サンドイッチとオレンジジュース 後編
ユーリがウィルの家に住み込んで、一週間が過ぎた日の朝。ユーリは鼻歌交じりに、共同スペースの台所で野菜を刻む。横のかまどには、とろとろになるまで煮込んだ豚肉の鍋がかけられていた。
「ほえほえふふーんふーん」
ざく切りにされた野菜を、焼きたてのパンに挟む。そこへ、煮豚を乗せれば完成である。雑貨屋で買ったバスケットに詰め込むのは、ウィルのお弁当の分だ。
部屋に戻り、ベッドで眠るウィルの側へ足音を忍ばせて歩み寄る。微かな音も立てないのは、ウィルの寝顔を眺めるためだ。
「ほえー」
にへら、とユーリの頬が緩んだ。眼鏡を外したウィルの寝顔は、ちょっぴり幼く見える。規則正しい寝息を立てて、行儀良く寝ているウィルの頭へユーリは手を伸ばす。さらさらとした、茶色の柔らかな髪がユーリの指の間を滑ってゆく。
「ん……ユーリ?」
「ほえ、おはよ、ウィル」
うっすらと目を開けるウィルに、ユーリは囁く。元気よく挨拶をしたところ、隣の家から苦情がきたのでそうなったのだ。アパートの部屋の、壁は薄いものだった。
「うん、おはよう、ユーリ」
寝ぼけ眼を擦りながら、ウィルはぼんやりとした声を出して眼鏡を探る。
「はい、ウィル」
ユーリは先んじて、ウィルの顔に眼鏡を掛けてあげる。ぱちぱち、とウィルの瞳が瞬いた。
「ありがと、ユーリ」
「どういたしまして。朝ご飯、できてるよ」
ユーリはウィルのベッドの側から離れ、テーブルを指し示す。焼きたてのパンに、カリカリに焼いたベーコンが乗せられており、さらにはサラダの鉢もある。完璧な朝食を見つめ、ウィルは小さく息を吐いた。
「……ごめんね、ユーリ」
「ほえ、どしたの?」
首を傾げるユーリの前で、ウィルは憂い顔である。
「毎日、食事代を出させてしまって……僕が、ちゃんと稼げればいいんだけれど」
顔を俯かせるウィルの肩を、ユーリがぽんと叩く。
「気にしないで、ウィル。私が、したいだけなんだから。ほら、せっかく作ったんだから、そんな顔して食べたら勿体無いよ」
ウィルの手を引いてテーブルに着かせ、ユーリは笑顔で言う。浮かない顔のままだったウィルも、パンを口に運べば自然と表情が綻んだ。
「……美味しい、凄く美味しいよ、ユーリ!」
称賛の言葉に、ユーリの頬がまたにへらと緩んだ。
「あんまり慌てて食べると、咽喉、詰めちゃうよ」
言った側からんぐ、とウィルが呻く。苦笑しつつ、ユーリはオレンジジュースの入ったコップを差し出した。一息に、ウィルがそれを飲み干してほっと息を吐いた。
「ありがとう、ユーリ。冷たくて、美味しいよ」
「今朝、買ってきて井戸水で冷やしておいたんだよ」
どや顔のユーリの頭を、ぽんとウィルが撫でる。それからウィルが、ユーリの頬に軽くキスをした。
「料理も美味しくて、気も効いて……本当、僕は幸せだよ、ユーリ」
しみじみと言うウィルに、ユーリは微笑むのであった。
朝食を終えたウィルが、制服に着替えるのを手伝ってユーリは見送りに立つ。
「いってらっしゃい、ウィル」
「うん、いってきます、ユーリ。また、夕方に広場でね」
互いの頬にキスを交わしあい、小さく手を振ってユーリはウィルの背中が見えなくなるまで眺めていた。
学院へ行くウィルを見送って、ユーリは部屋の小さなベッドに倒れ込む。すん、と鼻を鳴らせば、ウィルの匂いが立ち昇ってくる。うっとりとまどろむユーリは、そのまま目を閉じた。
「ほえ……ウィルに包まれてるみたい」
呟いて、ユーリは睡魔に身を任せる。夜の酒場で演奏をして身銭を稼ぎ、朝にはウィルの弁当と朝食を作る。そうして、ウィルが学院へ出かけている間にベッドを使う。そんな奇妙な生活サイクルに、ユーリの身体は慣れつつあった。
残念ながら、部屋で恋人らしいことは出来ない。壁の薄さと、ウィルとの生活時間のズレがあるためである。それでもユーリは幸せそうに、静かに寝息を立て始めた。
精霊学の教授から、ウィリアムは呼び出しを受けていた。授業も終わり、ユーリとの約束の時間まであまり間が無かったが、ウィリアムにはそれを断る選択肢は無かった。ごめんね、と少し待たせることになるユーリの顔を思い浮かべ、頭の中で謝罪をする。そうしてウィリアムは、教授の部屋の前へと立った。重厚な扉へノックをすると、入室を促す低く重い声が返ってくる。
