カーライル公爵が守りたいもの。その1
「おい・・・いつまで見送っているんだ」
俺は馬車が見えなくなっても、動こうとしないスタンディッシュに向かって言った。
「楽しい時間はあっという間だね・・・。でも、恋人達の逢瀬は短いくらいがいいのかもしれないね・・・」
「意味が分からない」
と、言うより、気持ちが悪い。
「ロクサーヌもそのうち分かるさ」
スタンディッシュは振り返ると、「それより、僕は今夜、ワイルブリッジ家の晩餐会に出席することになっているから、君とどこかに行く予定なんかないはずだよね?」
「そりゃ、『この後、愛人に会いに行くから、一緒には帰れない』なんて、言えるわけがないだろう」
スタンディッシュは肩をすくめて、
「まあ、いいや。送ってあげるよ。話もあるし」
「助かる。俺、何か凄く疲れたんだよな」
「植物園をちょっと散策しただけで?鈍ってるんじゃない?」
「違う。気疲れってやつだ。清く正しいデートなんて初めてだったからな。もう二度としたくない。いちいち人の目を気にしてやらなきゃならない。どうでもいい質問にも丁寧に答えなきゃならない。相手が関心を示した物には俺も関心のある振りをしなきゃならない。あー、本当に二度と御免だ。・・・そう考えると、愛人は素晴らしいよな。ドレスを褒めなくても、庭園を散策しなくても、ベッドに入りさえすれば、楽しませてくれるんだからな」
「身も蓋も無いことを・・・僕はクロエと一緒だったら、何でも楽しいけどなあ。今日も楽しかったよ。アップルパイも美味しかったし、ロクサーヌはいい店を知っているな」
「ああ。愛人に教えてもらった」
「あー。やっぱりー」
それから、俺はラムズフォード家の馬車に乗り込んだ。
スタンディッシュは上着を脱ぎながら、
「あ、そうそう。さっき、別れ際に『キャスちゃん』がどうとかって言ってなかった?どういうこと?」
「ああ。俺の名付け子になる予定の子」
「はあ?」
「だから・・・」
俺はスタンディッシュにマリアンナ・ヒルグレーヴが花の名前を自分の娘につけたいと言っていた話をした。
「そのうち枯れるような物の名前を娘につけたいだなんて、俺には理解不能だ」
スタンディッシュは愉快そうに笑ってから、
「いいじゃないか。『カサンドラ』も『キャロライン』も、実際、人の名前として有り得ない物じゃない。それに、『デイジー』、『アイリス』、『マーガレット』、『ローズマリー』・・・そんな名前も良く聞くしね。あれ?『ローズマリー』って、花だっけ?料理に使うよね?」
俺は鼻を鳴らして、
「『ローズマリー』が花でも低木でもどうでもいいよ。・・・それより、『カサンドラ』でも『キャロライン』でも、どっちでもいいよ。知るかよ。って、言わなかった自分を褒めてやりたいよ。どっちがいいかと聞かれて、面食ったもんな。響きが美しいだとか可愛いとか、俺、自分で言ったくせに、自分でも意味が分からなかった。響きって、何だ?って、今頃になって、思うよ」
スタンディッシュは腹を抱えて、笑うと、
「ロクサーヌ!大変だったな!君には絶対に向かない話題だ!」
俺はどっと疲れを感じて、背もたれに深く身を預けると、
「あの娘、美人だけど、ちょっと変わってるよな」
見た目に騙されてしまうが、絶対に変わり者だ。
「いい娘じゃないか。ロクサーヌのことが好きなんじゃないか?」
「いや、あの娘はグラントに惚れてるんだよ」
すると、スタンディッシュは眉を下げて、
「それは不憫になあ・・・はぁ・・・」
「あんたが落ち込まなくてもいいだろう」
今頃、クロエが愛人がいるかもしれないから、俺には関わらない方がいいだのなんだのと、マリアンナ・ヒルグレーヴに忠告してくれているはずだ。
・・・あの娘がグラントを好きであっても、賭けに勝つためには俺に興味を持ってもらわなければならない。
