5.追われる夢
この世に神なんかいない。
だから神社の参道はド真ん中を歩いたし、十字を切ったこともある。
もし今の不幸な人生がそれの天罰だっていうんなら、やっぱり俺は神なんてものを信じない。
「痛ってぇ……」
鈍い頭痛で目が覚める。スプリングもクソもないアスファルトの上に寝転がって、視界いっぱいに広がるのは、むかつくぐらい抜けた青空だった。
どこだここ?
場所は閑静な住宅地で構成された、ひと気のない三叉路の片隅だ。
まだまだ日も高い時分に、久留見・18歳はいかにしてこんな路上で横になっているか、ズキズキ痛む頭を回転させる。
(学校に行きしな、イキがったガキが三叉路に突っ込んで来た……、んだったよな?)
ぐんぐん速度を上げるスケートボードがゴリゴリとセメントを削っていて、うわキショッと思って見ていたら、カーブミラー越しに走行してくる車に気が付いた。
このままではなんの罪もない運転手がガキを轢いて、その法律の脆弱性によって前科者にされてしまう―――。
そうはさせるかと正面からガキを妨害したんだ。慌てたガキはボードから降りて逃げる。
そこまでして目前に迫ったプリウス車の、「あっ!」という間抜け面した運転手と目が合って―――いやお前も余所見運転してんのかい―――!
……覚えてるのはここまで。警察も救護者も見当たらないってことは、つまりそういうことなんだろう。
ああそうだよ、轢き逃げされたんだよ!
恩を仇で返されるとはこのことだ!
「はは、慣れないことはするもんじゃねェな……」
別に感謝されたかったわけじゃない。そういうスポットライトが当たるのは、生まれた時点から勝ち組人生が約束された人種だけだ。この世は平等にできていない。
「うわッ画面割れてるし……つーかまだ10時前かよ」
顔にこびりついた血を拭って、時間割を確認する。ちょうど体育の授業とかち合う頃合いか。
勿論このまま帰ってもいい。が、昨日持って帰り忘れた弁当箱を回収しないとお袋にどやされるし、バス停もそれほど遠くない。
なにより車に撥ねられて今の今まで放置されてました~なんて、とてもじゃないが言えない。
(中学の俺はなんでこんなクソほど遠いとこ選んじまったんだ、めんどくせェ……桜高にしとけば徒歩10分だったってのによ……)
「おお間に合った」
停留所について次のバスを待っていると、目の前で堂々と知らんジジイに順番を抜かされる。なんたってこんなタイミングで。
割り込まれたのは俺じゃなくて、大人しそうな女子高生だ。物言いたげではあるが、ソワソワするだけで何をするわけでもない。その釈然としない態度にムカついて、ついデカめの舌打ちが出た。
「おいジイさん、並んでるってわかるだろ。後ろに行けよ」
「え、いや……」
ジジイが黙り込む。おいおい、日和るくらいなら最初から喧嘩を売らなきゃいいだろ。
「『え、いや』じゃなくてw ボケてんのかジジイ? 社会のお荷物が図々しい。やっぱ昭和生まれってゴミだな」
「……」
そそくさと列を離れて退散していく背中に中指を立てていると、「あの」と控えめな声に呼びかけられた。
「ありがとうございます……」
「ああ、別に」
「……ねえ。もしかして、クルミくん? だよね?」
「え?」
女子高生はその頬を紅潮させながら、期待の眼差しでこちらを見ている。
陽の光を反射するほど白い肌に、絹糸を連想させる銀の髪。
往来で目立ち過ぎるほどによく目立つ容姿は、10人が10人「美少女」だと答える存在感と美貌だった。
「シラオ……?」
「わあっやっぱり! そう、おんなじクラスだったシラオだよ! 久し振り! ……えへ。なんだか、緊張しちゃうね」
