帽子と遮断機と思い出
ここは、とある田舎の町。
マキオは、駅へと続く坂道を、汗だくになりながら上っている。
桜の並木道。
春先には桃色の見事なアーチを築き上げるのであろうが、今は猛暑の夏。
一面の緑。
桜の特徴が見極めにくい時季。
耳鳴りのように響く蝉の合唱。
アスファルトの路面から照り返してくる高熱。
マキオは、何度もかぶっている帽子を外しては、額にたまった汗をふく。
だが、いくら拭っても吹き出る汗にはキリがなく、二枚目のハンカチさえも、乾いている部分を使い切ってしまう。
汗は、頬の無精ひげの間を縫うように掻い潜り、顎の先へ集まって、雫となって落ちる。
マキオは顎を突き出し、前のめりの姿勢で歩く。
まるで、磁石に吸い寄せられる釘のように、マキオは駅舎の前の自動販売機に近寄っていく。
この炎天下でも、自動販売機は元気に営業している。
機械というものは、愛想はないが、辛抱強い点は大いに評価できる。
マキオは、小銭入れから百二十円を取りだし、乳酸系の大きなサイズのドリンクを買う。
ひんやりと冷えた、みずみずしいドリンク缶の姿をしていたのは、ほんの十秒足らず。
たちまちドリンク缶は水分を吸い取られ、大したことのない握力でクシャクシャに握りつぶされてしまう。
水分を補給し、少しだけ気力を回復したマキオの心に、ゆとりが生まれる。
マキオは、近くを飛ぶトンボを目で追ってみる。
細長い胴体がラベンダー色の、小振りのトンボ。
確か、シオカラトンボ。
マキオは、このトンボを捕まえてやろうと、動きに注意する。
そこへ、踏切の警報が大きな音で鳴り響く。
トンボはあちらこちらと、止まっては、飛び立ち、止まっては、飛び立ちを、繰り返している。
苛立ちながら、マキオはトンボを追い続ける。
トンボは、遮断機の竿の先にピタリと止まり、小休止する。
マキオは、そろりとトンボの背後に回る。
右手の人差し指と親指で、トンボの羽を挟んでやろう。
トンボは、全くマキオの気配に気付いていない。
だが、不運にも列車が到着し、トンボとマキオに突風を浴びせる。
驚いたトンボは飛び上がり、民家の屋根の上へと逃げていく。
マキオは、悔しがる。
そのマキオに対して、また別の不運が降りかかる。
上がろうとしていた遮断機の竿の先が、マキオの帽子のツバに当たり、帽子は高々と放り上げられてしまったのだ。
マキオは、茫然と帽子の行方を見守ったが、帽子は遮断機の先に引っかかり、そのまま落ちてきそうもない。
その様子を見ていた駅員が、マキオに向かって話しかけてきた。
「ツイてないねぇ。でも、二十分もすれば、反対方面の列車が来るから、その時に遮断機は下りてくるよ」
マキオは、その反対方面の列車に乗るつもりだったので、駅員の提案に、素直に頷く。
単線のプラットホームに人影はなく、マキオはイチョウの木陰のベンチを、一人で占有する。
頭上の大量のイチョウの葉が、殺人的な太陽光線から、マキオを守ってくれている。
先ほどまでの灼熱地獄が、まるでウソのようだ。
心地よい風が頬を撫で、あれほど掻いていた汗も収まっている。
遮断機の先の帽子は、風で踊っていたが、なかなか落ちてきそうで、落ちてこない。
子供のはしゃぎ声。
線路の向こう側に、猫の額ほどの敷地を利用した小さな公園があり、親子連れがサッカーボールを蹴り合って遊んでいる。
公園脇にある藤棚をゴールに見立て、ガッチリした体格の父親が、ゴールキーパーよろしく、小さなストライカーを前に、立ちはだかっている。
「いくよ!」
子供は、勢いよく助走をつけ、ありったけの力を込めて、サッカーボールを蹴り飛ばす。
だが、父親はいとも容易に、そのたくましい両腕でボールをキャッチする。
「クソ、今度こそ!」
子供は、何度も父親に挑む。
父親は、その挑戦をことごとくはねのけ、ただの一度も、ボールが藤棚のゴールに突き刺さることはなかった。
「父さん、手加減してよ」
子供が甘えた声を出す。
父親は、余裕の笑顔を浮かべている。
容赦するつもりはないらしい。
「ダメだ! これは男の勝負だ。三本決まったら、お前に新しいシューズを買ってやる。それができないなら、まだしばらく古いので我慢するんだな」
「そんなぁ。父さん、強すぎるよ」
犬の鳴き声が、子供に加勢する。
鉄棒の支柱に紐でくくりつけられた柴犬。
子供の意見に同調しているかのように、父親に向かって盛んに吠え続けている。
