8.玉手箱
雪渓を残しつつある登山道は、シロツメクサの葉が疎らに顔を覗かせている。茎から折れた花々は頭を垂れ、侵入者を歓迎するようでもあった。
ミヤビは顔を顰めた。
山小屋の脇に並んだ、いやに行儀の良い空き缶たちを睨め付つける。
開山期間の時節を大きく外れた現在、設備の一切が閉鎖されているが、人の出入りが全くないわけではないのだ。
(よりにもよって、どうしてここに……)
日本最高峰の山、富士山。ここに来ると思い出したくないことを思い出してしまう。
それは遠い昔、まだミヤビが妹のサヤと共に過ごしていた時のことだ。
「ウチぃ、そぉんな難しいこといわれても、さっぱりわかりませんも~ん」
段々とアヤメの声がクリアになってゆく。この挑発するような、人を小馬鹿にした語り口は、彼女の特徴だ。
「ではあらためて説明いたします。これからわたくしのいうことを、巫女さまにそのまま、おつたえしていただきたいのです。”みょうにち、あなたさまの夢にまいります”」
「やだで~す。ウチそういうのやってないんでぇ」
「侵犯してはならないものこそ、ひるがえって道理になりえるのではないでしょうか。そう、わたくしはおもうのです」
「なに勝手に翻ってんのぉ? もーダメなものはダメっ! あ! 山神、いいとこに来たぁ~、ホラ言ってやって? コラ! って」
「みやび……?」
アヤメと言い争っていた女神が振り返る。あまりの衝撃に「う゛ッ」と盛大に咳き込みながらも、ミヤビはなんとか平静を保とうと努めた。
「サヤ……」
せせらぎのごとく嫋やかに流れる髪と、人形めいた細い手足。
いまにも白銀に溶けてしまいそうなのは、全体的に生白い印象の人物がフワフワ宙に浮いているからだ。ともすれば神というより妖精と称する方が納得感がある。
「まあ。おどろいた。お姉様、おひさしぶりです。サヤでございます」
「うぇ? おねーさま?」
「はい。わたくしの雅姫お姉様です」
サヤは、『小さな夜』で小夜と書く。その大きく見開かれた瞳は、ミヤビと同じくらい驚愕の色を湛えていた。
恐れ半分、期待半分といった面持ちだ。ひょっとすると彼女も会いたいと願っていたのではないか、という妄想がふと過ぎった。
(でもそんなの、さすがに都合が良過ぎる)
「風のうわさで、御無体をうけたとききました。もうおからだはへいきなのですか?」
「あ、ああ……」
「そうですか」
「……」
「……」
「さ、最近はどうなんだ?」
「さいきん、ですか?」
まともに顔を見られないでいると、ふと足元に咲いた一輪の花が目に付いた。雪に埋もれて茎のひしゃげた花が、黄色い花弁を垂らして俯いている。
マーガレットにも似たそれは、退屈極まりない山の景色のあちこちに彩りを添えていたものだ。
「特定外来植物だとか、大変だと聞く」
「ええ。外来植物ですね。わたくしの感覚ですと、くるぶしのまわりまで浸透しているといったところでしょうか。なにせ多年生ですから、いちどとり除いたところで地下の器官は死に絶えません。どうぞ、御足元をごらんください。すさまじい繁殖力でしょう?」
(なんでちょっと誇らしげなんだ……?)