そうだ、神崎 白織。小学生の頃、妙な時期に転校してきた、ある意味で有名人だった人物。
程度は知らんがロシアの血が流れているらしく、学年全体が彗星の如く現れた彼女に夢中になったことは記憶に新しい。
だがもちろん反発的な声もあった。言わずもがな、その構図が面白くない女子たちである。
最初こそ異国の風貌を色濃く残す彼女にいろいろと世話を焼いていたようだが、好意を寄せる男子が後を絶たないうちに嫉妬の対象になってしまっていた。
確か学期末には姿を見なくなったはずだ。聞いた話では保健室に通っていたらしいが……女の嫉妬とはかくも恐ろしいものである。
「ああ久し振り。その制服、時和だよな? お嬢様学校の」
「うん。あ、バス来たね。えっと……一緒に行かない? バス、乗るんだよ、ね」
「え、ああ」
シートの奥に座ると、シラオは肩が触れるか触れないかぐらいの距離で詰めてきた。ふわ、と石鹸の香りが立ち昇る。
……ちょっと無防備すぎやしないか、このお嬢さん。
同じクラスだったってだけで接点はなかっただろうに。どうせ、誰にでもこんな感じなんだろうけど。
(美人は人生イージーモードで気楽なもんだ)
溜め息を吐くと、シラオがすかさず「幸せがにげちゃうよ」などと言って両手で顔を仰いでくる。そんなことをしても逃げた幸せは戻ってきません。
「あの、さ。こんなこと言うの、変なのかもしれないけど……。6年生のとき、夏休みが続いちゃったこと、覚えてる?」
「6年ん? あー……あ」
言葉選びが特殊すぎて一瞬わからなかったが、確かに小学校最後の夏休み、始業式の日程が一日ずれ込んだことを思い出す。
そういえば学校の裏掲示板に爆破予告が書き込まれて、その関係で臨時休校になったのだった。いまのいままですっかり忘れていた。
「そういやそんなこともあったな。よく覚えてんな」
「うん。結局、爆弾なんてなかったけどね。でも、時々思うんだよ。ほんとうに学校を壊したい人は、予告なんてしないだろうなって。誰にも言わずにやるんだろうなって。じゃあ、本当はどこかに仕掛けられてたら、どうしよう……って、そういう不安で、いっぱいになっちゃう」
「トラウマみたいなやつ?」
「うん……そう、なのかな?」
「や、知らん」
正直いって、思春期にはよくある妄想だと思う。学校にテロリストが襲撃してきて華麗に退治する妄想。それと同じ系統だ。
ふと、もし本当に襲撃されたとしても、きっとシラオは殺されないだろうなと思った。
彼女に限った話じゃないが、若い女はそういう使い道をされるだろう。目出し帽を被った大男にベッドの上で縫い付けられ、標本状態になったシラオの薄い色素の瞳を想像する。
「ねえ。クルミくんはそういうこと、思わない?」
……さすがはハーフ、宝石めいた瞳をしてる。覗き込まれると天然石のようなそれがより顕著だ。
こういうときダイヤモンドだとか具体的な例をあげられればいいんだが、シラオの瞳はむかし、祖母の家で死ぬほど食べたハチミツ飴にそっくりだった。一度そう思ったらもうそれ以外思い付かない。
「駅のホームで線路に人を落としたくなる、的なやつだろ? あと、散歩中の犬を蹴っ飛ばしたくなるアレ。確か病気じゃないってどっかで聞いたぞ。危険を回避するための正常な反応なんだとさ」
「……そう、なんだ」
学校前の停留所で降りると、歩道に沿って植えられた桜並木に迎えられる。散った花びらが脇でかたまりになっていて、大雨の翌日なんかは特に汚い。
言い訳になるが、少なくとも俺が受験票を出した時までは、景観込みで高い評価を受けていたのだ。