「わかった。じゃあ、次の一本が決まったら、買ってやる」
子供と犬の説得に墜ちた父親は、しぶしぶ条件を緩和する。
子供は「やったぁ」と喜び、犬に向かってウインクする。
犬は「ワン」と、一声吠えて答える。
マキオは息を呑んで、その光景に見入っている。
すべてが、記憶の片隅にある出来事だった。
胸が締め付けられるような、忘れがたい思い出。
マキオにはわかっていた。
次のシュートが決まるのかどうかも。
子供の蹴ったボールは、父親のガードこそ逃れはしたものの、棚のポールに当たって、惜しくもゴールを外してしまった。
「残念だったな」
父親は、転がるボールを拾い、子供に向かって、緩く放り投げる。
子供は、しょぼくれた顔でボールを掴む。
「シューズは、かなり傷んでいるのか?」
情に負けた父親が、子供に訊ねる。
子供は、静かに首を縦に振り、鼻をすする。
父親は、大きな手のひらで子供の肩を、優しく叩く。
「一週間は母さんの手伝いをしろ」
「母さんの?」
「おつかいとか、部屋の掃除とか、花壇の水やりとか、お前にできることもあるだろう」
「それをやったら、シューズを買ってくれるの?」
子供の目が輝く。
父親は頷くと、子供のいじけ顔が一転して笑顔に変わる。
「今、すぐにだぞ」
父親が念を押すと、子供は「わかってるよ」と大きな声で返事し、並木道の方へ駆けていく。
残された父親も犬の紐を取り、子供の後に続こうとする。
そこへ、マキオが前を塞ぐ。
「キミは?」
父親が怪訝な顔をして、マキオに訊ねる。
「お願いがあります」
マキオは、丁寧な口調で言うと、今にもすがりつくような目で、父親を見た。
「この並木道には、両側に歩道がありますが、その右側を歩いてほしいのです」
「右側を?」
父親は、首を傾げる。
「なぜ、そんなことを言うのかね?」
どうやら、変人に思われたらしいが、マキオはそれを承知の上で、更に父親に訴えかける。
「知ってるんです。これから、あなたの身に何が起こるのかを。暴走車がすごい勢いで、この道路を走ってきて…信じてもらえないでしょうけど、ボクはあなたのことを…」
マキオは、言葉を詰まらせる。
強烈な嗚咽が彼を襲い、言葉を遮ったのだった。
「なるほど」
父親は微笑し、先ほど子供を慰めたときと同じように、マキオの肩を優しく叩く。
「キミの言いたいことは、よくわかった。要するに、キミは私を助けたいわけだ。そうだろう?」
父親の問いかけに、マキオは全力を振り絞って、ようやく頷くことができる。
「ありがとう」
父親の言葉は優しかった。
実の子共を相手にするように。
マキオの目から、止めどもなく涙が溢れ出る。
父親はハンカチを取り出すと、マキオの濡れた頬を、丁寧に拭い取る。
マキオの目は、少年の頃のものに戻っていた。
敬愛の眼差し。
それは、マキオの心の中にだけ生きているはずの人物に向けられるべき、眼差しであった。
犬が、マキオに撫でてくれとなついてくる。
マキオは耳の裏の辺りを、前から後ろへ流れるように撫でる。
「ペス」
と、マキオは犬の名を呼ぶ。
犬は、尻尾を振って喜ぶ。
「キミには悪いが」
と、父親は犬の紐を引き、マキオに背を向ける。
「キミが言う右側の桜並木は、ここへ来るまでに観てるんだ。だから、帰りは左側の桜を観ながら帰るつもりなんだ」
いつの間にか、濃緑だった並木道が、桃色のアーチとなり、遥か前方へと続いていた。
灼熱の暑さもどこかへ去り、穏やかな春の陽が差していた。
父親の足が、左側の歩道を一歩ずつ踏みしめ、遠ざかっていく。
父親がハミングする『知床旅情』のメロディが、優しく耳に入る。
幼い頃から、マキオの心に残っている歌。
それは、嫌というほど聞かされた経験があるからだった。
父親の後ろ姿が小さくなっていった。
だが、メロディはいつまでもマキオの心から消えなかった。
それが父親とペスの姿を見た、最後の瞬間だった。
------カン、カン、カン
鐘を叩くような音と共に、父親とペスは消え失せる。
桜の花も緑と変わり、暑苦しい蝉の声が、再び聞こえ始める。
「お客さん、列車が来ますぜ」
駅員の呼ぶ声。
マキオはハッとして、ベンチから立ち上がる。
鐘の音は、踏切の警報音だった。
遮断機は、すでに下りていた。
駅員は、すでにマキオの帽子を手にしていた。
マキオは、急いで駅員のそばへ駆け寄った。
線路脇の小さな公園に、親子連れの姿は、もう無かった。
(了)