あの娘は好きな男がいようがいまいが関係なく、元々、異性に関心があったに違いない。恋愛をしてみたいと思っていたに違いない。
となると、真面目なグラントより愛人がいる俺の方が恋愛ごっこをするには向いている。
そして、賭けに成功した後のことを考え、俺が聖人でないことは知っておいてもらわなければならない。遊びでキスくらいする男だと知っておいてもらわなければならない。
たかがキスくらいで本気になられたら、迷惑だからな。
俺がそんなことを考えていると、
「ロクサーヌ」
スタンディッシュは鋭い目を俺に向けながら、「あの娘に対して、何を企んでいるのか知らないけど、今日は僕とクロエを利用したよね?」
俺は首を傾げて、
「はて?意味が分からないな」
スタンディッシュは鼻を鳴らすと、
「僕をごまかせるなんて思わないで欲しいな」
「いいじゃないか。楽しかったんだろう?」
「でも、貸しだからね」
「了解、了解」
「そう言えば、僕が紹介した愛人とは続いているの?これも貸しだったはずだけど?」
「続いているが、正確に言えば、スタンディッシュの愛人が紹介してくれたんだろう?」
「『元』愛人だ。そこも正確に言ってくれ。クロエと婚約する前に全て清算したんだから」
「・・・」
人懐っこい犬のような男だが、前は俺と同じくらい酷いものだった。
「それで、今、何人、愛人がいるの?」
「3人」
「はあ。尊敬に値するよ。それにしても、良く金が続くな。愛人は金がかかるぞ」
「投資で稼いでるから、遊ぶ金には一生困らない」
と、俺が答えると、スタンディッシュは『ヒュウ』と、口を鳴らして、
「あ、そうか。君はカーライル家の金には、一切、手を付けることが出来ないんだったね」
俺は嘆くように首を振ると、
「執事のタリスが目を光らせているからな。10歳から小遣いの金額が変わってないんだぜ?有り得ないよな。貧乏貴族じゃあるまいし」
「いやいや。僕もそうだったよ。五大公爵家は質素堅実が基本だからね。仕方ないさ」
「仕方ないか・・・」
俺は窓の外に目を向けると、「何でも、五大公爵家だから、仕方ないとか、五大公爵だから、こうしなければならないとか・・・うんざりするよな」
「まあね・・・。僕はある時点で諦めたと言うか、考えることすら止めたけどねー」
・・・それから、俺はもちろん、スタンディッシュも思うことがあったのか、しばらく黙っていたが、
「そうだ。グリフィンとは会ってるか?」
前から気になっていたダンレストン公爵の息子のことを聞いた。グリフィンはスタンディッシュの2歳下で、一番、年が近い。
「交流会で会うくらいだな。僕はほとんど王都にいるけど、グリフィンは領地が好きだからね。会っても、領地の話ばかりするよ。修行はちゃんとやってると言い張っていたけど、領地や領民が最優先だろうなー」
「・・・そうか」
「あいつはよき領主として、一生を終える方が性に合ってると思うよ。・・・五大公爵には向いていない。あいつは良くも悪くも普通の人間だ」
「俺やスタンディッシュは向いていると言うのか?」
俺がやや不満げに言うと、スタンディッシュはこめかみの辺りを人差し指でトントンと軽く叩きながら、
「僕やロクサーヌ、マシューはまともな人間じゃないからさ。五大公爵はまともな神経の人間には務まらない。五大公爵自体が正常じゃないからね。五大公爵は民からすれば、英雄。貴族家からすれば、目の上の瘤。僕やロクサーヌのようなろくでなしでも、当主になれば、崇められる存在となったり、はたまた、どんなにこの国に尽くしても、王族からすれば、ただの駒でしかないし、貴族からは粗探ししかされない。どっちなんだ?って、言いたくなるよね。そんな格差に悩み続けなければならない。おまけに五大公爵はあらゆる事柄に対して、平等じゃなくてはならない?普通に考えて、無理じゃないかな?世の中、平等、不平等があって、当然だ。誰だって、自分が大事だし、自分の身内や愛する人を優先させたいと思うものだ。でも、五大公爵はそれが許されない。普通の人間には理解も納得も出来ないことを五大公爵だからと無理に納得しなきゃならない。まともな人間には出来ないだろう?」
