危険な飴と甘い鞭 後編
広い庭に石灰で幾本かの線が引かれ、その端にはゾウガメのマリアンヌとウサギが並んでいた。反対側の線の向こうにいるのはユーリで、手には白と黒のチェック模様の旗があった。この場で行われようとしているのは、徒競走である。
ざっ、とユーリが旗を振り下ろすと、マリアンヌとウサギが同時にスタートラインを蹴る。土煙を上げて、ユーリの前を横切り先にゴールを果たしたのはマリアンヌであった。ぴょん、ぴょんと健気に前進を続け、しばらく経ってウサギがゴールする。
「ほえ、マリアンヌ、ミミちゃん。ふたりとも、よく頑張ったね」
二匹の頭を撫でながら、マリアンヌにはキャベツをひと玉、ウサギにはにんじんをひと欠片食べさせる。ばりぼりとキャベツをむさぼるマリアンヌの動きが、急に止まった。
「順調じゃないか。ミミに勝つほどにまで仕上げるなんて」
そう言いながら、犬の尻尾を揺らして近づいてくるのは、バレンツである。足元には、ぴたりと白い子狐のハクもいる。マリアンヌの目がハートの形になり、熱い視線はハクに注がれる。ユーリはふっと微笑んで、バレンツへと顔を向けた。
「故郷では、いろんな動物に芸を仕込んでたの。私も、基本的なことくらいなら仕込めるんだよ」
ユーリはキャベツくらいの大きさのボールを取り出し、マリアンヌの頭に乗せた。そうしてマリアンヌの耳元へ口を寄せる。
「ほえ、ハクくんに、いいとこ見せるチャンスだよ」
ユーリの囁きに、マリアンヌは張り切って頭の上でボールを転がして見せる。ぽん、ぽん、と弾むボールを、バレンツとハクは驚きの目で見つめていた。
「ハク、あのボールを取ってこい」
やがて、バレンツがハクに向けて指示を出す。ひと鳴きしたハクが、敏捷に跳ねてボールへと飛びかかる。
「ほえ、マリアンヌ。ボール、取られちゃダメだよ」
ユーリの指示に、マリアンヌは頭でボールを大きく打ち上げ、ハクの突進をかわす。
「そう簡単には、取らせてくれないか……面白い」
にっと、バレンツの口元が大きく吊り上がり、笑みの形になる。
「よし、勝負だユーリ。五分間、ハクからボールを守らせて見せろ」
「ほえ、負けないよ、バレンツ!」
バレンツの声に、ユーリは元気よく応じる。
「もし勝てたら、何でもひとつ、言うことを聞いてやる」
「ほえ? な、何でも?」
ユーリの問いに、バレンツは笑顔で腰から鞭を引き抜いた。
「ああ。勝てたら、だけどな」
バレンツの手にした鞭が、風を切り地面を叩く。一拍遅れて、ひゅんと音が鳴った。びくん、とユーリとマリアンヌの全身が一瞬震え、その隙をハクは見逃さない。ボールに飛びついたハクが、ふわふわの尻尾でボールを捉え、共に着地する。
「ほえ、やられちゃった……」
呆然とするユーリとマリアンヌを前に、バレンツはハクの頭を撫でつつ小さなクッキーのようなものを食べさせている。
「よくやったぞ、ハク。いいジャンプだった。それに比べて、マリアンヌ、お前はまだ、鞭の音に慣れていないようだな」
言いながら、マリアンヌへ顔を向けたバレンツが、キャベツを取り出しマリアンヌの鼻先へ置く。バレンツの顔を見上げ、そしてマリアンヌはキャベツへと首を伸ばす。鞭が、マリアンヌの首スレスレを通過して、地面を叩く。ひゅぱん、と音が追随した。びくり、とマリアンヌが動きを止める。
「マっ……!」
傍らで、ユーリは上げかけた声をすんでのところで抑えつけた。伸ばしかけた手を胸元へ引き付け、拳を握る。マリアンヌにとってバレンツの鞭は理不尽であるかもしれない。だが、それは調教には必要なことだった。
じっと、マリアンヌのつぶらな瞳が伺うようにバレンツを見上げる。バレンツの右手が閃き、再び鞭が地面を叩く。
「……よし、食え」
鞭の音と共に、バレンツがうなずいて言った。猛然と首を伸ばし、マリアンヌがキャベツに齧りつく。その頭を、バレンツは優しく撫でた。
「鞭の音にも、色んな種類がある。ひとつひとつ、覚えていけ」
マリアンヌに言ってから、バレンツはユーリを手招いた。歩み寄ったユーリの口の中へ、小さなクッキーが放り込まれる。
「ほえ」
ユーリの口の中で、微かな甘みがさらりと溶けた。
「敢闘賞だ。まだまだ甘いが、よく頑張ってるからな」
がしがしと少し乱暴に撫でてくるバレンツの手に、ユーリはにへらと頬を緩ませる。
「ほえ。今度は、負けないよ」
ごくんとクッキーを飲み込んで、ユーリは言った。バレンツはユーリの頭に手を置いたまま、にっこりと笑う。
「ああ、期待してる」
そう言ったバレンツのズボンの裾を、ハクが咥えて引っ張った。
