エピローグ
悪いことばかりが続いた人生最大の天中殺の止めは正気とは思えない異世界への旅。
殆どの人と言葉の通じない中で唯一苦も無く喋ることができたのはイヴだけで、最初は愛想の無い話し方と何度も聞かされる舌打ちのせいで印象はかなり悪かった。
苛々を隠しもしないイヴに空気を少しでも和らげようと得意の愛想笑いで話しかければ二十四歳の女子を捕まえて子供だと決めつけるわ、キャミと短パン姿を変だと怒鳴り散らされた挙句に森の中に置いてさっさと行っちゃうし……。
でもその後に枝を踏み抜いた私に気付いて戻って来て、背負って帰ってくれたり優しい一面も見せてくれた。
「悪かった」って謝ってくれたし、刺々してるけど本当はいい人なのかもしれないなとは思いました。
実際自分がイヴの立場だったら面倒臭いなーって思うはず。
得体の知れない女を言葉が解るからって押し付けられちゃったわけだから。
タバサさんがなんて言ってるかは解らなかったけど、安心させるような笑顔で痛がる私の治療をしてくれた。
いやー……麻酔とかない世界での治療は、もう考えられない程痛かった。
親知らずを抜いた時の比じゃなかったからね……。
二度と御免だ。
それから熱が出て意識朦朧としてたけど、気が付くとイヴかタバサさんが傍に着いていてくれる気配があったのでほっとしながら眠り続けた。
その時お母さんの夢を見たけどしんみりするような内容じゃなくて、喧嘩したままだったからその続きを帰省した実家で食事しながら口論していたというなんとも嬉しくない夢だったんだよね。
きっと譫言で酷い罵倒をしたはずで、それをイヴかタバサさんに聞かれてはいないかと冷や冷やしてたんだけど結局回復した後で何も突っ込まれなかったのでスルーすることにした。
食事面に関しては味が薄くて食材を生かした料理が多かったけど、主食が虫とかじゃなかったので我慢した。
逆に健康的な食事は慣れると肌の調子も良いし、体調も長年苦しんだ便秘も解消されていいことづくめだった。
もしかしたら体重も減ってるかもしれない。
確かめる道具が無いのがとても残念です。
あ、いや。
今あったら困るんだけどね。
「どうした……眠れないのか?」
腕を伸ばしてイヴが抱き寄せてくる。
その手が背中を撫で下ろして脇腹から胸まで実にスムーズな動きで移動してくるのを苦笑いで見下ろす。
「眠れないなら、俺の相手もしてくれ」
「駄目だってば。強く揉んだらおっぱい出ちゃうから」
切ない響きが含まれた声を耳元に落として、イヴはパンパンに張った胸を優しく包むように揉みながら半身を起して覆いかぶさってくる。
妊娠出産を経験して私のコンプレックスだった胸がなんと二カップも大きくなった。
これは旦那様を喜ばせるための胸では無く、大切な我が子を育てるための大切な食事だ。
今は用途が違うのだと押し退けると、紫の美しい瞳に隠さない嫉妬を燃やして寝室の中に置かれたベビーベッドを睨む。
ちょっと、普通は赤ちゃん可愛いでしょうが!
しかも女の子(竜族は雌っていうんだけど私は断固として女の子と呼ぶ)だし、繁殖の為に人族の女を必死で口説く癖に産んだ子供に嫉妬するとか驚きだ。
人族では考えられない思考だけど、それだけ愛されているのだと思えば目の前の黒竜の男が愛しくてたまらない。
「お前……最近、ニコにばっかり構いすぎだろ」
「だってしょうがないでしょ?二時間おきにおっぱい飲ませなきゃならないし、おむつも変えなきゃならないし……可愛いしね」
実際そろそろニコが起きる頃で、その習慣に慣れてきた私は彼女が起きて呼ぶ前に目を覚ますことができるようになった。
「あの時孕ませて失敗した」
拗ねた顔でイヴは私の唇に触れるだけのキスをして起き上がる。
お腹が目立ってきてから今までベッドで一緒に寝てはいても夫婦の営みは私の都合でお断りしているからいい加減溜まっているんだろうけど。
「あれはイヴが悪い。手早く終わらせるって言いながら、結局ニスさんが来る予定の時間までヤリ続けるから!」
最短で帰らせてやると言ったイヴはその通りやってのけた。
あの神殿で朝日の昇る中結ばれた時に私の中にニコができたのだから。
「あれでも足りなかった」
熱の籠った目で見つめられると胸がきゅんっとするし下腹部も疼くが今はどんなに懇願されても応じられません。
出産があんなに大変で、痛くて、苦しい物だとは知りませんでした。
経験者に聞いていたから覚悟はしていたけど、想像以上に壮絶で死ぬかと思った。
私の覚悟なんて甘いもんでしたよ……。
陣痛は痛いわ、骨盤がミシミシいうわ、間違って腸がはみ出してくるんじゃないかってぐらい息めば赤ちゃん出て来る所切れるわ、裂けるわで、未だに痛いんだから仕方が無い。
ただでさえイヴのは規格外だから(どうやら竜族はみんならしいけど、私はイヴのしか知らないので)今は受け入れることできません!
