美しき悪の華 後編
ジグムント公爵の屋敷の庭に、四季折々の花を植えた花壇があった。季節を外れた花を育てるために、魔術師が雇われているという。花を愛でるためだけに、三交代制で魔術を用いて空気を調整している様を、ユーリは驚嘆の息を吐く。
庭園を前にリュートを爪弾くユーリの姿は、旅の吟遊詩人のそれでは無く、ひらひらとしたリボンのような衣装になっていた。肌触りが良い代わりにその服は、肌面積がひどく多い作りになっていた。
じっと、花壇に囲まれ歌うユーリへ、ジグムント公爵の鋭い視線が突き刺さる。少々の羞恥に頬を染めながら、ユーリはにへらと笑っていた。
「何が可笑しい」
ユーリへそう問いかけるのは、白い肌に黒髪の美形、ジグムント公爵である。
「ほえ。じーっと見つめてくれるのが、嬉しくてー」
ほろん、とリュートを鳴らし、ユーリがくるりと身を回す。リボンの裾がふわりと揺れて、蝶のように舞い踊る。その光景に目を細めつつ、ジグムントはふんと鼻を鳴らした。
「変わった女だな、お前は。明日にも、シャイナとやらのキャラバンは我が領を抜ける。意に添わぬ結婚が間近であるというのにその余裕。一体、何を企んでいるのだ?」
問いかけに、ユーリは首を傾げる。
「ほえ、随分早いんですね。今朝出たばかりなのに」
「余計な事を考える時間を与えないよう、全力をもって追い立てているからな。明日には、式を挙げるぞ」
にやり、と笑うジグムントに、ユーリの相好はさらに崩れる。にへら、からにへへへ、くらいにはなっていた。
「ほえ……それってつまり、私と、早く結婚したいってことですよね?」
ほろんほろんと、ユーリの手から喜びの音色が奏でられる。素直で陽気な音色に、ジグムントが目を少し見開いた。
「……嫌では、無いのか?」
ぽつり、と漏れ出た言葉に、ユーリはリュートを弾く手を止めてジグムントへと歩み寄る。そのままジグムントの両手を取り、ぎゅっと握りしめた。
「嫌じゃ、無いですよ。ジグ様格好いいし、お金持ちだし、何でもてきぱき決められるとこも、素敵です。ちょっと、目つきは悪いけど」
見上げたジグムントの顔に、複雑そうな色が浮かぶ。
「随分ハッキリものを言うな、ユーリは」
「ジグ様ほどじゃないと思いますけど。そういう私を、好きになってくれたんですよね?」
ユーリの問いに、ジグムントは握られた両手を解き、ユーリの頬に手を当てる。
「……ただの気まぐれだ。図に乗るな」
ふにふにと、ユーリの頬が軽く引っ張られる。ふっと、ジグムントの顔に微笑が浮かぶ。
「まあいい。お前がその気なら、明日の式は盛大なものにしてやろう。山海の珍味を集め、不夜城のごとく屋敷を飾る。お色直しは、何回したいんだ? 花嫁衣裳は、今作らせている。間に合わなければ、針子の首が飛ぶが」
ジグムントの言葉に、ユーリは慌てて首を振った。
「ほえ、べ、別に衣装なんて……これでもいいですよ?」
ひらひらとしたリボンの端を摘まみ上げて、ユーリが言う。ジグムントはユーリの長い耳を引っ張り、邪悪な顔を寄せてくる。
「我が公爵家の結婚式だ。そんな出来合いのものを使うわけにはいかん。何、心配するな。平民の針子など、代わりはいくらでもいる。料理人も大工も皆、命が懸かれば文字通り必死になって働く。ただ一人の主である、俺のためにな」
「ジ、ジグ様、耳はあんまり引っ張らないでください。ほえ、いたい」
苦痛に顔を歪めるユーリを見やり、ジグムントは満足そうに笑う。
「式の後で、お前には公爵たる俺のことを、余すところなく刻み込んでやろう。楽しみにしているが良い」
ユーリを解放したジグムントが、哄笑を上げながら去ってゆく。じんじんと痛む耳を押さえながら、ユーリは小さく息を吐いた。
「ほえ……前途多難だね……でも、ふふふ」
にへら、と緩んだ頬が、真っ赤に染まっていく。
「式の後、楽しみかも……」
頬と耳に触れたジグムントの指の感触を頭に浮かべ、ユーリはくねくねと身悶えるのであった。
お昼過ぎから始まった絢爛豪華なパーティは、宵の口まで続いていた。正統派の純白ドレスを身に纏い、ユーリは五度目のお色直しを終えて会場へと戻る。わっと沸き起こる歓声に包まれ、ユーリは会場をぐるりと周るように歩いた。
「おお……なんとお美しい。まるで、その、あの」
肥った執事の男が、言葉を探りながらユーリの全身を見やる。
