて俯く。いたずらっぽく笑ったユーリは、そんなメイドの腰を軽く叩いた。背中を叩くつもりであったが、身長が足りなかったのだ。
「大丈夫。私、口は固いほうだから。それより、お茶を淹れてもらいたいんだけれど、いいかな?」
ユーリの問いにメイドはうなずき、手早く優雅にお茶を用意する。台所のテーブルに腰掛けたユーリの前へ、爽やかな香りのカップが差し出された。
「本当は、食堂へご案内するべきなのですが……」
「いいよ。私、そういうのは気にしないほうだから。あ、でも、ファーロスさんには内緒にしてね。ばれたら、怒られちゃうかもだし」
言いながら、ユーリはカップを傾ける。口の中に、お茶の味が拡がってゆく。草原を駆け抜ける涼風のような、心地よい感覚が胃の腑へと落ちていった。
「ほえ……うん。やっぱり美味しい。あなた、昨日お茶を淹れてくれたメイドさんだよね?」
ユーリの問いに、メイドがこっくりとうなずいた。
「名前、聞いてもいい?」
「はい。マリーと申します。ユーリ様」
「マリーさんって、言うんだね。うん、素敵な名前。ねえ……マリーさん。私に、お茶の淹れ方、教えてくれる? 私も、こんな風に美味しいお茶を、好きな人に淹れてあげたいの」
ユーリの言葉に、マリーは笑顔でうなずいた。
「私の淹れ方でよろしければ、いつでも」
「ありがとう。ほえ……こんなお茶が飲めるなんて、マリーの恋人は、幸せね」
カップを掲げて言うユーリへ、マリーは頬を染めて俯く。
「いえ、恋人などと……あの人とは、そんな関係では」
「でも、そーいうこと、してるんでしょ?」
ユーリが目線でマリーの首筋を指して、言った。その言葉に、マリーの顔が少し曇る。
「……はい。でも」
浮かない声になったマリーを見て、ユーリの頭の中に再びぴんと閃くものがあった。
「もしかして、身分の差、とかあるの? もしくは、年上とか?」
ユーリの問いかけにマリーは答えない。だが、その沈黙が何よりの返答だった。
「ほえ、大丈夫だよ。だって、マリーのお茶、こんなに美味しいんだもの。思い切ってその人に告白して、恋人になっちゃえばいいんだよ」
「そんな、でも……あの人には、お立場が……」
言いよどむマリーの肩を、椅子の上に立ち上がったユーリががしりと掴んだ。
「でも、じゃないよ。その人との間に、子供が出来たらどうするの? お屋敷で働けなくなったら、もうマリーのお茶が飲めなくなっちゃうじゃない。それに、来たばっかりでお別れなんて、私、寂しいよ」
「ユーリ様……」
マリーの潤んだ瞳が、ユーリの目をじっと見つめる。ユーリは、力強くうなずいて見せた。
「ちゃんとした関係になって、幸せにならなくちゃ。私も幸せになったんだし、あなたも出来るよ、ね?」
「……ありがとうございます。ユーリ様。ユーリ様にそう言っていただけるなら、私、決心がつきました」
晴れ晴れとした表情で、マリーが言う。ユーリはうんうんとうなずき、椅子に腰を下ろす。
「もしもダメそうでも、私が何とかしてあげるから。思いっきり言っちゃえばいいよ、マリー」
涙を拭いて一礼し、マリーは朝食の支度へと戻ってゆく。その背中を、ユーリはぼんやりと見つめる。
「ほえ……マリーは綺麗だし、お茶も美味しいし、きっとうまくいくよね」
小さく呟き、ユーリは頬杖をついて想像を巡らせる。このお茶を、ファーロスへ淹れてあげられたらどれくらい喜ぶだろうか。そんなことを考えながら、ユーリはにへらっと頬を緩ませるのであった。
そうして昼過ぎの時間まで、ユーリは執務室でファーロスの仕事を手伝うこととなった。読み書きはできるので、書類仕事くらいならユーリでも手伝えるのだ。仕事中のファーロスの引き締まった横顔をちらちらと見つめながら、ユーリは緩んだ顔で何度も息を吐いた。
「……そろそろ、休憩にするか。ユーリ」
ユーリの様子に苦笑を浮かべ、ファーロスが言う。
「ほえ、あ、わ、私なら大丈夫です、ファーロスさん」
慌てて我に返るユーリの頭に、ファーロスの大きな手のひらがぽんと置かれた。
「ユーリのお陰で、すごく助かっているんだ。余裕ができるくらいにね。それに、私も少し休みたいと思っていたところなんだ」