「どうぞ」と促す手は、ウェディングで花嫁がするような薄いグローブを纏っている。彼女はその昔、祈祷に使われる焚火であぶられ、両手に大やけどを負ったのだ。
けれどそれはミヤビの包帯と違って、決してサヤの美しさを損なうものではない。寧ろ際立たせている。
不思議と口腔がカラカラに渇いてくる。
この山は、この美貌の女神そのものだ。これ以上穢してくれるなと思うと同時に、もう現世に罰を与えないで欲しいとも思う。
おかしな話だ。ミヤビは自嘲する。もはや愚直に人間を忌み嫌うことさえできないとは。人間の放つ毒性に中てられている証左に他ならない。
「お姉様は、ほんじつは弾丸登山でございますか?」
「えっと、そういうわけじゃないんだが……」
「はーい、ウチが呼びつけました~。このお姫様ムチャクチャ言うんですもん、暖簾に腕押しでぇ。どーせヒマでしょ? アンタ」
「……」
否定したいが嘘を吐くわけにもいかず、腕を絡めてくるアヤメをそれとなく目で牽制する。
「下手なことを言うな」という念を込めて不機嫌なオーラを醸すと、悟ったように「この見栄っ張りぃ~」と一蹴された。彼女のこういう察しの良さと軽薄さが癇に障る。
不穏な気配を察してか、サヤがアヤメがいるのとは反対の肩にぴったり寄り添ってくる。あからさまな上目遣いは、冗談で済まされる範囲のスキンシップだ。
「お気をわるくさせてしまい、もうしわけございません。わたくしがいたらないばっかりに」
「いや、いいんだよ。わたしも途中から聞いていたが、どうして巫女と話したいんだ? アヤメには言いにくいことなのか?」
「アヤメちゃんはこーんなに人当たり良し・器量良し・賢さ◎なのにねぇ~?」
「わたくしのおねがいごとは、すべてもうしあげております。わたくし、巫女さまの夢にでたいのです」
肩眉を吊り上げたアヤメが「まーたコレだよ」と言って身を引いた。自然とサヤも離れてゆく。さながら水と油のようだ。
しかしなるほど、暖簾に腕押しと言っていたのはこのことだろう。神が巫女へ授ける神意について、仲介役を担うアヤメには知る義務がある。
「ええと……本当に、夢の中に行ってみたいだけなんじゃないか? 好奇心から、とかで」
「ハー? そんなの信じられますかー? だって巫女である必要性ゼロじゃん! 強盗犯って強盗がしたくて銀行を襲うの? 違うでしょ? そこにあるお金が欲しいんでしょ? マジメに働きたくないからでしょ? 言い訳っていうのはね、不都合な不快感を払拭するために使われるものだと思いませーん?」
「もしあんないがひつようでしたら、御心配にはおよびません。不束者ですが、見はりも運転もせいいっぱいいたします」
「ホラ、悪いことだって自覚があるんだ! いっけないんだ~。山神はさぁ、こぉんなわっかりやすいハニトラに引っ掛かったりしないよねぇ?」
「ハニトラって……」
どうしたものかと固まっていると、不意に手がさらりとしたものに触れた。サヤのドレスだ。申し訳なさそうに眉を下げて、「ごめんなさい。……これいじょう、お姉様をこまらせたくありませんから」などと言いながら透き通った薄いドレスの裾をひらめかせる。
サヤはその桜の花のような相貌から慈悲深い女神と謳われることも多いが、その実だれより淡泊だ。サッパリとした性格をしている。人にも神にも興味がない。
とはいえ数千年振りの再会だというのに、もっとこう、なにかないのか!とミヤビはやきもきする。こんなにあっさり解散できるものなのか、と。
(まあ、いまは単なる同業者だけど……)
サヤは”歩行する”所作だけを模倣して空中を移動する。その足取りは勝手知ったるもので、誘導ロープを無視し、既定の道から外れ、ひたすら下へ下へと降り行くようだった。
「どこへ行くんだ?」
「おじゃまになりませんように、とおくへ」
「邪魔なんかじゃ……」
本当に言いづらいことなのか、それともこれ以上の問答を避けてか。サヤは振り返りもしないで言う。
(わたしと一緒に居たくないだけ、かもしれんが)
とうの昔に名のある男神に嫁いでからというもの、不自由ない生活を送る妹の心情は計り知れない。愛されることに慣れ、自身の魅せ方を熟知した彼女と、一人でいることを望むミヤビとでは、やはり根本からして相容れないのか。
好かれているつもりはなかった。だが嫌われているとも思わなかった。
ただ生まれいで繋がりを持った以上は、その幸福を願うことは当然の権利だとばかり。
「山神ぃ、アイツだいぶボカしてるけど、さっきは”人類滅亡させる”とまで言い張ってたからね? あんまし刺激しないほーがイイと思うけど」
「……まあ、言うだけならいいんじゃないか。人を選んで言っているわけだし」
「いいワケないんですけどぉ~、家族割やめてね~?」
しかしながら己の分身である山が侵され、貶められる過程などいかなる理由があっても容認できないはずだ。
もしも、サヤが人間に対して「山を穢すな」という要望を抱いていて、それを泣く泣く呑み込んでいたとすれば。自信満々に外来植物の繁殖力を語っていたのは、不安や畏れの裏返しだったとすれば。
嫁いだ先でミヤビだけが突き返され、サヤだけが見初められた、あの時のように。彼女に我慢を強いてしまっているのなら。
そんなことはあってはいけない。
(わたしがサヤを護ってやらないと……!)