「ほえ。無理して褒めなくっても、いいよ。衣装に着られてるっていう自覚は、あるから」
苦笑を浮かべ、ユーリは小声でそっと言った。優雅に広がる白いフリルのスカートも、襟の大きく開いたドレスの胸元も、ユーリが着ればそれはちょっと背伸びした子供の晴れ着程度だった。首から提げられたルビーのネックレスも、ぺたりと壁に貼り付けられたかのように居心地が悪そうである。
「左様でございますか。いや、その……と、ともかく! そのお美しいお姿を、会場の皆様にも是非お見せください!」
汗をふきふき、何とか無難に締めくくった執事に促され、ユーリは各テーブルを回って挨拶をする。ぎこちない笑いを浮かべ、何人かの貴族たちがユーリの前に立ち現れる。そのうちの一人に、仮面を付けた貴公子がいた。
「その指輪……少し、拝見しても?」
貴公子が言うのは、ユーリの左手薬指にある赤い指輪である。ユーリはうなずいて、左手を貴公子に差し出した。
「……なるほど」
じっくりと、指輪を眺めた貴公子が、顔を上げて小さくうなずく。
「ほ……あ、な、何か?」
いつもの鳴き声が出そうになり、すんでのところで抑えたユーリが尋ねる。貴公子は、ユーリにだけ聞こえる声で一言、呟く。
「今宵……実行でよろしいのですね?」
問いかけに、ユーリは首を少し傾げ、それから真っ赤になって小さくうなずいた。ぴん、とユーリの頭に、閃くものがあった。
「はい……その、今宵、するみたいです」
ユーリの答えに、貴公子はもう一度小さくうなずき、さっと踵を返して優雅に去った。
挨拶を終えて、ジグムントの側へと戻ったユーリだったが頬はまだ赤いままだった。
「どうした? 先ほどの男に、何か言われたか」
しっかりと見ていたらしいジグムントに、ユーリは慌てて首を横へ振る。
「う、ううん。何でもない、です。ただ、その……」
にへら、とユーリの頬が緩む。傍らのジグムントが、険しい顔でユーリを覗き込んでくる。
「ただ、何だ」
「今夜、その、ジグ様と……するんだって……ふふふ、本当に、何でも無いですよぅ」
ぺしぺしと、ジグムントの肩を叩きながらユーリはくねくねと身をよじる。貴族にしてはあまり品の無い野次のような言葉であったが、ユーリはすっかりのぼせてしまっていた。ジグムントは美しい顔に呆れたような色を浮かべ、小さく息を吐く。
「よくは解らんが、お前がこの宴を愉しんでいるのは、良い事だ」
そう言って、ジグムントはぼんやりとパーティを眺め始める。その横顔に、どこか陰のようなものを感じてユーリは動きを止めた。視線を追って、ユーリも豪奢な食事の盛られたテーブルや、着飾った人々へと目を向ける。
「どうか、しましたか?」
ユーリの問いかけに、ジグムントは顎に手を当てて少し考え、そして手を打った。
「何か足りないと感じていたのだが……ユーリ、リュートは持っているか?」
「ほえ、ここにありますけど」
大きなスカートの中から、ユーリは愛用のリュートを取り出して見せた。
「……どこに隠しているんだ。まあいい。弾いてくれ」
苦笑するジグムントに促され、ユーリはうなずいてリュートを構える。ほろん、と流れだした調べに、会場のざわめきがしんと静まった。
「ありがとうー、ありがとうー、こんなに大きな会場をー、豪華な食事もー、きらきらのお洋服もー、全部全部、くれたあなたー」
しっとりとした歌声が、広い会場へとくまなく響いてゆく。ワイングラスを片手に、ジグムントは鋭い目つきでユーリを見つめる。
「用意してくれたー、皆にもー、ありがとうー、伝えますー。お針子さんも、料理長さんもー、執事さんも、集まってくれたお客様にもー」
ユーリの歌に、ふんと鼻を鳴らしたジグムントがワインを口へと含む。
「きっと、私は、幸せになりますー。そして、ジグ様も、幸せにー、優しく、誇り高い領主さまの隣でー、一緒に、歩いていきますー」
ほろろろん、と弦を爪弾き、演奏を終える。ぱらぱらと、拍手が起こり、それはやがて大歓声となった。会場の誰もが杯を天に掲げ、祝福の声を上げる。歓声に応えて手を振ったユーリは、隣へと目を向けた。目つきのせいで、邪悪に見える笑みがそこにあった。
「……良い、余興だったぞ、ユーリ」
その言葉は、どんな歓声よりもユーリの心に深く届いたのであった。
