魔を討つ意志持つ異邦人 前編
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このお話には、軽い百合表現が含まれております。ご注意ください。
街道をゆくキャラバンの馬車の目前に、その都市は見えていた。強固な防壁を誇る、それは人類最高の城砦都市といえた。高く聳え立つ防壁には今、幾多の魔物が取り付いていた。白い石壁を黒く染める魔物の群れに、馬車の幌に座る少女がほええと鳴いた。
「様子はどう、ユーリ?」
馬車の御者台から、女性の声が上がる。少女は下へ顔を向け、首を横へと振って見せる。
「うん。ちょっとピンチっぽいね。防壁にくっついてる魔物、強力なやつばっかりだよ」
少女の答えに、女性は頭を抱えて唸る。
「まいったわね……今日中に、物資を運び込まなきゃいけないのだけれど……強行突破は、できそうかしら?」
「ほえ、やめといたほうがいいよ、シャイナ。さすがに私ひとりじゃ、皆を守るのは難しそうだから」
気の抜ける鳴き声とは対照的に、少女の顔は険しい。少女の顔色を見やり、女性は大きく息を吐いた。
「しばらく、このままでいるしかないのかしら」
女性が顔を向けるのは、キャラバンに所属する五台の馬車である。森の中で、木の枝などをくっつけてひっそりと息を殺している。
「放っておいたら、陥落しちゃいそうだけどね」
幌の上の少女が、不安げな顔で呟いた。
「それは、困るわね。ギルドの仕事だから、失敗したら信用に響くわ」
「信用以前に、人類のピンチじゃないかな? あ、何か出てきた」
呆れた顔で女性に言った少女が、防壁の上を見て言った。押し寄せる魔物たちを前に、青い派手な鎧を身に着けた人間が一人、防壁上に姿を見せる。遠目に見れば、その人間は一本の剣を大上段に掲げていた。
押し寄せる魔物の群れに、動揺の気配が走り抜ける。たった一人の人間に、巨体を誇る魔物さえも気圧されている。
「ほえ、光った」
「何? どうしたの、ユーリ?」
女性の問いに、少女は防壁の上を指差した。防壁の上に立った人間の掲げる剣が、遠目からでも判るほどに眩く輝いている。その剣が、ぴくりと動いた。
「……伏せて!」
少女が叫ぶと同時、剣が勢いよく真下へと振り抜かれる。
『聖なる光よ、俺に力を! 聖剣、グランキャリバー!』
大音声が響き渡り、剣から勢いよく光の柱が撃ち出される。聳え立つ防壁よりもなお高く、光の柱は魔物を飲み込み地平の彼方へ一直線に駆け抜けていった。
光の柱が、馬車のすぐ脇を通り抜けてゆく。暴風の勢いをもって、木々が軋み大地が抉れた。吹き荒れる空気の中、幌の上の少女は髪をたなびかせながら呆然と一点を見つめていた。
たったの一撃で、城塞都市を包囲していた魔物の群れは退散してゆく。地響きに大地が波打ち、それが静まると防壁の上に現れた人々が歓声を上げる。
「何とか、なったみたいね、ユーリ!」
御者台から身を乗り出して、女性が言った。だが、幌の上の少女は応えず、ただ一点を見つめ続けていた。
「ほえ……素敵」
うっとりと少女の口から漏れた言葉を、聞いた者は誰もいなかった。キャラバンの馬車が、ゆるゆると城塞都市へ向かって進み始める。爽やかな風が、吹き抜けていった。
赤、青、黄色、様々な光の魔法を浴びながら、ユーリはリュートをかき鳴らす。小さく美しい歌姫の歌舞に、ステージへは歓声がひっきりなしに届いてくる。頬を紅潮させ、ユーリは高く、高く歌い上げる。
「光の剣がー、闇を斬るー。伝説の、勇者様ー!」
