11.日のしたたる場所へ
「アヤメは何処だ?」
玄関口を大きな体躯が陣取っていて、ミヤビは咄嗟に地天の物陰へ身を隠した。
やましいところがあるわけではないが、相手が誰であろうとこうしていた。ひとえに気まずい思いをするのが嫌だった。
「いやはや、申し訳ございませんなぁ、ちょうど行き違うてしもたみたいで。なんぞお伝えすることがございましたら、わたしが伝えときますさかい」
「あー、姉さんがどこかと思ってな。まあ気にするな、立ち寄ったついでだ。さっきまで駿河トラフのプレートを戻しててな、クソ暑ぃから霊水でちょっと涼ンでこうと思ってな」
ひび割れてエフェクトがかった男の声。聞き覚えのあるその声に、ミヤビは男が阿波木ヶ原の上つ方であることにそこで初めて気が付いた。
彼の言う「姉さん」とは、ヒミコのことだ。ヒミコは神の統率者であり、アヤメに至っては直属の上司にあたる。
まさかとは思うが、”また”行方をくらませたのか?
「そういや聞いたか? まーた賽銭ドローだとよ。あーあ、景気悪ぃよなァ。アヤメの奴、ちゃあんと巫女に仕事振ってンのか? なア、どう思う?」
「さあ……現世のことにはとんと疎うございまして。なんともよう申されません」
「よく言うぜ、酒浸りのジジイのくせによ!」
なんとなく聞き耳を立てていたが、不意に顔を上げたヨヒラとうっかり目が合ってしまう。とはいえ彼に驚いた様子はなく、曖昧な物言いとは裏腹にその表情は悲し気だ。
まるでアヤメへ向かう厳しい目を、肯定するように。
(どういうことだ)
アヤメは巫女―――ユメジと円滑な関係を築き、神託を授ける大義を果たしているはず。
神託は、人間自身に運命を選択させる重要なプロセスだ。これによって神の意思が現世に影響を与える構造を作り、神の意思に従う者を幸福に導くことができる。
それは一体いつから?
(……人間が”夢”を見始めた頃、だ)
”夢”は、知性を持ち、宿主に都合のいいように自己を偽装する。
近代になるほど夢の制御が困難になっていると聞く。ミヤビ自身、それは身に沁みて理解している。
だがアヤメがその役目を放棄するほど、いつからか夢は主導権を宿主に預けることがなくなった。現にミヤビが関わった人間はみな悪夢に翻弄されていたのだから、疑いようもない。
もし、もしも。人類が夢をみた時間だけ、神託を受け入れることができない肉体になっているとすれば。
この時間の膨大さは……到底、埋めることのできない。深い深い断絶を意味する。
(アヤメはなにを考えているんだ。一体、わたしになにをさせたい。なにを試している?)
夢を通して人間を篭絡しようと画策した。それは、人間の精神に悪影響をきたすものの最たる原因が、”夢”そのものにあるという確信を得たからだ。
けれど、なんだかんだ計画が頓挫したことも、きっとヒミコたちには織り込み済みだったのだろう。今や悪夢を排除した程度で信仰心まで得られないことは、想像に容易い。
しかし、彼女は? アヤメは、「お前の手で巫女を服従させろ」とまで言われている。抗いようもない権威によって。
想像を絶する圧力だろう。無関係のミヤビでさえ身が竦む使命だ。だが果たさなければここでは生きられない。
今、彼女はどこにいて、なにを考えているのだろう。役立たずのわたしを恨んでいるだろうか。
無性に会いたくなった。
アヤメ。アヤメ。
途端、横殴りの風に体勢を崩される。盛んに轟く稲光の合間を縫うように、誰かが神を呼ぶ声だけが響いていた。
「ユメジ?」
辿りついたこの世界は、アヤメへ向かう祈りだけが充満していた。言うまでもなくユメジの夢の中だ。
しかし彼女の見る夢はいつも真っ白な空間だが、それとは大きく様相が異なる。
見渡す限りの情報量のなさはそのままに、大雪原に放り出された状態だった。叫び声だけを頼りに巫女の姿を捜す。
(こんなの、まるで”悪夢”じゃないか)
「ね。せっかく従順な個体で交配させて巫女をつくってあげたのに」