夜も更けて、パーティはお開きとなった。湯浴みを終えて、寝室のベッドへたどり着いたユーリはどさりとうつ伏せに倒れ、ベッドの上をころころと転がる。ドレスから解放された身体は、薄絹のような寝衣に包まれている。月の光に当たると、あちらこちらが透けてしまうような品物だった。
「ほえ……さすがに、恥ずかしい」
耳の先まで赤くなっているのは、決して長湯のせいではない。初夜、という言葉が、ユーリの頭の中で何度も反芻されているからである。身綺麗にして、待っていろ。そう言われて、ユーリはベッドの上でこれから訪れるであろう出来事を待ち構えているのだ。
月明かりに照らされて、思い浮かべるのはジグムントの瞳である。心の奥底を、じっと見透かすような、見ようによっては冷徹な視線。だが、ユーリにとってそれは自分を求める情熱的なものに思えた。
「ほえ……まだかな?」
ころころとベッドの上を何度も転がり、ユーリは呟く。身支度にしては、少し時間がかかりすぎている気がした。
「……男の人にも、色々準備とかあるのかな」
小首を傾げ、何気なく窓へと目を向ける。優しい月の光に混じり、赤く燃えるような光源が差し込んでいた。目にした瞬間、ユーリの全身にぞわりと悪寒が駆け抜ける。
「……殺気?」
感じたのは、無数の殺気にも似た気配である。ベッドから跳ね起きて、ユーリは窓の側へと駆け寄ろうとする。そのとき、寝室のドアがバタンと開いた。
「ユーリ様! 一大事でございます!」
顔を見せたのは、待ち焦がれていた人物ではない。でっぷりと肥った禿頭の、執事の男だった。不健康的な肉のついたその額には大粒の汗が浮かび、顔色は真っ青である。
「ほえ、どうしたの!?」
「ともかく、こちらへ!」
息を切らせて駆けてきたらしい男は、そのままユーリを手招いて走り出す。よちよちと手足を動かす様は滑稽であったが、笑っていられる雰囲気ではなかった。ユーリは急ぎ足で、男の後を追う。
連れて来られたのは屋敷の最奥、ジグムントの執務室であった。
「……無事だったか、ユーリ」
出会った時と同じように、ジグムントは大きな机の奥に腰掛けていた。だが、怜悧なその美貌に余裕の色はなく、射抜くような険しい視線と威圧感を漲らせている。
「ほえ、ジグ様、一体何があったんですか? 外に、赤い光が」
「暴動だ。領民どもが、蜂起したらしい。狙いは俺と、この屋敷へ集められた近隣の領主どもだろうな」
ユーリの問いを半ばで遮り、ジグムントは言った。形良い顎をしゃくって示すのは、倒れ伏した屋敷の警備兵だ。傷だらけですでに息は無く、うつ伏せに転がっていた。
「ほえ……暴動」
呆然と、ユーリが掠れた声を上げる。ジグムントはそんなユーリを見やり、肩を震わせ低く笑った。
「ククク……こんな時に、良い顔を見せてくれるな。お前を妻にして、本当に良かった」
きょとん、とするユーリの耳に、階下の怒号と悲鳴が聞こえてくる。
「ジグ様……?」
落ち着いた様子のジグムントへ、ユーリは怪訝な顔を向けた。その後ろで、執事の男が恭しく頭を下げ、無言で部屋を出てゆく。がちゃり、と施錠する音が、聞こえた。
「ユーリ……リュートは、持っているな?」
問いかけに、ユーリは戸惑いながらもうなずいて背負ったリュートを取り出す。
「はい、ここに」
「一曲、弾いてくれ。散ってゆく男への、せめてもの手向けとして、な」
争いの音が、少しずつ近づいてくる。刻一刻と迫る危機的状況の中、ユーリはこっくりとうなずいた。リュートの弦に添えられた指が、そろりと動く。ほろん、ほろんと流れるのは、哀愁漂うメロディーだった。
「弾きながら、聞け。我が屋敷には、有事に備えて隠し通路を設けてある」
調べに合わせ、踊るようにジグムントが立ち上がり、執務室の本棚を横から押した。すっと、滑るように棚は動き、分厚い鋼鉄の扉が現れる。
「ジグ様……」
ほろん、ほろんと柔らかな音を破るように、鋼鉄扉がぎしりと開かれた。その先には、ぽっかりと暗い通路があった。
「この扉は、一度閉めれば鍵が無くなり、開くことの出来ない壁となる。暴徒どもも、追っては来れまい。ユーリよ、中へ入れ」
促されるまま、ユーリは通路の前に立つ。真っすぐな下り坂になった通路の先が、ユーリの目にはよく見えた。
「お前は先行して、先の安全を見て来い。それと……良い曲だった。事が済めば、たっぷり可愛がってやろう」
