ピアノの音色の向こう側 前編
新連載始めました。よろしくお願いします。
ほろり、ほろりとリュートの弦が鳴り響く。ほのかな光魔法の中で、少女の姿が浮かび上がる。しっとりとした、どこかもの悲しいメロディラインを奏でながら、少女はステージの上で歌う。幼さと艶やかさの境界線上にあるその歌声に、酒場の客たちは皆うっとりと耳を傾けていた。
リュートを爪弾く少女の視界の隅に、客の男が一人、立ち上がるのが見えた。酒場のマスターと男は二言三言ほどを交わし、それから少女を見つめながらステージの上へとやってくる。大柄な、中年の男だった。
少女は歌いながら、ちらりとマスターへ目を向ける。くい、とマスターが顎で示すのは、ステージに置かれたピアノである。男はピアノの前に座り、蓋を開けて両手を掲げる。
ほろん、と少女の奏でる音の中に、品の良いピアノの音色が混じった。しっとりとした曲調を壊さず、音は支え、深みをもたらす。温かいものに包まれるような、安心感が少女を包んだ。
「出会うべきー、運命の人は、どこに……」
歌い終えて、曲の最後の一音を弾く。ピアノがゆったりと追随するのを確かめて、少女は指を激しく動かした。かき鳴らされるのは、がらりと変わった陽気なメロディだ。ぴくり、とピアノの男の眉が動く。それは、いきなりの変調だった。
「私は、吟遊詩人のユーリ。この町に、やってきたのは昨日ー」
ぽん、と高い音とともに、少女の歌声をピアノの音色が押し上げる。ふわりとした高揚感に、少女の歌声はどこまでも高まってゆく。ピアノの男へ、少女はウインクを投げた。男は手を動かしながら、軽く頭を下げて微笑する。少女のかき鳴らすリュートの音色が、激しさを増した。
「この出会いにー、乾杯っ!」
少女が右手を掲げるように、リュートを鳴らす。酒場の客たちが、合わせてグラスを掲げ、近くの誰かと乾杯をする。そして、ステージは大歓声に包まれた。
観客へ一礼する少女の隣へ、男が並んで優雅な礼を見せる。大人と子供ほどの身長差のある二人へ、惜しみない拍手喝采が浴びせられた。ステージの上で、少女は顔じゅう笑顔になって男を見上げる。
「ありがとう、素敵なおじさま!」
「こちらこそ、素敵なひと時をありがとう。あまりに綺麗な音だったので、お邪魔させていただいた。よければ、一杯奢らせてくれないかな?」
華やかな少女の笑みに、男が上品な笑顔で提案する。何度もうなずく少女の手を引いて、男はステージから客席へとエスコートする。ステージに寄っていた観客たちが、さっと道を開けた。
少女と男のテーブルに、観客たちがひっきりなしに訪れて挨拶をしてゆく。それらが捌ける頃には、少女と男のグラスは空になっていた。
「マスター、新しいのを、私と彼女へ」
男が言うと、マスターはすぐさま新たなグラスをテーブルへと置いた。
「食べ物は、いかがでしょう?」
マスターの問いに、男はうなずいて何品かの料理を注文する。
「ほえ、そんなに食べるんですか?」
少女が、気の抜ける鳴き声を上げて聞いた。それは少女の、口癖のようなものだった。気を抜くと、出てくるのである。
「ああ。だが、私一人では食べきれないかもしれない。よかったら、少しつまんでくれないか」
にっこりと、笑顔を向けて男が言った。
「ほえ、そういうことなら、ご相伴にあずかります!」
マスターが姿を消し、少女と男は改めてグラスを打ち合わせ、乾杯した。
「私は、ファーロス。ここではたまに、拙いピアノを披露している」
グラスの酒を飲みながら、中年男が名乗る。品よく整えられた口ひげと、短く刈られた髪はアッシュブラウンであった。
「私は、ユーリ。キャラバンについて、旅してる吟遊詩人です!」
元気よく、ユーリが頭を下げた。結い上げた髪が、ひょこんと揺れる。ファーロスがユーリの顔を見つめて、ほう、と息を吐いた。
「その耳、君はエルフなのかな?」
言われて、ユーリは頭に手をやった。頭を下げた拍子に、髪に隠していた耳が飛び出したのだ。
「ほえ、はい。隠すつもりは無かったんですけど、初めて来る町ではそうしろって言われてて……」
慌てて長い耳を髪の中へ仕舞い、リボンを結び直すユーリにファーロスは鷹揚な笑みを見せた。
「なるほど。用心するのは、良い事だ。町の中には、差別的な意見を持つ者もいるのだから」