「失礼します」
ウィリアムはドアノブを回し、扉を引いた。
「座り給え」
大きな机の向こうに、腰を下ろした教授の姿があった。初老の男性で、鋭い視線と意志の強そうな口元が威圧するようにウィリアムへと向けられている。
ウィリアムは一礼し、指し示された椅子へと腰を下ろした。
「まずは、唐突に呼び出したことを詫びよう。今日は時間も無いので、用件は手短に済ませるつもりだ」
「い、いえ、とんでもありません。お忙しい身でありながら、僕なんかのためにお時間を割かせてしまい、申し訳ないです」
軽く頭を下げる教授に、慌ててウィリアムは両手を突き出した。教授はウィリアムの様子を意に介さず、一枚の紙を机から取り上げた。
「これの、ことについてなのだが……どうだろう。明日、ゆっくりと話す時間は無いだろうか」
教授の持つ紙を目にして、ウィリアムの顔に驚愕の色が浮かぶ。
「きょ、教授が、どうしてそれを……」
「……私が、それだけ君を買っている、ということだ。どうだろうか?」
教授の問いかけに、ただただ恐縮してウィリアムはうなずいた。
「わかり、ました。明日、どちらへ伺えば?」
「私の家に来るといい。家の者には、君が来ることを伝えておこう。昼前に、来てくれればいい。本当は今日、話しておきたかったのだが、これから会議でね」
「い、いいえ、僕こそ、すみません。まさか、教授に気に掛けていただいているとは思いませんでしたから」
「構わない。それでは明日、待っている」
心が、現実と剥離してしまったような感覚を味わいながら、ウィリアムは教授の部屋を辞した。足はそのまま、ユーリの待つ広場へと向かってゆく。
「教授が、僕を……?」
教授の言葉が、何度も頭の中にリフレインする。だが、広場へ着く前にウィリアムは頭を振り、それを意識の隅へと追いやった。
「ほえ、あ、ウィルー!」
笑顔で大きく手を振る、小さな恋人の姿があった。リュートを構えるユーリの目の前には、銀貨や銅貨のたくさん入った革袋が口を開けて置かれている。ベンチの周りにできた半円の人垣をかきわけ、ウィリアムはユーリの側へと駆け寄った。
「ユーリ! ごめん、待たせちゃった?」
息を弾ませ謝るウィリアムに、ユーリが向けてくるのはちょっと緩んだ笑顔である。ウィリアムへの好意に満ちたその顔を見ると、胸の中にじんと温かいものが拡がってゆく。
「ほえ、平気だよ。待ってる間に、何曲か歌ってたから」
言いながらユーリがリュートを仕舞い、革袋を手に人々へ向かって一礼する。拍手喝采を浴びせながら、人垣はゆっくりと崩れ、散らばっていった。
「……ユーリは、本当に凄いね」
大金の入った袋をちらと見やり、息を吐きながらウィリアムは言う。
「ほえ、ウィルの教えてくれた歌詞のおかげだよ」
ユーリが言うのは、出会いのきっかけになった魔法の歌のことだ。確かに、意味と発音を教えたのはウィリアムである。だが、それもユーリが奏でてこそ、これだけの稼ぎになっているのだろう。それに引き換え、自分は……とウィリアムは浮かびかけた負の感情を、胸の中に仕舞い込む。落ち込むことは、ユーリに対して申し訳の無いことだ。心の葛藤は顔に出さず、ウィリアムはユーリに笑いかける。
「それは、光栄だね。僕も、教えた甲斐があったよ、ユーリ」
ここ一週間で、ユーリは本にあった魔法の歌の全てを歌えるようになっていた。もちろん、危険な作用を持つ歌もあったが、それは絶対に歌わない約束をしていた。
「今日は、どこ行く? ウィル、行きたいとこある?」
問いかけに、ウィリアムは少し考える。
「……特に、思いつかないかな。ユーリは、どこか行きたいとこあるの?」
聞き返すと、ユーリの口から出たのは最近できたカフェの名前だった。遊ぶ場所や、新しい店の情報などは町へ来て日の浅いユーリのほうが詳しくなっていた。
「じゃあ、そこ行こっか」
「うん!」
くっついてくるユーリの手を取って、ウィリアムは歩き出す。そうして日の暮れるまで、ウィリアムはユーリと共に過ごした。
用事があるから出かけてくる、と言ってウィルが部屋を出てゆく。お昼ご飯は、と聞くと大丈夫と返事がきた。いつもと同じ様子に見えたけれど、ウィルの顔つきには微かに緊張感のようなものが見えた。