勘弁してください!
出産終わったのに腹回りの肉が取れないのも問題で、こんな恥ずかしい身体見せられませんから!
「お前早く大きくなれよー……。俺が美羽を独占できないだろ」
「それは無茶です。イヴさ~ん」
ベビーベッドからニコを抱き上げてイヴが真剣な顔で念を送るから、くすくす笑いながら身を起こす。
若くてイケメンの旦那様は大切な宝物をそっと私の腕の中へと移動させる。
「きゃい」
「おはよう。ニコ。お腹空いた?」
「きゅる」
教えられていた通り竜族は人間と竜の中間のような姿で生まれてきた。
生後二週間のニコも例にもれずどこか爬虫類のよう。
私に似た丸い黒い瞳のお陰で縦長の瞳孔が解り辛いので円らで可愛い。
柔らかい小さな頭部を覆う銀色の髪の隙間から、左右の額それぞれ二本の大小の角が生えてる。
唇は尖ってるけど硬くは無いからおっぱいをあげる時に痛いと言う事も無い。
項から背骨を伝って乳白色の輝く鱗が生えていて、尾てい骨からは長い尻尾まであるから立派に竜族の赤ちゃんだ。
人間の赤ちゃんのように泣き声を上げて「お腹空いた」とか「おむつ気持ち悪い」と訴えないのでこっちが気をつけておかなきゃならない。
その代わり泣きはしないが感情表現を豊かに鳴き声でするのでお世話するのが楽しくて仕方が無い。
「美味しいですか~?」
「きゅるきゅるきゅる」
乳首を銜えさせるとニコは喉をきゅると鳴らして応える。
これは甘えている時の独特な鳴き声でこれを聞くと母性本能が刺激されるのか、胸が張っていたくなるのだから女の身体とは不思議な物です。
「幸せだなぁー……」
和毛のように白く柔らかな存在を胸に抱き、横には素敵な旦那様。
天中殺が過ぎ去れば後は恐いほどの幸福感と充足感である。
自分の人生にこれほどの幸せが訪れるなど思ってもいなかった。
きっと加奈子が聞いたら羨ましがって、悔しがるに違いない。
合コンでモテなくても、例え女子高生に痴漢と間違われて駅員さんに叱責されても、上司に社会人失格のレッテルを貼られても。
隣にイヴが居てくれて、ニコが笑っていてくれればそれだけで満たされる。
「きゅはっ」
大きな息を吐き出して乳首を吐き出したニコをイヴがすかさず肩に担ぎ上げて背中を擦ってやる。
その間に急いで胸元を整えた。
私のどこにそんなに惹かれているのか知らないが、イヴは艶のある瞳でずっと授乳中も見つめてくるので胸を出しっぱなしにはできない。
いや、してたら変態だけどね!
しないけど。
「ニコせめてもう少し長く寝て、美羽を解放してくれ。俺に残された時間を少しでも有意義なものにしたいから」
「イヴ……私」
「心配しなくていい。お前が帰った後は、俺がちゃんとニコを育てる」
こんな幸せなのに誰がそれを捨てて帰れるか。
そう何度も言っているのにイヴは悲しげな顔で頷くと「運命の扉を前にして気が変わるかもしれない。
その時は俺のことやニコのことは気にせずに帰っていいんだ」なんて本心では違うことを望んでいるのに逆のことを言うから。
きっと帰るための運命の扉を私が拒絶するまで、イヴは信じられないのだ。
巫女に聞いたら帰還の為の扉が通じるのはもっとも帰りたいと思っている場所だそうで、どこかと問われれば実家しか思い浮かばない。
二年も行方不明の娘を両親は心配して探してくれているだろうか?
無事を祈ってくれているだろうか?
