手練手管の最低男 前編
今回は、少し変わった風情でお送りします。お楽しみいただけましたら、幸いです。
芸術の神は、たまにそっぽを向くことがある。どんな優れた音楽家も、画家も、小説家も、そうなればたちまちに不調に陥ってしまう。俗にいう、スランプというものである。
人もまばらな酒場のステージで、リュートを弾く一人の少女はまさにその渦中にいた。小柄な子供のような身体に、吟遊詩人特有の派手な色彩の衣装を纏うその少女の名は、ユーリといった。
ほろん、ほろんと鳴る弦は、どこか覇気に欠ける。少女の上げる歌声も、伸びが足りずに詰まった感じであった。観客が一人、また一人と席を立ってゆく。その後ろ姿を、少女は元気の無い歌声で見送るばかりであった。
演奏を終えたユーリが、酒場の客席で食事と酒を注文する。その顔は憂いに満ちており、陽気が服を着て歩いている、と称されるほどのいつもの姿とはかけ離れたものだった。
「ほえ……調子、出ない」
運ばれてきた食事を、フォークでつつきながらユーリは息を吐く。口癖の、奇妙な鳴き声にもどこか覇気の無さを感じさせる。向かいに座る、キャラバンの長であり親友でもあるシャイナが心配そうにその顔を覗き込んだ。
「あなたのリュートが、こんなにも冴えないなんて珍しいわね、ユーリ」
ぐずぐずとフォークで芋の揚げ物を崩すユーリへ、シャイナが声をかける。
「うん……いつもみたく、元気が沸いてこないの」
崩れた揚げ物にケチャップを塗り付け、口の中へと入れてユーリが答える。苦笑をして、シャイナが肩をすくめて見せる。
「まあ、しばらくは休養してなさい。幸い、こっちの仕事も芳しくない状況だから」
反対側から、まだ無事な揚げ物をつまんで口へ入れ、シャイナが言う。
「ほえ、そうなの?」
口元にケチャップをつけて、ユーリは問いかけた。
「ええ。輸送の仕事も、商売の話も、さっぱりよ。この町には、少し長めの滞在になりそうだわ」
顔を曇らせるシャイナに、ユーリは俯いてまた揚げ物をつつき始める。静かな、時間が流れた。
「……こんなにも上手くいかないなんて……ちょっと、思い出しちゃうね」
長い沈黙が続く中、ユーリがぽつりと言った。
「昨日のことも忘れるあなたが、何を思い出すの?」
安ワインを口へ含みつつ、シャイナが問う。
「うん。ジャックのこと……ちょっと思い出した」
ユーリの挙げた名前に、シャイナが霧を吹いた。それは、ワインの匂いのする霧だった。
「ほえ……シャイナ、きたないよ?」
とっさに懐から取り出した雨傘を開き、難を逃れたユーリが眉を顰める。
「えほっ、えほ……ご、ごめんなさい。思いがけない名前を、しかもあなたの口から聞いたものだから、つい……」
激しくむせながら、シャイナが飛び散ったワインを布で拭く。
「そんなにびっくりすることかな?」
首を傾げるユーリに、シャイナが大真面目な顔でうなずく。
「ええ。あなたが、昔の男の名前を憶えているだけでもびっくりだけれど、よりによってあんな男のことを……忘れていないのが、ね」
険しい顔をするシャイナとは対照的に、ユーリはゆるい笑顔である。
「ジャックは、良い人だったよ? 私に、色んなことを教えてくれたし」
「あの色んな意味で太い男のことは、もう忘れなさい。いつもみたいに。まあ、今更のこのこと現れたりしたら、私がとっちめてやるから……」
腕組みをして憤然とするシャイナの目が、まん丸に見開かれる。シャイナの視線を追って、ユーリは背後を振り向いた。視線の先には、小汚い恰好の小太りの男が立っていた。
「よう、久しぶりだな、ユーリ」