ぴん、とユーリの頭の中に、閃くものがあった。何か、ただならぬ事態が起きているのかもしれない。そして、ウィルはそれに巻き込ませまいと、言葉を濁しているのだ。頭の中で予測を立てたユーリは、即座に追跡することにした。
ウィルの尾行は、簡単だった。休日の昼前の人通りが、ユーリの小さな身体を隠してくれる。後ろを振り返ったりすることも、無かったので、ユーリとしては見失わないように後を追うだけで良かった。
そうして、やってきたのは豪奢な屋敷の門前だった。門の中へ消えるウィルの姿を確認したユーリは、気配を消して屋敷の中へと忍び込む。広い屋敷の中で、ユーリは使用人の洗濯場からメイド服を一着失敬し、身に着けた。できるだけ小さなものを選んだつもりだったが、それでもぶかぶかだったので端を織り込んだり関節を少し伸ばすことで補った。
変装を終えれば、あとはウィルの匂いを辿ってゆくだけだった。気配を消したまま、難なくユーリは屋敷の奥にある大きな扉の前にやってきた。両開きの扉の継ぎ目に、そっと耳を当てる。聞こえてくる会話は、ウィルと低い声の男性のものだった。
「……君の論文は、大したものだ。発想、着眼点、そして、基礎がとても良く出来ている」
「そんな……恐縮です。教授に、褒めていただけるなんて」
緊張しているのか、ウィルの声はどこか弾まないものだった。だが、ユーリはぐっと拳を握って密かに喜ぶ。教授、という人物は、恐らく魔法学院の偉い人なのだろう。そんな人に、褒められたのだ。きっと、凄い事なのだろうと思いを巡らせていた。
「だからこそ、私は君が惜しい。学院を、去るなどと……」
教授の声に、ユーリは扉の向こうで目を見開いた。
「すみません。もう、決めたことですから……」
「君が金銭的に辛い立場にあるのは、知っている。もし、それが原因で退学を決めたのであれば、私から提案があるのだが」
「提案、ですか?」
問いかけるウィルの声に合わせ、ユーリも首を傾げる。もちろん、扉を隔てているので中からは見えない。
「私には、一人娘がいる。娘は、君に好意を寄せているようでね。君が良ければ、我が家の入り婿となり、学院へ残って学究を続けることもできるのだが……どうだろうか?」
え、とユーリは声にならない声を上げた。ウィルの夢は、精霊学を極めることである。教授の提案は、その夢を叶えることのできる、最善の選択だといえた。ユーリは、やきもきしながら扉の向こうの言葉を待った。
「……お心遣いは、有り難いのですが、僕には、守るべき人が、共に生きたい人がいるんです」
一句一句に思いを込めた、ウィルの言葉が聞こえてくる。ユーリの胸の中に、喜びと、そして動揺とが混ざり合い、満ちてゆく。
「若い頃の恋など、後になって振り返れば後悔しか残らない。そういうことも、あるものだが」
「それでも、僕は、彼女と生きる道を選びます」
「学院を去れば、君の夢への道は絶たれることになるのだぞ?」
「……はい。覚悟の上、です」
苦く、そして潔い言葉に、部屋の中で大きく息を吐く音が聞こえた。
「……去る者を、無理に呼び戻すことはできんな。だが……もしも翻意することがあれば、いつでも私の元へ来るように。これは、私が預かっておく。君は、しばらく休学という扱いになる」
「教授……」
扉の向こうで交わされる会話を、ユーリはもう聞いてはいなかった。頭の中がぐしゃぐしゃになってしまったようで、ふらふらと覚束ない足取りで扉の前を離れる。
「あら、見かけない顔ね。あなた、新入りかしら?」
ぽんと肩を叩かれ、振り向いたユーリの前にはメイドの姿があった。
「ほえ?」
呆然と鳴き声を上げるユーリの手を引いて、メイドはキッチンへとユーリを連れてゆく。
「今日はお客様の御食事があるから、手が足りないのよ。あなたもさぼっていないで、こっちを手伝いなさい」
わけもわからぬまま、渡された包丁でユーリは玉ねぎを刻んでゆく。今日のメインは、ハンバーグらしい。とんとんと包丁を動かしながら、ユーリは涙を流した。
「ほえ……目に、染みるよぉ」
みじん切りの山の前で、ユーリは泣き続けた。