「ん? ああ、ハク。もう一個、欲しいのか」
ハクに顔を向け、バレンツがクッキーを取り出す。差し出されたクッキーを、ハクがぱくりと口に入れてかりかりと音立てて咀嚼した。
「ほえ……ハクも食べるんだね、そのクッキー」
「ああ。ハクが食べるために、作った特製だからな」
ユーリから手を離し、ハクを抱き上げてバレンツが言う。
「それじゃあユーリ、お前はもうしばらくマリアンヌの調教を頼む。俺は、ハクの散歩を兼ねて少し出かけるから」
ユーリに告げて、バレンツが踵を返し背を向けた。バレンツの腕の中のハクが、ちらりとユーリを一瞥し、そして顔を背ける。
バレンツを見送ったユーリは、マリアンヌの側へとしゃがみ込んだ。ばりぼりと、マリアンヌはキャベツを咀嚼している。
「……ほえ、仲いいね、バレンツとハク」
マリアンヌが顔をちょっと上げて、うなずくように動かす。
「あのクッキー、ハクのために作ったものなんだ……」
ユーリは口の中で舌を動かし、甘味の残滓を探る。それから、にへらと相好を崩した。
「大切なハクのために作ったのを、くれたんだ……ふふ、へへへ」
ぺしぺしとマリアンヌの甲羅を叩きながら、ユーリはくねくねと奇妙に身をくねらせる。マリアンヌが首を伸ばし、そんなユーリの肩を突く。その態度に、ユーリの頭の中でぴん、と閃くものがあった。
「大丈夫だよ、マリアンヌ。私とバレンツがもっと仲良くなったら、マリアンヌがハクを構ってあげればいいんだよ。ハク、寂しがりやさんだから」
ユーリの言葉に、マリアンヌはちょっと考え込む仕草を見せて、それから甲羅に手足と首を引っ込めた。甲羅の外から見える鼻先が、少し赤くなっていた。
「うん。私はバレンツと、マリアンヌはハクと上手くいく、八方丸く収まるっていうやつだね」
ユーリは笑って、マリアンヌの甲羅の中に引っ込んだ首へと顔を寄せる。
「ほえ……早速だけど、私にいい考えがあるんだ、マリアンヌ」
ぼそぼそと、ユーリがマリアンヌに向けて囁いた。悪戯っぽい表情を浮かべたユーリの提案に、マリアンヌは甲羅の中で小さくうなずいたのであった。
その日の夜である。夕食を終えたバレンツが、ハクを伴い自室へと入って行った。居間で静かにリュートを奏でていたユーリは、バレンツの部屋の鍵がかかると同時に椅子から降りる。
「ちょっと強引だったかも知れないけど、上手くいったみたい」
テーブルの上には、半分ほど中身の入った酒瓶とグラスが二つ置かれていた。先ほどまで、それはユーリとバレンツが飲んでいたものだ。とはいえ、ユーリが口にしたのは最初の一杯のみである。バレンツに巧みに酒を勧め、結果良い感じにバレンツは酔っぱらっていた。
リュートを背に収め、ユーリが向かうのは屋根裏だった。暗い屋根裏に上ったユーリの前で、もぞりと大きな影が動く。それは、あらかじめ潜ませてあったマリアンヌである。
「ほえ、屋根裏に、異常は無かった?」
ひそひそと囁くユーリに、マリアンヌが首を縦に動かす。その応えに満足そうにうなずいて、ユーリは気配を消して屋根裏を進んだ。マリアンヌもユーリに倣って気配を消して、ずりずりと後ろをついてくる。気配の消し方は、昼間にユーリが教えたのだ。
灯りの漏れた場所へたどり着いたユーリとマリアンヌは、そっと耳を澄ませる。そこで、ユーリは眉を顰めた。ぼそぼそと聞こえてくる、声があったのだ。結った髪から耳を引っ張り出して、ユーリは光の差し込む床板へと目を近づける。
『まったく……こんなになるまで飲むなんて、らしくないよ、バレンツ』
その声は、ユーリの知らないものだった。小さな寝台の上で、白い着物を身に着けた小さな背中が、肌色の男の身体のあちこちへと触れている。
『……あいつが、飲ませてきたんだ。俺のせいじゃ……ぐっ』
低く、バレンツが呻いた。一糸まとわぬバレンツの姿が、ユーリの視界に映る。その引き締まった肉体には、鞭が縄のように食い込み、縛り付けるように筋肉を締め上げている。はっと、ユーリは息を呑んでマリアンヌと顔を見合わせた。闇を見通すエルフの眼と、カメのつぶらな瞳がしばらく見つめ合い、そして再び下へと向いた。
『僕のおやつを二つもあげるなんて……まさか、気に入ったの、バレンツ?』
バレンツの裸身を縛り終えた白い小柄な美少年が、嗜虐的な光を湛えた目を向けながら尋ねる。
『ほ、他に、食えそうなものが無かっただけだ……他意は、無い……』
苦しそうに、掠れた声を途切れさせながらバレンツが答える。美少年は、そんな反応を愉しむかのようにくく、と咽喉を鳴らし、仰向けに縛られたバレンツの腹の上でクッキーを取り出し、指で潰した。さらさらと、粉になったクッキーが降り注ぐ。
