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プロローグ



 最近本当にいい事がひとつもなかった。


 一年付き合っていた彼氏と別れたのを発端に、寝坊して遅刻などは可愛い物で、目の前で猫が車に轢かれたり、公園のベンチでお弁当を広げていたらトンビが飛んできて弁当箱ごと掻っ攫われ(保温効果のある高価なやつだった)、彼氏と別れたのなら合コンに参加しなさいよと同僚の加奈子に無理やり連れて行かれた挙句男全員にターゲット除外を早々にされて深く傷ついたり。

 電車で何故か女子高生に痴漢と間違われた上に駅員に注意され、またしても遅刻を余儀なくされた。


 しかもそれだけじゃないんだよ!?


 仕事帰りに何気なく寄ったスーパーで特売の卵が最後の一個残っていたから「久しぶりの良い事だ!」と浮き浮きして取ろうとしたらおばちゃん根性剥き出しの女性に突き飛ばされて床に倒れた拍子にスカートが捲れてパンツを沢山の人に見られた……。

 ぶつけた膝は痣になっていて、しばらく歩くたびにずきりと痛んだ。

 女性は謝らないばかりか、無様に転んだ私を見て忍び笑って去って行ったんだよ!


 信じられる?

 畜生!


 最後の追い討ちは遅刻が重なった上に、取り返しのつかないミスをした私を上司は一時間も小言と注意と愚痴と文句を吐き出して「人間失格、社会人失格」と連呼してくれた。

 代わりは幾らでもいるのだと仄めかされたが「こんな会社こっちから見きりつけてやる!」と言えないのは自分の能力が平凡すぎるためだ。


 悲しすぎる。


 そんな日々が続けば人は正常な精神状態でいられるわけがない。


 残業を終えて帰宅途中私は酔っ払いに絡まれているお婆さんを助けに入った。

 普段なら絶対にやらないけど堪ったフラストレーションを爆発させるいいチャンスだと思ったんだよね。


 苛々をただぶつけ意味無く叫び、訳の分からない事を口走る私に酔っぱらいは恐れをなしてそそくさと尻尾を巻いて逃げて行った。

 その後ろ姿をけたけた笑いながら見送って「大丈夫?」と声をかけるとお婆さんはにこにこ笑ってた。


 お婆さんは黒地に赤と青の花を刺繍したスカーフを頭に撒いていて、ウエストの部分も絞られていない、ゆったりとしたすみれ色のワンピースを着ていた。

 優しげな顔に茶目っ気のある茶色の瞳がとってもチャーミング。


「お礼に占ってあげるよ」


 お婆さんは地面に広げた黒い敷き布の上に座って古い木でできたタロットカードを取り出したので私はその前にしゃがみ込んで覗き込んだ。

 カードの絵柄は見たことも無い絵が描かれていて、多くがドラゴンを描いた物だったけど。


 タロットカードにドラゴンの絵なんかあったっけ?


 首を傾げる私の前でお婆さんは慣れた手つきで木の札を繰り、三枚のカードを引いて上を向けて布の上に置いた。


 私から見て左側にあるのは黒いドラゴンが星を抱えて俯いているカード。

 真ん中には黄色のドラゴンが樹になっている沢山の果実を食べようと首を伸ばしているカードで、一番右端のカードは白銀のドラゴンが本を広げて正面を見ている。


「おや……。現状に不満があるようだね」


 呟いたお婆さんは少し同情したような顔で私を見た。

 初めて会ったお婆さんなのに、自分の身に起こっていた理不尽を哀れに思ってくれた事に心の箍が外れてしまったんだろう。


 一気に全てを吐き出して、最後は少し泣いちゃったりして……。


「本当こんなに色々と重なって苦しかったのは久しぶりで。少し休んで、遠い所に旅行にでも行ければな~なんて。ま、無理なんですけど」


 有休なんて今の状況で取ったらクビ間違いなしだ。


「助けてくれたお嬢さんに新しい世界への扉を用意しよう。それは二つある。慎重に考えた上で扉を開けるか決めるのだよ」

「新しい世界への扉か……。ありがとう。お婆さん。喋ってすっきりしたから、明日は良い事あるんじゃないかって気になってきた!」


 人に良い事をすれば自分に返ってくる。

 そう信じて明日やって来るだろう楽しい事に思いを馳せお婆さんに手を振って別れた。

 電車に乗って最寄り駅で降りてコンビニに寄り、弁当とヨーグルトと今日は奮発して朝食用に高い食パンを買う。

 拘って作られた食パンは柔らかくて美味しいと評判だけどまだ食べたことはないんだよね。


 いつもの帰り道を鼻歌を歌いながら辿り、オートロックのワンルームマンションへ到着。

 三階まで階段で上がり、鍵を開けて部屋に入るとむっとした夏の空気が籠っていて直ぐにエアコンのリモコンに手を伸ばした。

 弁当を広げて冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して食事を始めると漸く冷たい空気が流れてくる。