「もしもーし。……ダメだ、聞いてねーなこりゃ」
碌々整備もされていない山道をひたすらに歩く。微かに水音が聞こえてくるため、近くに沢があるであろうことは察せられた。
「お姉様、あちらをごらんください。みぎてにみえますのが、宝永山でございます。ふたたび発火の使用許可がおりましたあかつきには、ぜひ御招待させてくださいね」
「ああ……」
「ふふ、やくそくですよ」
山とは観測者の位置によって異なる姿を見せるものだが、こと富士山に至ってはこの宝永山の存在により、特徴がとりわけ顕著になる。
少し前、サヤがこれを使って大きな噴火を起こした時のこと。
現世では悪政による天罰ではないか?という噂がまことしやかに囁かれていたが、神々の間では専ら「また我が侭で癇癪を起こした」という風説が根強かった。
ミヤビはサヤが火傷を負った経緯をよくよく知っている。彼女は爛れた両手を前に、「火のなかに手を差し入れてみたら、どうなるのか気になった」と堂々と宣ったのだ。痛みや危機感情を持たないわけではない、純粋な好奇心。
”禁忌に触れたがる”。
サヤの本質を表すとすれば、それ以上の説明はない。
だからミヤビは彼女が人間の夢に出たがるのも、自らを祀る山に大穴を開けたことも、抗い難い好奇心の探求であることを理解している。
そうなってしまった原因が、己にあることも。
(小夜を一人にしたのは、わたしなんだから)
「あきれた。アンタ外弁慶ってやつぅ? 身内にはイイ顔してたいんだぁ?」
うっかり思考を口に出していたのかと思ったが、そうではないらしい。にもかかわらず全てを悟った様子のアヤメは、「なっさけなぁ~い」と糾弾を続ける。
「今更マトモぶったってアンタがウチに土下座した事実は変わんないのにぃ~。あのさぁ、ゴタゴタに巻き込まないでって言ったでしょ? アンタが気まずそ~にすればするほど露悪的に振る舞うの。わかんない? わかって? お姉ちゃんを取っちゃヤダぁ~てケンカ売られてんの、こちとら。鈍感クールキャラ気取ってないでとっとと締め上げてね? シツケのなってないお子ちゃま~」
「己の痛みはひた隠そうとするくせして、ひとの痛がるところにはとびきり敏感なのですね。わたくしを傷付けたいがために、お姉様を侮辱することはどうかおやめください」
「ああ、そ。おね~さま(笑)を誇りに思うんなら、こんな山の一つや二つ、譲ってやったらぁ? きっとホコリの塊さえ訪れないんでしょうけど~」
「ありえません。お姉様はやさしいかたですから、わたくしのせいで、御心をいためてほしくありませんもの」
「……人間に罰をくだすのは、心が痛まないのか?」
二人が同時にこちらを見る。
「お姉様……?」
「わたしは、あなたに人間を殺して欲しくない。その、さっきのは了解の返事じゃなくて、そう、相槌だ。少しぼうっとしていて……酸素が薄いし、雪も、激しくて……」
よほど言い訳がましかったのか、懐疑の目を向けられる。いや、酸素云々はともかく、降雪が酷いのは本当だ。現にこれまで来た道が埋もれて見えなくなるぐらい、僅かな時間で雪が降り積もっている。
霧まで立ち込めて、正規の道には戻れそうにない。耳を劈くような強風が吹き荒ぶ。
「ちょっとぉ、カッカして遭難させんでくださいよぉ~」
「いや、山の天気は変わりやすいんだ。だが悪天候下で動かない方がいい。小屋で待機させてもらおう」
それでいいかとサヤに問おうとして、愕然とした。雪代と呼ばれる湿雪による雪崩が起き、視界を奪われたからである。水分をたぶんに含んだ厚い雪に覆われて、完全に閉じ込められてしまう。
山に精通するミヤビやサヤはともかくとして、アヤメは無事では済まないかもしれない。
いや、曲がりなりにも神の遣いであるならば、多少の自然災害くらいどうということはないのだが……。正直、少しぐらい翻弄されてしまえ、という醜いこころの内を反映されたかのような状況に、ミヤビ自身が狼狽を隠せなかった。そのくらい、日頃ミヤビを振り回しているのだから。
彼女の名を呼びながら、ホワイトアウトの世界を暫し彷徨う。
