088 名前
わたし達は庭園でも奥の方へと移動しました。
この庭園はどれほどの広さがあるのかわかりませんが、先程の場所からは結構歩いた気がします。
途中、恥ずかしさを振り払うように会話をしましたが、なんだか空々しい会話で、すぐに途切れてしまいます。
お互いに何かを話しては相槌を打って会話が途切れ、それを何度か繰り返しながら歩きました。
気まずいということは無いのですが、ぎくしゃくしているのは否めません。
しかし、そんな空気も“その場所”へ着いた途端に無くなりました。
「……これは…?」
わたしはそれを見た瞬間、完全に停止しました。しばらく固まって、ようやく絞り出したのがその一言です。
それでもわたしの視線は、その光景に釘付けでした。
「これが見せたかった物だ。東方の国と貿易を始めた時に、記念にと苗木を贈られたのでここに植えたんだ。最初は小さな苗木だったのだが、今ではこれほどまでに立派になって、毎年美しい花を咲かせている。なんという木かは知らないのだが、サクラに見せたいと思ったのだ。この国でも、ここにしかないものだ」
ひらひらと花弁が舞い散るさまも、とても美しく、懐かしさを感じます。
この花、この木は…。
「桜…」
そう、柔らかなピンク色の花を咲かせたその木は、まさしく桜の木でした。
この時期に咲くというのは、早咲きの品種でしょう。色や形から、近いのは湊桜でしょうか?
「サクラ…?」
わたしの呟きに、なにやら感じたのか王子の声がします。
「桜の木です…。名前の通り、わたしの名前の由来になった木です。まさか、この世界で見ることができるなんて…」
わたしの誕生日は11月ですが、父と母の思い出の木が桜だったそうです。二人とも桜が好きで、娘ができたら桜とつけるのだと決めていたそうです。
さらに言うと、わたしが産まれた時、11月も終わりなのにもかかわらず、病院に植えられていた桜の木の一本が満開だったそうです。狂い咲きでしょうが、両親にはそれがわたしを祝福しているように思えたということでした。
「桜の木は、わたしのいた国でも有名な木でした。桜にまつわる話はいくつもあり、美しく咲いてぱっと散るその様は、日本人の心として見られていました。日本と言えば桜というほど、日本人にとっては身近な、そして大切な木なんです…。この木のように、誰からも愛される、そんな風に育ってほしいと言う願いもあるのだと聞いたことがあります。ふふ…、名前負けしちゃってますね」
そのとき、どこからともなく風が吹きました。
ザアァァァァァァ…
風に吹かれて、枝からも、地面に落ちた花びらも舞い上がります。
視界がピンク色に染まります。
桜吹雪です。
その光景に、日本を、家族や友人を思い出してしまいました。
……帰ることはできませんが、せめてこの光景を、あちらでも見ていてくれたら…。
そんなことさえ思います。
毎年、家族と行った花見や、学校帰りに満開の桜の木の下で、友人とジュースを飲んだことが思い出されます。
急に懐かしい光景を見たせいで、センチメンタルな気分になってしまいました。
「……桜の木があるなら、ここでお弁当を食べればよかったですね。わたしの国ではお花見と言って、桜の木の下でみんなでお弁当を食べる習慣があるんですよ?もちろん、お酒なんかも飲んだりして騒いで…。毎年の恒例行事なんです」
もう戻れない日の思い出には蓋をして…。
わたしはそれを吹っ切るように、明るい話題を選びました。
「サクラ…」
王子の目が、気遣わしげなものになっています。きっと、わたしが日本を思い出した事を心配しているのでしょう。
「大丈夫ですよ?……少しだけ、思い出してしまいましたが…。この木を見れてよかったです。もう見られないと思っていましたから、とても嬉しかったです」
懐かしさに涙が出そうになったのも本当。でも、嬉しかったのも本当です。
来年は、ここでみんなで騒ぎたいですね…。王子や、王様や王妃様、アリア王女やシフォンさん、エルもみんなで…。
「……そうか…。なら、記念に枝でも持って帰るか?すぐに散ってしまうが、数日は持つだろう?下の方の枝なら手が届くからな」
……え?
いきなり何を言い出すのでしょうか?
「待って下さい!桜の木は、枝を折るとそこから腐りやすいんです!だから折っては駄目です!」
今にも枝に手を伸ばそうとしていた王子を、慌てて止めます。
「わたしの国には“桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿”という諺がありまして、桜の木を切ることを戒めているんです。これにはさっき言ったように、桜の木は傷が付くと腐りやすいというのもあるのですが、桜の木は根元に近い枝に花をつけますから、手が届くところの枝を切ると見た目のバランスが悪くなったりします。“自然をそのままで見て楽しめ”という意味も含まれているのだと聞いたことがあります」
ちなみに梅はいらない枝があると実があまりつかないので、剪定をした方が見た目もよくなるし、実も沢山つくのだと聞きました。
わたしの制止も間に合い、なんとか桜は無事でした。
全く、迂闊に感傷にも浸れませんね…。
まあ、そもそも桜がどういうものかを知らないのですから、仕方がないのかもしれませんが…。
「そ、そうだったのか…。済まない…」
「いえ、わたしも迂闊な事を言ってすみませんでした。王子は知らなかったのですから、仕方がありませんよ。ですが、今後は注意してくださいね?」
しょんぼりとした王子が気の毒に思えてしまい、逆に慰めるようになってしまいました。
その時、急に何かを感じました。
……これは…、魔力…?