「って、どこまで来るんだ? 今更だけど。時間とか大丈夫なのかよ」
「んーと、なんだか、胸騒ぎがしちゃって……。ええと、昔からこういう勘だけはよく当たるっていうか。やっぱり、いやな感じがするんだよ。ほら、あのあたり」
「そう言われてもな……」
シラオは高校の外観から、少し離れた位置にある旧校舎の二階あたりを指差した。
二年前、商業高校同士が合併した校舎は、県内のどこより清潔であった。だが”新しさ”から取り残された旧校舎だけはいまだ年季の入った老朽ぶりで、「女子トイレには幽霊が出る」なんて噂話もある。
まあこの学校の問題はその質の低さにあるのだが。教師も生徒も、オマケに就職先の求人もゴミだ。
卒業したら二度と来ないし、受験をやり直せるなら絶対選ばない。我が母校とはそういう場所だ。
「だってさ……爆弾があったらどうしよう……!?」
「はッ、んなわけあるか」
「でも、爆破予告をされてないんだよ? そんなの怪しいよ……。ううん、怖いんだ。クルミくん、一緒に確かめに行こう? みんなの安全のためにも……」
怖い? 未遂で済んだのに? 何を言っているのかよくわからず、とりあえず立ち止まる。
「えっと、ごめん。めんどくさいって思った、よね? よく言われるんだ、心配しすぎだって。ごめんね、迷惑かけて。ごめんなさい……」
「別に心配するのは悪いことじゃないだろ。杞憂だったとしても、それはそれでいいわけだし」
「うん……」
(んなことで泣くなよ……)
めそめそ泣き出したシラオの手を取って、正門をくぐる。つめの先までほっそりとした彼女の指は、思いのほかヒヤリとしていた。
そりゃ面倒くさいには面倒くさいのだが、自分が泣かせたとも思われたくなかったし、中身はどうあれシラオに頼られるのは、正直悪い気分はしなかった。
グラウンドで汗を流すクラスメイトたちを後目に、旧校舎へと向かう。
中は新校舎と比べ、同じ建物内だとは思えないほど日の入り方に差がある。一歩入っただけで薄暗くじっとりした空気が肌にしがみつくようだ。
しかも閉め切られているはずの階段の方から、酷く乾燥した風が吹き込んで肌寒い。見える限りの窓は曇っていて、喉からいやに粘着質な咳が出た。
不意に背後から「ぐう」と間の抜けた音が聞こえて、直後に含み笑いが廊下に響く。
「……ねえ、き、聞こえた?」
「……」
「ねえってば。聞いてないんなら、いいよ」
「……ここなら早弁してもバレねえぞ」
「聞こえてるじゃんか!」
肩越しに振り向くと、シラオの赤らんだまなじりが潤んでいた。余程恥ずかしかったのか首筋まで真っ赤になって憤る彼女の背後に、なんらかの違和感を抱く。
影が、動いている?
よくよく観察すると、そいつは明らかにこちらを窺うような動きをしていた。南米に生息してそうな巨大蜘蛛にも、映画で見た真っ黒な恐竜にも見える。
そう見える、というか、逆に何にも見えない。闇がけむりのように揺らめいて、それ自体が意思を持っている風だ。
ただ、肌に刺さる冷気にも似た圧から、悪意があることだけは明確に伝わってくる。
「幽霊……?」
だから口を衝いて出た言葉に一番ビックリしたのは、言った俺自身だったりした。
シラオに至っては信じられないといった様相でぽかんと口を開けていて、いっちゃなんだが馬鹿みたいだ。
その米神に汗が伝うのを見て、ああ彼女も必死だったんだなと、今更ながら思い知る。
「やだっ……こわいよ。クルミくん、たすけて!」
日常を引き裂く悲鳴が響く。
首筋に吐息がかかって、まずその近さに驚いた。互いの毛穴まで見える至近距離で、シラオが怯えた顔で見上げてくる。
こ、こいつ、躊躇なく盾にしやがった……!?