歌の内容は、目にした勇者の力への賛辞であった。剣一本で、魔群を退けた青年。この都市では知らぬ者のいない、それは勇者と呼ばれる人物である。流麗な演奏と涼やかな歌声で人気者を讃えれば、酒場には自然と大きな歓声が満ちてゆく。酔客たちが肩を組み、足を踏み鳴らしてユーリの演奏へ応える。その中に、動かずじっとユーリを見つめる視線があった。
フードを目深にかぶり、マントで全身を覆った人物だった。中肉中背で、焦げ茶色の瞳がフードの闇の中で光っている。じっと見返すと、自分が丸裸にされたような、何とも不思議な感覚がユーリを訪れる。目を逸らせば、それは消える。ぞわぞわとしたものを感じながら、ユーリはステージ上で歌い続ける。やがて、観客たちの興奮と歓声にユーリも高揚してゆき、それは頭の片隅へと追いやられていった。
ステージが終わり、喧騒と歓声に包まれながらユーリは杯を傾ける。テーブルに向かい合って座っているのは、キャラバンの長のシャイナである。
「どうしたの、ユーリ? あまり食べていないようだけれど」
フォークの先で野菜の煮物をつつき、きょろきょろと周囲に目を配るユーリへシャイナが話しかけてくる。
「ほえ、何だか、見られてるような気がして……落ち着かないの」
ユーリの言葉に、シャイナが少し目を丸くする。
「ユーリが気配を追えないなんて、珍しいこともあるものね」
「うん。探ろうとすると、はぐらかされるっていうか、そういう感じになるの。故郷を出てからこんなこと、初めてだよ」
眉を寄せて、ユーリは小さく息を吐く。
「ふうん。そういえば、ユーリは他所の大陸から来たのだったわね。そっちでは、よくあった事なのかしら?」
シャイナの問いに、ユーリは首を横へ振る。
「ううん。特別な場合でもなかったら、気配を隠したりはしないから。仕事してるときの、パパの気配に似てるかな……?」
首を小さく傾げるユーリの前で、シャイナが口に含んでいたワインを派手に噴き出した。
「ちょ、ちょっとシャイナ、汚いよ」
懐から手のひらサイズの傘を取り出したユーリが、飛沫を避けて言う。
「ご、ごめんなさい。でも、その、あ、あなたのお父様が、こ、ここにいるって、いうことなのかしら?」
落ち着かない様子で、シャイナが周囲をきょろきょろと見回し始める。ユーリは苦笑して、ハンカチをシャイナに差し出した。
「そんなこと、無いよ。パパは忙しいから。こっちに来る暇なんて、無いと思う」
「そ、そうなの……まあ、そうよね。その通りよね」
撒き散らしたワインを拭きながら、シャイナが言った。醜態を見せた羞恥のためか、酔いのためか、シャイナの顔は真っ赤になっていた。
「シャイナ……」
ユーリが言葉を口にしかけた、その時だった。ユーリの背後に、音もなくフードをかぶったローブ姿の男が現れた。ぽん、とユーリの肩に手が置かれ、穏やかな声がかけられる。
「すみません、先ほど、ステージの上で歌っていた方ですよね?」
ユーリがびくりと全身を震わせ、椅子から立ち上がり男へと向き直る。ぴん、とユーリの顔に、緊張の色が浮かぶ。
「あなたは、誰?」
男の視線が、真っすぐに自分へと向いていることを確認してユーリは問いかけた。
「俺は……」
言いながら、男は目深に下ろしていたフードを少し上げて、顔を見せた。黒髪に、やや黄味がかった肌の色、そして優しげな風貌がそこにあった。
「勇者さ……」
しっ、と男がフードを下ろし、ユーリの口へ人差し指を当てる。唇に触れる硬い感触に、ユーリの胸がどきんと高鳴った。
「良かったら、落ち着いて話のできる場所へと行きませんか? ここだと、俺の正体がばれると大騒ぎになってしまうから」
男の提案に、ユーリはこっくりとうなずいた。
「では、こちらへ」
