手練手管の最低男 後編
翌日昼過ぎ、ユーリは宿の部屋を元気よく飛び出した。青を基調としたマントに、羽飾りのついた帽子をちょこんと頭に乗せたそれはいつもの吟遊詩人スタイルだ。結い上げた髪に、耳を仕舞っておくのも忘れない。
宿の外に出ると、通りの向こうから一輪の薔薇を咥えた小柄な男がやってきた。白の上着に赤いシャツ、ズボンも白く帽子は派手派手しいものだった。
「ほえ、ジャック! 今日も、恰好いいね!」
駆け寄ったユーリの胸元に、ジャックが咥えた薔薇を手に取り、さっと差し出した。
「良くねえな。ああ、全く良くねえ」
薔薇を両手で受け取るユーリを見やり、ジャックはそんな言葉を口にする。
「ほえ? 何が良くないの、ジャック?」
渋い顔で首を振るジャックに、ユーリが問いかける。
「お前の服だよ、ユーリ。まさか、そんな恰好でおデートしようってか? この、俺と」
への字に口を曲げるジャックに、ユーリはマントを摘まんで持ち上げて見せる。
「ダメかな? 一応、これ、一張羅なんだけど」
小首を傾げるユーリの手を、さっとジャックが取った。
「まず、服屋へ行くぞ。ああ、それと」
さっさと歩き出そうとしたジャックが、足を止めて来た道を親指で指した。少年が一人、走ってくるのが見える。
「ほえ?」
「あいつに、カネ払っておいてくれ。それの代金だ」
ユーリの持つ薔薇に目をやり、ジャックが言う。
「あ、うん。わかった」
素直にうなずいたユーリは、懐から財布を取り出して少年に銀貨を支払った。
服屋で、ジャックに言われるままにユーリが身に着けたのは赤色のどぎつい服だった。肩は出ているしスカートの丈は短いそれは、夜の繁華街でよく見かけるような恰好だった。
「……どう、かな」
羽帽子を取り、代わりに貰った薔薇を頭に差したユーリがジャックに聞いた。頭の先からつま先まで、ジャックの視線が移動する。ふん、とジャックが鼻をひとつ鳴らした。
「ま、そんなもんだな。少しはマシになったぜ、ユーリ」
素っ気ない言葉に、ユーリの表情はぱっと輝く。
「本当? えへへ」
にへら、と頬を緩ませたユーリは支払いを済ませると、ジャックの腕にしがみつく。仲睦まじく身を寄せ合い、ふたりは改めて町へと繰り出して行った。
「あら、ジャック。今日は、可愛い子を連れてるのね。彼女かしら?」
道行く女性が、ジャックへと声をかける。
「そんなもんだ。それより、今夜のライブ、是非来てくれよな。こいつと、俺が出るからな」
親しげに言って、ジャックは女性の腕を軽く叩く。
「ええ。必ず行くわ。また、うちの店もよろしくね」
小さく手を振り、女性が離れてゆく。くっついたままのユーリは、少し頬を膨らせた。
「……ジャックって、やっぱりモテるんだね」
低い声でそう言うと、ジャックはユーリの背をどんと叩いた。
「付き合いだぜ、付き合い。本命は、いつもたった一人だけさ」
にっ、と笑って言うジャックの顔に、ユーリはふいと顔を逸らす。その肩へ、ジャックが手を回して抱き寄せてくる。
「笑えよ。お前は、その方が魅力的だぜ」
つん、と膨らませた頬を突かれれば、ユーリはにへらと笑ってしまう。
「ほえ、ごめん。やきもち妬いちゃった」
「そんなお前も可愛いぜ、ユーリ。さあ、行こうか」
甘い笑みを浮かべて、ジャックが歩き出す。ユーリの歩幅に合わせ、ゆっくりと歩くジャックの肩にユーリは頭を寄せてにこやかに歩いた。
二人がやってきたのは、町の教会だった。屋根には金の十字架が掲げられ、レンガ造りの建物は荘厳でありながら古びてはおらず、清潔感の漂う佇まいである。
「ほえ、大きいね」
ステンドグラスの飾られた窓を見上げ、ユーリが声を上げる。ジャックはうなずき、ユーリの肩から手を離して懐を探る。
「このしけた町の、唯一の自慢がこの教会だ。ユーリ、手、出してみろ」
言われたとおり、ユーリは右手を出す。
「そっちじゃねえ。左のほうだ」