不意に足元から声を掛けられて歩みが止まる。そこではヒミコがうずくまって、何やら雪を掻き集めている。どうやらうさぎをつくっていたようだ。
「私が呼んだの。貴方の、全然うまくいってないのにあ~! ってヤケにならないで模索してるところ、えらいなーって思うの。いうこと聞けない子なんて、癇に障るだけじゃない? アヤメになんておねがいしても『気が向いたらね~』とか言って、もうね、ガン無視。楽なほう楽なほうに流されて、若いのに努力しないの。楽っていうのは、こころよいってことよ。愚かよね?」
「ここで何を……?」
「だから手っ取りばやく現実をとりあげれば、傾聴せざるを得ないと思うの。ユメジも、ユメジ以外も。というより、てっきり雅姫もそうするかなーって。いちいちお伺いをたてるなんて非効率、避けるだろーなーって思ってたから、なんていうか意外? びっくり」
「ユメジになにをしたんですか。アヤメは……?」
「なにそれ、しらじらしいー。貴方、人間に悪夢をみせてあげてるでしょう? そんなことは、ふつうできることじゃないの。すごいすごい。神格化さえしちゃえば、どんな人間も存在の在り方を逸脱できるんだって、私ひさしぶりに思い出したんだよ。うーんなんでわすれちゃったのかなー? まあいいや。ユメジにそれをさせるから、貴方もてつだってね」
夢を通じて、神になろうとした人間を見たことがある。その葛藤と、狂気と、顛末を。
夢から醒めたあとのことは知る由もないが、ミヤビは彼らを現実へ導いたことを後悔していない。
そんなことがあってはいけない、と理性が警鐘を鳴らす。我々と人間はどうあっても相容れることなど出来ないのだ。ミヤビにはその感覚が、明確に掴めている。
「……できません」
ヒミコが無言で雪うさぎを踏み潰す。
「雅姫」
「すみません。でもわたしにはできません。それに、ユメジもそれを望んでいないと思います」
「雅姫……どうして私のきもちは聞いてくれないの? 私のことは、だれも心配してくれないの?」
「……」
「こんなにがんばってるのに、ほめてくれない。私を退屈させないでよー……」
その時、ひゅうっと一際強い風が吹いて、すぐそこにいるはずのヒミコの姿すら見えなくなる。
嫌な予感がした。もちろん、吹雪にさらわれた彼女を案ずるものではない。彼女がミヤビの前から逃げ出してしまわないと耐えられないほどの感情を、一体どこにぶつけ、なにに昇華するつもりなのか。
そんな推測ができないほど、愚かではないつもりだった。
「わぶっ!」
ユメジを助けに行こうとして、足がつんのめってその場に倒れる。なんだと視線をやればヒミコが崩した雪うさぎの残骸が、その未練を表するように足先にまとわりついていた。
うつ伏せに倒れた拍子に、包帯へ染み込んだ雪がどんどんと皮膚に浸食してくる。全身を無数の針で突き刺されているようだ。実際はもっと陰湿なやり方だろうが。
痛みで顔を顰めていると、やがて雪原のかなたで蠢く巨大な影が見えた。
ヒミコはユメジを可能な限り凄惨に殺すことで、彼女に神性を与えるつもりなのだ。
そうしてかつての、神が主体となった人間社会を取り戻そうとしている。
(駄目だ)
そんなことは駄目だ。
全ての人間には、神などいなくても、安全な夢より、苦しい現実を選べる権利がある。そうであるべきじゃ、ないのか?
確かに、ミヤビはその悪夢を捕らえる蜘蛛の巣でありたかった。だが今は、悪夢を侵害する気は毛頭ない。
(ユメジ、ユメジ。聞こえているだろう。諦めるな、救いはある)
口腔内にまで雪が入り込んできて、感覚は外界から遮断されている。
ずぶずぶと沈むこの体は、もはや使い物にならない。だからミヤビは祈り続けた。
祈りは、神の力を弱めることができる。人々が手を合わせるのは、神に直接触れることを避け、生と死のあわいを遠ざけるためだ。
アヤメは来るだろうか。否、必ず現れる。
ヒミコに反旗を翻し、己の命をなげうって、ユメジを救う。
だが……。
(違う、疑うな! アヤメは人間を裏切ったりしない、絶対に。絶対に!)
