Honey Funny Brownie
本編『おとぎ話の時間です』(N1259DO)
後日談という名のIF話 もしかしたらの未来のひとつ
【注】本編の「ほんのり恋愛フレーバー」がお好みの方、糖分苦手な方はブラウザバック推奨。
バレンタインにはブラウニー。
毎年そうなってしまうのは、やっぱり一番思い出があるお菓子だからなんじゃないかと思う。最初にこのお家にお邪魔した時の手土産で、おーちゃんに食べられた最初のお菓子で、初めてのバレンタインに渡したのもそうだったから。
二年目の時に何にしようか悩んでいたら同じでいいって言われて、それから毎年聞くけど答えは毎年同じ。だから出来るだけ丁寧に作って、ナッツの種類を変えたりクリームチーズと合わせたりとアレンジはするけど結局、毎年ブラウニーを焼いている。
「……飽きない?」
「いや。毎年違うし、他の時はこれ作らなくなったから」
「うーん、だってやっぱり普段のおやつをバレンタインに渡すのは、なんかね」
飲み物にはコーヒーが加わった。自分のには牛乳を足してカフェオレにして十和田くんにはブラックのまま、いつものマグカップを渡す。
リビングのソファーに座ると、待っていたようにおーちゃんとリューちゃんが膝に上がってきた。おーちゃんはいつも一緒にいるのに、時々来るリューちゃんの前だとすごくくっついて甘えたさんになるのがちょっと面白くて可愛い。二匹を順番に撫でながら、壁の時計をちらりと確認する。
「絢子さんの分は台所のテーブルに置いたから、わたしからって伝えてくれる?」
「戻るまでいればいいのに」
あと一時間ほども待てば、帰ってきた絢子さんに直接渡せるけど。首を振って、これを飲んだら帰るねと言うと、苦笑いされた。
「だって、受験前だし。邪魔しちゃダメでしょ」
「この時期まできたら今更だって。それに休憩は必要だろ……そっちは手続き終わった?」
「あ、うん。書類とか入学金とかね、色々出してきた」
わたしは都内の大学に進学が決まった。たくさん悩んで考えて、管理栄養士を目指す道を選んだ。
あれからずっとバレエは続けている。優衣先生に赤ちゃんができてお休みしているので、最近は土日の小さい子のレッスン時間に真理子先生のお手伝いをしたりもしている。
そこでやっていて、やっぱり食事ってすごく大事だなあって思ったのだ。
バレエをする子は食事に気を使う子が多い。けれども、太りたくないとか、痩せなきゃ、とかの方にばかり目がいってしまう子が結構いる。でも実際、バレエってかなりハードに動くからいわゆるダイエット食なんかだとエネルギーが足りなくてとてもじゃないけど踊れない。それに高く綺麗なジャンプのためには筋肉が絶対必要だから、お肉やお魚だって欠かせない。
そんなことを調べたり先生と話したりしているうちに、こっちの道に興味がでてきたのだ。
真理子先生には、栄養指導もできる指導者が教室にいると心強いから、とかなり後押しされたのもあるし、そうでなくても、学校や病院の栄養士さんにという道もある。
調理の方じゃないからタカノリ先生にはちょっとしょんぼりされたけど、まあ、大きく見れば同業者だねとすぐに笑って喜んでくれた。いやでも、まだ先に国家試験があるんだけど。
十和田くんの志望は中学の時のまま。私立は合格してて、本命の国立の試験まではあと十日ほど。だから本当はバレンタインなんてしてる場合じゃないんだけれど、どこかに出掛けるわけでもないしと押し切られてしまった。
「……試験の時に泊まるホテルは取れてるんだよね」
「もう随分前にね。それに、絢子さんの知り合いが向こうにもいるから、何かあっても、まあ平気」
絢子さんは本当に顔が広い。元は馨伯父さんの友達や教え子だったりしても、今も親しく付き合いが続いているのはやっぱり絢子さんの人柄だと思うんだ。
……それにしても。
「寒いだろうね、北海道」
窓の外は風が強い。宮城のおばあちゃんの家よりずっと北の空を思い浮かべる。そうだねと、ブラウニーを口に運ぶ十和田くん。おいしいと言ってくれてほっとする。
「向こうで試験直前に風邪ひかないようにね」
「心配しすぎ」
行きたいのは北海道の大学、と言われて驚いた。驚いたけど、自分で考えて自分で決める十和田くんらしいなとも思った。
「ま、落ちたらこっちの大学だし」
「そんなこと言って落ちる気なんてないくせに。模試だってずっとA判定だし」
ひとつ摘んでわたしもぱくりと食べる。うん、焼き加減もちょうどよくて、しっとりホロリ。胡桃がザクザクしてて美味しい。よかった、上手にできてる。
「向こうに六年かぁ……」
「長い?」
「長い……よ。きっと、過ぎたらあっという間なんだろうなとは思うけど……想像つかないな。だって中学からずっと一緒にいてくれたから」
獣医学部は六年間。もしかしたら、その後も向こうに残ることだってあるかもしれない。それでも嫌だなんて言えないし、思えなかった。やりたい事、行きたいところをちゃんと伝えてくれるのは、すごく嬉しいことだから。信用してくれているって分かるから。
でも、それでも。
「高校が違っても、なんだかんだ毎日のように会ってたから。寂しくなるだろうなって」
笑えてるかな、わたし。ちゃんとどう言おうか考えてきたのに。
「でもね、遊びに行きたいから、絶対合格してね。それで向こうの美味しいお店教えて。一緒に行こう?」
「美味しい店、たくさんありそうだよ」
「何回も行くからいいの」
「そっか……そこ、カケラついてる」
十和田くんはくすりと笑ってマグカップを置くと、わたしの口の脇にブラウニーがちょこんとついてるのを指で教える……うう、これだから締まらない。
「えっ。やだ、どこ?」
ティッシュを取ろうと伸ばした手は捕まえられて、優しいけれど抗えない力で体の向きを変えられる。右手を引かれたまま十和田くんを正面に見上げると、ごく自然に唇が落ちてきた。
――コーヒーの味。ブラックの。
離れる時にぺろりとくちびるの端を撫でられる。
「取れた」
「〜〜〜!」
もう、もう、涙目の理由がなんだか分からなくなった。そんなわたしに追い打ちをかけるようなことを言う。
「甘い」
「わ、わたしはっ、苦、かった!」
「ああそっか、コーヒー」
熱くなった頬に嬉しそうに触れる手は少し硬くて、でも嫌じゃない。どこか甘さをはらんだ眼差しが眼鏡のレンズ越しにも伝わってくる。十和田くんがこんな風に笑うようになってから、心臓に悪いことが多くなった。
「はは、真っ赤」
「言わないでよぅ……」
ずるい、ずるい。いつもわたしばっかりドキドキしてる。こんな時ばっかり、おーちゃんもリューちゃんも膝の上で知らんぷりだ。
ぐ、と握り込まれた右手に促されて伏せがちになる顔をなんとか上げれば、予想外に真面目な表情の十和田くんがまっすぐにわたしを見ていた。
「――遥。待ってて」
真剣な目、少しだけ掠れた声。触れた指先から頬に伝わる鼓動。
壁掛け時計が刻む秒針の音が遠ざかる。
大きく頷けば、堪えていた涙もぽろりと一緒に落ちた。指で掬われて目を開けると、安堵を浮かべた顔が目の前にあった。
「待ってる、ね」
「ん」
何度も頷くわたしに満足そうに笑って、おでこをコツンとつける。もう一度、重ねられた唇はやっぱりコーヒーの味がしたけれど……もう、苦くはなかった。