7.ケーキ屋を夢見る
幼い子供の勘違いエピソードというのは、往々にして可愛らしく、大人の関心を買いやすいものです。
昔、母と一緒にバラエティ番組を見ていたときに、「どうして女の人は大人になると、目がきらきらするの?」と聞いたことがあります。
当時はアイシャドウにラメが入っていることなど知らず、スッピンでありながら目元の煌びやかさを失わない母が不思議でたまりませんでした。
「え? あー、実はね、メイク落としをちゃんとしてないだけで、きらきらして見えるのは汚れなの。ほんとはね」
驚きでした。綺麗だと思っていたものが、実際は真逆の存在であったなんて。
涙さえ浮かべながら大笑いする母は、傷付いている素振りはないものの、頻りに「おかしい」と言って噴き出しました。
私がだれかの容姿について言及したのは、後にも先にもあれきりです。
(痛っ……)
どうやら無意識に、ぐらぐらと揺れる歯の隙間に舌尖を差し込んでいたようでした。
誰しも、そういう経験があるのではないでしょうか?露呈した付け根のチクチクとした感触を楽しんでいると、口いっぱいに鉄の風味が広がるのです。
それは、私がハンバーガーを食べないでいられる理由とするには、十分でした。
「いやあ、うちの子は本当にダメで。女の子なのにガサツだし、生意気で。親の言うことも全然聞かないんですよ~」
まだらに日焼けした肌は、クロコダイルの無骨な革を連想させました。中年男性のやに下がった面構えというのは、善人悪人の区別なく、どうしてこうも不信感を煽るものなのでしょう。
娘の私ですらそうなのですから、他所のお嬢さんならば尚の事。
(またこの夢か……)
話は数年前、『子どもの夢』を体現したテーマパークにおいて、父の不倫が発覚した日に遡ります。
所謂”トラウマ”というやつなのでしょう。
私の背格好は小学生の頼りないものであり、いまより若い父は凛々しく、そして強い生き物に見えました。
明朝、「遊びに出かけよう」と私を連れ去った父は、他県までその足を伸ばしました。
四時間ほどを硬いバスの座席で過ごし、私は酷い車酔いに苦しめられました。当然です。わけもわからないまま連れ出されたのですから。
こういうとき母であれば「ユウキ、少し休もうか?」などと言って、外の空気を吸わせるなり、コンビニで薬を買ってくるなり気を遣ってくれるのですが、自分都合が服を着ているような男にそんな芸当はできません。
あとで聞けば、遊びに連れ出したこと自体が母には寝耳に水だったようです。
ところで、私には兄弟がいます。兄と弟です。
なぜ子供のための外出なのに、男兄弟には声が掛からなかったのでしょうか。答えは現地で判明します。
そこには一人の親子が我々の到着を待っていました。私はその、俯いた小さな男のに見覚えがあったのです。
同じスイミングスクールに通う、一つ下のミナトという子です。
ただ本当に顔を知っているという程度で、話したこともありません。そんなミナト君とそのお母さんが、なぜ示し合わせたように私たちを迎えてくれたのでしょう。
父の媚びへつらう後ろすがたから、私は幼いながらある一つの予感を抱きました。
父は浮気をしている。
その口実のために私だけを連れ出したのだ、と。
考えてみれば最初からおかしかったのです。私は昔からこういったレジャー施設に興味がなく、友人との雑談に調子を合わせるためならばまだしも、家族に「行ってみたい」などと直接口にしたことはありません。
そして兄や弟が留守番になったのも、やんちゃ盛りで手のかかる二人がいては、そちらに注意が削がれるからだと推測できます。よって、最も聞き分けがよい私のみが選出されたというわけです。
衝撃でした。ただの昼行燈であるならばともかく、父は私たち家族を欺いてさえいたのです。
「ユウキちゃん、今日は来てくれてありがとう。ほらミナトもちゃんと挨拶して」
「……こんにちは」
「こんにちは」
人見知りもあるのでしょうが、恐らくミナト君も私と同じ結論に至っていたのではないでしょうか。その後も終ぞ言葉を交わすことはありませんでした。
表情を無くしてくちびるを引き結んだままのミナト君は、にこやかに振る舞うお母さんと酷くアンバランスだったのを覚えています。
「お腹空いたでしょう。ご飯にしましょうか」
私はトマトが嫌いで、今も進んで食べません。ケチャップも苦手です。ピザもハンバーガーも好みません。