男が片手を挙げて、唇の端をちょっと吊り上げる笑みを見せる。どう見ても怪しい風体の男に、ユーリの顔がぱっと明るくなった。
「ほえ、ジャック! すっごい久しぶりだね!」
立ち上がり男に駆け寄ろうとするユーリの肩を、シャイナがぐいと掴んで押し戻す。そのまま剣呑な雰囲気を纏い、男に向かってツカツカと歩み寄ってゆく。
「お久しぶりね、ジャック。結婚詐欺師のあなたが、よくもまあのこのこと顔を出せたものね。とりあえず、出るとこ出ましょうか。あなたのことだし、叩けばいくらでも埃が出るんじゃないかしら?」
眉を吊り上げるシャイナに、男は少したじろいで後ろへと下がる。
「や、やあ、シャイナもいたのか。その節はどうも。だが、俺が結婚詐欺師とは聞き捨てならねえ。俺は、ただユーリに会いたくて、探し探して辛い旅路を越えてきたんだからよ」
「ほえ……ジャック」
真面目な顔になり、ジャックがユーリにちらりと流し目をくれながら言う。冴えない肥った小男の仕草であったが、ユーリの頬にはほんのりと熱が灯ってしまっていた。
「詐欺師を詐欺師と言ってどこが悪いの? ユーリを騙して、借金まで背負わせたくせに」
一方で冷めきった顔のシャイナが、吐き捨てるように言った。その言葉に、男は目を剥いて身をのけぞらせる。
「騙した? 俺が、愛しいユーリを? そりゃ、思い違いだ、シャイナ。俺がそんなことをする筈は無いじゃないか」
心底意外だ、とばかりに言葉を並べる男を、シャイナは冷徹な瞳で見下ろす。どう見ても、そんなことをするような男に見えた。
「もしも騙して借金背負わせたとしたら、こうして辛い旅路を経て会いに来る筈が無いだろう? なあ、ユーリ聞いてくれ。俺はあのとき、お前の待つ教会まで行こうとしたんだ。だが、突然通りがかったお貴族様の馬車にはねられて意識不明の重体になって、そんでもって法外な治療費をヤブ医者に請求されて、泣く泣くお前との新居を売りに出して、そしたら買い取った奴がやくざの息のかかった業者でよ、俺は、お前を巻き込むまいと命からがら、逃げたんだ。決して、お前を捨てたわけじゃねえ。わかってくれよ」
男は一息に言って、テーブルに置いてあったユーリのワインを勝手に飲み干した。冷めた顔で聞いていたシャイナとは対照的に、ユーリは感涙の面持ちであった。
「ほえ、そうだったんだ……私、てっきり捨てられたんだって、思ってた」
「俺が、愛しいお前を捨てる訳が無いだろう? 二人で、成り上がろうって夫婦約束したんじゃねえか」
ぐい、と肩を引き寄せられ、ユーリは男の胸に頭をのせる。とくん、とくんと聞こえてくる心臓の音は、ユーリには無実の証明のように思えた。
「こら、何勝手にユーリに近づいているの? 私は……」
「ほえ、シャイナ。大丈夫だよ。ジャックは、嘘なんかついていないよ」
男の肩を掴むシャイナに、ユーリは腕の中からきらきらとした瞳で見上げる。
「ユーリ。あなた、騙されているだけよ? その男は、ちょっと歌が上手なだけの最低な男なんだから」
「シャイナ。ジャックの事好きじゃないのはわかるけど、悪く言うのはやめてよね。ジャックは、誠実なひとなんだから」
腕を腰に当てて睨み付けてくるシャイナに、ユーリは男に身を寄せつつ視線を返す。ばちばちと、空中で火花が散るほどの激しい睨み合いだった。
「ああ、やめろ、ユーリ。シャイナも。俺のために、争うのはよしてくれ。お前ら、親友なんだろう? 今日のところは、退散する。ユーリが元気にしてるって、わかったことだしな。ユーリ、まだこの町にしばらくいるんだろう? また、明日にでも一緒に歌おうぜ。お前の演奏と俺の歌がありゃ、こんな田舎町の酒場なんぞ、あっという間に満員だぜ。それじゃ、また会おう、おふたりさん」