「ファーロスさんは、どうですか? エルフ、嫌いだったりしますか?」
問いかけに、ファーロスは首を横へ振る。
「私は、時として多くの種族と共に戦ってきた。見た目ではなく、中身で人を見なければ本質はわからない。同じ人間の中でさえ、違いというものはあるものだ」
グラスを掲げながら、ファーロスが言った。どこか苦いものを感じさせるその顔に、ユーリの胸がとくんと鳴った。
「ほえ……あの、ファーロスさん。良かったら、また、一緒に演奏してくれますか?」
もじもじと、グラスを弄りながらユーリは聞いた。
「うん? もちろん、私は大歓迎だ。若いレディのお誘いを、断るほど無粋では無いつもりだからね」
快諾するファーロスへ、ユーリが嬌声を上げる。そうしているうちに、料理が運ばれてくる。食事の間じゅう、ユーリはファーロスの所作のひとつひとつを眺め続けていた。
「……何か、付いているのかな?」
首を傾げるファーロスに、ユーリは真っ赤になって両手を振る。
「ほ、ほえ、その、綺麗に食べるなって、思いまして……」
ユーリの言葉に、ファーロスの顔が少し曇る。
「子供の前で行儀の悪い食べ方をしないでくれ、と妻に言われてね……」
「奥さんと、お子さんがいるんですか?」
「ああ……五年前に、妻は娘を連れて出て行ってしまった……」
「ほえ……」
沈痛な面持ちになるユーリへ、ファーロスが笑みを浮かべてフォークを持ち上げる。
「酔っているせいか、つまらない話をしてしまった。すまない。気を取り直して、食事を続けよう。うん、腸詰は旨いな」
ぱくり、と一口で腸詰を食べながら、ファーロスが言う。ユーリも、ジャガイモへフォークを伸ばして口に入れる。ほとんど、味はわからなかった。それでも、ファーロスに向かって微笑んで、どんどんと料理を食べていった。
テーブルの上から料理が消えて、ユーリはファーロスと共にグラスを傾け合った。ユーリは面白おかしく脚色を加えた旅の話を、ファーロスへ披露してゆく。ファーロスは相槌をうち、時折真面目な顔で、そして時折笑顔を見せて聞き入っていた。やがて夜も更けて、ふたり以外の客が誰もいなくなっても、ユーリは喋り続けた。
「それで、その国には変わった制度があったんです。ほえ」
「ほう。なかなか、興味深い話だね」
杯を重ね合い、酔いに任せてユーリの舌は滑らかに動いた。楽しそうに話を聞くファーロスを、ユーリは見つめた。
「素晴らしいものだね。是非、私も見てみたいものだ」
旅の途上で見た絶景の話に、ファーロスは目を細めて言う。きらきらと輝く瞳は、どんな宝石よりも美しい。ユーリは思い、言葉を重ねてゆく。やがて夜が更けて、そして明けた。
酒場の二階にある宿へ、ユーリはよろよろと階段を登る。手すりにつかまり、一段一段足を運ぶユーリの前に、一人の女性が立ちふさがった。それはユーリが旅路を共にする、キャラバンの長のシャイナである。
「おはよう、ユーリ……朝まで飲んでいたの?」
険のある声で、シャイナが言う。ユーリは足を止めず、女性の胸にぽふんと頭をぶつけた。
「ほえ? あ、シャイナ、おはよう。昨日、素敵なおじさまと知り合って、そのまま朝まで飲んでたの。大丈夫、やましいことは、何もないから」
ひらひらと手を振るユーリの前で、シャイナが肩をすくめて息を吐いた。
「誰もそんなこと聞いてないわ。それより、朝の荷運び、手伝ってくれるんじゃなかったの?」
シャイナの言葉に、ユーリはふるふると首を振った。半ば閉じられた瞳は、すでに眠気の限界を迎えている。
「ごめん、今日はちょっと……明日でいい?」
「明日じゃ、意味無いでしょう。まあ、いいわ。今日は夜まで寝ていなさい。どうせ、起こしても起きないんだから」
「ほえ……ありがと、シャイナ」
シャイナの身体をぎゅっと抱きしめて、ユーリは横を抜けて階段を登る。
「あ、そうだ。ユーリ」
部屋の前までたどり着いたユーリに、背後からシャイナが声をかけてくる。
「ほえ? なあに?」
振り向いたユーリに、シャイナは厳しい顔を作って見せる。
「その人に、惚れたりしたらダメよ? 明後日には、ここを出るんだから」
ユーリとシャイナの視線が、しばし交錯する。