「お姉様、こちらです」
「サヤ……」
足元がふわついて、と体が浮き上がる。
サヤに手を引かれて雪原を真っ直ぐ歩くと、やがて灯火が見えてきた。小屋だ。暖炉の付いた空間に通されて、ほう、と知らずため息が出る。
「アヤメはいないのか?」
「はい。お姉様が御無事で、なによりでございます」
にこにこと張り付けたような笑みを浮かべるサヤは、どこか心ここにあらずといった様相だ。
多くの人間がここで帰路を見失い、正気を失くし、命を落としたことを知っている。
不死の山とは皮肉なもので、この山が人間の生き血を吸ってその威厳を保っていることは間違いない。それをサヤが望まずとも。
「そうか。心配だから捜してくるよ。あなたはこのまま、ここにいて……」
「お姉様」
「……」
「お姉様。久しぶりにお会いできて、とてもうれしかったです。おげんきそうで安心しました。……遣いのかたに、巫女さまの夢にでたい、なんて。わがままを言ってごめんなさい。お姉様はやさしいから、きらいなわたくしのことでもほうって置けないと思ったんです」
聞き捨てならない言葉が聞こえて、ミヤビはすかさず言葉を遮った。
「嫌い? そんなわけあるか。わたしはあなたのことが心配なだけ。いや、すまない。偶然わたしが呼ばれてしまったから、嫌がっているんじゃないかと思って、つい変なことを口走った」
「……ちがいます。わたくし、お姉様のことを考えていたんです。あいたいなって。だから、およばれされたんです」
「え、そうだったのか……?」
う、嬉しい……。にやつきが抑えられない。
あまりの可愛さに口元を隠して絶句していると、段々とサヤの表情が曇っていくのがわかった。
「お姉様は、ひとがおきらいだと聞いて。ひとに罰をあたえれば、わたくしのことを、みなおしてくださるんじゃないかと、そう考えたんです」
「いや……そっちも嫌いってわけじゃないんだ。今はな」
不思議そうに首を傾げられる。いつから人間が夢を得て、いつから信仰が失われたのか、それを説明するには少し骨が折れた。
「わたしは、悪夢から人間を助けたいから助けたんだ。その行く末を信じたいから、信じているだけ。だから、その、わたしもサヤに会って、話がしたいと思っていたところだったんだ。わたしはわたしのしたいことをしているだけで……ええと、だから、サヤが気に病むことはないんだ」
「…………ふふふっ! ああ、おかしい。雅姫ったら、必死なんですもの」
腹を抱え、大口を開けて笑うサヤ。久しぶりに見た妹の邪気のない笑顔は、幼いあの日に見たままだった。
(そうだった。小夜は、感情に素直な子だったな)
ミヤビなどに保護されるほど落ちぶれていない。あのサヤが報復感情から人間に危害を加えようなどと、天地が引っ繰り返ってもあり得ないことだった。
悪い行いをした人間に報いが返るというのは、現世の人間が”夢”見る御伽噺である。
だから、彼女は自然を保護しようなどと露ほども考えていないんだろう。しかし己の使命を放棄したわけでもない。それを禁忌だと知っていて、齟齬なく矛盾性を擁立している。
ミヤビは、それが許されるのは人間だけだと思い込んでいた。
だから今の今まで、彼女がミヤビの前だけでは何者でもない、ただの妹であることに気付けなかったのだ。
「サヤ……今までのこと、一人にしてすまなかった。これが詫びになるかはわからないが、わたしからもアヤメにお願いしよう。補助役が一緒なら、巫女も受け入れてくれるかもしれない」
しかしサヤは首を横に振って、そっと地に足を着けた。ソファに腰掛けたミヤビの膝に自身の頭を乗せ、膝枕の状態になる。
「およしましょう。お姉様とのことまでゆめになってしまったら、とっても悔しいもの。まだ、もうしばらくこのまま……」
「そう、か。それもそうだな……」
二人は目配せをして、くすくすと笑い合った。
一方その頃、豪雪吹き荒れる雪山では、アヤメが遭難し続けていた。
「くしゅん! …………ハア。山にロクなヤツいねーな、マジで……」