言い出せないまま、無理やりに詰め込んだあの日のハンバーガー。味も思い出せないけれど、到底おいしいものではなかったことだけは確かです。
ただ一つ、レストランの格子越しの空は、溜め息が出るほど美しかったことを覚えています。
ここから逃げ出してしまいたい―――。
遥かな蒼穹に風船が吸い込まれてゆくのを、羨ましい。そう思った時でした。
気付けばからだは風に乗って、青空を透かしたバルーン風船を追っていました。
目線はとうにレストランの天井を超えていて、足元を覗くと、椅子から転がり落ちた自分自身が倒れているのがわかりました。
魂だけの状態、所謂”幽体離脱”というやつでしょう。
中では戸惑った様子の父と、静かにその場を離れるミナト君たちが見えました。
店員さんたちが騒然としているので、病院に搬送されるかもしれません。
晴れやかな気分でした。
父やミナト君のお母さんの心に苦いものを残せるのなら、助からずとも良いと思えたのです。
(それに、これは、夢なんだし)
風船のひもに指を絡ませると、パーク内のどこからか泣き声が聞こえてきました。子供がこちらを指差してなにやら叫んでいます。
地上へ降りてその子の肩を叩くと、「ん?」という顔でこちらを向くので、可愛いカバンに取って来た風船を括りつけてあげました。
するとその子は手放したとばかり思っていた風船が手元にあることに、文字通り手放しで喜んでくれました。
「ありがとう、妖精さん!」
天啓を得たような気がしました。
私は、新たな思い出をつくることで、過去のトラウマを払拭できるのではないかと考えたのです。
空を飛べること。だれにも見られないこと。何度鑑みても同じ結論に至ります。
実際、その思い付きは私に勇気と、前向きに生きる希望を与えてくれました。
ところで、このテーマパーク内では”万引きをしても捕まらない”という有名な都市伝説があるのはご存知でしょうか。
なんでもパークを出たところで初めて「夢の時間はおしまいだよ」などと声を掛けられ、取り調べを受けるらしいのです。
ここに、一人の男の子がいます。そう、ミナトくんです。
お土産屋さんの周りで行ったり来たり。考えは容易に想像がつきました。
ミナトくんには大好きなお爺ちゃんとお婆ちゃんがいます。ここまでの交通費や入園料を融通してくれたのは、お孫さんを想う彼らの好意です。
優しいミナトくんは彼らにお土産を買って帰ろうと、アトラクションには目もくれず、いの一番にショップを訪れたのでした。
しかしその小さな手には500円玉がひとつ。値札を見ては苦虫を嚙み潰したように表情を歪め、葛藤する後ろ姿はあまりに切なく、報われないものでした。
ここまで来たからには手ぶらで帰るわけにいきません。
大切な人たちのことを思うと尚の事、覚悟が決まります。
(でも、そんなことをしたら君の大切なお婆ちゃんやお爺ちゃんは、悲しむんじゃないかな)
そこで私の出番というわけです。ここは私の夢ですので、ある程度の融通は利くようでした。
付近に設置された自動販売機の前で、ある家族がひと悶着していました。子ども四人のにぎやかな六人家族です。
彼らは飲み物を購入しようとして、どこかに財布を落としたと騒いでいるようでした。
一帯を俯瞰で眺めると、広場のベンチで置き去りになった膨らんだ長財布を発見します。だれかに拾われる前に急いで回収すると、中にはぎっしりと大金が入っていました。
確か、落とし物には報酬としてその一割が拾得者に支払われる、といった法律があると聞いたことがあります。
私は「ごめんなさい!」と手を合わせてから数枚の万札を抜き取ると、ミナトくんの元へ馳せ参じました。
アウターのポケットにそれを忍ばせると、ややあって、ミナトくんはその違和感に気が付きます。
その反応は、「まさか」の一言に尽きました。驚き、いっそ不気味がっている様子でしたが、一線を越えずに済んだ安堵からミナトくんは頬を綻ばせていました。
財布は家族の元へ、お金は心優しい少年へ。
私は妖精として、役割を全うする全能感のようなものを感じ始めていました。
「痛いっ……もう!」
奥歯のぐらついた感覚、付け根を探った際の舌先に突き刺さる痛み。
楽しく食事ができない事実も、私の暗澹たる思い出に輪をかけて影を落としていたのです。
それは現実感とは真逆の、虚構であることを忘れないための戒めだったのかもしれません。