差し出された手を取ると、柔らかな指がユーリを包むように握りしめてくる。ふらふらと、ユーリは男に促されるままに酒場の二階、宿屋の一室へと入っていった。
「夜分遅くに、すみません。どうしても、あなたに確認したいことがあったんです」
部屋へ入り、ドアを閉めると男はフードを取り、顔を見せて言った。
「ほえ、やっぱり、あのときの勇者様……」
男の顔を見上げ、ユーリはうっとりと声を上げた。中肉中背、黒髪で少し鼻の低い、うっすらとした慎ましやかさのある顔立ちと、意志の強さを感じさせる眉。それは、ユーリが遠目に見た防壁の上の男であった。
「勇者様、ですか。皆、俺をそう呼んでくれますが……俺は、ただの人間です。イチタローって、名前なんですけど」
「イチタロー様……不思議な響きだけど、素敵な名前だと思います! あ、私は、ユーリっていいます。吟遊詩人をしてて、さっきみたいに酒場で歌ったりしてます!」
両拳を胸の前で握り合わせ、にへらと笑ってユーリは言った。
「あ、ありがとう。ここへ来てから、そう言ってもらえたのは初めてです」
ユーリの勢いに気圧されるように、男は少し身を引いて言った。
「イチタロー様も、別の大陸から来たんですか? 私も、お隣の大陸からこっちへ来たんですけど」
ユーリの問いに、男は難しい顔をして首を横へ振る。
「俺は、この世界の住人じゃないんです。あ、堅苦しいから、敬語は無しでいいかな? 俺を呼ぶのも、様は付けなくていいから」
にっこりと笑って言う男に、ユーリはうんとうなずいた。
「はい……じゃなくて、うん、わかった。それで、この世界の住人じゃないって、どういうこと? 魔界からやってきたの?」
問いかけに、男は苦笑を浮かべた。
「そうじゃなくて……俺のいた世界は、こことは違う場所なんだ。上手く説明はできないけれど、俺は、この世界の術師さんに、召喚されたんだ。魔王を倒す、勇者として」
そう言って、男は部屋の壁に立てかけてある剣へちらりと目を向ける。白銀の、優美な鍔飾りが見事な、それは神々しい聖剣である。
「ほえ……すごいね、イチタロー。勇者様だから、あんなに強いんだね」
感心した声を上げるユーリへ、男が向けるのはやはり苦笑だった。
「ほとんど、俺じゃなくて剣の力なんだけどね。あの剣を使いこなせるのが、勇者ってことらしい。他にも色々できるんだけど……それで、ユーリに頼みたいことがあるんだ」
真面目な顔になって、男がユーリをじっと見つめてくる。それは、ステージの上でユーリの感じたあの視線だった。
「ほえ、私に……? なあに?」
問いかけるユーリに、男が右の掌をユーリへと突き出して構える。
「君の、全てを見せてほしいんだ」
男の言葉に、ユーリの頭の中は一瞬で真っ白になった。
「え、えと、それは……どういう?」
かろうじて、ユーリが細い声を絞り出す。ばくん、ばくんと心臓が、大きく激しく揺れ動く。
「ステージの上の君も見ていたんだけど、上手くいかなくて。だから、ここでゆっくりと、見せてくれないか?」
言われて、ユーリはステージの上でのことを思い出す。自分の内部を直接覗かれるような、何ともいえないぞわりとした感覚。服を着ているのに、丸裸に剥かれてしまうような感覚を思い浮かべ、ふるりとユーリは全身を震わせた。
「あ、あのとき、見てたの……?」
ユーリが問うと、男はうなずいた。
「うん。不躾だったけど、俺も追いつめられてて……その、嫌だったら、無理にとは言わない。どうかな?」
男の問いに、ユーリは顔を俯かせ、そして小さくうなずいた。
「……いいよ、イチタローになら。私、見られても」
蚊の鳴くような声で、ユーリは言った。ぱっと、男の表情が明るくなった。
「ありがとう! それじゃあ、見るから……力を抜いて、楽にしてて。目は、閉じててもいいから」