(……まあ、こういう役回りなのは重々承知しているが)
間の悪いことに今朝の事故で負った傷がうずいて、また頭が痛くなる。どろ、と額から生暖かい汁が流れて、一瞬ギョッとした。もちろん汗だ。
とっくに塞がったそれが血なわけもないのに、何故だか疑ってしまった。
影から触手のようにまた別の影が伸びて、窓を引っ掻く。古い蛍光灯を割る。少しずつ少しずつ、囲い込まれてゆくのがわかって、どっと脂汗を掻いた。
額から血が、いや、汗が滴る。
まあ、なんだ。それこそ今更か。
「シラオ。俺が囮になるから、どこかの窓から外に逃げろ」
「え? でも……」
「早くしろ!」
怯えながらもシラオは手近な空き教室に転がり込んだ。ばたばたと走り回る音だけが聞こえてくる。
この世に神はいない。最悪な人生なんて、産まれた瞬間から決まっていたことだ。
(なら―――ここで死んだっていいはずだろ?)
人生の一番クソ極まってるところは、死ぬ間際でまでギャンブルさせられるってとこだ。
なにせ現状が最悪でも、死後が最善ってわけじゃあない。なんなら死ぬより苦しい状態がそのあとずっと、永遠に続くかもしれない。延々じゃない、永遠にだ。終わりがあるかもわからない。
苦しい場所から苦しい場所へ移り住む。けどそれって生きてる時となんら変わりないよな?
「来るならさっさと来いよ、陰野郎!」
ブワッ!と敵意が膨れ上がる。陽炎めいた動きで増幅した影は、巨大な人型を取って目の前に現れた。
眉間のあたりに触手の先端を向けられ、そこから「ガチャン」と音が鳴る。直感でなんとなく、銃口ではないかと思った。
不思議と頭痛が凪いで、荒々しい相手の息遣いだけが耳に付く。
その震える指がトリガーをぐっと握り込む。
”くる”。
そう覚悟した刹那、雷鳴が鳴り響いた。コンマ数秒、あたりが真っ赤な閃光に包まれる。
―――そうして開けた視界は、目に沁みるほどの”白”だった。
「……ぇ?」
「クルミくん!」
教室から身を乗り出したシラオの歓声によって、我に返る。
「すごい、すごいよクルミくん! いまの、どうやったの!?」
「な、んだ、これ……?」
廊下一帯を占拠していた影の群れは、最初からそうであったかのようにキラキラした砂煙然として、宙を舞っていた。
窓からは青すぎて暗闇かと見まがう空があり、鬱々とした気配ごと消滅している。
まさしく「一網打尽」といった感じだ。
まさか俺が除霊でもしたっていうのか? だってこんなことあり得ない。
(……いや、ひとつだけ心当たりはある)
今朝の事故。その傷は既にみる影もない。加えてこの状況、絶望的な状態から奇跡的に相手を負かしたことになっている。つまり、状態が”引っ繰り返っている”。
もし、俺の「やり直したい」願いが、神なんてものに届いたとしたら……?
(そして「力」を与えられたとすれば―――!)