俺はゆっくりと頷くと、
「そうかもしれないな」
「でも、僕もそうだったけど、学園にいる間は楽に生きていいんじゃないかな?まあ、ロクサーヌはマシューと違って、好き勝手やってるだろうけど」
スタンディッシュはそう言って、愉快そうに笑った。
だが、俺は笑わずに、
「なら、もし、良くも悪くも普通の人間であるグリフィンが、五大公爵として相応しくないと判断した時、グリフィンを始末するか?」
と、聞くと、スタンディッシュの表情が拭い去ったかのようになくなった。
そして、間も空けず、
「する」
と、だけ目の前の男は答えた。
「・・・そうか」
「でも・・・迷ったら、迷うことが出来たら、僕もまともな人間だったと安堵するかもしれないね」
スタンディッシュはそう言って、どこか悲しそうに笑った。
「グリフィンは調子に乗らない限りは大丈夫じゃないかな?自分が僕たちの中で能力的に一番劣っていることは良く分かっているし、僕たちがきちんと導いてやることが出来れば、間違いを犯すことはないはずだよ」
「そうだな・・・グリフィンは呑気で卑屈なところが全くない男だから、きちんと話をすれば、分かってくれるだろう」
「ただ・・・」
スタンデイッシュは腕を組むと、「もし、グリフィンの娘が王子、いや、王太子妃になるようなことがあれば、注意した方がいいかもしれない。王妃の生みの親となれば、僕たちより上に立ったと思い、まさしく調子に乗るはずだ。僕たちの話なんか聞かなくなる可能性がある。・・・自分の子が王族になる。これ以上、人格や価値観を変える物はないと思うな。ともかく、現ダンレストン公爵はよぼよぼのお爺さんになっても、五大公爵で有り続けて欲しいものだね」
「おい。待てよ。グリフィンの娘と言うことは、相手はあの王子の息子と言うことだろ?王子が許すわけがないだろう」
スタンディッシュは笑うと、
「デヴァレル殿下はグリフィンとはそれなりに話すよ。デヴァレル殿下が嫌いなのは君とマシューだけだ。グリフィンは違う。だって、グリフィンはデヴァレル殿下より優秀ではないからね。まあ、僕もデヴァレル殿下には下に見られてるけどね」
「・・・」
童顔で犬顔のこの男には騙されてはいけない。
双剣使いのスタンディッシュに俺は剣術で一回も勝てたことはない。
「デヴァレル殿下のことだけど、君やマシューが一方的な被害者だなんて思ってないよね?君やマシューにも原因はあるんだよ?」
俺は眉をしかめて、
「原因?一体、何だよ」
「君とマシューはお互いを認め合い、良き競争相手だと思っている。だけど、デヴァレル殿下のことは?眼中になかったんじゃない?デヴァレル殿下はプライドが高いから、君達二人に見向きもされなかったことが我慢ならなかったんだよ」
「だ、だが、俺が5歳の時にあの王子が背後から襲い掛った騒動から後、王子とはほとんど関わらなかったし、あの王子がどれ程の能力があるかなんて、知りようがない」
「まあ、はっきり言って、デヴァレル殿下は何をやらせても並だよ」
「・・・」
うわー。言ったー。
「だけど、君やマシューと切磋琢磨することでもっと伸びる可能性はあった。競争相手は何よりもいい刺激になるからね。それを自らふいにしたデヴァレル殿下は愚かだとしか言いようがない。だが、年が近い君とマシューがデヴァレル殿下のことをもっと気に掛けてやらなきゃならなかった。友となる努力をしなければならなかった。簡単に諦めてはならなかった」