もう帰らぬ者だと諦めていてもおかしくない程月日はたっている。
二十四歳でこちらへ来たが、グリュライトの暦では自分の誕生日がいつなのか計算するのが難しいのでここへ来た日が私の新しい誕生日だとイヴが言ってくれたのでそうした。
私は光の月二十六日で二十五歳になった。
因みにニコは火の月四十五日生まれ。
イヴは闇の月二日生まれ。
グリュライトの暦は一年を六つの月で分けてあり、春にあたる光の月、夏の火の月、乾期の風の月、秋の地の月、雨期の水の月、冬の闇の月と季節が流れて行く。
一週間も六日で、それも竜族の色で表現されている。
そのことから人族が竜族を畏れながらも自分達の住む世界への影響力を知っていて、受け入れているのだということが解るんだけど、人族からしたらやっぱり大切な娘を奪っていく恨みの対象になっているのも間違いない。
本当に人族が竜族に対して抱く感情は複雑で、そんな中イヴが人族の暮らす村で育ったことを考えると身につまされるものがあるなぁ。
村の女の子みんなイヴに夢中だったみたいだけど。
ちょっとジェラシー。
「痛てて、爪」
「あ、ちょっと待って。取ってあげる」
いつもは鍵爪のついた指をぎゅっと固く握っているニコはゲップをする時にだけ肩にしがみ付く。
食い込んだ爪を一本一本外してから横抱きにするとまたぎゅうっと握り締めて大きな欠伸をする。
初めて見た時指が三本しか無い事に気づき、イヴやアムくんの指はちゃんと五本あるのを確認して怯え、まさかうちの子だけか!?と悩んでいたら生まれたばかりの竜族はみなそうなのだとタバサさんに笑われた。
安心したけどやっぱり人とは違う生き物なんだねー。
濡れていた布おむつを替えてあげてからベビーベッドに戻すと、ニコは直ぐに目を閉じて眠った。
頬を突いてから離れるとイヴはもうベッドに横たわって自分の横に来いとシーツを叩く。
「ごめん。ちょっとトイレ」
不満そうな顔しているイヴの頬にキスしてからドアを開けて廊下へと出た。
廊下には夜目のきかない私の為に灯りが灯されている。
里のあちこちに漂っている星のような光を集めて硝子の入れ物に入れたその灯りは柔らかくて安心する。
初めて見た黒竜の里は濃い闇に沈んだ国で水路のあるヨーロッパの家並みのような素敵な所だった。
蛍のような光が沢山舞っていたので生き物なのかと聞いたらイヴがこの光が朝夕を報せる太陽の代わりをしているのだと教えてくれた。
びっくりだ。
確かに朝から昼にかけてこの蛍のような星のような光は強く瞬き、闇を和らげてくれるのだけど太陽程の力は無く、薄闇の中なので折角目が見えるようにしてもらったのに遠くない未来に視力が低下しそう。
この家は私達が来たのと入れ替わりにアムくんとそのお母さんのルテアさんが里を出て行ったので、その後有難く使わせてもらっている。
逆にタバサさんがウィンさんの家に戻り、セロ村の小屋にはアムくんとルテアさんが暮らしているので物々交換はここでもうまく機能していたからびっくりだ。
村長さんはアムくんが成体になるまではルテアさんと一緒に暮らすのを認めてくれたらしいけど、アムくん随分銀色の髪が暗くなってきてたからそう長くはルテアさんと暮らせないかもしれない。
「でも、あの銀髪似合ってたのに。勿体無い」
天使のようなアムくんがイヴと同じような黒髪になるなんて。
ちょっと想像できないけど、それが大人になるということらしい。
勿体無い。
「あ……」
まさかの。
「またトイレかい!」
思わず突っ込みを入れたくなったのは仕方が無い。
廊下の突き当たりにあるトイレの扉が太陽代わりの光とは違う、真っ白い輝きに包まれていれば関西人じゃなくても声を上げたくなるってもんだ。
「なんか、笑える」
ノブを握ってから振り返る。
寝室の扉が左の壁にあるのが見えた。
そこに私とイヴの可愛い赤ちゃんがいて、こんな色気も可愛くも無い私を選んでくれた夫がいる。
確かにそこには幸せがあって、育んできた愛情や日々があるけど。
この扉の向こうにも私が二十四年間築いてきた物があるのだ。
大丈夫。
扉は二枚ある。
最初の扉を開けても何の問題も無い。
そこはただのトイレで、用を足している間に扉の効力も無くなるかもしれないから。
我慢のできない尿意に急かされて一枚目の扉を開けて中へと入る。
今時洋式トイレじゃなくて和式風のトイレで、こっちの文化レベルが低いのにはもう慣れた。
拭くためのトイレットペーパーも勿論ないので、そこは想像してください。
拭かない訳では無いんですよー……。
洗い流すというのが正しいんですが。
用を足して丁寧に手を洗って拭き上げてからドアに向き直ると、気が長い運命の扉様はまだ待っていてくれたようで。
白く輝く扉を前に暫し悩む。
少しだけ。
少しだけ見たい。
懐かしい故郷の景色を。
でも見たら里心がついて帰りたくなるかもしれない。
開けたが最後、イヴとニコの元に戻れなくなるかもしれない。
でも。
見たい!