思えば雷が鳴ったのもおかしな話だ。外はこんなにいい天気なのに。
「良かった、良かったよ。無事で、よかった……」
背中に衝撃が走る。シラオが抱き着いてきたのだ。
「ねえ。ご飯食べに行こう?」
「はあ!? なんだよ突然……!」
「えへ。ワタシ、ますますクルミくんのこと気になっちゃって。えっと、だめ、かな」
「だめかって、お前……。なんていうか、若いなー……」
「若いって、同い年だよ?」
これが恋愛脳ってやつか?まあ、あんなわけのわからない状況に陥ったんだ。吊り橋効果的なものが作用していてもおかしくない、のかもしれない。
「仕方ねえな……」
「やったー!」
即座に腕を絡め取られる。何がそんなに嬉しいのか、浮足立ったシラオは珍しくノリ気だ。ぐいぐい腕を引っ張って、学校から離れてゆく。
横目で窺ったグラウンドには誰もいなくなっていた。チャイムが聞こえないくらい必死になっていたらしい。
道中、シラオのたどたどしい雑談に付き合わされる。委員会の話、期末テストの話、アニメの話。二つ上に兄がいるというシラオは意外と男趣味にも詳しく、異性の扱いにも慣れている。女子と話して楽しいと思えたのは久々だった。
「うわ、あの子レベルたけー」
「なんであんなやつと居るんだ?」
(そりゃモテますわな)
僻む声にますます気分が良くなる。視線を集めまくるシラオの隣を歩くのは、なかなか面白い体験だった。
それに
(消えろっ)
ぽんっ。そう念じるだけで、不躾な視線の出処はたちまち消滅した。
それまでピンピンしていた人ひとりが衣服だけを残して煙になってしまうのだ。これが面白くないはずがない。
俺が手に入れた力は、俺に向かう”悪意”を敏感に感じ取る。だから自衛も容易い。
最初から喧嘩を売らなければそれで済む話なのだ。こちらは降り掛かる火の粉を払っただけなのだから。
「じゃーん。どう、かな? 練習中だから、たくさんつくって来たの。お口に合えばいいんだけど……」
ひと気のない公園のベンチに座って、シラオがスクール鞄から弁当箱を取り出す。
おせちでしか見たことのない重箱がいきなり出てきてビビったが、そういえば女子高に通ってるんだったなと思い直す。
恥ずかしそうにモジモジと膝をすり合わせるシラオは、今まで付き合ってきた男にもそうやって手料理を振る舞ったんだろうか。
にこっと笑いかけられたかと思えば、これでもかってくらいの生姜焼き臭が鼻腔を刺激した。
まさかの一段まるごと!?
「好きでしょ? 知ってるよ♡」
「あ? 自分で食えよ。腹減ってねーし」
「ううん。食べないの……? せっかくクルミくんのためにつくったのに……」
「……一口だけだぞ」
「うんっ! あ~ん♡」
別に方便を信じたわけじゃない。ただ、あまり邪険にするのも可哀想だと思っただけだ。
「むぐぐ……なぁ、お前も食えよ。ほら、うまく焼けてるから」
「うん知ってる♡」
水もなしに次から次へと肉を押し込まれる。流石につらくなって待ったをかけると、シラオは二段目に手をかけた。
卵焼き、ミートボール、唐揚げ……一見普通の料理に混じって、妙な違和感のある塊が中央を占拠している。
よく見るとそれには耳と、尻尾がついていた。
―――死体!?
いや、料理なんて大概が死体だろとは思うが……、生のネズミを一匹そのまま入れてあるなんて、さすがに頭がおかしい。ていうか嫌がらせ以外の何物でもないだろ!
「おい、なんだよそれ!」
「なあに? クルミくん。おおきな声だして……」
「お前、馬鹿にしてんのか? そうやって俺が言うこと聞くやつかどうか試してんだろ。くらだねえことで食べ物を粗末にすんじゃねえよ!」
「ワタシが? 食べ物を粗末に? ……きみのために精一杯を尽くした、このお弁当を見て、そう思ったの?」
「はあ? だからぁ……」
イラっとして重箱を叩き落とす。透明な液体でコーティングされたそれは、よく見て見れば丸焼きでさえなかった。つまり生のままネズミを食えと、そういう喧嘩を売られたのだ。
「付き合ってられねえ。もう行くわ」
「え……。ねえ。待って、待ってよ。そんなつもりじゃ、なくて……」
「じゃあどういうつもりだよ! あぁ!?」
「……クルミくんのわからず屋!」
わあっと感情を爆発させたシラオは、今にも泣きそうな顔のまま走り出した。大きな滑り台の後ろに回るとすんすんと鼻を啜る音だけが聞こえてくる。
(め、めんどくせ~……!!)