言われて、左手をジャックの前へと突き出した。ジャックが懐から、小さなものを取り出してユーリをじっと見つめる。
「ジャック……?」
首を傾げるユーリの左手に、ジャックの手が重なった。
「ユーリ……今更かも知れねえが、あのときの続き、この教会でさせてもらえねえか?」
言葉と同時に、ユーリの左手の薬指へ、冷たい金属が触れる。
「ほえ、これ、指輪?」
目を丸くして、ユーリは差し出した手に目を落とす。薬指には、銀色の輝く指輪がはめられていた。
「あれから、ちょいと時間は経っちまったが、俺の気持ちは変わらねえ。俺の、永遠のパートナーになってくれ、ユーリ」
ユーリの前に跪き、ジャックが指輪の上からそっと口づける。見上げてくる真摯な瞳に、ユーリの心臓がどきりと高鳴った。
「ジャック……うん、嬉しい」
ユーリの頬を、一筋の涙がつっと流れた。立ち上がったジャックが、ユーリの顎に手を添えて顔をゆっくりと近づけてくる。
「ユーリ……ベーゼのやり方は、もう覚えちまったか?」
囁くような問いかけに、ユーリは首を横へ振る。
「ううん。まだ、したことないよ、ジャック」
そっと目を閉じて、ユーリは待った。ジャックの吐息が、温かさがユーリの唇へと伝わってくる。唇を突き出すユーリの頬に、少しかさついた柔らかなものが触れた。
「ほえ……?」
目を開き、ジャックの顔をユーリは見つめる。にやり、と笑ったジャックが顔を上げて、教会の十字架を見上げた。
「……あんまりイチャつくと、神様に怒られちまうからな。そっちの方は、お預けだ」
ユーリの唇へ、ジャックが人差し指を当てながら言う。にへら、とユーリは笑い、ジャックの頭を抱き寄せた。囁くのはしかし、愛の言葉ではない。
「ジャック、さっきから、見られてるよ」
「……そうか」
耳元に返される囁きも、苦い色を帯びたものだった。ぴん、とユーリの頭の中に、閃くものがあった。
「やっつけて来ようか?」
ユーリの囁きに、ジャックは身を離して首を横へ振る。
「いや、放っとけ。どうせ、つまらねえ言いがかりだろ。それよかユーリ、中に入って、坊さんに交渉に行くぜ。明日、ど派手な式を挙げるからな」
「ほえ、明日?」
目を丸くして聞き返すユーリに、ジャックは笑顔でうなずいた。
「ああ。明日だ。今夜、酒場で歌ってパーッと稼いで、その金使って披露宴ってやつをやろうぜ。ど派手なやつをぶち上げるんだ!」
「ジャック……うん! とびっきりの、結婚式を挙げようね!」
「おうとも! その後はしけた酒場じゃなくって高級レストランも貸し切りパーティだ!」
跳び上がって喜ぶユーリの手を引いて、ジャックは教会の中へと入る。連れられて入るユーリは、背中にずっと鋭い視線が刺さっているのを感じていた。
二日目の酒場のライブは、さらに盛り上がった。ジャックの歌とパフォーマンスが観客を魅了し、ユーリの演奏が熱狂をさらに呼び起こす。革袋いっぱいのおひねりと、酒場のマスターから追加報酬まで出るほどだった。
ライブが終わり、静かになった酒場の客席でジャックとユーリが肩を寄せ合い、シャイナを前に真剣な顔になる。にへら、と緩み切ったユーリの表情と、いつも以上にふてぶてしいジャックの態度にシャイナは嫌な予感を感じずにはいられない。
「お疲れ様、ユーリ。それから……ジャック。話したいことって、何かしら?」
腕組みをして、シャイナは努めて冷静な声を出す。ぽりぽり、と頭を掻いたジャックが、ユーリの背中を押した。
「ほえ、シャイナ。その、実は……」
いつもと違う赤い派手な服を着たユーリが、もじもじとシャイナに見せるのは左手の指輪である。銀色の輝きを一瞥し、シャイナは冷たい視線をジャックへ向ける。
「まあ、そういうことになってな」
「どういうことかしら?」
じろり、とねめつける視線に、ジャックは首をひょいと竦めて見せる。
「私たち、よりを戻して……結婚することにしたんだ、シャイナ」
言いながら、ユーリが上気した顔をジャックへと向ける。ばん、とシャイナはテーブルを叩き、ユーリへと目を向ける。