男に言われるままに、ユーリは全身の力を抜いて、目を軽く閉じた。
「いくよ……ステータス!」
何を言っているんだろうこの人は、と感じたのもつかの間、ユーリは己の内部に侵入してくる意識を感じた。じろじろとそれは、ユーリの全身をくまなく観察するように蠢いている。ぞわり、と鳥肌が全身に浮き出てくるが、前方の男へ意識を向けるとそれはいくらか和らいだ。
「凄い……何てパラメータなんだ……」
熱っぽい、男の声が聞こえる。耳元で囁かれるような錯覚を覚え、ユーリは耳をぴくりと震わせた。その拍子に、結い上げた髪に隠した長い耳がひょこんと飛び出てくる。一通り、ユーリの中を覗き込んでいたものがすっと消え失せた。少し、名残惜しい感覚に、ユーリは切なげに目を薄く開く。
「もういいよ。ありがとう」
穏やかな笑みを浮かべる、男の姿があった。
「今の、なあに?」
「ステータスっていう、相手の強さを知ることのできる能力なんだ。俺がこの世界に来た時に、与えられた能力だよ」
男のはきはきとした説明は、ユーリの長い耳を右から左へと抜けていった。ただ、火照った身体と羞恥心だけが、ユーリの中に熱として残っている。
「……見られちゃった」
はにかむように、小さくユーリは呟く。男が、うなずいて見せた。
「うん。見せてもらった。凄いよ、ユーリ。ハイエルフの血が、流れているんだね。パラメータも、普通の冒険者の格を遥かに上回ってる。君がいれば、魔王を倒せるかも知れない」
「……ほえ、まおう?」
おうむ返しに問いかけるユーリへ、男が頭を下げてくる。
「お願いだ、ユーリ。俺と一緒に、魔王を倒しに行ってくれ! 俺には、仲間が必要なんだ!」
ユーリの目の前に、黒髪の頭頂部が見えた。ユーリは手を伸ばし、男の肩へと手を触れる。
「イチタロー、顔を上げて。私、あなたについてくから」
「本当?」
弾んだ声で、男が顔を上げる。浮かんでいるのは無邪気な笑みだった。焦げ茶色の瞳の中に、ユーリが映っている。ステータス、とかいうもので見られていた感覚が甦り、ユーリは耳の先まで赤くなる。
「うん。頑張って、一緒に魔王を倒そうね、イチタロー」
にへらと笑い返し、ユーリは男の手を取った。
翌日早朝、ユーリは勇者イチタローと共に城塞都市を出た。シャイナへは、置手紙を残しておいた。朝になっても、宿へと戻って来なかったためである。シャイナのことを気にしていたユーリであったが、魔物を蹴散らしイチタローと共に進むうちにそんな余裕も無くなっていった。
全速力で、聖剣を振るいながらイチタローが駆けてゆく。リュートをかき鳴らし、応援歌を歌いながら追随するユーリは、瞬きをする暇さえ惜しむようにその背中を見つめ続ける。時折、イチタローが振り返り、ユーリに向かって軽く微笑する。ユーリにとってそれは、デートなのである。にへら、と笑いながらユーリの演奏は、次第に激しさを増してゆく。ほろろん、と音色が鳴るたびに、魔物たちが光の中へと消えてゆく。そんな光景が、しばらく続いた。
昼過ぎまで駆け通し、二人はやがて城塞都市の近くにある湖に浮かぶ城、魔王城までやってきた。常人であれば三日はかかる距離を、しかも魔物を蹴散らしながらたどり着いたのである。
「……やっぱり、凄いね、ユーリは」
肩で息をしながら、イチタローが称賛の声を上げる。
「ほえ、凄いのは、イチタローだよ。速くてぴかぴかして、格好良かったよ」
緩んだ頬で、ユーリは答える。こちらは、歌い続けていたにも関わらず息も乱れてはいなかった。
「君の、歌のお陰だよ。こんなに身体が軽く感じたのは、初めてだ」