信仰の出現に教義も、聖典も、教祖も要らない。必要なのは寛容さ。たったそれだけだ。
アヤメはとうに、それを成していたのだ。
思考する間にも雪は降り積もり、ミヤビの体をすっぽり覆った。雪山に取り込まれ、あとはいよいよ養分として溶かされ始める。
指の先ははやくも壊死して、恐らく氷柱になっているのだろう。この山と同体化してゆくのを感じる。
逃げられないわけではなかった。正気に返る形で自らの社殿へ戻ることは、いつだってできる。
だがユメジへ向かう神性を食い止めるには、なにかを代償にしなくてはならない。万が一にもこの神性そのものがユメジに背負わされた不条理だったとして、いちまいいちまい剥がしてゆく過程を、そうおざなりにすることはできなかった。
目と、側頭葉の大部分を失ったころ。今更になってヒミコへの怒りがむくむくと沸いてきた。あるいは、これが勇気というものなのかもしれない。
以前、ヨヒラが言っていた。”無知が罪”とされるのは、知識の不足を欠点とするものではない。友人に料理を振る舞われて、「自分の口には合わない」という言葉がでてこなければ、うっかり「まずい」と伝えてしまうかもしれない。親とはぐれた子ども勝手に独占しようとしたり、ひとりで解決しようとするかもしれない。
誰かを傷付けたり、問題を後回しにする状況に出くわしやすくなる。故に罪とされる。
正しくミヤビは罪を犯した。幾度となく。これが罰だと思えば、ヒミコになにをされたところで平気だった。
自分も誰かの役に立てると証明したかった。
「……ミヤビ、」
孤独と寒さはあの世の環境と酷似している。
意識も朦朧として、半端な呼びかけ程度では幻聴との区別がつかない。
「ハ。バカだよね。こんなの、さっさと逃げちゃえばよかったのに。なーんで、マトモに付き合っちゃうんだろ」
「アヤメ?」かろうじて残っていた舌の付け根が、はくはくと彼女の名の音をなぞった。分厚い雪越しに聞こえるアヤメの声は、気のせいではなく震えている。
憤りからか、怯えからか。はたまた寒さからか。彼女の考えていることは、いつだって未知数だ。
「ごらんなさいよユメジ、これが自然ってヤツでしょ? こんなど~しようもない力のかたまりを、あんたたちはずぅ~っと『守らなきゃ』って、バカの一つ覚えみたいに使命感燃やしてたってわけ。ウチしかいないけど、言わせて? 爆笑。笑っちゃう。ありえない。物質主義に屈服した人間が一度は口走る戯言でしかなさ過ぎて。ホラ、人生は楽しいものってのは、勝手な思い込みでしょ? 楽しくなくても人生。咳をしてもしなくても一人ぼっち」
なんてことだ。人類は夜明けを迎えたとき、これほど煩雑で、何にも替え難い安心感を得ていたのか。毎朝、毎朝。……案外、現世も捨てたものではないのかもしれない。
口の端に力がこもって、全身が痙攣する。笑うことさえできなくなったミヤビを知ってか知らずか、アヤメは少しだけ声のトーンを落とした。
「ユメジ、聞いてる? あんたが埋めたの? この子。ヤバ。でも友達だからさ。うん。なんていうかさ~、オンボロ高級車みたいな愛嬌があるわけ。わかるっしょ? あんまり酷いことしないでやってよ」
「ああ……。……なんだ、アヤメか」
「びっくりしたぁ」こっちの台詞だ。ミヤビ、そして全人類の夢を食らおうとしていた雪山の化身は、ユメジの輪郭を象ってその吹雪を終息した。
地表へ引き摺りだされたミヤビは、しかし人間に擬態できるだけの力もなかった。今や外からやってきたかすかな萌芽でしかない。
「でもアヤメっぽくなかった気もするんだよなぁ……。あ、夢あるある言ってもいい? 知らないやつが知り合いみたいな距離感で話しかけてくるやつ。あれかと思ったわ。なんか懐かしいんだよね、不思議と」