「ユーリ、あなた……!」
「よせ、シャイナ。これは、俺とユーリの問題だ」
ユーリの頭に手をやり、ひょこんと出た耳を撫でていたジャックが低い声を上げた。
「私は、ユーリの親友よ。黙って、不幸にされるのを見ていられるような関係じゃないわ」
「親友だったら、大人しく祝福してくれてもいいんじゃねえのか?」
「どの面下げて、そんなことを言うのかしらね?」
「やめて!」
ジャックに視線をぶつけるシャイナの前に、ユーリが両手を拡げて立ちふさがった。
「ユーリ……」
見上げてくるユーリの視線を、シャイナは受け止める。強い意思のぶつかり合いに、折れたのはシャイナのほうだった。顔を背け、踵を返してふたりに背を向ける。
「シャイナ。明日、ジャックとの結婚式を挙げることにしたの。この町の、大きな教会で。シャイナも、来てくれる……かな」
ユーリの声に、シャイナは歩き出そうとした足を止めて、ゆっくりと振り返る。
「……いいわ。明日、その男が本当に来たのなら、認めてあげる」
挑む様な目で、シャイナがジャックを睨み付けて言った。ぱっと、ユーリの表情が明るくなる。再び背を向けて、シャイナは歩き出した。
「シャイナ! ありがとう!」
嬉しそうなユーリの声を背中で聞きながら、シャイナは深く息を吐いた。
次の日の朝、ユーリは仕立て上がったばかりのドレスに身を包み、町の教会へと赴いた。純白フリフリのドレスは、昨日ジャックがデートの帰りに注文してくれたものだった。幸せな花嫁に相応しい、それは盛装といえた。歩くたびに、ちょこちょこと背中のリボンが蝶のように揺れる。普段は結い上げている髪を下ろしているので、長い耳も合わせるように揺れていた。
「可愛いわよ、ユーリ」
控室に入ってきたシャイナが、声をかけてくる。
「ほえ、シャイナ! もう来てくれたの?」
嬉しそうに駆け寄るユーリの頭へ、シャイナが手を伸ばす。
「来るって、昨日言ったでしょう?」
ぎゅっとユーリの頭を抱き寄せ、シャイナが言った。若草色のドレス姿のシャイナの曲線が、ユーリを柔らかく包んでくれる。
「ありがと、シャイナ」
「キャラバンの皆も来ているのよ。客席にいるのだけれど……」
「ほえ? 何かあるの?」
少し顔を曇らせ、言葉を途切れさせたシャイナに問いかける。ええ、とシャイナはうなずき、控室の入口から聖堂の中を覗き込む。ユーリも、シャイナの横に顔を並べた。
聖堂の中に拵えられた客席には、大まかに分けて三種類の人相が並んでいた。ひとつは、シャイナの部下であるキャラバンの人間だ。共に旅を続けてきた仲間たちの顔に、ユーリの頬に微笑が浮かぶ。
「みんな、着飾って来てくれたんだね」
「ええ。この町の貸衣装屋は、今日で結構儲けたんじゃないかしらね? それより、他の連中よ」
シャイナに言われ、ユーリは隣の集団に目を移した。黒服に身を包んだ、町民とは思えない雰囲気の男達が肩を並べて座っている。
「ほえ……町で、黒服流行ってるのかな?」
「……どう見ても、かたぎじゃないわよ、アレは。あなたが呼んだんじゃなければ、ジャックの知り合いなんでしょうね」
頬に傷のありそうな面々から、ユーリはさらに隣の集団へと目を移す。そこに座っていたのは、物々しい騎士鎧の集団だった。ぴかぴかと光る鎧の腰に、重々しい長剣が提げられている。兜に包まれた頭部は、しきりに教会の入口を警戒しているようだった。
「……王都の、騎士さんだね」
「今朝、来た時に入口で尋問されたわ。ジャックに用があるんじゃないかしら」
息をひそめ、三列目の長椅子に腰掛ける面々を見つめてシャイナが息を吐いた。
「ほえ、きっとジャックのお友達だよ。洒落っ気のある人たちで……」
「全身フル武装で? 妙にピリピリしてたけれど?」
「ほえ……」
控室の中へと戻り、ユーリは椅子に座って息を吐く。隣にやってきたシャイナが、そっとユーリの肩へ手を置いた。