「私も、イチタローのために歌うの、楽しかったよ。こんなに楽しいなら、ずっと一緒にいたいな」
ユーリの言葉に、イチタローは頬を赤くして俯く。
「それは、俺も嬉しいけど……まずは、魔王を倒さなくちゃね」
すっと顔を上げて、イチタローが魔王城の入口へ目をやる。ユーリもまた、その視線を追った。巨大な鉄扉に、禍々しい紋様が刻まれた門だった。ユーリはイチタローと顔を見合わせ、うなずきを交わし合う。イチタローが聖剣を一閃させ、門の一部を切り裂いた。ぽっかりと空いた門の穴から、ふたりは魔王城の内部へと入ってゆく。
ひんやりとした空気が、城の内部には漂っていた。カツン、カツンと小気味よい足音を立てながら、イチタローが慎重に歩を進めてゆく。少し後ろへ、ユーリが続いた。
「……ねえ、イチタロー。あなたは、その、私のこと、どう思う?」
暗い通路を魔法で照らしながら、ユーリが聞いた。
「どう、って?」
イチタローが歩く速度を緩め、ユーリの隣に並んで聞き返す。暗い廊下には魔物の気配も無く、警戒を少し緩めたのだ。
「ほえ……その、女の子として、どうかなって」
もじもじと両手を組み合わせながら、ユーリは再度問う。ほの暗い廊下の途中、ユーリによって生み出された灯りは薄いピンク色であった。
「え、それは……その、とっても魅力的だと、思うよ」
戸惑いを見せながらも、イチタローははっきりと言い切った。
「子供っぽかったり、しない?」
ちらり、とイチタローを見上げ、小首を傾げてユーリが聞いた。
「うん。ちっちゃくて可愛いよ」
勇者らしく、イチタローは言い切った。
「ほえ……やっぱり、ちっちゃい、よね」
イチタローの答えに、ユーリは口の端を少し引きつらせる。その様子に、慌てたのはイチタローである。
「き、気にすること無いよ、ユーリ! ちっちゃいのは正義だ、って言葉が、俺の世界にはあったんだから! ユーリは、間違いなく正義だよ!」
「ほえ……よくわかんないけど、イチタローも、そう思う?」
じっと上目遣いに、ユーリはイチタローを見つめる。イチタローの焦げ茶色の瞳は、真剣そのものだった。
「……うん。ユーリは、ちっちゃくて魅力的だと思う」
「……じゃあ、恋人に、したい?」
ユーリの問いかけに、短い沈黙が流れた。
「うん。ユーリが恋人に、なってくれるなら」
やがて訪れた答えに、ユーリの顔がぱっと明るくなった。
「ほえ、嬉しい!」
ぎゅっとイチタローに抱きつき、胸板に頭を押し付けるように埋める。なでなでと、頭を撫でてくれるイチタローの手は大きく、優しかった。
「魔王を倒したら……俺、この世界をもっとよく見てみたいって思ってたんだ。ユーリが良ければ、案内してくれる?」
「うん! 約束だよ、イチタロー!」
満面の笑みで、ユーリは顔を上げる。イチタローも優しい笑顔で、うなずいていた。
「さて、そうと決まれば、さっさと魔王を倒そうか、ユーリ」
「うん!」
指を絡めて手を繋ぎ、ユーリはイチタローと並んで廊下の奥へと進んでゆく。階段を登り迷路のような城内を歩き、二人はついに最奥の扉の前へとやってきた。
禍々しくも、豪奢な彫刻の施されたその扉は、いかにも魔王の座する玉座の間に相応しいものだった。
「いよいよ、だね」
イチタローの言葉に、ユーリはこくんとうなずく。繋いでいた手を離し、ユーリはリュートを構えた。イチタローも、隣で聖剣を抜いて構える。
「開けるよ」
合図とともに、イチタローが重い扉へ手をかけた。ユーリも、両開きの扉の反対側の取っ手を掴み、引き開ける。ゆっくりと、扉が開いた。
イチタローと並んで中へと入ったユーリは、全身を硬直させ息を呑んだ。煌びやかな装飾の施された大広間の奥に、巨大な玉座が置かれている。そこに、異形の姿があった。