するり、とユーリから身を離し、シャイナの手を抜けた男がまくし立てて背中を見せる。あっと思った時には、すでに男は酒場のスイングドアの向こうへと消えてしまっていた。
「……相変わらず、いけ好かない男だわ」
「シャイナ。ジャックは良い人だよ。ちょっと、悲しい行き違いがあっただけで……私は、彼を信じるから」
眉間にしわを寄せて吐き捨てるシャイナに、ユーリは困った顔をしながらもはっきりと言った。
「……勝手になさい。また、痛い目を見ても知らないから」
両手の平を上に向け、シャイナは首を横へ振る。ユーリは、男が出て行く際に大きく揺らしたスイングドアを見つめてにへらと笑う。
「私が、こうしてスランプの時に現れてくれるんだもの。きっと、ジャックとは運命の赤い糸で結ばれているのね」
シャイナの険しい顔を見ることもなく、ユーリはうっとりと呟くのであった。
翌日の晩、再び歌わせてほしいと願うユーリに、酒場のマスターは渋い顔を見せていた。前日の演奏が、やはり響いているのだろう。だが、ユーリの隣に立つ小太りの男が、そんな空気を吹き払う。
「まあまあ、ここは俺とユーリに任せろって。いいかマスター。俺とユーリは、あの王都と七大都市を沸かせた、名コンビなんだぜ。俺らが歌えば、客もわんさか、親父は嬉しい悲鳴ってなもんだ。ギャラは特別に、今夜の飲み代ってことでいい。なあに、昨日は俺がいなかったもんだから、こいつの調子が上がらなかっただけだぜ。さあさあ、ステージ貸すだけなんだ。だまってうなずきゃいいんだよ、ほら」
ぽんぽんと威勢のいい啖呵を切る男に、マスターは渋々ながらもうなずいた。ほらみろ、とうそぶく男の恰好は、昨日の乞食のようなものでは無い。ダーティな印象の真っ黒な、仕立てたばかりの歌手装束である。服に合わせて小粋な黒い帽子をかぶれば、一端の歌い手のように見える。
「どうだ、ユーリ」
「うん。とっても似合ってるよ、ジャック!」
恰好をつけてポーズを取って見せる男に、ユーリは胸の前で小さく拍手をする。小柄な男とユーリの取り合わせは、良く言って新手のコメディアンのようにしか見えないのであるが、ユーリも男もそんなことは気にしない。意気揚々と、ステージへと上がる。
「レディースアーンド、ジェントルメーン! 待たせたな! 今夜はこのジャック様と相棒のユーリの、久方ぶりのステージだぜ! 楽しんでいってくれよな!」
男の声が、魔法によって酒場中へと響き渡る。その一声だけで、ざわついていた酒場の視線が残らずステージへと向いた。身の内の興奮を、湧き上がってくる熱をそのまま、ユーリはリュートの弦へとぶつけてかき鳴らす。始まる旋律は、古い流行歌のメロディライン。だが、一音一音に籠められた気迫のようなものに、観客たちの意識は呑まれてゆく。
「ヒアーッ!」
男が、甲高い声でシャウトを上げる。観客たちは、得体の知れぬ感情に肩を心地よくぶるりと震わせる。そうして、二人のステージは始まった。
「やっぱ世の中、愛が無けりゃ、始まらないー」
「ほえ、愛が無きゃー、生きられないー」
男の、腹の底を震わせるような重低音の歌声と、ユーリの軽やかな高音が混じりあう。テンポの良いリズムに、観客たちは立ち上がり、足踏みをして踊り出す。
「セイ、ラブアンドピース!」
「ラブアンドピース!」
腕を振り上げ叫ぶ男に応え、観客たちが声を上げる。陶然一体となった観客たちを前に、ステージ上ではユーリの演奏に合わせ、男が肥った身体で身軽なステップを踏む。滑稽さの中にキレのある、それは人の目を惹きつける舞踏であった。