とはいえやることは変わりありません。
ある時は喧嘩するカップルの仲裁を、ある時は迷子の誘導、ある時はゴミ捨ての代行までも遂行しました。
「こんにちは、お爺さん。休憩中ですか?」
「……」
お天気も良く、カンカンに日照った日射はベンチに座るお爺さんのうつむいたうなじを容赦なく炙るようでした。熱中症かもしれませんし、その兆候である可能性は大いにあります。
幸い、すぐ傍には可愛らしいラッピングが施された自動販売機がありました。
しかしゴミ箱は差込口まで迫ったペットボトルで定員オーバーを示しており、それが吐瀉物を堪えるようでいて、なんだか不穏な気配を漂わせているのです。
私はベンチの端に座ると、「ご家族の方はどちらに?」とそのお爺さんに尋ねてみました。
「……が、悪い」
「はい?」
「三年前ムショに入った一番上の兄貴が忌み嫌っていた弟の元嫁が……」
「へ? えっと、」
呪文です。言っている言葉はわかっても、言いたいことはわかりません。お爺さんは遥か彼方の誰かに対してブツブツと文句事を呟いていました。
これでは意識がハッキリしているのか、そうでないのかも判断付きません。
「その義理の姉の一個下の弟の所為で、全部そいつの所為で……」
「歩けますか? 陰のあるところに移動しましょう。そうだ、今日は暑いですから、ちゃんと水分も摂らないといけませんね。ケチって倒れたら、それこそ高く付くんですから」
最初、引き摺った足取りは加齢によるものだと思いました。しかしお爺さんの足元を見てすぐに違うとわかりました。
僅かにめくれた裾と靴下のあわいから、明らかに金属製の支柱が見え隠れしていました。そう、この方は義足だったのです。
誰かの所為と憤りを露わにしていたのも、不安の裏返しだったのだと腑に落ちました。
「どなたか、手を貸してあげてください。彼は障碍者です。みんなで支え合わないと!」
しかし人は来ません。誰もが見て見ぬふりをして、非日常に夢中です。
悲しい光景でした。世の中、優しい人ばかりじゃありません。かくいう私にも身に覚えがあります。
小学生の頃、私はいじめられっ子でした。
母の勤める薬局店が、年季が入っていてボロかったから。というのが彼らの言い分です。貧乏人のくせに、なんの不自由もなく学校に来るのが気に食わないのだと。
いじめとはそういうものです。衝動や感情で始まり、決まって生産性を伴わない。
ある日、お気に入りのシャープペンが、教室のゴミ箱に捨てられたのを見つけました。指摘すると、彼らは私に不幸が足りないのだと言います。私にしてみれば、彼らに幸福が足りていないだけです。
学区内でしたから、母の薬局に彼らが訪れることもしばしばありました。だからわかるのです。
いつまで現実から目を背けていられるでしょう。
自分さえ大切にできない者が、誰かを大切にできますか?この世が不平等なのであれば、せめて公平であろうとする努力をしなくてはならないと、私は思います。
例えばパレードは小さい子供を前に、大人は後ろで見るべきです。観覧する権利は誰しも持っているのですから、そこで身体的な格差を生むべきではありません。
また道路も段差をなくしてバリアフリーに、わかりづらい表示やルールは単純化することで事故や誤解を防ぐべきです。
大きな企業や富裕層は使いきれないぐらいお金をたくさん保有しているのですから、恵まれない人や困っている人のために一時的にでも貸し与えて然るべきではないえでしょうか。
「大丈夫ですよ、お爺さん。私がなんとかしますから」
「ほぉ〜……こらまた、えらい立派な仏さんやこと」
振り返ると、ぬいぐるみを被ったキャストがこちらに手を振っていました。亀を模したキャラクターは見た目そのままの「カメ」という通り名を持ち、そのつぶらな瞳と短い手足が可愛いと専らの評判です。
確かミナトくんが買おうとしていたマスコットも、このカメだったはずです。
「『闇さま』、ちゅうのは、あんたのことかいな? お嬢ちゃん」
「……えっ? わ、私ですか!? 違います違いますっ、人違いです」
「そらあかんわ。だってあんた、邪神さんになってもうてるやろ。なんぞ心当たりあるんとちゃうか?」
「……私が?」
もちろん心当たりなんてありません。私はカメの話を聞くことにしました。