ファーロスがベルを鳴らし、メイドを呼んでお茶の準備を命じる。しばらくして、やってきたのはマリーだった。お茶と茶菓子の載ったワゴンを押しやるマリーの表情は、どこか硬直している。
「マリー……告白、してきたの?」
ユーリは小声でそっと、マリーに尋ねる。緊張した面持ちのマリーへ、ユーリは片目をつぶって見せた。
「大丈夫、きっとうまくいくから。私と、ファーロスさんがついてるからね」
「おや、ユーリ。マリーと仲良くなったのかな? 早速内緒話とは、微笑ましいことだね」
「ほえ。お茶の淹れ方を、教わることになったんです。それと、ちょっとした応援を」
ユーリの言葉に、マリーは驚きの目でユーリを見つめ、ファーロスはほうと息を吐く。
「応援? どういうことかな」
「ほえ。マリーは……」
さっと、マリーの手がユーリの口へと伸びた。ユーリはマリーと視線を合わせ、こくんとうなずく。そういえば、内緒だったっけ、と思い返し、ユーリは言い訳に思考を巡らせる。その間に、マリーが動いた。
「ファーロス様、私は……私は、ようやく決心がつきました」
マリーの言葉に、ユーリの思考は中断する。
「そうか、マリー。ようやく、決心してくれたのか」
ファーロスが立ち上がり、マリーへと歩み寄る。ざわり、とユーリの胸がざわめいた。
「はい。ユーリ様に、励ましていただいて……」
言いながら、マリーの熱を帯びた視線はファーロスに注がれている。あっ、とユーリは心の中で声を上げた。
「では、私のプロポーズ、受けてくれるのだね?」
ファーロスの言葉に、ユーリの脳内に理解が訪れた。訪れてしまったのである。
「はい……私も、ファーロス様を、お慕いしておりますので……」
ぎゅっと抱き合う二人を目の前に、ユーリは口をあんぐりと開いてしまう。
「……おっと、子供の前で、見せることでは無かったね、マリー」
「……はい」
すっと、マリーが名残惜しそうにファーロスから離れる。そしてにっこりと、ユーリに向かって軽く頭を下げた。
「ユーリ。これからは、親子三人、仲良く暮らしていこう。マリーのことは、母親として接してくれれば何よりだが、まずは慣れることだね」
言葉とともに、ファーロスの分厚い手が差し出されてくる。ユーリは笑顔を浮かべ、マリーとファーロスを交互に見て口を開く。
「お、おめでとうファーロスさん! マリー! 私、ずっとあなたたちを応援しようって、決めていたの! だから、ようやく一緒になってくれて嬉しい! これで私の役目も終わりだね! 大丈夫、子供ならすぐに出来るよ! それじゃ、私は心置きなく旅に戻るから! 心配しないで、達者で暮らしてください、さよなら!」
一気にそう言って、ユーリは二人に背を向けた。あっけにとられた二人を置いて、ユーリは走り出す。応接室を抜けて、広大な館の玄関口を駆け抜け、風となって町を走り抜ける。家々の屋根を飛び跳ね、船着き場へとやってきたユーリのぼやけた視界には桟橋から離れゆく一艘の船が映った。ユーリは加速を続け、桟橋からジャンプをする。すぐに、水面が近づいてくる。水面へ浮いた木の枝を、木の葉を足掛かりに、ユーリは跳ねる。そして四歩目、ユーリは船の甲板へと降り立った。
「ユ、ユーリ!?」
目を丸くするシャイナの胸へ、ユーリは飛び込む。
「ほええええん!」
泣きじゃくるユーリの声を響かせながら、船はゆるやかに水上を滑ってゆく。ユーリの頭を抱きしめながら、シャイナは苦笑をした。
「おかえりなさい、ユーリ」
優しい声が、ユーリの耳を打った。
風をはらんだ帆柱の頂上で、ユーリはリュートを奏でる。カモメたちが寄ってきて、マストの上でじっと羽を休めていた。
「太陽ぎらぎら、風は吹いてー、今日は船旅日和だねー、ほえー」
聞こえてくる歌声に、甲板で作業する水夫たちが拍子を合わせ、合いの手を上げる。そうしていると水夫頭に殴られ、怒鳴られした水夫たちが持ち場へ戻ってゆく。眼下の光景を見下ろしながら、ユーリはますます陽気な歌声を上げる。
「まったく……仕方のない子ね」
苦笑を浮かべて、シャイナが息を吐く。こうして、旅は続いてゆくのであった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回は、また来週になります。お楽しみに、お待ちいただければ幸いです。