3.車のブレーキが効かない夢
優しい子に育って欲しい、なんてウソ―――。
「あああぁ! ママああ!」
「きらら、」口のかたちだけで呼びかける。だが意味がない。
気が付けばすっかり日は暮れ、狭いワンルームはジットリした斜陽につつまれていた。取り込んだだけの洗濯物があたりに散らばって、開けっ放しのベランダから風が吹き込む。
煮物だろうか。夕食を思わせる醤油のかおりに、心からゾッとした。
(もうこんな時間……?)
疲労からくる倦怠感で、カナオは一瞬あたまが真っ白になった。自分の襟ぐりを掴んで離さない小さな指は、力を込めすぎて爪が食い込んでいる。
欠落の原因と、その責任の所在は、必ずしも一致しない。知能の発達、運動神経、適応能力。身長。容姿。疾患。
自分自身ではどうにもならないものほど、他者と関わっていざ不利益を被るなんてこと、往々にしてある事だ。
「輝星月!」
今度は怒鳴り声が出た。怒られたと思ったからか、目を見開いたキララはおっかなびっくり服から手を離す。そこだけがくたびれて、皺が寄っているのがわかった。
「ママご飯買って来るから、ちょっとお留守番してて。すぐ帰るから」
「ま、まう……」
「じゃあなにか買ってくるから。お利巧さんで待てる?」
「んう……」
「ん。パンでいいよね? それじゃあ」
欠落の原因と責任は必ずしも一致しない。馬鹿みたいな名前を付けられた子どもは可哀想だけど、こればっかりはたまごより鶏が先、そうに決まってる。
(ああ、でも)
名づけ本なんて真に受けるんじゃなかった。
役所なんて当てにするんじゃなかった。
機嫌が良いときの言葉なんて信じるんじゃなかった。
胎児が胎を蹴るのは、親をうらむからだ。親のこころが伝わるからだ。読んだことはないが、ドグラ・マグラがそんな話だった。
生まれるということは、つまり死ぬことと同義になる。
この世にある上り坂と下り坂の数が、総じて同じことと変わらない。立っている場所が変わるだけで、本質的には、主観に因る。
母娘二人きりでいると、日々世の中が狭くなる。考えなくていいことに囚われる。
そうつくづく思わされる。
(でも、こんな日くらい……)
レジ上で表示される値段から視線を逸らし、茫然とホットスナックの什器を眺める。もちろん買うつもりはない。
社会が要求する社会人のハードルは高くなる。一方、給料は変わらない。
でも大人になるとはそういうものだ。
漫然と不満に喘ぐ。他人の成功も失敗も許せなくなる。感情の誤魔化し方が上手くなる。コンビニでアイスを買うことができる。それが大人になることだと思う。
(誕生日くらい祝ったって、誰にも文句は言われないはず)
保険料を支払ったついででひとつ5円もするビニール袋を揺らしたカナオは、マンション前に出来上がった人だかりに進路を阻まれた。外灯に照らされた頭の数は、7、8といったところか。
「やっぱりあれって……?」
「かわいそうにねぇ、まだあんなに小さいのに」
これからキララを風呂に入れて、あの子の好きな練乳入りのアイスで祝ってやらないと。
気配を殺して通り抜けようとすると、道路を指差した誰かがカナオを振り返った。
「ねえ、あの子ってお宅のところの子じゃない……?」
―――ああ、人が落ちたのか。
血だまりから推察する。
あらぬ方向へ拉げた関節が痛々しい。投げ出された手足は細く、叫びながら落ちでもしたのか、普段から頻りに母を呼ぶ口はぱかりと開かれたままだ。
駄々を捏ねられて仕方なしに買った揃いのプリントTシャツは、もう嫌ってほど見覚えがある。
きっと、そこで倒れているのは娘だ。
「って、そんなわけないじゃん」
人混みを縫ったカナオは腕を擦りながら、しつこい追手を撒くように玄関扉に飛び付いた。
当然、部屋にキララはいない。ただ冷え込んだ風でカーテンがひらめいて、ああ、そこから飛び降りたのかと得心する。
「ちょっと! 見てないならテレビ消してって言ってるでしょ、もう」
明日も仕事だ。それもこれも彼女のため。
仕方ないからビニール袋ごと冷凍庫にしまう。
「あんたも早く寝なさいよ」
特別な日だからといって、特別なことをする必要なんてないんじゃない?と常々思う。記念だから食べるケーキより、食べたいときに食べるケーキの方が、絶対においしいはず。