「ひとの死に際ちゅうのはな、不思議なもんが見えるようになるもんや。みんなな、あんたが現れると闇さまに魅入られた~言うて、もう長くは生きられんと思てまう。どんだけ現実主義のもんでも、そらもうめちゃくちゃなことしよる。せやさかいこれ以上、ここの人らのこと脅かさんといたってな」
「待ってください。私はお、脅かしてなんていません。むしろ皆さんが楽しめるように、そのお手伝いをしてて……」
「そらあかんわお嬢ちゃん。やってあんた、感謝されたり恐れられたりして、神さんになってもうてるやろ。ほれ、見てみぃその祭壇。信仰の澱がどっさり溜まっとる。現の世やと、形のある神さんはみぃんな死神なんやで」
祭壇だと示された先には、件の自販機がありました。景観に合うようにつくられた、ゴシック調のデザインのものです。
ただ、今はユニバーサルデザインのために、少しばかり印刷シールが多めに貼られています。『売上NO.1!』『ヤケドに注意!』『クセになる甘さ!』押すボタンの順序、釣り銭取り忘れの注意喚起、商品の照らし合わせ。等々。
一つ一つこころを込めたポップをパネルに貼っているのです。
普段利用しない方のためにも視認性を上げた方がいいかと思い、このような形になりました。
「なんや、いちばん肝心の売りもんが隠れてもうて、御札で封じとるみたいやろ? 怖いわなぁ。ああやって視界ごと奪われてな、身動き取れんようになるから“闇さま”なんやと。あんたは多分親切心でやっとるつもりなんやろけど、もうやめとき。ほんま、堕ちるとこまで堕ちてまうで」
「え? え? だって私、たくさん人を助けましたよ? 信じてください、みんな『ありがとう』って言って、私を『妖精さん』だって! 闇さまなんて言う人、いませんでしたよ!」
「そら“生存性バイアス”ちゅうやつや。戦争帰りの戦闘機に穴がようけ空いとったっちゅうてな、両翼がボロボロやから、ほな翼の装甲を分厚うしよう言うてんのと同じことや。せやけどほんまに致命傷くらったやつは、最初から帰って来れてへんねん」
「わ、私が、誰かを傷付けたっていうんですか……!?」
「覚えとらへんのか? いっちゃん大事にせなあかん人、見殺しにしてしもたんやで」
「え……」
ふと脳裏を過ぎったのは、ダイニングテーブルにつく私と、兄弟たちでした。
期末テストの結果を前に、母が怒り狂っています。兄弟は俯いています。前期より点数が下がったことに対する追及、塾を増やす提案、友人付き合いへの苦言。
―――ユウキは出来るのに、どうしてあんたたちは出来ないの?
母は子ども以上に子どもの人生に決定権を持ちたがるきらいがありました。
私だけはああはなるまいと思っていましたが、やはり血は争えないのでしょうか。こんな場所でも人々の目に奇異に映ってしまうのは、私に不浄の血が流れているから?
だから私の大事な人たちは、いつも浮かない顔をしているの?
「ごめんなさい……謝って済むことじゃ、ないかもしれないけど。私、これまで以上にみんなの役に立ちます。もしかしたら、そのために神様になったのかもしれません。もう誰も、私と同じ思いをして欲しくないんです」
私がもっとうまくやれていれば、世界はもっと円滑でなめらかなものになっていたと思うと、悔しい気持ちでいっぱいでした。
「……参ったなぁ。聚落にはな、本願がまだちぃーっとばかし残っとるんや。うちはそれ、守りたい思てるけど……。あんたなぁ、自分で自分のこと殺してもうたやろ。どんな理由があってもそれはやったらあかんことやで。あんたかてな、死んでしもたら”悲しい”て思う人、仰山おるやろ? 誰かをほんまに大事にしたい思うんやったらな、自分のことちゃんと大切にせなあかんで」
拍子抜けでした。カメの言う通り、私は私が死ぬことで悲しんだり、戸惑う人のことを考えていませんでした。
しかしそれがなんなのでしょう。
自分のことは、自分が一番どうでもいいと思っています。
どんなに惨めでも、恥ずかしくても、誰かに責任を擦り付けてはいけません。地位や権力を得たなら尚更です。
「うーん、こら重症やなぁ。このままやったらほんまに死んでしまうかもしれんわ。さて、どないしたもんやろな」
「……あの、もしかして私ってまだ、死んでないんですか?」
カメは小首を傾げると、「歯ぁや、歯。まだ残っとるやろ?」と口元を指して言いました。
舌先がトゲトゲした突起に触れました。脳裏に血の味が蘇ります。
迷わずレストランへ向け駆け出しました。いいえ、私は飛べるのですから、飛んで行った方が早いのです。それに気付いたのは随分と走った後のことでした。