ベンチの上の鞄をそのままにもできず、仕方なくシラオを追いかけて裏に回る。
いない。だが声はする。
暫くうろついてみると、隅の側溝にぴったり横になって収まったシラオの姿を発見した。
「なにしてんだお前!? きったねぇなあ、出て来い!!」
「だって、クルミくん怒ってる……」
「それがその状態となんの関係があんだよ!?」
無理やり引き摺り上げると、案の定シラオは全身泥塗れになっていた。あーあー、こりゃ洗濯しても綺麗に落ちるかどうか……。
「ワタシね、もうずっときみのこと考えてるんだよ。頭がおかしくなりそうなくらいに! 好きで、大好きで、死んじゃいそうなの。わかってくれるよね、助けてくれるよね?」
「わかったわかった。俺も好きだから」
「ほんとう、ほんとうに? ……うれしい」
嘘だ。そりゃ見た目は良いんだろうが、こんなメンヘラ女を愛してしまったら俺まで変な目で見られるだろ。
「じゃあ、クルミくんもずぅっとワタシのことだけ考えててね♡」
「ああ……」
頬を汚したままのシラオが腹に巻き着いてくる。どんなに臭くても、みすぼらしくなっても、本人に対しては嫌悪感が湧かない。それをちょっとズルいと思う。
「うわ、あの子レベルたけー」
「なんであんなやつと居るんだ?」
「男の方、釣り合ってないじゃん」
シラオは凄い。美しい。完璧だ―――見知らぬ大衆の賛辞を受けて、彼女はますます増長する。
それに比べてクルミは? 誰もそんなこと言ってやしないのに、惨めな気持ちになる。並んで立つとシラオの方がちょっと身長が高いから、比べられたくもないのに。
(だれが体張って守ってやったか忘れたか? こいつは金魚の糞だっただろ。この俺が命を賭けたから、お前らいまも呑気にしてられるんだろうが!)
世界の中心にいるべきは、未知の生物から大衆を救ったクルミただ一人だけ。ヒーローであるクルミだけ。そのはずだ。
単に顔が良いってだけで神様みたいに持て囃されるのは納得いかない。
だが、害がなければ相手を消せないのも事実だ。
(……俺が本当に欲しかったのは、こういうんじゃなくて。気の合う友人だとか、充実した学校生活であって、こんなのじゃ……)
そうだった。俺はずっと正しい方でありたかったんだ。だからクソガキを助けたし、シラオを庇って怪物に立ち向かった。
なんとなくクラスで浮いてるんじゃないかと思った。だが奴らは思っていたより他人に興味がないし、俺がいくら死ねと念じてもついぞ死ぬことはなかった。
それどころか大人になっていざ話してみれば案外気の良いやつらばかりで、俺は、今まで……。
「クルミくん、帰ろう♡」
―――不意に、首のあたりに蜘蛛の糸のような、光る糸のようなものが絡みつく。
「……シラオ?」
「うん。クルミくんの、シラオだよ♡」
糸は錯覚だった。払い除けたのはシラオの美しい銀髪だった。
あのド迫力なハチミツ飴に見下ろされる。
ていうか、こんなデカかったか?
怯んだのを察知したのか、シラオの瞳に猟奇的な光が灯る。
「ああっ♡ もう我慢できない♡ 味見ぐらいなら良いよね?♡ 良いよねっ!?♡」
「うぐっ、おま……!?」
息ができない!
首を絞められたとわかったのは、そこだけ妙にヒンヤリ冷たかったからだ。恐ろしいほど白くて細いあの指が、か弱いシラオが、俺の息の根を止めようとしている。
こいつを殺してやりたい。でもし返せない。
シラオに敵意がないせいで!
「し、しぬ……! 死ぬぅ……!」
「どうぞ?♡ いつでも死んで?♡♡♡」
し、死にたくない! お前を護ってならともかく、お前のせいでは死にたくない!!
シラオの口元から二股に分かれた舌が伸びてきて、チロチロ鼻や唇を舐めてくる。なんでこんなフェチっぽいんだよお前!?