ユーリの頬へ、ジグムントが口づけをして言う。
「ほえ、ジグ様。すぐ戻ってきます!」
駆け出す直前、ユーリはジグムントが優しく笑うのを見た。鋭い目つきの、邪悪な笑み。だがそれは、ユーリの胸には快く響いた。
暗い坂道を下り、長く真っすぐな通路へとやって来る。恐らくこれは、町の外まで続いているのだろう。気配を探り、誰もいないことを確かめたユーリは坂道を登り始める。その耳に、重い鋼鉄の音が聞こえた。
「……ジグ様?」
床を蹴り、壁を蹴ってユーリは坂道を全速力で戻る。閉じられた扉は、一枚の壁となってそこにあった。
「ジグ様! ジグ様!」
どんどん、と拳を壁に打ち付け、ユーリは叫ぶ。だが、冷たい鋼鉄の壁は分厚く、応えを返すことは無い。視線を落とすユーリの前に、床に落ちた一枚の紙が映った。拾い上げ、表面に書かれた文字を読む。
『通路を抜けた先で開封せよ ジグムント』
流麗な文字の書かれたそれは、便箋であった。ユーリは壁を振り返り、見つめた後に猛然と通路を駆け出す。長い長い通路を、風のように駆け抜けたユーリは町の外、小高い丘の上へとたどり着く。きっちりと糊付けされた便箋の端を、開くのももどかしくユーリは破って中身を取り出す。短い一文が、そこには書かれていた。
『楽しい一夜であった。感謝する。お前は、生きろ』
手紙を読み、顔を上げたユーリの視線の向こうで、ジグムント公爵邸が炎を上げて夜空を赤く染める。
「ほ……え……」
遠く聞こえてくるのは、歓声だった。あっ、とユーリは胸の中で、声にならない声を上げる。もしかすると、ジグムントはこの日の来ることを予測していたのではないだろうか。そして、あのパーティーでの、仮面の貴公子の言葉は、このことを示していたのではないだろうか。
呆然としたまま、ユーリは手紙を片手にくるりと踵を返し、とぼとぼと幽鬼のような足取りで歩き始める。ふらり、とユーリの姿は、丘の上から消える。
ジグムント公爵領から、遠く離れた町の中で、シャイナは宿のベッドで身を休めていた。あの忌々しい公爵から、食料品の徴発を受け、商売の品の多くを失った。損失の補てんと、今後の方針を練るため、夜更けを過ぎてもまだ書類とにらめっこをしていたのだ。ようやくベッドへ潜り込んだ頃には、夜も明けようとする時間になってしまっていた。うとうととまどろむシャイナは、部屋のカーテンがひらひらと揺れるのを見つける。
「窓、閉め忘れたかしら……?」
もぞもぞと、ベッドから起き上がり窓を閉める。そうして、振り返るとユーリの姿があった。
「ユ、ユーリ!?」
目を丸くして、シャイナは部屋のドアを見やる。閂はしっかりとかけられており、開けられた形跡は無い。とすん、と腰の辺りに、軽いものがぶつかってきた。
「ユーリ……あなた、どこから……いえ、それより、何て恰好してるのよ」
薄い絹を一枚纏った、ほとんど肌を見せるその服装に、シャイナは眉を寄せる。くしゃくしゃになった紙のようなものを片手に、ユーリは黙ってシャイナへとすがりついてきた。
「……ほえぇ」
かつてないほどの悲しい顔をした親友に、シャイナは言葉を飲み込んで抱きしめる。問いかけたいことは、山ほどあった。だが、胸の中で震える背中を、ただ優しく撫でた。
「……おかえりなさい、ユーリ」
激しく泣き始めるユーリに、シャイナは優しく声をかけた。
宵の口を迎えた酒場は、仕事終わりの人々でごった返していた。店の奥にあるステージに立ち、ユーリは陽気に弦を鳴らす。
「今日も今日とてお酒がおいしー、ほえ、楽しいなー」
口笛と、歓声に混じっておひねりが飛んでくる。それは、ユーリの足元にある革袋へと綺麗に収まった。
「楽しそうで、何よりだわ。ユーリ……」
興奮に沸きあがる観客たちの中で、シャイナは手の甲に顎を乗せてユーリを見つめる。そうして、酒場の夜は更けていったのであった。
なお、ジグムント公爵の妻が見つからず、忽然と屋敷から姿を消したことがちょっとしたミステリーとなり、憶測から様々な怪談が生まれるのであるがそれはユーリの知らない話なのであった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ブクマ、ポイント、感想等とても励みになっております。ありがとうございます!
楽しんでいただけましたら、幸いです。