「ねえ、ユーリ。こんなことを今聞くのはどうかと思うのだけれど……昨日のライブの、報酬はどうしたの?」
シャイナの言葉に、ユーリはぽかんと口を開けて、首を横へ振る。
「ほえ? ジャックが、持ってったよ。今日のために、色々準備があるから、って」
ユーリの返事に、シャイナは深く、深く息を吐いた。
「ユーリ……ジャックは、きっと来ないわ。いくらここで待っていても」
沈痛な面持ちで、シャイナが言う。口を開きかけたユーリの前で、控室のドアが開いた。
「ユーリさん。お客様がお見えですが……」
年老いた神父が、遠慮がちにユーリに声をかける。その直後、神父を押しのけるように黒服の男が入ってきた。
「ジャックの野郎は……いないみてえだな。じゃあ、あんたでいいや、ユーリさんよ」
ひらり、と黒服の手にあるものは、一枚の紙である。借用書、と書かれた紙の末尾には、ジャックのサインが描かれていた。
「ほえ……?」
まん丸に目を見開くユーリの前へ、どかどかとさらに数人の男が踏み込んでくる。皆一様に、その手には借用書を掲げ持っていた。
「ほえええええ!?」
驚きのあまり、ユーリは悲鳴を上げたのであった。
夕闇に染まる町を背に、ユーリは駆けていた。その姿はもうドレスではなく、いつもの吟遊詩人スタイルとなっていた。否、もうユーリの手元には、衣装とリュート以外は残ってはいない。あとはもう、全てが質草へと消えてしまっていた。
ユーリはいつの間にか、ジャックの借金の保証人にされてしまっており、その全額を支払うこととなってしまったのである。短い日数でどうやったのか、それはユーリには解らない。だが、抵抗しようとするシャイナを押し留め、ユーリは支払いを肯じたのである。すっからかんになったため、今まで以上に身軽になったユーリは木の枝を蹴り、宙を舞うように街道を走り抜ける。時折、くんと鼻を鳴らして方向を微調整するが、その動きは直線的だった。
やがて、町から逃げるように走る一人の人影の前にユーリは音も立てず降り立った。
「ユ、ユーリ!」
息を切らせ、急停止するのはもちろんジャックである。乞食のような格好に、黒い革張りのカバンを手にした姿は狼狽え硬直していた。
「……ジャック。お金はもう、払ってきたよ」
整った顔に微笑を浮かべ、ユーリが言う。ジャックは目をひんむいたまま、黙ってユーリを見返していた。
「もう、逃げたりなんてしなくても……あ、それとも、騎士さんたちに、追われてるの?」
ゆっくりと、ユーリがジャックへと歩み寄ってゆく。すぐ側まで迫られ、観念したのかジャックが肩を落とし、大きく息を吐いた。
「すまねえ、ユーリ! お前を利用するつもりは、無かったんだ!」
ユーリの視界から、ジャックの立ち姿が消える。それは見事な、土下座だった。
「ジャック……」
「お前を探して旅してたら、貴族のねーちゃんに言い寄られてな、袖にしたなら逆恨み。権力にもの言わせて騎士団様のお出ましだ! 逃げに逃げ回ってようやくここまでたどり着いたんだが、奴らの執念深さは筋金入り。愛しいお前の待ってる教会を、ぐるうりと囲んでやがった! 見つかれば、あいつらになぶり殺しにされちまう! なあ、ユーリ! わかってくれるよな?」
貧相な顔を、情けなく歪めてジャックは言い募る。ユーリはそんなジャックの肩に優しく手を置いて、首を縦に振った。
「うん。大変だったね、ジャック。教会に来なかったんじゃなくって、来れなかったんだね。邪魔が入ったんなら、仕方ないよ」
「ユーリ……」
うるうると瞳を潤ませながら、ジャックが立ち上がる。ぱんぱん、とジャックの服についた砂を払い、ユーリはジャックへと抱きついた。
「ねえ、ジャック。このまま逃げるなら……私も連れてって」
ジャックの胸から顔を上げて、ユーリが言う。見下ろすジャックの顔が、一瞬きょとんとしたものになったがすぐに不敵な笑みを取り戻す。
「もちろんだぜ、ユーリ。俺たちは……結婚を誓い合った夫婦なんだからよ」