『僕だけのために作ったものをあげるなんて……お仕置きが必要だね』
白い少年の口から、真っ赤な舌がするりと伸びる。その舌先が、バレンツの綺麗に割れた腹筋に散る粉へと伸びてゆく。
その様子を、ユーリは唾を飲み込んで見守っていた。なんとも妖しい、色香のある光景だった。身を乗り出し、角度を変えようと手に力が入る。肝心かなめの部分が、少年の身体に隠れて見えないのだ。マリアンヌも同じであったらしく、前肢をつっと動かした。その瞬間、めきりと床板が軋み、割れた。
「あっ!」
普段のユーリであれば、床板から跳び下がって離れることくらいは容易である。だが、覗きに集中するあまり、注意が疎かになってしまっていたのだ。空中で、もがいてみたもののどうにもならず、ユーリはマリアンヌと一緒にバレンツの部屋へと落下した。
ずどん、と重い音を立てて、マリアンヌが着地する。部屋の床板がぎしりと軋んだが、抜けることは無かった。その甲羅の上へ、ぽよんと軽い音を立ててユーリが落ちてきた。
「ユ、ユーリ!?」
後ろ手に縛られたまま、バレンツが天井を突き破ってきたユーリたちに目を向けてくる。
「ほ、ほえ。バレンツ……その、こちらは?」
引きつった笑みを浮かべながら、ユーリが目を向けたのは白い着物姿の美少年だ。着物の前がはだけ、細く繊細な肌がちらりと見える。その頭には狐の耳があり、腰のあたりからは尻尾も生えていた。
美少年はユーリに向き直り、にっと唇の端を吊り上げる。
「こんな夜中に、僕のバレンツの部屋に来るなんて。一体、何の用があったんだい、ユーリ?」
端正な顔つきに、挑戦的な笑みを浮かべて美少年は言った。その尻尾、耳、そして軽く敵意のある視線を前に、ぴん、とユーリの頭の中で閃くものがあった。
「ほえ、も、もしかして、ハク……くん?」
震えて指差すユーリに、美少年はゆっくりとうなずいた。
「ほえ……バレンツ、その、これ、何してるの?」
素裸のまま縛られたバレンツが、ふい、と顔を逸らす。ふふん、と見下す顔つきで、答えるのは美少年姿のハクだった。
「見て、わからない? 僕たちの関係」
あっ、とユーリは胸の中で、声にならない声を上げる。先ほどの光景と、ハクの余裕の微笑。そして、顔を逸らしたバレンツの、気まずそうな顔。答えは、ひとつだった。
ユーリは、大きく息を吸いこんだ。
「ごめんなさい! そーいう関係だったとは知らなかったの! 人には言えない趣味のひとつやふたつ、誰にでもあるもんね! 私には、まだ早いから……もう少し、あと百年くらいしたらたぶん理解できると思う! そうしたら、また会いに来るよ! マリアンヌ、そーいうわけだから、強く生きてね! あと、ごちそうさまでした!」
大音声に呆然とする一同を置いて、ユーリは窓を突き破って外へと飛び出した。猛獣や魔物の眠る庭先を、手足を使って走り抜ける。獣のような姿勢で、ユーリは地平の彼方を目指し駆けた。真っ暗な平原を、矢のように走るユーリの眼前に、現れるのは野営中のキャラバンの馬車である。円陣を描く馬車の中央にはたき火が置かれ、その前で毛布にくるまるシャイナの姿があった。
「ほええええん!」
飛び込んだユーリが鳴き声を上げながら、シャイナの身体を揺する。
「んえ? ユーリ……?」
眠たそうに目を擦るシャイナが、毛布をめくってユーリを中へと入れる。温かい感触に包まれ、ユーリは安心して泣いた。半分夢の中にいたシャイナは、ユーリを抱きしめながら眉を下げつつ微笑むのだった。
ガラガラとけたたましい音を立てながら、固められた砂利の道を馬車が行く。幌の上に座ってリュートを奏でるのは、もちろんユーリである。
「お外はこんなにいい天気ー。人もいなくて貸し切り砂利道ー」
「確かに、旅人の一人も見当たらないわね……道、間違えたかしら?」
御者台で、シャイナが地図を見ながら相槌を打つ。人気のない道を、五台の馬車が列をなして進んでゆく。彼方を目指しどこまでも、ユーリの旅は続いてゆくのであった。
なお、恋から冷めたリクガメのマリアンヌは、己を追い込むように辛い修行を重ねついには伝説の神獣へと進化したのであったが、それはユーリたちの知らない話なのであった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ブクマ、評価、感想等とても励みになっております。重ねて御礼申し上げます。
お楽しみいただければ、幸いです。