ああ、気分が悪い。胃から酸が込み上げてくる。寝る前はいつもこうだ。
明け方をこいねがう一心で目蓋を閉じる。
夜は嫌いだ。電気を消したら今日が終わってしまうから。
でも今日ばっかりは一刻も早く明日にいきたい気分だった。
数秒が経ち、朝がくる。体感だとそのくらいの時もある。
ふと不快感を覚えて布団の中を覗き込んだ。ヒヤッとしたかと思えば、足にキララの素足が絡まり付いている。冬場なんかは特にひどくて、巨大な水溜まりのように冷たい。
保育園に行かないと。
のろのろと身を起こしたカナオは化粧台の前で愕然とした。映った顔がおよそ自分自身と思えぬほど憔悴しきっていたからだ。
土気色した額には脂汗まで浮かんでいる。まるで、絶対に知られたくない秘密を暴かれた犯人のような、そんな顔だ。よく見れば焦点も定まってないし、媚びるようにニヤニヤ口元が引き攣っている。
「ママぁ、うらない。うらない」
「あっ……。じゃあ、そろそろ出るよ」
ドタドタと後ろでキララが足音を立てている。もうこんな時間か。昨日から点けっぱなしのテレビを横目で見ると、朝のニュースが流れていた。降水確率は50%。強風・波浪注意報。死者数はゼロ。
目元まわりだけメイクをしてマスクを取ると、キララは既に車に乗っているようだった。ルームミラー越しに目が合うと、「きょうね、しゅりちゃんとあそぶの」と元気に報告してくる。
「キララ、シートベルトして」
言うと、「あ!」といった顔で慌ててキョロキョロし始めた。
察しはいいくせに抜けているところがあるんだ、この子は。
この間も公園であそんでいた時、同じ園の子が泣いているのを見つけて、一目散に駆け寄っていった。事情もわからないのに「だいじょうぶだよ、あたしもよく怒られるし」などと宣うものだから、笑いをこらえるのに必死だった。
大通りに出て、見慣れた交差点までたどりつく。右折信号が赤になって、減速する。減速、する。
……停止したいのに、ずるずると車体が前進を続ける。
違う、絶対にブレーキを踏んでいる。踏めてる? ううん、踏んでるはず。
一旦足を浮かせて、もう一度踏み込んだりする。けれどもいうことをきかない。思った風にならない。は?は?なんで?停止線を大きく踏み越える。
荒い呼吸が耳につく。全身が総毛立つ。心臓がいやな速さで脈打って、きっといま、鏡で見た顔になってるはずだ。そう思った。
「危ないってば!」
「うわっ!?」
だれかが窓を叩いたせいで、驚いて思い切りハンドルを切ってしまった。
ガンッ!
交差点内に侵入したカナオの車はそれだけで邪魔だったのに、予期せぬ挙動をしたことで、目の前で正面衝突が起きていた。直進しようとした車と、それを避けようとした対向車との事故だ。
カナオは咄嗟に口元を手で覆った。よりによって、自分だけ無傷。
「ち、違う。今日はちょっと、朝から体調が悪くて……だれだってそういう時あるでしょ。不安定な時だって、あるでしょ」
事故の当事者たちが茫然としているのを幸いに、歩いて出勤することにした。
だってこれから仕事だ。まごまごしてたら遅刻してしまう。
そもそもクリープ現象なんてほぼほぼ止まってるようなものなんだから、近寄らないでおけば済んだ話じゃないか。急に飛び出したわけでもあるまいし、「あ、ぶつかるかも」と一瞬でも思い至らない頭なら、それは免許を返納すべき案件だ。そういえば片方ははっきりしない色合いの車であったし、高齢ドライバーだったんじゃないのか。
(まあでも大きい通りだし、あんなに人がいるんだからすぐ通報されるでしょ)
まだあんな酷い顔なんじゃないかと不安になって、停車した軽自動車の車窓を睨みつける。映った女は困った顔をしていた。キララがどうとか言っている。
キララ? そうか。ああやって、親が元気なうちに死んでおけば良かったのか。
悲しむ程度で済むなら、悲しませておけばよかったのに。
(葬式ってなんのためにやるんだろ。死者じゃなくて生きている人間のためって、そんなの嘘じゃん。弱みに付け込んで金銭を巻き上げるなんて酷すぎる。そんなことで人と縁が切れるなら、だれも苦労しないでしょ)
あと、「信じてもらえないと救えない」、そんなことも言っている。そういえばドグラ・マグラがそんな話じゃなかったか?