「・・・」
「もちろん、僕にも、今の五大公爵、両陛下、皆に責任はある。正直、ここまでになるとは思っていなかった。甘かったよ。・・・デヴァレル殿下の劣等感や嫉妬心が今後厄介なことになる気がしてならないんだ」
「厄介なこと・・・」
「例えば、君に娘が出来て、デヴァレル殿下の息子と恋に落ちようものなら、大変なことになるよ。君にどんな無理難題を吹っ掛けるか分かったものじゃない。更に君の娘はとんでもない辺境の地に追いやられるか、最悪の場合は殺される可能性もある。まあ、一番、有り得るのが他国に無理矢理嫁がせる。・・・だね」
「・・・」
俺は乱暴に髪をかき上げると、「この俺に親の情がわくのか甚だ疑問だが、自分の子の人生をあの王子が自分の思うようにしようものなら、王子を殺したくなるかもな」
「わお。過激だね。ロクサーヌったら、とっても真剣ー」
スタンディッシュはよりによって茶化すように言った。
「あんたはもっと真剣に受け取ってくれ」
「だって、もしもの話だし。君の娘なんて、存在すらしていないし」
「元はあんたから始めた話だろう。あんた、やっぱりまともな人間じゃないよ」
「褒め言葉として、受け取っておくよ」
スタンディッシュはにっと歯を見せて、笑った。
「褒めてないから」
「ともかく、君とマシューに娘が出来ないことを祈ることにしよう。それしか出来ないね。・・・それに、もう既にちょっと厄介なことは起こっているから、そっちの話をしよう」
スタンディッシュがやや前屈みになった。
「おい。狭いんだからさあ」
と、俺は文句を言ったが、スタンディッシュは無視して、
「君の父上が重い病だと言うことは箝口令が敷かれていたが、今やこの国や他国にまで知れ渡っている」
俺は舌打ちすると、
「一体、何故・・・」
と、言い掛けたが、ハッとした。「まさか!」
スタンディッシュは頷いて、
「デヴァレル殿下が漏らした。証拠は掴んでいる」
俺の頭の中が沸騰したかのように一気に熱くなると、
「くそったれ!」
座席に拳を叩き付けた。・・・バキッと音がした。
スタンディッシュはその音を聞いて、眉をしかめたが、
「事は嫌がらせ程度ではすまない。現カーライル公爵は民にとても人気がある。それから、いつ戦になってもおかしくない程、緊張状態にあったルプタート国とは、今では友好関係を築けている。それは外交能力にも長けているカーライル公爵の尽力があったからだ。最後に、直系の跡取りは君だけ。直系以外でもめぼしい人間はいない。だから、現カーライル公爵が余命幾何もないと知れば、ロクサーヌの命を狙う輩が大勢現れるはずだ。ありとあらゆる面から考えて、隠しておけるだけ、隠しておかなければならなかったんだ」
俺は唇を噛み締めていたが、
「あの王子がここまで頭が悪いとは思ってもいなかった」
「デヴァレル殿下は君を動揺させたかっただけだろうね。・・・まさか、君の命が狙われるとまでは思ってもいないだろう。君にもし何かあったら、カーライル公爵家は完全に終わる。五大公爵家が一つ欠けることになる。話では、デヴァレル殿下のお陰で過激な反五大公爵派が活気づいているらしい。アンドレアス・ロクサーヌを殺せば、一つ片付く。とね。次はダンレストン公爵家が狙われるだろう」
俺はまた舌打ちしたが、
「普段から用心はしている。俺はヘマはしない」
「そうかな?あの女教師が暗殺者の可能性は考えたか?まあ、あの女教師はただの強欲な女だったけどね」
・・・あ。
マリアンナ・ヒルグレーヴが言っていた『ディクソン先生』はあの女教師のことか。
それにしても、さりげなさを装っていたが、俺からすれば、わざとらしかった。おまけにさりげなく言えたと喜んでいるようだった。意味が分からない。あの娘は何がしたかったんだ?