「クォアアアア……」
身の丈五メートルを超える、悪魔の口から唸り声のようなものが漏れる。血生臭い、ぬるりとした風が吹き付けて来る。鋭い牙がぞろりと生えたその口の奥には、闇色の空間が広がっている。青黒い肌の肉体は逞しく、漆黒の闇の翼は雄々しく拡げられ、頭の両脇に生えた湾曲した角は艶やかであった。
「ひ……」
全身の血液が、凍り付くような感覚がユーリに訪れる。目の前の異形が座しているだけで、凄まじい圧力が襲ってきて、呼吸さえもままならない。
「せ、聖剣よ、俺に力を! 魔を討滅する、一撃をくらえ! 聖剣、グランキャリバー!」
大上段に剣を掲げ、イチタローが極大の光の一撃を放つ。だが、眩く輝く光の柱を前に、異形は六つの赤く光る瞳を煩げに歪めるのみであった。
「つまらぬ一撃だ」
低く、重い声が異形の口から漏れた。ハエを払うような、気軽な仕草で異形が四つの腕の一本を振る。それだけで、光の柱は雲散霧消してしまった。
「そ、そんな、せ、聖剣が、通用しないなんて……」
剣を振り下ろした姿勢のまま、イチタローが身を震わせて呆然と言った。
「……久々に、手ごたえのある勇者がやって来ると聞いて、最終形態で迎えてみれば……ただの雑魚ではないか。つまらぬ」
重い声が、異形の口から漏れた。小さく異形が息を吐けば、それは凄まじい風圧となってユーリとイチタローへと吹き付けて来る。
「貴様はもう良い。失せろ」
無造作に、異形の腕が伸びてイチタローを払いのける。広大な部屋を、イチタローの身体が吹き飛び勢いよく壁に打ち据えられた。
「さて……」
ぎろり、と赤い六つの瞳が、ユーリをねめつける。視線に射すくめられ、ユーリはびくんと身体を震わせた。
「お前のほうが、少し面白そうだな」
ずい、と巨大で醜悪な顔面が、ユーリへと寄せられてくる。ユーリは動かず、それを見つめ返す。それしか、出来ないのである。対峙した瞬間から、ユーリは力の差を理解していた。だから、壁に激突して崩れ落ちたイチタローに視線を向けることさえ、出来ずにいた。
「……妖魔の血が、混じっているな、お前。クク、面白い」
異形の姿が、光に包まれる。眩さに、ユーリは目を閉じる。光が消えて、目を開けたユーリの前には一人の少女の姿があった。
闇色のドレスを纏い、白くきめ細やかな肌に血のような真っ赤な唇、そしてルビーを閉じ込めたような輝く赤い瞳と金髪の、それは美少女であった。
「余のものに、なれ。そうすれば、お前に永劫の支配と享楽を、齎してやろうぞ」
少女の瞳が、妖しく光る。ユーリの全身に、痺れるような感覚があった。呆然と、目を見開くユーリの耳に、カラン、と乾いた音が届いてくる。
「ユ、ユーリ……に、逃げて……!」
掠れた声とともに、どさりと何かが倒れる音がした。
「い、イチタローを、助けて、くれるなら……」
全身全霊に力を込めて、痺れに抗うようにしてユーリはやっと声を絞り出す。にい、と少女は笑みを浮かべ、ユーリを見つめる。
「ほう。余の魅了に、抗うか。ますますもって、面白い」
少女が手を伸ばし、ユーリの顎へ細い指をかける。ユーリの意思に反して、触れられた部分に熱が生まれてくる。
「あのつまらぬ人間の命など、どうでも良い。余は、お前が欲しい」
ゆっくりと、少女の顔が近づいてくる。睫毛を震わせ、瞬きさえできずにユーリはただ、少女の行為を受け入れてゆく。
「……これで、もう抗えまい」
すっと、少女の顔がユーリから離れた。ユーリの目から、涙が一粒、零れてゆく。高笑いをする少女への、望まぬ敬意と憧憬が、ユーリの心を支配してゆく。
ユーリの唇に、苦い絶望の味が広がっていった。