救われて、それでどうなる。子どもは幸せになるために生きるんじゃない。
親が産んだから生きているだけだ。
その証拠として、カナオはドーパミンを感じることができない。だからキララで立て替えようとした。人間らしさの部分を、ではなく、カナオが生きる理由を押し付けるために、キララという互換性をつくりだした。
思えば幼いころは、彼女のように愛情だけを利用して生きていた気がする。それこそすべてから。
太陽の温度、知らない大人から向けられるまなざし、肝油ドロップのくちどけ、警戒する野良猫。
すっかり忘れていたものだ。
どうしてこれが仕事、仕事、土曜日、アルコール。になる? 馬鹿? こっちのが可哀想だわ。
地面に寝そべった子どもの手足を思い出して、カナオははじめて”悲しい”と感じられた。
この子は偏食がひどいから、当分の間しのげるようにお気に入りの甘口カレーを箱買いしてある。それでも食べない時のために、低糖質の菓子パンだってわざわざネットで取り寄せた。
おままごとに執着していて、リカちゃん人形のほかに、キッチンセットも、ツリーハウスも買わされた。
まだご飯もおもちゃもたくさんある。場所を取っている。あの子はすぐに風邪を引くから、それ以外では職場に迷惑かけないようシフトも無理して入れている。
今日も、明日も、家も、予定が埋まってる。すべてはあなたのために。あなたに捧げた時間と、感情と、蓄えと。
なのにいなくなるのか。
こんなふざけた話があるか。
(また寝たフリなんかして。布団まで運んで欲しいからって、こんなところで横になったら風邪引くでしょ)
家に帰るとマンション前で人だかりができていた。昨日と同じ人たちだ。血を吸って変色したアスファルトを囲んで、馬鹿の一つ覚えみたいに「可哀想にねえ」と言い合っている。
年寄りは未来がないから、過去に固執するしかない。本当に可哀想なのはどっちだ?
「疲れてるから明日ね」
靴を脱ぐなり腰に抱き着いてくるキララをあしらう。作り置きのおかずを解凍する。
そういえばアイスが入れっぱなしだった。呼びかけようとして、こんもりと山になった布団が目に留まる。
まあ、明日にでも食べればいいだろう。
つぎに目を閉じると時刻は朝の7時になっていた。テレビは周年記念を迎えた動物園の特集を流している。
「だめでしょう? 自分の子どもくらい、ちゃぁんと見てないとぉ~」
腹の底を探るような声が聞こえて、画面に釘付けになる。
フラミンゴの群れのなかに一羽、六枚の巨大な翼を持つ雌鶏がいる。木の上にとどまっているが、その尾は地面に到達するほど。”持て余す”という言葉がぴったりだ。
ギネスに載るんじゃないか? そんなことを考えていると、キッチンから「チン」と音が鳴る。解凍が終わったらしい。キララの笑い声と足音が響く。
取り出すべく向き合った電子レンジの表面に、カナオの顔が反射した。
「おかーさん、ヒマワリはみんな太陽に釘付けなこと、忘れてしまったの?」
えっ?
だれかいるの? 私、こんなこと言ってないんだけど……?
信じられない思いでレンジを凝視していると、そちら側のカナオはさも当然のことのように大口を開けて笑い出した。こんな顔で笑ってるんだと客観的に見ると、気分が沈む。
「まさかね、だっていまも目を離せない!」
「き、……」
「あは、お嬢さん、日輪にちかづきすぎて羽を溶かしてしまったの? 学習しない学習しない! いじめや差別がなくならないワケだ! でもだいじょーぶ、」
どんな子どもも、あやしていればそのうち弱り寝てしまう。そのあとは似ても焼いても与り知らぬ。
「ママ、こっちー!」
開きっ放しのベランダ、その遥か彼方からキララの声が響く。曇天を睨んで動けないカナオを、化粧台の中のカナオがまた見ている。
……あれはきっと、その地に縛られた亡霊だ。
「違う、あの子じゃない……ねえ、どうすればいいの? どうしたらいいかなぁ!? あんなの、知らないんだけど!」
「やっぱり第一子はねぇ、助手席税っていうか~。1両目は脱線したらまず助からないって、そういう覚悟がないとダメよねぇ。だってさぁ、恐竜が絶滅したワケ、わかる?」
そうだ、保育園をサボろう。会社も。連絡を無視すれば、何かあったと思うはず。事件とか、事故に巻き込まれたんじゃないかって、まともな大人なら思うはず。