「……そう。ずっと話しかけてくれたんだね。ま、それはそれとして! 困ったねぇ~、行きも地獄で帰りも地獄! 起きても起きなくってもヤられちゃう感じよ、コレ!」
「ヒミコのこと? ちょっと、なんとかしてよ」
「言われなくてもそーする。ってことで、同意してね」
「なになになに!? ちゃんと説明して!?」
突然顔に触れられたユメジは咄嗟にその手を叩き落としてしまう。しかしアヤメは何も言わずににっこり微笑んだ。
「ユメジ、あんたって平泳ぎできる?」
「はあ? そりゃまあできるけど。小二のとき水泳習ってたし」
「うんうん自転車にも乗れるでしょ? やってって言われたら、それをすぐにできる状態にあるわけ。でもいま、明晰夢だけはどーしたって見れない。でしょ? それってスゴイと思わない? だって感覚でできてたことが昨日の今日でできなくなるなんて、本来あり得ないじゃん? 病気やケガ抜きに。じゃあさ、このままできなくたって、いいと思わない?」
「……え?」
「巫女なんてやめちゃいな。学生の本分は勉強でしょ? あんたは神になんてならずに、しょーもない人生を気楽に生きるほうが、絶対向いてるもん」
何かを言おうとして、しかし躊躇ってユメジは二の句を継げずにいた。それは神を信じず、一方的に振り回されてきた彼女にとって願ってもない申し出である。
しかし、同時に無二の友人との別れを意味するものであった。アヤメと会えない、話すこともできなくなる。それはユメジの望むものではなかった。
「ば、ばかなこといわないでね? 勝手に!」
「ヒミコ……」
「ほらユメジもなんかいって? そんなことしたら、干ばつとか、台風とか、どうやって決めればいいかわからなくなっちゃうよって! また地球儀にダーツで決める!? それのなにがおもしろいの!? 天罰がないなら人生じゃない! 生きるっていうのは、嫌なおもいをするってことなの!」
「無茶苦茶言うやんこいつ……」
地鳴りがしたかと思えば、空を覆い隠すほど巨大なヒミコが二人を見下ろして、唾が飛ぶほどの勢いで言い募ってくる。その手がばん!と山膚を叩くたびに大きくうねって、立っているのもやっとなほどの振動が伝わるのだ。
「日美子さまぁー、どーしてそんなに大きくなっちゃったんですかぁーーーっ?」
「なんで私をさそって決めさせてくれないの! 貴方は缶詰の缶で、ユメジは缶詰の詰めでしょうに! つまらない、くだらないまねはやめてね!」
「効いてる効いてるw」
「そうか?」
「そりゃあこんな夢を見るほど、ユメジ、あんたが疲れてるって証拠じゃない? どっちが現実かは明々白々。でしょ? 全部が全部ポーンと忘れちゃうわけじゃない。変な夢だったら、変な夢だったなぁ~って思うものでしょ」
「うーん……。まあ、そうだよなぁ……」
「そうそう。ほら、またね。ユメジ」
最後まで納得がいかない顔をしていたユメジだったが、アヤメがあまりに毒気なく笑うので、つられて噴き出してしまった。そうして自ら頬を抓る。
現実へ帰る。瞬間カッと目も眩む閃光が突き抜けて、天空を覆わんとしていたヒミコの額を貫いた。そこから太陽が垣間見える。雪が解ける。風が凪ぐ。巫女が神託を断つ。
もう人間は神への信心を思い出さない。
「……なんでぇ? せっかくつかまえたのにー……」
額の風穴からとろりとした日差しを垂れ流しながら、ヒミコが嘆く。本当に泣いているようで、すっかり声に元気がない。現状は最悪なのに、アヤメはやはり「カッカッカ」と笑ってしまった。
「日美子さまぁ、退屈してるヒマないですよ~」
「んー?」
「ウチぃ、殺されたり痛いのはイヤなのでぇ、いまから逃げまーす! だから鬼は日美子さまでーす。百数えてから探してくださいね~」
「うん! いーち、にーい……」
アヤメは崖際から飛び降りた。
きっと、彼女らの選択は、現世をいい方にも悪い方にも向かわせないだろう。




