落下〜独白〜
もう嫌だ。消えてしまいたい。消えてしまえ。そんな風にどれだけ願っただろう。それでも、願いは届くわけもなく、また日は登る。いつからだろう。こんなになってしまったのは。世界は眩し過ぎる。そして僕は、暗くて、汚くて、ジメジメした、日陰のような存在だ。いつからだろう。世界は、いつからこんなに眩しくなったのか。いつから、僕はこんな暗闇に足を踏み入れたのか。昔は、もっと違った気がする。ずっと昔。友人と学校に通い、放課後に遊び、夕方家庭に帰れば食事があった、あの頃は僕も世界の一部だったのに、そんな風に思う。僕は、きっと世界という雲の上から足を滑らせて落ちてしまったんだ。そして、そこは暗くて陸もない、ただひたすら落ちるだけの別の世界。底なんて存在しなくて、ただ暗くなって、暗くなって、もう空も見えなくなってしまった。この世界の中に、ただ一人取り残されてしまった。落ちているのかも分からなくなってしまった。ただ、そこに存在していることだけが分かるからひどく辛い。いっそ、自分すらも分からなければずっと楽になれるのに。
真っ暗で、自分のことすらも見えない中で、ただ手を開いて握ってを繰り返す。何もないな、何も残ってない。この手の中には、昔多くの物があった気がする。夢とか、友達とか、家族とか、希望とか、もしかしたら、小さな愛やら、恋やらもあったかもしれない。歳を一つたるたびに、それが少しずつ手の中から滑り落ちた。友達が減っていって、夢や希望も少しずつ削られていき、愛や恋は僕の小さな掌を傷付けた。僕は痛くて、手の中の物を少し落としてしまった。それから、愛や恋を持つことすらも怖くなって、希望なんか一瞬で溶けてしまって、次第に人間関係も希薄なり、僕は自分の手の中の物を気にすることを恐れた。そして、こんな真っ暗闇の中にきて、ようやく久しぶり掌を見つめた。けれど、もう掌を目視することすら叶わなくて、僕は悲しくなった。それでも、掌の中に何もないことはわかってしまう。軽いのだ。昔よりずっと。この掌には、現実に存在しないものはなくなった。形のないモノが、形あるモノよりずっと重みのあるモノだと今更知った。あぁ、なんて軽い掌だろう。何もないんだなぁ。何も。
落ちていく中で、数少ない自分の持ち物に気が付いた。記憶だ。記憶だけが僕の存在と、存在したことを証明している。そういえば昔、中学生の頃初めて出来た彼女がこんなことを言っていた。
「ずっと変わらないものなんて無いから、私は貴方といる努力をした。でも、貴方は違った。貴方は変わっていくことに身を任せた。だから、私たちの別れは仕方ないのよ。」
今思えば、随分と大人びた女の子だった。それを聞いた時、僕は振られたことを考えるより先に、
「そうか、仕方ないのか。」
そんな風に思った。彼女の言う通りであった。変わることに身を任せた。少しでも変わらないように、変えられないように努力をするべきであった。僕は世界に対して、あまりに怠惰であった。そして、それはずっと変わらなかった。僕は怠惰であり続けた。自分を変えることをせず、世界が変わることを待った。そうか、今なら分かる。だから世界は変わったのだ。残酷に、冷酷に。世界にとって不要なものを排除した。雲から落とした。そして、それに対抗しなかったのは僕じゃないか。僕が望んだ結果じゃないか。そして、いざそうなったら世界を憎んだ。どうして僕ばかりと。そうじゃない。僕だけが努力をしなかっだのだ。それに気付いてもなお、僕はここから雲を目指そうという気にはならなかった。諦めた。手遅れだと。今更だと。だから。まだ、まだずっと深くに落ちていく。
大学時代に、同じサークルの後輩と付き合った。彼女とは、体の関係もあった。
「貴方は。どうしていつも私を抱いてくれないの?」
彼女は、一度だけ僕とのセックスに文句を言った。今思い返しても、その一度だけだった。
「こうして君を抱いているだろう?」
僕はそう言った。
「違うわ。貴方が抱いているのは私じゃない。相手は私じゃなくてもいいんだわ。貴方は霧を抱いている。たまたまそこに私がいるだけよ。」
僕は返事をしなかった。彼女もそれ以上何も言わなかった。それから数日後、僕は彼女と別れた。彼女の言いたいことは分からなかった。それでも、それが彼女の精一杯の憎しみをぶつける発言であることだけは理解できた。霧。おそらく彼女の言ったことはおおよそ、正しいことだ。しかし、少し違うと思う。僕は、
霧すらも抱けなかった。だって、僕は失った霧にすら当時気が付いていなかったのだから。
社会人になってからも、恋愛はしたが結婚はできなかった。どの女性からも同じような理由で振られた。僕は、彼女達を通して他の何かを見ていると言われた。それが霧であることは、次第にわかった。しかし、彼女達のいう霧とは何か、それは考えても答えが出なかった。周囲の人々の結婚は、何とも思わなかった。特に羨ましくもなかったし、一人が好きだった。一人で映画に行き、公園で本を読み、カフェで珈琲を飲んだ。仕事は、都内の小さな会社で営業をした。よく知りもしない商品の良さをアピールして回った。しかし、よく知りもしない商品だ。結果が出るわけもなかった。作ったやつが自分でアピールした方が売れるだろうに、何でよく知りもしない僕が売らなければならないのか、そんな気持ちを抱えていた。売れないことを、世界のせいにした。その会社を辞める時に、僕は就職することもやめた。
そしてつい先日、年齢からついに倒れた。その時が来たのだとわかった。家族も友人もいなかった。僕は身体が動かなくて病院のベットに横たわっていた。目も開かず真っ暗の中でただ薄れていく意識を感じている。何て無意味な人生だったことか。何て無駄な時間だったことか。死にたい、死にたいと思いながらも長く生きてしまった。得たものは何もない。分かることは、掌には何もないこと、記憶だけが僕だということ。間も無く死を迎える僕が望むのは、願いが叶うなら、どうか霧とは何か教えて欲しいと思う。彼女達は何を感じたのだろう。僕は何を思い、何を抱いたのだろう。意識がプツリと切れる瞬間に、霧が晴れた。誰もいなかった病室には多くの人がいた。友人や家族、恋人、それから子供?知らない人たちも大勢いた。そして、僕は思った。幸せな人生だったと。
夕暮れの病院の一室。ただ、一人で息を引き取った男性は幸せそうに泣いた。