マリアンナ・ヒルグレーヴはやっぱり変な娘だな。・・・関わるのは止めようかな?
「ロクサーヌ。学園の中の問題とは言え、君一人で動いたのは感心しないな。マシューにもきちんと事情を話しておくべきだった。確たる証拠が欲しかったとは言え、ロクサーヌ自身も無防備になるような状況に身を置くべきではなかった。事の最中にぶすりと刺されてたら、終わりだったんだよ?」
「だからって、グラントにさせるわけには・・・」
と、俺が小声でぼそぼそ言うと、スタンディッシュが指で俺の胸を突いた。な、なんだ?
俺が訝しげにスタンディッシュを見ると、射抜くような目を向けられていた。
「ロクサーヌ。マシューや他の人間に汚い仕事をやらせたくないとか、そういう甘ったるい友情ごっこはやめてくれ。君は自分の身の安全を一番に考えろ。人を使え。何でも自分一人だけでやろうとするな」
「・・・」
スタンディッシュはまた俺の胸を指で突くと、
「それから、証拠を得たいがために女と寝るような人間は五大公爵家の面汚しだ。恥を知れ。特に強く誇り高いカーライル公爵の息子がすることではない。二度とするな」
「・・・」
「返事は?」
俺は窓に顔を向けて、
「分かったよっ」
「返事ははいだよね?」
「・・・」
「アンドレー?久々に手合わせするかい?」
「いやっ」
俺は慌てて、スタンディッシュに顔を向けると、「はい!返事ははいです!はいっ!」
スタンディッシュと手合わせするなんて、ある意味、俺は死んでしまう。
夕日が車内に差し込んでいたが、馬車がやや狭い路地に入り、少し薄暗くなった。
「ロクサーヌ。用心するんだよ。君が死んだら、終わりだと言うことを常に頭に入れておくんだよ」
「・・・分かった」
俺は重々しく頷いた。
「愛人が何人いようが構わないけど、愛人が金を掴まされて、君を殺そうとする可能性もある。ありとあらゆる可能性を考えておくこと。まあ、僕が紹介した子は大丈夫だろうけど」
「だから、あんたの愛人の紹介だろう」
「だから、『元』だよ」
と、スタンディッシュは頬をぷくっと膨らませて(いくつだと思ってるんだ?)、「それから、もし、一人の時に襲われた場合、誰の差し金かなんて知ろうとする必要はないから、すぐに殺せばいい。手加減など一切するな。迷わず殺せ」
俺はごくりと息を呑んだが、
「あんた、台詞と顔が全く合ってないよ」
「もー。すぐ茶々を入れるんだからー」
またスタンディッシュが頬を膨らませたところで、急に馬車が止まった。
「いって!」
完全に油断していた俺は後頭部をぶつけた。
スタンディッシュが素早く外を見て、
「おやまあ。完全に囲まれちゃってる」
その次の瞬間、馬車が2回揺れた。
俺が前方に目をやると、馬車を引いていた魔法で作られた馬が消えていた。
馬は危険を察知すれば自ら闘うようになっているが、ずいぶん、簡単にやられてしまったようだ。
「カーライル公爵家アンドレアス・ロクサーヌ!出て来い!」
野太い声が響いた。
「やっぱりロクサーヌ狙いか。まさか、今、来るなんて、グッドタイミング!って、とこかな?」
「俺は寮を抜け出す時は秘密の通路を使っていたから、これまで機会がなかったんだろうな」
すると、スタンディッシュは両手で顔を覆うと、
「うわっ!秘密の通路って、ださいっ!やめてっ!」
「う、うるさい!」
と、俺は怒ったが、ハッとすると、「クロエは大丈夫なのか!?」
・・・ついでにあの娘も。
「大丈夫。十分過ぎる程の護衛は付けている。・・・だから、助けは期待しないでね。ここは僕とロクサーヌの2人だけで何とか切り抜けるしかない」
「・・・ああ」