安アパートの前に馬車が停まり、ウィルが降りてくる。足音だけでそれとわかる気配に、ユーリは部屋の中で目を細めた。きちんと片付けた小さな部屋の、入り口の真正面にある椅子に座ってユーリは待った。
「ただいまー……って、ユーリ? どうしたの、灯りも点けないで。今日は、酒場の仕事、休みなの?」
薄暗い部屋の中へ、ウィルが持つ魔法の光が訪れる。問いかけに、ユーリは首を横へ振る。
「……そんなことは、どうでもいいの、ウィル。それより、答えて。学院を辞めるって、どういうこと?」
ユーリの言葉に、ウィルがぎくりと全身を強張らせた。
「どこで、それを聞いたの、ユーリ?」
狼狽えながら、探る声音でウィルが言う。
「風の噂で。精霊が、教えてくれたの」
「精霊が、僕のことを……?」
ユーリのついた嘘に、ウィルが呆然と呟く。
「そんなことより、ウィル。あなた、夢を諦めるつもりなの?」
重ねた問いにウィルは顔を俯け、そして上げる。その瞳には、決意の色があった。
「少し、遠回りをするだけだ。僕は、決して……」
「人間の一生は短いよ。余計な寄り道をしていて、たどり着ける道だと思ってる?」
「……それでも、僕は! ユーリにこれ以上、辛い思いをさせたくないんだ! 学院を辞めて僕が働けば、こんな所じゃなくてもっと良い場所に住める! ユーリも酒場で夜更けまで働かなくても済む! 好きな時に、好きな歌を歌える! だから、僕は……!」
あっ、とユーリは胸の内で、そっと声を上げた。やっぱり、そうだった。ウィルが夢を諦めたのは、その原因は……ユーリはゆっくりと、背中からリュートを取り出し、構えた。
「……ユーリ?」
名を呼ぶ声に、応えるのはほろりと鳴る弦の音。ユーリはリュートを掻き抱くように、優しく音色を紡ぐ。
「ありがとう、ウィル……私の為に、そこまでしてくれて。でも、でもね。私は、夢を追いかけるあなたが、好きだった。そんなあなたが、好きって言ってくれたのが、とっても嬉しかったの。ずっと、夢を追いかけるあなたの側で、あなたを支えていけたら、幸せだった……」
旋律が、なぞってゆくのはウィルと一緒に覚えたあの本の、楽譜の一節だ。
「ユーリ、まさか……ダメだ!」
手を伸ばすウィルの目の前で、ユーリは唇を尖らせ、口の中で舌を回す。詠唱は、一瞬で完成する。
「あなたの夢の、邪魔になるなら……『私を忘れて』……ウィル」
がくん、とウィルの身体が膝から崩れ、うつ伏せになって倒れる。つっと、ユーリの頬を涙が一筋、伝って落ちた。
キャラバンの後を追うことは、ユーリにとっては難しいことでは無かった。大量の物資と、馬車の移動の痕跡はそうそう消えるものではない。五日間の距離の差を、ユーリは無言で走り半日で詰めた。風を巻いて、風に乗って、ユーリはシャイナの前にたどり着く。
「ユ、ユーリ!」
驚くシャイナの側には、二人の男がいた。剣を抜き、シャイナの咽喉元にそれはまさに繰り出されんとしている。
「シャイナ……今、お話、いい?」
沈んだユーリの声に、絶体絶命のシャイナはこくこくとうなずく。
「聞いてあげるから、これを何とかして頂戴」
「ほえ」
二秒後、きっちりとのされた暴漢を踏み台に、ユーリはシャイナへと飛びついた。
「ほえええん!」
幼子のように、ユーリはシャイナの腕の中で泣いた。逃げ散っていたキャラバンの馬車たちが再び集まってくるまで、シャイナはずっとユーリを抱いていてくれた。
ガタゴトと、馬車は道なき道を行く。草原には、ちらほらと動物たちの群れも見えた。
「鹿さん馬さんこんにちはー、象さんワニさんいらっしゃーい」
馬車の幌の上で、ユーリは陽気に歌声を上げる。
「象とワニは、遠慮しておきたいわね」
御者台から、シャイナの合いの手を挟みつつ馬車は進んでゆく。
「きれいな花の色ー、私の心はー、花模様ー、るるるー」
ユーリの上げた音色に、花びらが舞い上がり馬車を包み込む。鹿の群れが、遠巻きにそれを眺めていた。 こうして、旅はまだまだ続くのであった。
なお、ウィリアムはその後、学院に戻り精霊学の勉学に励み、やがてその名を世界中に轟かせる学者となるのだが、それはユーリの知ることのない話であった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
お楽しみいただければ、幸いです。