ユーリの頬に、ジャックの手のひらが触れる。近づいてくるジャックの顔に、ユーリはそっと目を閉じた。唇に、柔らかな吐息が触れる。少しきつい、それはジャックの匂いだった。
待ち望んでいた感触の代わりに、ユーリの腹に鈍い衝撃が訪れた。
「ほ……え……? ジャック……」
掠れる声とともに、ユーリは目を開いてジャックの顔を見る。あっ、とユーリは心の中で声にならない声を上げた。ジャックの顔は、どこか苦しげに歪んでいるように見えた。
「男の旅路に、女はいらねえ。路傍の花は、摘んだら捨てる。それが、俺の主義だぜ、ユーリ」
くたり、と脱力するユーリの身体を、ジャックは優しくベッドへ運ぶように道へと横たえる。目を閉じたユーリの耳元へ、ジャックが口を寄せた。
「あばよ、ユーリ。俺のことは『忘れろ』、そんで、幸せになれ」
力ある言葉が、ジャックの口から放たれる。身を離したジャックが、走り去ってゆく。振り返ることなく、ただ離れてゆく。
気配が充分に遠ざかったのを確認して、ユーリは起き上がった。
「ジャック……あなたがそう言うなら、忘れてあげる……さようなら」
流れる涙もそのままに、ユーリはジャックの去った方角をしばらく眺め、それからきょとんとなって町へと踵を返した。
宿へと戻って来たユーリを、シャイナは目いっぱいに抱きしめた。
「ほ、ほえ? シャイナ、どうしたの?」
ぎゅっと抱きすくめた小さな身体が、戸惑いがちに抱き返してくる。
「ユーリ……あなたって子は、もう」
「ほえ、シャイナ。よくわかんないけど、泣かないで。ね?」
小さな手に撫でられながら、シャイナはぐりぐりとユーリに頬を押し付ける。
「泣きたいのは、あなたでしょう、ユーリ。あんな男に、二度も騙されるなんて……」
「ほえ……? 何のこと、シャイナ?」
首を傾げるユーリに、シャイナは頭を上げる。
「ジャックのことよ! あの最低男!」
顔を思い浮かべるだけで、シャイナの顔に憤怒の色が沸き立ってくる。目の前で、ユーリがこてんと首を傾げた。
「ジャック? 誰、それ?」
あっけらかんと言うユーリに、シャイナは開いた口が塞がらない。
「ユーリ……まさか、もう忘れたの?」
問いかけると、ユーリは曖昧な笑みでうなずいた。本当に思い出せないが、シャイナの剣幕が凄いのでとりあえず首を振っておこう、といったようなうなずきだった。がくりと、シャイナの全身から力が抜ける。
「ユーリ、明日、この町を発つわよ」
気を取り直し、ユーリを解放してシャイナは言った。
「明日? 随分、急だね。どうしたの?」
「こんな町に、一秒だって長くいられるもんですか。縁起の悪い。安い仕事になるけれど、あなたも文句は言わないで頂戴ね。一文無しなんだし」
はあい、とうなずくユーリを連れて、シャイナはベッドへと寝そべった。窓際で、ユーリが爪弾く優しい旋律に、しばらく耳を傾けているうちに、いつしか眠りへと落ちていった。
「ユーリ……早く寝なさいね。明日は、早いんだから」
眠りの中で、シャイナは夢うつつのまま言った。
青空の下を、馬車の列が行く。先頭を走る馬車の幌の上には、リュートを爪弾く少女の姿があった。
「どこか遠いー、空の下ー。知らない場所でー、あなたはひとりー」
陽気なメロディに乗せて、今日もユーリの歌声は朗らかである。
「……誰に向けて歌っているのかしらね」
アンニュイな声色で、シャイナが呟く。こうして、キャラバンの旅は続いてゆくのであった。
なお、数日後国境近くの町で一人の結婚詐欺師が掴まり、長い懲役を言い渡されることとなったのであるが、それはユーリたちの知らない話なのであった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
楽しんでいただければ、幸いです。
来週は、私用が重なりもしかすると更新ペースがちょっと乱れるかもしれません。お楽しみにしていただいている皆様には、今のうちにお詫びを申し上げておきます。