だってこうでもしないと助けてくれない。誰も気にかけてくれないから。
ああお願い神様、どうか明日地球を滅ぼしてください。今日は嫌いなヤツを刺して回ります。だからどうか、助けてください。
カナオは小馬鹿にした風に鼻を鳴らした。いや、レンジの中のカナオが、だ。
「ん。下、お客さんかも?」
化粧台の中のカナオが頬杖を付いて、目配せしてくる。ベランダに出て道路を覗くと、見覚えのあるようなないような鍵っ子が、献花の前でじっとしていた。
その手が供えられた駄菓子に伸びようとするので、慌てて階下を駆け降りる。
「ちょっと、なにしてるの!」
「……」
「聞こえてるなら返事しなさい! いい加減にしないと怒るよ!」
その仕草は大人を困らせようとする子どものそれだった。都合が悪いと黙り込む、誰かさんそっくりの仕草。
手が伸びた先を見ると、萎びた仏花に身を埋めるように四つ折りの紙片が風に揺れていた。重しになっていたスナック菓子を取ると、すかさず浮浪児に奪われる。
広げてみると、それは一枚の絵だった。明らかに子どもが描きましたといった風体の、とびきりつたない絵だ。
笑顔の女と思しき被写体は、顎から黒いモヤのような物体を生やしている。恐らくカナオが普段から髪をまとめているから、正面から見るとこのような表現方法になったのだろう。
それはキララが描いてくれた、”お母さんの似顔絵”だった。
「……風邪引いちゃうから」
菓子のかけらを追って、指の腹を舐めるむすめの腕を引く。いますぐ抱き締めてやりたかったが、さすがに人の目もあって躊躇われた。
でも幽霊が出る家には帰れない。
ひたすらに歩いて、通行の制限された交差点を超えて、見慣れた保育園の門扉を叩く。
「あ、キララちゃんのお母さん! 今日はキララちゃん、ジャングルジムの高いところに昇って降りられなくなってたんですよ~」
「あ、そう……。あの子、抜けてるところあるから……」
「いま呼んで来ますね!」
冷や汗が噴き出る。だめだ。だって、キララはここにいないんだから、そんなことできるわけがない。
キララがいないことが、世間に明るみになってしまう。
「あの、大丈夫です。自分で行きます」
「え? でも……」
「ねえ! あたし、知ってる! 付いて来て!」
それまで一言も発さずにいたむすめが、唐突に声を上げる。弾丸のように中庭へと飛び出すと、手招きでカナオを誘った。
中庭ではぽつぽつと降って湧いたような位置関係で遊具が乱立している。キララが降りられなくなったというジャングルジムでは、男児が高鬼をしてあそんでいた。
歓声が曇り空にこだまする。ふと今朝方のニュースを思い出した。
保育園に不審者が侵入した事件を取り上げたものだ。死傷者の名を連ねた画面がまぶたの裏にこびりついている。
(もしかして、この中に不審者が……?)
非力な子どもを狙うなんて卑劣極まりない。よく「死刑になりたいから殺した」と供述する輩がいるが、そんなに死にたいなら一人で死ねばいいと思う。
夏日の車中で熱中症で死ね。酒に酔って川で溺れて死ね。家で一人餓えて死ね。
「コレあげる~」
「……ありがとう」
鼠色の、やたらピカピカした泥団子を足元に置き去っていくむすめ。そういえばキララも粘土質の土に目がなかった。それだけのために、いつもより遠い公園まで足を運んだ日々を思い起こす。
きっとあの子は悪い子じゃないんだろう。ジャングルジムのてっぺんで涙目になってるあの子も、おままごとに夢中なあの子たちも。
「わっ! ……ヒック、ヒック」
鬼ごっこをしていた園児の一人が、脇目も降らずカナオにぶつかった。泥団子を踏み潰す形でその場で尻もちを付く。
(コイツか?)
手洗い場から腰を上げると、なみなみ水の張られた水受けに映った自分と目が合った。すべての水道の蛇口が捻られていて、水流が騒々しい。
「なにをしようとしているの?」怪訝な視線を無視して、泣き止まない園児の首に手をかける。
カナオは今、気分が落ち込んでいた。本当は酷いことをしたくないのに。
「お前がいちばんキララに似てない。お前が悪い」
ふっくらした輪郭に沿ってよだれが垂れる。べたついた感触に眉を顰めたカナオは、しかし何者かにぬるりと足首を掠められて気を逸らす。
服越しなのに、まるで死体に触れられたようだ。まさか、幽霊?