「にしても、ついてないなあ。何だって、僕も巻き込まれなきゃならないんだ。僕がいるんだから、遠慮してくれたらいいのに。僕がラムズフォード家の人間だって、気付かなかったのかな?」
「あんたは通常時はどこにでもいる学生にしか見えないからなあ」
「僕は24だよ!」
「怒るなよ。『童顔』って、言ってないんだから。それにこの馬車もラムズフォード家の紋章がないだろう」
「だって、五大公爵家の馬車だと知ると、べたべた触ってくる人がいるんだよね。だから、紋章は消したんだ」
「なるほど。カーライル家もそうしよう」
「うん。そうしなよ」
「アンドレアス・ロクサーヌ、早く出て来やがれ!馬車ごと潰すぞ!!」
・・・あ。そうだった。
「今、出まーす!」
スタンディッシュは一声上げると、座席の下から2本の長剣を取り出し、「一本、要るかい?」
「いい。双剣使いが一本だけなんて、格好つかないだろう」
俺は両方のブーツに仕込んでいた短剣を抜き取った。
スタンディッシュは眉をしかめて、
「何人いると思ってるんだ。そんなんじゃ、もたないよ」
「そのうち、敵から奪えばいいさ」
俺は不安を隠すように出来るだけ気軽な口調を装って言った。
しかし、スタンディッシュはお見通しなのか、やや苛立った様子で首の後ろを掻きながら、
「国王陛下には抗議しなきゃな。狭量で頭がからっぽの息子を何とかしろって。自分の言動がどんな事態を招いたのかよーく理解してもらわないとな。王子だからって、何をしてもいいわけじゃない」
「・・・そうだな」
「あ、そうだ。デヴァレル殿下の前に誰かの首を転がしてやろうかな。失神するかもよ。あははっ」
「・・・」
うーん。それには賛同出来ない。やっぱり、スタンディッシュはまともな人間じゃないな。
「じゃあ、ロクサーヌはあくまで僕の援護ってことで。僕が危ないと思ったら、逃げるんだよ。・・・僕が死んでも、クロエの弟がいるからね」
「馬鹿を言うな。クロエの夫となる男はあんたしかいないだろう」
スタンディッシュはにっこり笑って、
「うん。ちょっと言っただけ。そもそも僕が危なくなるわけがないよ。外にいる連中は後悔しながら死んで行くことになる。それにしても、ロクサーヌは熱いことを言うよね。あ、キザかな?」
俺はカッと赤くなると、
「こんな時にからかわないでくれ!」
「はいはい。じゃあ、1、2、3で馬車から出たら、西に全速力で5分走った所に開けた土地があるから、そこを目指してね。こう狭い路地だと僕の術は出しにくい」
「全速力で5分・・・ずいぶん距離があるな。スタンディッシュに付いていけるとは思えないが」
風の属性の力が強いラムズフォード家の人間は動物並に素早い。
「付いて来れなきゃ死ぬよ」
スタンディッシュは左側の扉に手をやると、「ロクサーヌ。もう一度言っておく。迷わず殺すんだ。迷いが命取りになる。けして、迷うな。生きることだけを考えろ」
「・・・ああ」
俺は頷くと、右側の扉に手をやった。
スタンディッシュも頷くと、
「じゃあ、数えるよ」
「いーち」
俺は短剣を握り締めた。・・・頼むから、震えないでくれ。
「にー」
こんな所で死ぬわけにはいかない。・・・こんなに生きたいと思ったのは初めてだ。
「さんっ!」
俺とスタンディッシュは同時に馬車から飛び降りた。
馬車の外にはザッと数えて、50人以上いた。
俺一人を殺すためだけにこれだけの人数を寄越すとは敵は相当本気らしい。
そう思った次の瞬間、『生きる』その言葉だけが頭の中に残った。他は何も考えられなかった。
世界は無音になった。
悲鳴すら聞こえなかった。
俺はこの日、初めて、人を殺した。