いけない。そう思った次の瞬間には、ゴミ一つない通路は私が通った跡通りに注意書きが次々と貼られました。お子さんが転んだりすると危ないですから、「走らないでね」と記してあるものです。もう地面の色すらわかりません。
園内の装飾も、アトラクションも、雲も、風も、大人も、子供も。私を見て一様にひらめきました。
やがて煌々とライトアップされたレストランへとたどり着きます。
「だれかいませんか?」
ひと気がなくガランとして、冷え冷えした空気が肌を刺します。まだ営業時間だというのに、店内の電飾はすべて落ちているようでした。
ただ一人、中央のテーブルに誰か横たわっています。全身を御札で覆われてこそいますが、その青白い顔は私の生前の体であるユウキです。目をかたく瞑り、起きそうにありません。
しかし口元に顔を近づけると、微かに息をしているのがわかりました。
予知夢、というものがあります。
エイブラハム・リンカーンは、自らの暗殺を夢を通じて予知していたといわれています。曰く、自分自身の葬儀を夢に見たのだと。
ゾクゾクとした高揚感が背筋を駆けのぼりました。この場で彼女を殺せば、現実世界で私は同じように死ぬのではないか、と馬鹿げた怖れを抱いたのです。
『世の中にはもっと大変な思いをしている人がいる』
『衣食住を提供してもらって、不自由ない暮らしをさせてもらっている。それ以上を求めるのは我が侭だ』
『みんな同じ』
『よそはよそ。うちはうち』
『しょうらいのゆめは、ケーキやさんです』
そうした欺瞞を一枚一枚さぐっていくと、やがて心臓部に到達しました。卓上のカトラリーを手に取り、それがナイフであることを確認すると、意を決して喉元に突き立てます。
ぐに。ステーキとも違う感覚。柔らかい肉が刃に押されて変形する様に、腕に鳥肌が立ちました。
「ユウキ、いまならまだ引き返せる」
ハッとして顔を上げると、いつからそこに居たのでしょう。髪の長い、モデルのように背高い女性がこちらを見つめていました。
八尺様。聞いたことがあります。背が高く、人を攫う女性の怪物。
「……あの、もしかして貴方も神様、ですか?」
「そうだ。わたしはヤマスミ。けどあなたはどこまでいっても人に過ぎん」
「どうして、」と問いかけようとして、脇にあった椅子の脚につまずいてしまいました。腰掛ける形で倒れ込むと、私の意識は再びダイニングテーブルにありました。
きらきらした豪華な食卓。今度は私一人だけが着席しています。
キッチンから顔を覗かせた母が、にこりと笑います。
「ユウキを信じてよかった。お兄ちゃんたちはお金が欲しい時しか連絡くれないし、まったく、男の子なんて産むんじゃなかったねー。ユウキはいい子に育ってくれて、本当によかったぁ」
私を持て囃し、祝う席でありながら、兄弟の好物ばかりを並べるのは何故ですか?
投資した分は、返還されて当然ですか?
貸し借りによって上下の関係性が構築されれば、相手はお願いを断れないと思っていますか?
(うっ……)
不意に口内に血の味が広がって、舌先に硬いものが触れます。ツルツルした感触、奥歯です。
血を引いた歯は震える手から零れ落ちて、取り皿の中央に収まりました。
―――私だけは、ああはなるもんかと思ってたのに。
「罪悪感を誤魔化すために神を信じることは容易いが、惨めなものや腐敗したもののために死ぬことは困難を極めるだろう。それが人間の持つ普遍性だ」
背後には目を瞑ったままのユウキと、苦々しく独り言ちるヤマスミが立っていました。
ナイフに伸ばした私の腕を掴んで、縋り付くのはユウキでしょう。この期に及んでまだ親から愛されたいと現実逃避するあたり、救いようがありません。
その手の甲から、御札が一枚剥がれ落ちました。
『お母さんが産んでくれたから、会うことができたんだよ』
「だれがそんなこと頼んだんだよ! 死ねェ!!」
―――暑い。掛け布団を蹴り上げたユウキは、片足を上げた不自然な体勢のまま愕然としていた。
はっきり覚えている。妙な夢を見たこと、今しがた自分が「死ね」と口走りながら起床したこと。
両親を憎んでいるのに、愛していると思い込んでいたこと。
「……あほくさ」
家を出よう。なるべくすぐに。
「県内 物件」で検索をかけるころには、ユウキは悪夢のことなどさっぱり忘れていた。