魔術が使われる前に、ごく僅かながら魔力を感じることがあります。それは、範囲を指定して魔術を使うときに感じるものでした。
そしてその魔力は、王子を突っ切るように走っています。
王子は魔術師では無いので、それに気付いていません。
「王子!伏せて下さい!」
なんの魔術かまではわかりませんが、魔力は王子を狙っています。
わたしは王子を突き飛ばし、その前に立ちはだかりました。
瞬間、魔力が力を帯びたのを感じます。
「くっ…!」
さすがに全てを防ぐことはできませんが、咄嗟に防御魔術を展開します。これで少なくとも、物理的なダメージは防げるはずです。
轟っ、と先程の桜吹雪よりも強い風が吹きました。
防御魔術があるので直接的なダメージはありませんが、風に身体が煽られます。踏ん張らないと、わたしの体重だと倒れてしまいそうなほどの強さです。
桜の花びらが舞い散り、辺りを一面、ピンク色に染めて行きます。
バタバタと、布のはためく音がします。
10秒近く続いた後、その風は唐突に止みました。
……攻撃魔術じゃなかった?ただ、風を起こしただけ…?
今の魔術の意図がわかりません。ですが、確かにここにわたし達以外の人間、それも魔術師が入り込んでいたことになります。
先程の魔力の流れから、その発生源を探します。
辺りを見回していると、魔力の発生もとらしき方向で何かが動くのが見えました。
咄嗟に魔術を打ち込もうとしましたが、ちらっと見えたその姿に、練った魔力も霧散してしまいました。
わたしは溜息をついて、後ろにいた王子を振り返ります。
「大丈夫ですか?急に突き飛ばして済みませんでした。魔力の流れを感じたものですから…」
王子は何故か顔を真っ赤にして、呆然と目を見開いて、後ろ手に両手をついて座っていました。
「王子?どうしたんですか?先程のは風を起こしただけで、攻撃の意図は無かったようですが…。もしかして、何かあったのですか?」
話しかけてみてもなんの反応も無いので、何かあったのかと思って見てみます。
……少なくとも外見上は怪我もないようですし、倒れた時に何かあった風でもありません。どうしたのでしょうか?
「……い、いや…。ちょっと驚いただけだ…」
やっと反応しました。ですが、相変わらず顔は赤いですし、わたしの方をちらちらと見ています。
わたしは内心で首をかしげながらも、先程見た光景を説明しました。
「恐らく、ですが…。先程の風の魔術はアリア王女の指示で行われた物だと思います。この庭園には王族が一緒でないと入ることができませんし、魔術が使われたと思える方向にアリア王女の姿が見えました。他にも数名いたようですが、今はどこかへ行ってしまったようです。どういうつもりなのかはわかりませんが、少なくともこちらを害する意図は無かったように思えます」
先程の魔術には殺意が感じられませんでしたしね。ただ、やはり目的はわかりません。風を起こして何がしたかったのでしょうか…?
「……王子?どうかしたんですか?やはり先程突き飛ばした時に、どこか怪我でも…?」
王子は立ち上がりながらも、どこかぼうっとした様子です。先程まではこんな様子ではありませんでしたし、考えられるのはやはり先程魔術が使われた時です。
魔術の方は殺傷力はありませんでしたし、王子の前にはわたしが防御魔術をかけて立っていました。仮に何かが飛んできたとしても、王子には当たっていないはずです。すると、やはり突き飛ばした時に何かあったのでしょう。
「王子、はっきりと言ってください!何かあったのでしょう?言ってもらわないとわかりませんよ!?」
わたしが原因で怪我でもしていたらと思うと、焦ってしまいます。もしも怪我をしているなら、早く手当てをしないと…!
「……いや、本当に怪我は無いんだ…。ただ…」
「ただ、なんですか?はっきり言ってください!」
先程からもごもごと言うだけで、歯に物が挟まったような物言いです。じれったくて、思わず口調も鋭くなってしまいます。
「あー、その、な?見えたんだよ…」
は?見えたって、何がですか?
「何が見えたんですか?」
「だから、……だ…」
相変わらず顔を赤くして、何故かわたしの顔を見ないようにしてもごもごと言っています。いい加減、わたしの方も焦れてきました。
「聞こえません、もっとはっきりと言ってください!」
「だから、さっきの風で、スカートが捲れたんだよ!」
「……は?」
予想すらしていなかった答えに、かなり間抜けな声が出てしまいました。
「断っておくが、見ようと思っていたわけじゃないからな!?ただ、偶然、位置の関係で見えてしまったんだ!」
えっと、つまり……スカートと言えばわたしの着ているワンピースしかないわけで…。
今日はズボンも穿いていませんでしたから、スカートが捲れれば下着が見えるわけで…。
そして今日の下着は、アリア王女のチェックが入ると思っていたので、“あの”下着だったわけで…。
つまり、“あの”下着を後ろからとはいえ、王子に見られた、ということで…?
一気にわたしの顔が真っ赤になりました。
さらに、止めをさすように王子の一言が…。
「その、な?人の趣味にとやかくは言いたくはないが、ああいう下着は……スカートの時は止めた方がいいんじゃないだろうか?」
その言葉で、わたしの羞恥心は限界に達しました。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
王子はその一言が余計なんですよ!そんなだからデリカシーが無いって言われるんです!
そもそも!アリア王女がいないのなら最初からこんな下着なんてつけてきませんでしたよ!なんですか?今日は厄日ですか!?なんだか恥ずかしいことばかり起きている気がしますよ!?春だからですか?全部、春が悪いのですね!?
春なんて、春なんて…。
春なんて、嫌いですよぉぉぉ!!!