「ほえ。大丈夫。だって、昨日会ったばかりなんだよ? 一度セッションしたくらいで、そうそう簡単に惚れたりしたいってば……ほふ、おやすみなさい」
右手を振って、ユーリは部屋へと入った。慌ただしい朝の気配とは裏腹に、ユーリはよたよたとベッドに歩み寄り、ぽてんと身を横たえる。
「あ、これシャイナのベッド……まあ、いいかな」
薄い香水の匂いに包まれて、ユーリは夢の世界へと旅立っていく。ニワトリの鳴き声が、どこからか聞こえてきたがユーリは構わずに寝息を立て始めていた。
その日の夕方、ユーリは再びステージに立った。しばらく演奏を続けていると、ファーロスがやってきてピアノを合わせ始める。深みのある音と、ファーロスの笑顔に恍惚となって、ユーリは陽気なメロディをかき鳴らしてゆく。その日も、ステージは大歓声に包まれた。
「ほえ、ファーロスさんって、この町の町長さんだったんですか」
演奏後、食事を共にしながら聞いたファーロスの素性に、ユーリは目を丸くして驚いた。
「そうなんだ。私の館は、この酒場のすぐ近くにある。良かったら今度は、そちらでご馳走をしたいのだが」
明るく言うファーロスに、ユーリは顔を俯かせる。
「ごめんなさい。明後日には、キャラバンが町を出るんです。私、付いて行かなくっちゃいけないので」
残念な顔で、ユーリが告げる。
「明後日? それは、随分急なのだね。それなら……明日の夜は、大丈夫かな?」
ファーロスの問いに、ユーリは少し考える。シャイナがうるさく言うかも知れないが、せっかく巡り合えた縁は、大事にしたい。二秒で結論を出して、ユーリはうなずいた。
「ほえ、大丈夫です! 何があっても、絶対行きます!」
「そんなに喜んでもらえるとは、光栄だよ、ユーリ」
そう言って、ファーロスは少年のような笑顔を浮かべる。
「ほえ……ファーロスさん、私こそ、お誘いありがとうございます……」
ぱっと顔に朱を散らし、ユーリが言葉を返した。
「もう少し一緒にいたいのだが、明日は朝早くに片付けなければいけない案件があるのでね。ユーリ、また、明日」
ファーロスは去り際に、ユーリの手に口づけをして帰っていった。入れ替わるように、テーブルへやって来るのはシャイナである。
「ふうん……なかなか、渋いお相手ね、今度は」
手のひらを差し出した姿勢のまま、呆けたように動かないユーリへシャイナが言った。
「ほ、ほえ? シャイナ、いつの間に……」
「ずっと見てたわよ。あの人の帰り際に、挨拶もしたし。あんたが気配に気づかないなんて、よっぽど重症ね、これは」
シャイナがユーリの頭へ手を伸ばし、隠していた耳をつまんで引っ張り上げる。
「ほえ、いたい、いたいよシャイナ」
「素直に白状したらどう? 惚れたんでしょう、ユーリ?」
シャイナの尋問に、ユーリは顔を俯かせる。
「……うん、たぶん。ごめんね、シャイナ」
「どうして謝るのよ」
「私、あの人と、ファーロスさんと一緒になりたい。奥さんも娘さんも出て行った寂しさを、埋めてあげたいって思うの……」
ユーリの言葉に、シャイナは両手を組んで顎を乗せ、真剣な顔つきになった。
「本気? それは彼も、望んでいることなの?」
シャイナの問いに、ユーリはうなずく。
「あの人の音に触れていると、よくわかるの。寂しさと、私の音に触れる喜びと……感情が、音を伝ってくるの。とっても、良い人だよ、ファーロスさんは」
うっとりと、セッションを思い返してユーリの頬は緩む。シャイナはそんなユーリをしばらく見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「あんたが本気なら、私は何も言わない。今度は船を使うから、護衛もいらないしね。ちょっと、寂しくなるわね」
微笑を浮かべて言うシャイナに、ユーリはますます俯いてしまう。
「……ごめんね、シャイナ。でも、私、幸せになるから。またこの町に来たときは、町長夫人として温かく迎えてあげるから」
かちん、とシャイナのグラスがユーリのグラスに合わせられた。
「あんたの、新しい門出に、乾杯かしら」
「ほえ……シャイナ、ありがとう」
涙のにじむ瞳で、ユーリはシャイナに微笑んだ。
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