酸欠も相まって手の甲を引っ掻くくらいしか抵抗できないでいると、突然パッと手を離された。受け身も取れずに投げ出され、喉を庇ってうずくまるしかない。
「げほっ、げほ……あ?」
”手”が落ちている。甲に幾筋も生々しい傷をつけた、それでも美しいシラオの手だ。
様子を窺うと、彼女は手首から先をなくし茫然と佇んでいた。片手があったはずの空間を見つめて、ついでに俺にも一瞥くれて、弾かれたように走り出す。
「シラオ! ……げほっ」
待ってくれと叫んだつもりが、まるで声は出なかった。それでもがむしゃらに足を動かして、どこかへ逃げるあいつを追いかける。
(シラオ、シラオ! ほっんとに、なんなんだよお前は!!)
擦れ違う人間のことごとくが悪意を向けてくるのがわかる。ニヤけ面で十字を切るやつもいれば、わざと肩をぶつけて舌打ちするやつ、中指を立ててくるやつもいる。
これは、恐怖だ。怖いからそうやって虚勢を張るしかないんだ。
人より劣等感が強いから、他人が完璧でないと許せないんだ。思い通りにならないことが、我慢ならないから。
すべてが煙となって、町から人が消えてゆく。
「シラオ! お前……もう逃がさねえぞ!」
「フフ、見つかっちゃったね……」
路地裏のゴミに紛れて、彼女はいた。体をくの字に折って、失った片手を庇っている。
弱り果てた姿は死期を待つ猫というよりは、巣を亡くした蜘蛛のようだ。もう笑みすら取り繕えていない。
でも大丈夫だ。
まだやり直せる。
公道でいきなり寝そべったって、服を洗えばいい。メシマズでも、これから美味いものをたくさん食べて味覚を養っていけばいい。背が高いのも、まあどうにもでなる。
それでいいじゃないか。全部なんとかなるはずだ。
「許してあげようと思ったのに、クルミくん、見つけちゃうんだもん……。だからしょうがないよね? せめて痛くないようにしてあげるね……♡」
立ち上がると、シラオの身長は凭れ掛かった自動販売機をゆうに超えていた。
二股の舌が挑発的に唇の端を舐めあげる。
『あなた、自分がなにをしているのか、わかってる?』
直後、先の見えない暗闇から低い声が響いて、シラオは目に見えて怯えだした。
またあの影の触手だ……しかし、今度は悪意の向かう先はシラオただ一人。
とぐろを巻いた足は踏み出す直前に折れ崩れ、残った手までもが指先からぼろぼろと輪郭を失ってゆく。
抱き留めようと歩み寄ると、鱗が浮き出てヌラついたシラオの顔が、いびつに微笑んだ気がした。
『こんなことは間違っている……』
闇のなかで幽霊が吐き捨てる。すっかり力の抜けたシラオは重くて、とても一人じゃ抱えきれない。ばらばらに砕けた体をなんとか掻き集めて、彼女に寄り添う。
(死ぬな!)
死ぬなら俺を殺してから死ね!殺したいほど好きならどこにも行くな!
お前の記憶に一生こびりついてやる、だから俺を置いて死ぬな―――!
バン!
クルミは目を覚ました。アラームの前に起きてしまうのは、アパートの隣人がやたらに大きな物音を立てるからだ。
暑くて開けっ放しにしていた窓から、近隣住民の品のないくしゃみが漏れ聞こえてくる。「どうせもう一回するだろ」と考えていると、想定通り続けて二度、三度とくしゃみは続いた。
お決まりのルーティンだった。三十年生きてきて尚も不快な騒音は、いつまで経っても不快なままだ。
(ああ、でも)
不思議と目覚めは悪くない。映画を一本見終わった後のようだ。
手の中にちょうど流れ星が落ちてきたみたいな、途方もないストーリーだった気がする。
あるいはとっくの昔に失った、”何か”か。
だが、その”何か”ははっきりとわからない。
それが無性に切なくて、尚の事むかついた。