足首を振って払い除けようとするも、今度はそのなにかが肩口にまで這い上ってくる。
「子に手をかけるとは。そこまで成り下がっては救えないな」
足首までが水で満ちる。わけのわからぬ力で満ち潮に引きずり出されたカナオは、出しっぱなしの蛇口を振り返った。
まず目に入ったのは奇抜なニット柄であった。鎖骨から首筋にかけて巻かれた、薄汚れた包帯も。
少し目線を上げれば、重たい前髪の隙間からこちらを見下ろす、大きな黒目と目が合った。
どこか疲労と年季を感じさせる風貌は、なんとなく鏡の中のカナオを彷彿とさせる。
「あなたは自分自身の多くを放棄してきたと、そう言いたいんだろう。それ自体を否定するつもりはない。だがな、あなたも子の親だというのなら、他人を障害かのように扱うな。その子どももまた親の庇護下にある、ひとりの人間だとは思わないのか」
「ふ、不審者だ……」
存外に高い声色から女だということはわかった。背の高い女は、恰好に似合いの妄言を吐きながら、カナオが縊り殺した亡骸を見つめている。
「キララが不当な目に遭ったら、キララに非があるのか?」
それ以上聞きたくなくて、カナオはより深い海へと足を向けた。水平線から昇った月が光の道筋をつくっている。
絡みつく亡者の手を払い、重い水を掻き分け、童話めいたそれにしがみつく。
死ねば助かる。死ねば助かる。
カナオはいま、罰を受けているのだと思った。何故? 自分だけの僅かなスペースを欲しがったから? 返すことなく、ただ愛情を欲したから?
「家族を愛しているのなら、現実から目を背けるべきではない」
急速に足場を失い、浮遊感に体を委ねる。
無数のあぶくが過ぎ去ると、薄濡れた海中が露わになった。底にいるのはフラミンゴの群れだろうか。
視界の端に赤い閃光が走る。とりわけ目立つ六枚羽の雌鶏の、そのやたらに長い尾羽から零れ落ちるようにして、閃光は人型を取った。
「あ、ママ!」
閃光はようやく追いついた雌鶏を抱き締めて、嬉しそうに「あのね、あのね」と語り掛ける。
―――もうお姉さんになるから、ママのこと…………。
ピピピピ、ピピピピ。
「ん……?」
7時ちょうど。何重にもかけたスヌーズを解除して、カナオは充電器を引き抜いた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
……妙な夢を見た、気がする。しかも長かった。昨日、早くに寝たからだろうか?
欠伸を噛み殺して、いまだ夢の中にいるキララの肩を揺する。
「起きな、輝星月」
「ん-……、ぅん……」
「……あれ? 一年生になるんじゃなかったの? お寝坊さんは小学校に入れないけど、いいのかなー」
「ん゛ん゛ーーっ!」
むずがるキララを揶揄えば、目も開かないうちにじたばたとシーツを手繰ってなんとか起き上がろうとする。
今日からこの子は小学生になる。
そりゃあ、感慨深い……とまではいかないけど、なんだかんだ、なんとかなるものだぁと、しみじみ感じ入る。まだまだ先も長いけど。
ついこの間まで赤ん坊だったのだから、それが意思を持って動いているのかと思うと、やはり不思議なものがある。
「じゃ、行こっか」
「うん!」
制服に着られたキララと共に学校に着くと、すぐさま体育館に通される。繋いでいた手は呆気なく離されて、「ママと一緒がいい」と騒ぐ隣の親子が少し羨ましくなった。
優しい子に育って欲しい、なんてウソだ。
頭がいいとか容姿が整ってるなんてのと違って、誰かに気を遣うのは能動的な行動だ。
どうしてあの子がそんなものを強いられなくちゃいけないんだろう。いついかなる場所でも、そんな気分じゃなくても。
あの子はなにも悪くないのに!
……でも、もうキララは恐れ知らずの冒険家でも、向こう見ずの発明家でもない。
分別がつけば取り返しがつかない。いちど自転車を漕ぎ始めたら、もう乗れない状態には戻れない。
あなたが好ましいと思っている特徴をわたしから一つずつ取り除いても、あなたと同じ世界を見ることができなくなっても、足枷になっても、一緒にいたいと思うのは、やっぱり迷惑かな
「……輝星月」
あの子の耳に聞こえたはずもないのに、新一年生用のパイプ椅子に座ったあの子は振り返った。
顔の横でピースをして、なにかを伝えようと口をパクパク動かしている。
お、か、あ、さ、ん。
―――この瞬間さえ思い出になってしまうのがいやで、どうしてもいやで。
カナオは溢れた涙をぬぐうことすらできないまま、嗚咽を漏らした。