「いただきます」


 手を合わせてから食べ始めると電話が鳴った。

 通勤用の鞄の中で埋もれていた電話を発掘して着信者を確認すると実家の母である。

 一瞬出るのを止めようかとも思ったが、次かかってきた時にぐちぐち言われるしなぁ。


「……もしもし」

『あ。美羽?元気してんの?全然連絡もしないで、たまには連絡位よこしなさいよ。ところであんた今年はお盆どうするの?』


 母は尋ねながらも答える隙を与えず、自分の要件へと持って行く。

 閉口したまま答えるタイミングを逸して私はため息を吐いた。


『聞いてるの?お盆帰ってくるのならそのつもりで準備とかあるんだから、早めに言ってもらわないと困るんだからね!』

「……帰らないよ。お盆は新幹線も飛行機も料金高いし、予約も取れないし、人多いし」


 ここ二年程帰っていなかったので今年は帰ろうかなと思っていたのに、母の矢継ぎ早の自分勝手な言い分に腹が立ったので硬い声でそう答えていた。


『何?彼氏でもいるの?いるのなら連れてきなさい。あんたもいい年なんだから結婚も考えて付き合わないと行き遅れて後で困る事になるんだから』

「……解ってるよそんな事。でもいい年っていうけど私まだ24だし」

『そんな悠長なこと言ってたら婚期なんてすぐ終わっちゃうのよ!特にあんたは可愛げの無い性格してるんだから。この人って思ったら押して押して押しまくって結婚の約束をもぎ取るぐらいしないと』

「ちょ!可愛げのないって、私はお母さんに似たんだからね!」

『嘘おっしゃい。私はあんたみたいに家事を放ったらかしにしてゴロゴロ寝てるような女じゃありません。それに私は結婚してるし?』


 くそっ。

 腹立つ。


「それに今の世の中は結婚が全てじゃないの!自立してる女は格好いいんだから」

『あんたのそれは嫁に行けない言い訳じゃない。それにあんたの給料で自立して行けるの?貯金も碌にできない癖に老後はどうするのよ?』

「なんとかなるよ!」


 鬱陶しくて会話を終わらせようと怒鳴ると『なんとかなると思ってるのがそもそもの間違いなんだから』とくどくど言われて流石に我慢の限界だ。


「そんなくだらない事しか言わないのならもう電話してこないで!」


 勢いに任せて電話を切ると私はお腹が空いてたはずなのに食欲なんかどこかに行ってしまい所在無げに弁当を見下ろした。

 家事を放ったらかしにしているのは仕事が忙しいからだとしても、同僚の女子の中には私より仕事量の多い部署なのに毎日自炊して昼の弁当もちゃんと手作りしてくる子がいるから狡い言い訳だと自覚はしている。


 その子は家庭的で控えめで可愛らしいから同僚だけでなく上司からの覚えも良い。


 私は部屋干しされている衣類と下着を眺めて苦笑した。

 箪笥はあるが最近はあまり使っておらず、大体は乾いた洗濯物を適当に掴んで着ている。

 女子力の欠片も無い私に彼氏が愛想を尽かすのも仕方が無い事。


「……だめだ。また負のスパイラル」


 折角上向いてきていた気分は瞬く間に急降下。

 仕方が無いのでお弁当は蓋をして冷蔵庫へ入れ、パンツとキャミソールとショートパンツを洗濯ばさみを乱暴に外して掴むとバスルームへと向かう。

 洗面所でコンタクトを外して保存液へとつけてから服を脱いでドアを開けて中に入る。

 蛇口を捻ると勢いよくシャワーヘッドからお湯が流れてきてその中に頭を突っ込んだ。濡れても使えるクレンジングオイルで化粧を落として、更に洗顔して汚れを落とす。


 全ては流れて行かないけどシャワーを浴びれば少しはすっきりした。


 髪を乾かす気力も無いままベッドへと倒れ込むとそのまま眠ろうとする身体に鞭打って腕を伸ばして灯りを消すリモコンを押して消灯。


 これで安心して眠れる……。


 夜中に目が覚めてもぞもぞと寝返りを打つが、そのまま睡眠へと入って行けないほどの強い尿意に渋々起き上がる。

 目を擦りながら慣れた部屋の中をトイレへと向かって歩く。


 不思議な事に灯りを消しているはずの部屋が薄らと明るい。

 洗面所かバスルームの電気を消し忘れていたのだろうか。


 深く考えずにトイレのドアを開けてスイッチをつけるとオレンジ色の灯りが点く。

 便座に腰かけて用を足して、上から出てくる水で手を洗いタオルで手を拭くと扉を開けて部屋に戻った。


「なに?眩し……」


 暗い筈の部屋が皓々と明かりで満たされている。


 いや。

 白い光が私の回り全部を照らしている。


 しかも。

 頭上から。


「は?なに?これ……」


 裸足の足の裏に感じるのは草と土の柔らかな感触。

 そして草原を吹き抜ける爽やかな風と、見上げた私の目に飛び込んできたのは青空と太陽の白い眩い光。

 後ろでゆっくりと扉の閉まる音がして私は慌てて振り返ったが、そこにはもうどこまでも続く草原と森があるばかり。

「えっと……夜だったのに、昼?」

 どういうことなのか全く理解が追いつかない。薄ぼんやりと広がる緑の世界と青い空と白い光が現実感を薄めていて危機感がいまいち薄い。


 視力が悪い私は眼鏡かコンタクトの助けが無ければ、色の境目も曖昧で人の顔を判断するには随分近づかなければならないのだ。

 だからまるで夢の中のような滲む景色の中で緑と土の匂いを運ぶ風を感じてぼうっと佇むしかなかった。


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