きっとイヴは怒らないし、私を責めないはずだ。
それは甘えだと解っているけど。
お母さん。
お父さん。
ニコを産んで初めてお母さんの気持ちが解った。
心配でたまらなかったから口煩く、私がうざったくなる位言ってくれてたんだよね。
思春期になってお約束通りお父さんを嫌ってごめんなさい。
口で言うほど嫌ってなかったし、お母さんと違って何も言わずにいてくれたことがお父さんなりの思いやりと優しさだったんだって解ったよ。
娘に興味ないのかと思ってたから、ちょっと腐ってたんだけどね。
ははは。
今無性に会いたい。
私幸せなんだよって安心させたい。
ノブを握り締めて気付いたら開けていた。
小さい頃座ってスイカを食べた縁側の向こうから強い日差しが照りつけている。
蝉が鳴いていて開けっ放しになった窓から温い風が入ってきた。
古い畳の匂い。
お母さんが作る麺つゆのいい香りが台所のある右側から漂ってくる。
テレビがお昼のニュースを流していて、ちゃぶ台の上に置かれた二組の茶碗や皿と麦茶の入れられた水滴の付いたグラス、茹でられて氷水の中に浸かっている素麺が夏を演出してて。
堪らなく懐かしかった。
座布団の横に無造作に置かれた新聞の日付が記憶の物より二年経っていることを突き付けて。
ふとねぎを刻んでいる音が聞こえた。
お母さんが直ぐ近くにいる!
そう思うと居ても立ってもいられなくなった。
踏み出そうとした足を引っ込めることができたのは、扉の効力が薄れてきて実家の居間の向こうに寝室へと続く廊下が重なって見えたからだ。
でも今飛び込めば帰れる。
お母さんに会える。
ごくり。
唾液を飲み込んで跳ね上がっている心臓を意識する。
イヴとニコ。
懐かしい家族と故郷。
天秤にかける事など出来ない。
どちらも失いたくない。
我儘が許されるなら両方手に入れたいのに。
「お母さん!」
堪らず叫んだ。
きっとこの声はお母さんだけじゃなく、イヴにも聞こえている。
それでも構わずに必死で呼んだ。
「お母さん!お父さん!お願い!顔だけでも、」
見たい。
薄れゆく扉の力に焦り身を乗り出すと、台所に立つお母さんの後ろ姿が見えて泣きそうになる。
少しやつれて年を取った横顔に胸が苦しくなった。
お母さんを心配させたのは自分だ。
「お母さん!!」
声の限りに呼ぶと驚いた様に振り返り、確かに目があった。
その唇が「美羽?」と動くので大きく頷く。
「私!幸せだから!心配しないで!もう帰れないけど、会えないけど」
届いているのか解らないがお母さんが居間へと駆け込んでくる。
力尽きようとしている扉の効力が何処まで持つのか。
「私!結婚して、子供産んだよ!可愛いの!とっても」
産後のまだポッコリと出た腹を突き出して指差して見せるとぎょっとした顔をしたが、娘の顔に幸せを確認したのか破顔して手を伸ばして私のお腹を擦ってくれた。
その感触が儚くて。
「お母さん、ごめんね」
泣いて謝るとお母さんは優しく目元を緩めて微笑んで口を動かした。
声は聞こえなかったけど、お母さんの唇が『幸せにね』と伝えてくれたのは解ったから。
弾け飛んだ光の粒に包まれてただひたすら涙する。
これで良かったんだ。
これ以上の選択は無かったから。
「美羽」
この声が名前を呼ぶたびに私の心は熱くなる。
優しく抱き締める腕を感じるたびに安堵するのだ。
「イヴ。お母さんが、幸せにねって言ってくれたよ」
「そうか……」
ぎゅっと強く腕に力を入れてくるイヴの声が震えている。
帰ってしまうかもしれないと不安だったろうし、恐かったのかもしれない。
「イヴ……大好き」
トイレの入り口で抱き合いながら想いを告げるとイヴは「ありがとう」と礼を言うから腰に手を回して抱きついた。
ニコの名前を付ける時、イヴはなんでもいいと私に丸投げした。
だから一生懸命考えて呼びやすく、可愛い名前で。日本人の習慣で名前に意味も持たせたかったから悩んだ。
ニコは漢字で書くと和。
穏やかで温かな女性に育って欲しいから。
それから巫女になるので各竜族を纏め上げ導いて欲しいという願いも込めて。
「これでニコに嫉妬しなくてよくなるね?」
「……嫉妬はする」
「もう」
腕を解いてイヴが「もう寝よう」と手を引いて寝室へと戻る。
幻想的な廊下を歩きながら、これからずっと長い時間を一緒に生きて行くことになる素敵な伴侶の大人げない嫉妬に笑いながら寝室へ入り、そっと扉は閉められた。
なんだかんだで最後は甘く終われたのでほっと一安心しております。
ここまで読んでくださった皆様に感謝を。
番外編を予定しております。
あと数話お付き合いください。