夜半を過ぎてもまだ鳴りやまぬ歓声と、ひっきりなしの酒の追加に酒場のマスターも嬉しい悲鳴を上げていた。熱狂に浮かされた酒場の中、シャイナだけが棘のある視線をステージ上の男へと向けていた。
ステージから二人が降りたのは、ほとんど夜明けと言っていい時間だった。さすがに他の客も帰り、誰もいなくなった酒場のテーブルを占拠して男は上機嫌にジョッキを傾ける。ユーリも、両手でジョッキを抱えて中身を一気に飲み干した。
「ぷは、大成功だったな、ユーリ!」
どん、とユーリの小さな背中を叩き、男が声を上げる。
「ほえ、久しぶりだったけど、相変わらず恰好良かったよ、ジャック!」
お返しにジャックの腕を叩くユーリの鼻先に、一枚の紙が差し出される。
「ほえ? これ、なあに?」
「今夜の衣装代だ。すまねえが、手持ちが今無くってな。ギャラが入ったら返すから、払っておいてくれねえか?」
首を傾げるユーリに、男は何でもない口調で言う。受け取ってうなずこうとするユーリの手から、請求書を取り上げる手があった。シャイナのものだ。
「ちょっと、ジャック。あなたの衣装でしょう? その悪趣味な服。どうしてユーリに支払わせるの」
詰め寄るシャイナに、男はたじろいで両手を前に出す。
「べ、別に、ユーリに金を出させるわけじゃねえんだ、金が入る当てはある。それまで立て替えてくれってだけだ。誤解だぜシャイナ」
ふうん、と鼻を鳴らすシャイナの手から、ユーリは請求書をひょいと奪い取る。
「あ、ユーリ!」
「いいの、シャイナ。お金入ったら、ちゃんと返してくれるんだよね、ジャック?」
ユーリの問いに、ジャックは一息に酒を飲み干し、満面の笑みでうなずく。
「ああ、もちろんだぜユーリ。それよか、明日の昼は空いてるか? お前、この町に来てまだあんま経ってねえだろ? 案内がてら、デートしねえか?」
「ほ、ほえ、デート? うん、しよう!」
男の提案に、ユーリは跳び上がって手を叩く。ぴょこんと髪の間から、エルフ特有の長い耳が飛び出した。
「ようし、決まりだな。昼過ぎに迎えに来るから、宿で待っててくれよな。あ、それまでに、支払いのほう、頼んだぜ!」
どん、とジョッキをテーブルに置いて、酒臭いげっぷをひとつ残してジャックは片手を挙げて去ってゆく。またね、と小さく手を振るユーリの横で、シャイナは渋い顔のまま腕組みをしていた。
「……ねえ、ユーリ。また、あいつと付き合うの?」
問いかけに、ユーリはシャイナを見上げてにへらと笑う。
「うん。私のとこに戻ってきてくれたし、そういうことになると思う。ジャック……変わってないなあ」
うっとりと目を閉じるユーリの頭の中に、ジャックとの演奏が思い浮かぶ。ユーリの音色に溶け込むように、深く重い低音が、いつまでも耳に残る。ぴこぴこと、赤く染まった長い耳が揺れた。
「……あんな男の、どこがいいのよ。歌がちょっと上手いだけの、冴えない小男よ?」
シャイナの言葉に、ユーリは頬を緩ませたまま眉根を少し下げる。
「ほえ……シャイナには、わかんないんだね。でも、そのほうがいいかも。わかっちゃったら、シャイナもきっと惚れちゃうから」
蕩けたユーリの言葉に、シャイナは頭を押さえて息を吐いた。
「それなら、解らなくていいわ。私は、あんな男に惚れるなんてまっぴらだもの。いいこと、ユーリ。あの男とどういう関係になるのであれ、財布のひもはしっかりと締めておくのよ?」
シャイナの精一杯の忠告はしかし、ユーリの耳を右から左へと流れてゆく。
「大丈夫だよ、シャイナ。ふふ、デート、楽しみ」
いい笑顔のまま、シャイナに肩を支えられながらユーリは宿へと戻るのであった。